2話 嵐の襲来
新国王陛下の戴冠式を八日後に控え、アレニウス王国では日に日にお祝いムードが高まっていた。
それは、王都から遠く離れたシャルベリ辺境伯領も例外ではなく、中央郵便局では記念切手が発行されることになっている。
貯水湖に面した大通りに立ち並ぶ商店も、それぞれ独自に記念商品を企画して、この国を挙げての祝賀ムードに便乗する気満々だった。
シャルベリ辺境伯家御用達の老舗『メイデン焼き菓子店』でも、パティシエのラルフさんが記念ケーキを考案し、目下試作に勤しんでいるところである。
そんな彼がいる厨房を背に、私は目一杯の笑顔を作って、ケーキが詰まった化粧箱をカウンター越しに差し出した。
「ありがとうございました。今後とも当店をご贔屓いただけますようお願いいたします」
この日、私は午後からメイデン焼き菓子店のカウンターに立っていた。
というのも、午前中の巡回でメイデン焼き菓子店に立ち寄ったという閣下から、メイデン家の一人息子のクリフ君が熱を出し、ラルフさんの妻であり店主でもあるバニラさんが店に出られなくなっていることを聞いたからだ。
クリフ君はそろそろ生後四ヶ月になる。この頃の赤ちゃんは、母親からもらった免疫が切れ始める頃合いのため風邪を引きやすいらしい。
厨房と接客で右往左往しているであろうラルフさんを思うと居ても立ってもいられず、僭越ながら私が店番を買って出たというわけだ。
その申し出にメイデン夫妻はたいそう喜んでくれたし、私は私で少しばかり接客業に憧れがあったので、可愛いフリルのエプロンを着けてカウンターに立つのもわくわくしていた。
賃金の代わりとして提案された、記念ケーキの試食権もありがたい。
午後四時を回り、お茶請けの買い物客が落ち着いた頃を見計らってラルフさんが出してくれたのは、鮮烈な赤が印象的なケーキだった。
タルトみたいにクッキー生地を底に敷き、その上にババロア、スポンジ、レアチーズと重ねていって、一番上にはサワーチェリーのシロップ漬けをたっぷりと載せている。
切り分けてみれば、サワーチェリーの鮮やかな赤が下のレアチーズに染みていて、綺麗なグラデーションを作っていた。
サワーチェリーの華やかな味と香り、シロップの甘さ、チーズのまったりとした風味などが口の中いっぱいに広がる。絶妙に組み上げられた味のバランスに感嘆のため息をつきつつ、私はふと気になったことを口にした。
「サワーチェリーって、酸っぱいチェリーの総称ですよね? 普通のチェリーをシロップ漬けにするのとは違うんですか?」
「うん、生食用のチェリーはそのまま食べると甘いけれど、ジャムやシロップ漬けにするとチェリー自体の味がぼやけてしまうんだ。その点、サワーチェリーは断然風味が豊かで美味しくなる。何事も適材適所だね」
うちの夫婦みたいに、と言って小さく笑うラルフさんは、パティシエとしては一流だが人見知りで接客には向かない。一方、バニラさんは料理はからっきしだが社交的で金勘定が得意。
メイデン夫妻はまさしく、適材適所な役割分担をして上手くバランスがとれていた。
私は、なるほどと頷きつつケーキを頰張る。
そんな時、ふいにカララン……と店の扉に取り付けられたアイアンベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
私は慌てて口の中のものを飲み込んで、接客用の笑みを作ってカウンターから顔を出す。
どやどやと店内に入ってきたのは、三人の女性だった。
「あらー、随分可愛い店員さんがいるじゃない! 美味しそうな髪の色ねえ」
「ちょっとぉー、ラルフくーん。人を雇うなんてにくいわねー。儲かってるの?」
「ねえねえ、バニラちゃんは店に出てないの? 赤ちゃん見せてよー」
年の頃は、私の姉よりは幾分上。閣下と同じ、もしくはまだ少し上くらいかもしれない。
メイデン夫妻の名を親しげに呼ぶことから、この店の常連客なのかとも思ったが、三人とも遠出をする、あるいはしてきたような改まった装いをしているところを見ると、近所の奥様方ではないのだろうか。
彼女達はそれぞれ好き勝手にしゃべりつつカウンターの前までやってきたかと思ったら、今度はケーキが並んだガラス張りのショーケースを覗き込んであーだこーだと賑やかだ。
その勢いにたじたじとしてしまった私だが、ガラス越しに並んだ顔を見て目を丸くする。
というのも、三つとも目鼻立ちがそっくりだったからだ。
