4話 望むと望まざるとにかかわらず
『ひ弱なちびのくせに。お前みたいなのが竜を名乗るな』
知らない子供の声が、私の存在に容赦なく唾棄する。
『何の役にも立たない、出来損ない』
子供の声はそう言って、反論もできない私をひたすら詰った。
自分がメテオリット家の先祖返りとしてーー竜として落伍者であるなんて、誰かに言われるまでもなく自覚している。
幾つになっても大人の姿になれず、翼もない私はのろのろと地を這うしかない惨めな子竜だ。
いつだって、姉のしなやかな肢体が羨ましかった。
彼女の鋭い爪と自分の薄っぺらい爪を比べて、何度ため息を吐いたことか。
『お前みたいな落ちこぼれの子竜はーーでしか生きていけないだろう』
私を嘲笑う子供の声は所々不明瞭ではあったが、耳を塞いでも一向に止まない。
やめて、と叫んだ私の声もいやに幼かった。
何故だか、翼のない背中がひどく疼く。
キリキリと締め付けられるみたいに胸まで苦しくなってきて、私は自分自身を抱き締めるようにして身体を丸めた。
いっそこのまま硬い殻を被って、卵の中にでも引き蘢ってしまいたい気分だった。
ドロドロの卵の中身にまで退行して、そこからもう一度生まれ直せば、翼もあって爪も鋭い、姉みたいな立派な竜になれるのではなかろうか。
そうしたらきっと、今みたいに心無い子供の声に詰られることも、自分と姉を比べて劣等感に苛まれる必要もないだろう。
そんなことを思って、私はますます縮こまる。
その丸まった背中を、ふいに温かな手が撫でた。
「大丈夫、大丈夫よ。ねえパティ、起きて? 私に、あなたの綺麗なお目目を見せてちょうだい」
さっきまで自分を苛んでいた酷薄な子供のものとは正反対の、慈愛に満ちた優しい声が耳を打つ。
その瞬間、私は一気に覚醒した。
重く伸し掛かる泥を掻き分けるみたいにして、意識が浮上する。ぱっと目を開いたとたんに飛び込んできたのは、カーテンの隙間から差し込む陽光と……
「おはよう、パティ」
「お……おはよう、ございます……奥様」
太陽みたいな笑みを浮かべた奥様だった。
両目をぱちくりさせる私の背中を、奥様はなおも撫でながら言う。
「起こしてしまってごめんなさいね。何だか魘されていたみたいだから、放っておけなくって」
「いえ……起こしていただきありがとうございます。何だか、とても嫌な夢を見ていました」
昨夜の私はうっかり子竜化してしまい、奥様の寝室――シャルベリ辺境伯夫妻の寝室で眠らせてもらうことになった。
そもそも姉や歴代の先祖返り達は、自由自在に人間から竜へ、あるいは竜から人間へと姿を転じることができたのだ。
しかし、それが侭ならない落ちこぼれの私の場合、例えば昨夜の落雷みたいに強烈な驚きや恐怖に見舞われた時など、望むと望まざるとにかかわらず子竜の姿になってしまったりする。
心臓の拍動が激しくなれば竜の血が混ざった血液が凄まじい早さで全身を駆け巡り、そうして竜のゲノムを持つ細胞が急激に活性化されることによって表面上にもその変化が現れる。
心拍数の急激な上昇は、往々にして生命に危険を及ぼす場合がある。
そして、竜とは人間よりも身体の造りが頑丈で生存値の高い存在だ。
命の危険を覚えた時、私の身体は自然と生き残れる可能性の高い竜へと変化する。
つまり子竜化とは、私にとって生存本能が正しく働いた結果であると言えた。
「人間が竜になったり、竜が人間になったりするなんて、本当に不思議。自分の目で見ていなかったら、にわかには信じられなかったでしょうねぇ」
人間に戻った私のストロベリーブロンドを撫でながら、奥様がころころと笑う。
子竜化する時とは反対に、人間の姿に戻るためには鼓動を落ち着ける必要があった。
