1話 溢れ者同士の婚約
ポー、と汽笛を鳴らし、王都へ向かう最終の汽車が間もなく出発の時刻を迎える。
私ーーパトリシア・メテオリットは夕日で赤く染まったホームでちょんと爪先立ちをして、一等車両の大きな窓を名残惜しそうに覗き込んだ。
すると突然、正面からしなやかな手が伸びてきて、私の両頬をガシッと捕まえたではないか。
「うわああぁん、パァティイイイ!!」
「わあっ、ちょっと……お姉ちゃんったら、危ないよっ!?」
窓から身を乗り出してきて、私との別れを全力で惜しむのは姉のマチルダ・メテオリットだ。パティというのは、家族や親しい人が呼ぶ私の愛称である。
私達が生まれたメテオリット家はアレニウス王家の末席に連なる一族であり、代々女が家を継ぐ習わしになっている。姉は、その現当主だった。
とはいえ、一家の長らしい威厳はすっかりなりを潜め、今はひたすら私の額に自身のそれをグリグリと擦り付けて、やだやだやだと駄々を捏ねている。
「パティに会えなくなるなんて……っ! お姉ちゃん、寂しいよおおっ!!」
「そんな……そんなこと言ったら、私だって……」
姉はこれから汽車に乗って王都に戻らねばならず、私はそれを駅まで見送りにきているところだった。
私が残るシャルベリ辺境伯領と王都では、一番早い交通手段である汽車を使っても半日以上の距離がある。
それでなくても王国軍に属して多忙な姉は、おいそれと私に会いにシャルベリ辺境伯領までやってくるのは難しいだろう。
ついにはおいおいと泣き始めた彼女につられて、こちらもたまらずうるっとしてしまう。
私の翡翠色の瞳が濡れるのを間近で見ていた姉は、はっと一瞬息を呑んだ。
かと思ったら、何かを決意したような顔になって、うん、と大きく頷くと……
「ムリ、ムリだわ。パティを残していくなんてありえない。――連れて帰ろう」
そう言うなり、私の両脇に手を入れてヒョイッと持ち上げてしまったのだ。
予期せずホームを離れた両足に驚いて悲鳴を上げかけた私だったが、すかさず何かにワンピースの裾を引っ張られて押し止められる。
一体誰が、と下を向いた私は……
「ひえっ!?」
今度こそ悲鳴を上げることになった。
ワンピースの裾を引っ張っているのが、真っ黒い長毛種の大型犬――モリス・トロイア少佐の愛犬ロイだったからだ。
すこぶる賢い軍用犬で、私に対して常に好意的に接してくれる彼とは、この一月で随分仲良くなったと自負している。
ただし、幼い頃に別の犬にひどく噛まれて以来、長年犬恐怖症を患っていた身としては、ワンピースの裾に食い込む犬歯を目の当たりにしてしまうと、とてもじゃないが冷静でなんていられなくなってしまう。
私のノミの心臓が、胸の奥でピョーンと跳ねた。
ドクッ! ドクッ! ドクッ! と鼓動が異常なほど激しくなる。
強烈な勢いで心臓から吐き出された血液が、凄まじい速さで血管の中を駆け巡った。
全身に張り巡らされたありとあらゆる毛細血管の先端にまで、古来より受け継いだメテオリット家の血が行き届く。
「あっ、だめぇっ……!!」
とっさに叫んだ声はかろうじて言葉になったものの、もはや手遅れだと諦めずにはいられなかった。
私の両脇を掴んでいた姉が、しまった、という顔をしたからだ。
彼女に向かって縋るように伸ばした両腕が、人間らしいものから、肌色に朱色を混ぜ込んだみたいなピンク色をした短いものに変わる。申し訳程度の鉤爪が付いた五本の指は、赤子のそれのようにふくふくとして小さい。
「ぴぃ……」
ああ、とため息を吐いたつもりが、口から出たのは何とも弱々しく情けない鳴き声だけだった。
私が生まれたメテオリット家は、アレニウス王家の末席に連なるばかりか、古の竜の血を引く一族である。
竜の血は女にのみ遺伝し、私や姉はそんな中で時々生まれる、始祖たる竜の姿に転じることができる先祖返りだった。
とはいえ、竜となった私の姿といったら、お腹ぽっこり頭でっかちのちんちくりん。
長い尻尾と翼はあるものの、体長はだいたい小型犬くらいしかなく、人間の時の髪の色が反映された身体はピンク色――つまりは、竜らしい威厳なんて皆無だった。
人間の時より縮んだせいで、それまで身に纏っていたワンピースなんてブカブカだ。
子竜の私は持ち上げようとしていた姉の手を擦り抜け、身体に纏わり付くワンピースの裾を咥えたロイの力も手伝って、必然的に下へと引っ張られることになる。