「……み、三つ子さん?」
「「「ええ、そうよ」」」
思わず口から零れ出た私の言葉を、三人が同時に同音で同様の笑みを浮かべて肯定する。
揃いも揃って、黒髪と空色の瞳をした美人だった。
さすがに身に着けているものは同じではないが、どれも見るからに上質である。
それが三人も並んでいるのだからかなりの迫力で、私は完全に圧倒されてしまっていた。
一方の女性達三人は、カウンターの向こうで石像みたいに固まった私のことなど気にせず、ケーキ選びに忙しい。
「あら、先代の時と同じケーキもたくさんあるじゃない。懐かしいわね。どれにしようかしら」
「昔はよくここのケーキを食べたわよね。私、リンゴのシブーストにするわ」
「父様と母様には、ベイクドチーズケーキとラズベリーのムース。あの子は、チョコレートケーキでいいかしら?」
雰囲気的に里帰りの途中で立ち寄った、という感じだろうか。
あーだこーだとかしましいのは変わりないが、家族への土産を選んでいるのだと思うと幾分微笑ましく見える。
リンゴのシブースト、ベイクドチーズケーキ、ラズベリーのムース、チョコレートケーキ、ラフランスのタルト、イチゴのシャルロットケーキ、紅茶のシフォンケーキ……
慌てて化粧箱を用意した私は、彼女達が指し示すケーキを順番に詰めていった。
そうして、そろそろ箱が満杯になるという頃、ふと三つ子の一人が背後を振り返って口を開いた。
「――エド。あなたはどれにするの?」
私はここで初めて、三つ子の女性達以外にもお客さんがいたことに気付く。
扉の前に所在無げに佇んでいたのは、栗色の髪をした小さな男の子だった。
白いシャツに紺色の膝丈ズボン、茶色のベストを着け、小型犬くらいなら入りそうな大きさのリュックを背負っている。
声をかけた女性の子供だろうか。彼女に手招きされてようやく、とことことショーケースの前までやってきたかと思ったら、私に向かってガラス越しに会釈をしてくれた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは。いらっしゃいませ」
礼儀正しく、とても賢そうな男の子だった。
ただ、伏し目がちな上に前髪が長く、どんな瞳の色をしているのかも分からない。
線が細く、頬も真っ白で表情に覇気がないのがどうにも心配になった。
「エド、欲しいのみんな言ってごらん。叔母さん達が全部買ってあげるから」
「そーそー。なかなか会えないんだから、いっぱいおねだりしなさいね」
「ちょっと、レイラ、イザベラ。甘やかさないでちょうだい」
三つ子の女性達が、またもやぎゃーぎゃーと騒ぎ出す。
そんな母や叔母達を尻目に、ショーケースの中をまじまじと眺めた男の子ことエド君は、、ぴっと小さな指でチョコレートケーキを指差した。
結局、合計八個のケーキを買って、三つ子の女性達とエド君はメイデン焼き菓子店を後にする。
入ってきた時と同様にどやどやと賑やかに出て行く一行は、まるで嵐のようだった。
「あ、ありがとうございました! 今後とも当店をご贔屓いただけますようお願いいたします!」
カラランカララン……音を立てて閉まった扉に向かって、私は慌ててお決まりの挨拶を投げ掛ける。
すると、三つ子に名前を呼ばれても一切反応を返さなかったラルフさんが、おそるおそるといった態でようやく厨房から顔を出した。
三つ子は帰った? と青い顔をして問われるのに、私は首を傾げつつ頷く。
「たくさん買っていかれましたよ。さっきの方々、ラルフさんやバニラさんとはお知り合いですか?」
「知り合いは知り合いだけど……ああ、そうか。パティさんはあの人達と面識がなかったんだね……」
ラルフさんはどこか遠い目をしてそう呟くと、驚くような台詞を続けた。
「彼女達は、シャルベリ辺境伯の三つ子のお嬢様方――つまり、閣下の姉君達だよ」
「えっ……」
ちょうどその時、再び彼女達の声が扉越しに聞こえてくる。
メイデン焼き菓子店の隣にはリンドマン洗濯店があり、そこでは閣下の弟――つまり、三つ子の女性達の下の弟ロイ様が住み込みで働いていた。
「あらぁ、ロイだわ」
「エプロン姿が様になっているじゃない」
「ちょっとー、降りてきて顔見せなさいよー」
屋上で作業をしている彼を見つけたのだろう。下からやんやと騒がしい。
とたん、「姉さん達、うるさい。こっちは忙しいんだ」という、ロイ様の心底迷惑そうな声が聞こえた。