最も効果的なのは、ひとまずぐっすり眠ることだ。深く眠れば心拍数は減少し、やがて平常値に落ち着く。
その辺りの事情を、子竜化して人間の言葉が話せない状態だった昨夜の私は、筆談によって旦那様と奥様に説明したのである。
子竜の小さな手ではペンを握るのも容易ではなく、文字も随分たどたどしくなってしまったがやむを得まい。
そうして、事情を把握した旦那様と奥様によって、私は一晩彼らの寝室に匿ってもらえることになった。
万が一、朝になっても人間の姿に戻れていなかった場合、シャルベリ辺境伯家で働く使用人達に子竜の姿を見咎められないようにという二人の配慮からだ。
客人が客室に篭城すればいずれ強行突破される可能性もあるが、屋敷の主人夫妻の私室に招かれた私を無理矢理引き摺り出そうとする使用人など、まずいないだろう。
私が元来メテオリット家の秘密を知らせていいのは、夫となる人物とその両親まで。
シャルベリ辺境伯夫妻に子竜化の瞬間を見られてしまったのは不可抗力だから仕方がないが、これ以上他の人間に知られるわけにはいかなかった。
時刻は午前七時前。
奥様と一緒に寝室を出てリビングに行くと、昨夜荷解きしないままだった私の鞄が届けられていたことにほっとする。
裸の上に、昨夜奥様が羽織らせてくれたらしい寝衣を纏っていた私は、身支度を整えてやっと人心地がついた。
その後、足が不自由な奥様の身支度を手伝ってから、朝食に向かうために車椅子を押して部屋を出る。
その道すがら、いつも奥様の介助をしている旦那様の話になった。
旦那様は昨夜、年頃の娘と同じ部屋で眠るわけにはいかないと言って、わざわざ別室で休んでくれていた。
気を遣わせてしまったことを申し訳ないと思う一方で、紳士的な対応に自然と好感度が増す。
明るく社交的な奥様と、それに甲斐甲斐しく寄り添う寡黙な旦那様は、理想的な夫婦に見えた。
「旦那様と奥様はとても仲睦まじくていらっしゃるのですね。素敵なご夫婦で憧れます」
「うふふ、そうかしら。でも、旦那様とゆっくり過ごせるようになったのなんて、本当に最近のことよ? シャルベリ辺境伯の位をシャルロに譲ると決めて、やっと肩の荷が降りたみたい」
「アレニウス王国で唯一の自治区ですものね。シャルベリ辺境伯という立場はさぞたいへんなのでしょう」
「旦那様はああ見えて不器用だから余計にね。その点、シャルロはもうちょっと上手くやると思うんだけれど……でも、あの子を側で支えてくれる素敵なお嫁さんがいてくれると、もっと安心なんだけど?」
そう言って笑顔を向けられても、私にはどう答えていいのか分からなかった。
どうやら奥様は、私が閣下と縁談を組み直すことに賛成のようだ。
旦那様の気持ちは分からないが、昨夜のやり取りから考えれば私個人に対しては好意的だった。だって、子竜の姿なのをいいことに、結局あの後、旦那様はベッドに下ろすまでずっと私をだっこしていたのだから。
もしも夫となる人の両親が、私の子竜化を手放しで受け入れてくれているとしたら、こんなありがたいことはないだろう。
しかしながら、肝心の夫候補――シャルロ閣下には、私との縁談を進める気はないときた。
竜としては落ちこぼれだと自覚している私にだって、人間としてなら少しくらい自尊心がある。
自分に興味も示さない相手に嫁ぐのなんて真っ平ご免だ。
旦那様と奥様のことはすっかり好きになってしまったが、彼らの息子だからといって閣下のことも好きになれるかと問われれば、この時の私は思いっきり首を横に振っていたことだろう。
朝食は、庭園に面した場所にある食堂のテラスに用意されていた。
木立越しに降り注ぐ朝日が、真っ白いテーブルクロスに緻密な葉影の模様を描いている。
宝石みたいにキラキラ輝いているのは、ガラスのピッチャーに満たされた搾りたての果実ジュースだ。