その結果、ホームに叩き付けられるのを覚悟した私は、とっさに身体を縮こめてぎゅっと両目を瞑った。
ところがである。
「ーーっと、危ない」
私の小さな竜の身体を受け止めたのは、固い石造りのホームではなく、黒い軍服に包まれた頼もしい腕だった。
とたんに姉が、ぐぎぎ……と歯を食いしばって悔しそうな顔をする。
対してロイは、パタパタと尻尾を振った。
「姉君、乱暴な真似をされては困りますよ。パティが怪我をするのは、あなたも本意ではないでしょう」
耳触りのいい低い声が、頭上から降ってくる。穏やかで余裕のある男性の声だ。
それを耳にしたとたん、早鐘を打つようだった私の鼓動は落ち着きを取り戻し始めた。
しっかりと抱き留めてくれた腕の中で、私はもぞもぞと顔を上げて声の主を見上げる。
すると、相手の空色の瞳にもピンク色の子竜が映り込んでいた。
竜を名乗るのもおこがましい、ちんちくりんの出来損ない。
そんな自分を、鋭い爪と立派な翼を持つしなやかで美しい姉の黒竜姿と比べて、ずっと落ちこぼれだと思っていた。
いや、今だってまだ、姉に対しては相変わらず羨望だって嫉妬だって覚える。
それでも……
「はぁああああっ……かぁわいいいいい!!」
「ぴっ!?」
今さっきの理知的で落ち着いた雰囲気はどこへやら。
私を受け留めてくれたその人は、ピンクの子竜をギュウギュウと抱き締めては感極まったような声を上げた。
「あー、よちよち。びっくりしたね? もう大丈夫だよ――私の可愛いパティ」
「ぴゃあ……」
スリスリと頬擦りをされ、顔中にキスの雨を降らされる。
そうすると、否が応でも彼に愛されていることを感じずにはいられない。
おかげで私は、ちんちくりんで出来損ないで落ちこぼれ子竜な自分を、前ほど嫌いではなくなっていた。
近々爵位を継ぐことが決定しているシャルロ・シャルベリ辺境伯軍司令官閣下との縁談のため、私がシャルベリ辺境伯領を初めて訪ねてから一月が経つ。
この前日、閣下の両親である現シャルベリ辺境伯夫妻や、ちょうどシャルベリ辺境伯邸に滞在していた姉夫婦と仲人の叔父の立ち会いのもと、私と閣下は正式に婚約を交わした。
結婚式の日取りは、新国王陛下の戴冠式に続いて閣下がシャルベリ辺境伯の位に就くのを待ち、さらに一月後と決定。
結婚式までまだ日があるため、姉は当初、ひとまず私をメテオリット家に連れて帰りたいと主張した。
しかしながら、王都は今、政権交代を控えて随分とごたついている。
シャルベリ辺境伯領に留まらせた方が安全そうだという、夫であり上司でもある王国軍参謀長リアム殿下の提案に、姉も渋々頷いたはずだったのだが……
「きいいいっ! 私も! パティに! スリスリ、したぁいっ!! やだやだ、やっぱり連れて帰るうっ!!」
閣下にだっこされた私を見て駄々っ子みたいにジタバタしたかと思ったら、汽車の窓から飛び出そうとした。
そんな彼女を、隣に座っていたリアム殿下――兄様が後ろから抱き留めつつ、苦笑いを浮かべて閣下に声をかける。
「妹離れができていなくてすまないね。マチルダにはよく言い聞かせておくから、気にしなくてもいいよ」
「恐れ入ります、参謀長閣下――いえ、兄君とお呼びすべきでしょうか?」
「ふふ、年上の君にそう呼ばれるのは、少々くすぐったいね。ともあれ、パティは私にとっても可愛い妹なんだ。それこそ、目に入れても痛くないほどにね。どうか、その子をよろしく頼むよ」
「御意にございます」
ハンカチを噛んで涙を流す姉を見ていると、私までますます別れ難くなってきた。
ホームや汽車にいる他の客の目に留まらないよう潜り込んでいた閣下の外套から、もぞもぞと顔を出す。
すると、閣下はそんな私の丸い後頭部にちゅっと口付けたかと思ったら、耳元に唇を寄せて内緒話をするみたいに言った。
「里帰りを阻むような狭量な真似はしないつもりだけど――この先、パティを姉君にお返しすることは絶対にないからね?」
「みい……」
先頭の機関車の煙突がポーッと激しく蒸気を吹き出した。
いよいよ出立の時刻。
シュッ、シュッ、と音を立てて汽車が走り出す。
「パティー!! お姉ちゃんのこと、忘れないでねー!!」
「ぴいい……」
まるで今世の別れのように涙を流して窓に縋り付く姉と、苦笑いを浮かべてその肩を抱く兄様の姿が、ゆっくりと小さくなっていく。
私は閣下の腕の中から、ちっちゃな鉤爪がついたピンク色の手を目一杯振るのだった。