テーブルの真ん中には摘んだばかりであろう瑞々しい花が飾られ、その周りには湯気を上げて見るからに焼きたてのパンやスコーンが並び、何種類ものジャムが添えられていた。
シャルベリ辺境伯領にはこれと言った特産物はないのだが、トンネルが開通するまでは他の都市との行き来が困難な孤立した土地であったため、衣糧や燃料などの生活必需品は自給自足できるシステムが整っているらしい。
そのため、シャルベリ辺境伯邸で出される料理も全て、領内で採れた食材が使われている。ワインもチーズも、パンやスコーンに使われている小麦粉だってシャルベリ辺境伯領産だ。
とはいえ、限られた土地の中で生産できる量はさほど多くはないため、基本的には地産地消。
つまり、遠く離れた王都で生まれ育った私には、これまでシャルベリ辺境伯領の産物を口にする機会がなかった。
テラスには先客がいた。
昨夜、私に寝室を譲ってくれた旦那様と……
「あらあらまあまあ、シャルロ。あなた、朝食の席にまで仕事を持ち込んでいるの? そんな無粋な子に育てた覚えはないのだけれど?」
「……っ、おはよう、母さん。いや、どうしても早急に父さんのサインが必要な書類があってね……すまない、今後は慎むよ」
湯気の立つ朝食もそっちのけで、難しい顔をして書類の束を睨んでいたのはシャルロ閣下だった。
開口一番、挨拶さえもすっ飛ばした奥様からの苦言に、閣下は慌てた様子でテーブルの上に広げていた書類をかき集める。
次期領主らしくどんと構えて余裕のある態度だった昨日の閣下と、母親相手におたおたする今の彼の差異に驚き、私は思わずまじまじと見つめてしまった。
昨夜の旦那様もそうだったが、どうやら閣下も母親である奥様に頭が上がらない様子。
完全な女系家族であり、女の立場がすこぶる強いメテオリット家において、母や姉の尻に敷かれまくっている父や兄達を見て育った私には、なかなか親近感を覚える光景だった。
ちなみに姉マチルダは、上司であるはずの第三王子リアム殿下まで時たま顎で使う。
「先日の大風で竜神の神殿に被害が出ただろう? 昨夜、商工会の会長と協議した結果、修繕の間は竜神の石像を軍の施設で保管することになったんだ」
奥様にじとりと睨まれた閣下は、書類の束を整えながらそう説明した。
それを聞いた私は、昨日馬車の窓から見た竜神の神殿の周りに、軍人がたむろしていた光景を思い出す。
閣下が軍の施設で保管すると言ったのは、もしかしてもしかしなくても、私が目が合った気がして震え上がったあの石像ではなかろうか。
思わず「えっ」と声を上げてしまったことで、ようやく閣下も私の存在に気付いたようだ。
彼は一瞬その空色の目をまん丸にしたが……
「ーーああ、パトリシア嬢。おはよう、昨夜はよく眠れたかな?」
「……おはようございます、閣下。はい、おかげさまで……」
たちまち、その顔面に取り繕った白々しい笑みを載せてしまった。
奥様に対するような素の表情を、私みたいな余所者に見られるのは本意ではないのだろう。
そんな閣下のあからさまな拒絶に、私は心底がっかりする。
私達が相容れないことは、いよいよ決定的となった。
だから、閣下が親切ごかしに「もしも王都に戻るつもりなら、汽車の駅までの馬車を手配しよう」なんて言ってきた時は、一も二もなく頷くつもりだった。
恩を着せられるようで少々面白くなかったが、もう一刻も早く王都に戻りたかったからだ。
それなのにーー
「あら、パティはまだ帰らないわよ。縁談云々は置いておいて、私のお客様としてこのままうちに居てもらうことにしたんだもの!」
「「ーーは?」」
パンッと両手を打ち鳴らし、少女みたいな無邪気な笑みを浮かべた奥様の言葉に、私と閣下の素っ頓狂な声が見事に重なった。