レモンのトゲと子竜の慢心
「――っ、いたっ……!」
突如指先に走った鋭い痛みに、私は慌てて手を引っ込めた。
シャルベリ辺境伯邸の敷地内に広がる庭園の片隅には、小さなハーブ園がある。
ここで育ったハーブは、シャルベリ辺境伯家の食卓はもとより、同敷地内にある軍の施設の食堂でも重宝されていた。
幾何学模様を描くように、種類ごとに細かく区画がなされ、現在では百種類を超えるハーブが植えられているという。
また、園内には水やりのための井戸があり、側に立つレモンの木には鮮やかな黄色の果実がたわわに実っていた。
それをお茶に入れようと思い立った私は、先に摘んだミントやタイム、ローズマリーの葉を入れた籠を抱えたまま、横着して片手でレモンをもごうとする。
これが、いけなかった。
柑橘系の木には、枝に鋭いトゲを持つものがある。レモンもその内の一つだ。
ほとんどは庭師によって取り除かれていたのだが、見逃されていた一本に運悪く当たったらしい。
トゲの存在などすっかり失念していた私は、無防備にも素手でもって枝に触れてしまったのだった。
「ああー……やっちゃった……」
右手の人差し指の腹にはぽつりと穴が空き、みるみる内に血の玉が盛り上がってくる。
とっさに口に含んだものの、鉄錆っぽい味にぎゅっと眉を顰めた。
レモンの木のトゲに毒はないはずだが、患部が火傷をした時みたいにジンジンと熱く感じる。
それでも、しばらくすれば痛みにも慣れてきた。
血はまだ滲んでいるが、きっと大したことはないだろう。
私はハーブを入れた籠を地面に置くと、今度は両手を枝葉の間に差し入れ、トゲが刺さらないよう慎重にレモンの実をもいだ。
その時である。
「――パティ?」
レモンの木の向こうから、私を愛称で呼ぶ声がした。
次いで、足下のラベンダーの茂みを掻き分けて、真っ黒いものが飛び出してくる。
ひゅっと息を呑んで仰け反った私は、そのまま後ろにひっくり返りそうになった。
その拍子に、もいだばかりのレモンの実が手から離れ、ラベンダーの隣のフェンネルの茂みに落ちてしまう。
「おっと、危ない」
さっと正面から伸びてきた手が、言葉とは裏腹に危なげなく私の二の腕を掴んだ。
後ろに傾いでいた上体が力強く引き戻される。
その反動によって今度は前に倒れそうになったものの、最終的には手の主の身体で受け止められることによって事無きを得た。
「びっくりした……」
私は真っ黒い軍服の胸元に顔を埋めたまま、自分を落ち着かせるように大きく深呼吸をする。
さもないと、心臓のドキドキが手が付けられないことになって、またもや子竜になってしまいそうだった。
背中に回った大きな手も、しきりに背中を撫でて宥めてくれる。
キュウン……という鳴き声に辺りを見回せば、私達から三歩ほど離れた場所に、大きな黒い犬が何だか気まずそうな様子でお座りをしていた。モリス少佐の愛犬、ロイである。
そして、後ろにひっくり返りそうになった私を助けてくれたのは……
「大丈夫かい、パティ。ドキドキは収まった? いや、私としてはずっとこのまま抱いていてもいいんだが? むしろ、このままいつまでだって君を抱っこしていたいんだが!?」
「だ、大丈夫です! ちゃんと収まりましたからっ!!」
ロイのリードを握っていた閣下だった。
太陽はすっかり西の山際に傾き、空は赤く染まっている。
そろそろ宵の明星も輝き出す頃だろう。
この時刻、飼い主であるモリス少佐がロイを散歩させているのには、これまでも何度か遭遇していた。
「閣下、お疲れ様です。今日は、閣下がロイを散歩させていらっしゃるんですか?」
「いや、実は少々仕事に行き詰まってね。散歩でもして気分転換してこい、とモリスにロイのリードを握らされて執務室を追い出されたんだ」
私の問いに、閣下はそう言って肩を竦める。
そんな中、私達と距離を取っていたロイが、ふいに立ち上がって近づいてきた。
ロイのことは好きだし仲良くしたいと思っているが、トラウマが染み付いた私の身体はどうしても過剰に反応してしまう。
たちまち緊張して強張る私の背中を、再び閣下が「大丈夫大丈夫」と撫でてくれた。
そうこうしている間にすぐ近くまでやってきたロイは、何やらキュンキュンと鼻を鳴らしながら、私の周りを落ち着きなく回り始めた。
「ロ、ロイ? あの、何……?」
「ふむ、様子が変だな……。ロイ、どうした? パティに何かあるのか?」
ロイが好きそうなお菓子をポケットに忍ばせているわけでも、こっそりどこかの猫と触れ合って匂いをつけてきた覚えもない。
それなのに、彼はしきりに匂いを嗅ぎ回り、最終的には私の右側にぴったりとくっついてお座りをした。
私はそれにビクビクしつつも、わけが分からず首を傾げる。
対して閣下は、じっとロイの行動を観察していたが、やがてその視線の先に気付いて「あっ」と声を上げた。
「――パティ、血が出ているじゃないか! どうした!?」
「え? あ、これ……さっきの……」
閣下に指摘されたのは、今さっきレモンの木のトゲが刺さってできた傷だった。
血はまだ滲んでいるものの、伝い落ちるほどではない。
痛みももうほとんどなく、私の中では取るに足りない過去になりかけていたのだ。
元来、メテオリットの竜の子孫は常人よりも傷の治りが早い。これは、先祖返りとしては落ちこぼれの私でも同様だった。
そのため、小さな怪我に関しては無頓着で、だいたいは放置する。
そんなことを軽い気持ちで口にした時だった。
「パティ、小さな傷でも甘くみてはいけない。傷口からばい菌が入って、手や足が壊死してしまうこともあるんだぞ」
「えっ……」
いつになく厳しい顔をする閣下に、私はドキリとする。
閣下は私の右の手首を掴むと、傷口を睨むようにして続けた。
「万が一の時は――最悪、この手も切り落とさなければならない。そうしないと、敗血症になって命を落としかねないからね」
「え、ええと……」
「パティは、私にそんな残酷な決断をさせたいのかな?」
「いえ……いいえ……!」
閣下の問いに、私は慌てて首を横に振る。
トゲで刺したくらいでおおげさだ、とは思わなかった。
アレニウス王国がある大陸には、現在大小様々な国が犇めき合っている。
幸い、ここ百年ほどは情勢が安定しており、各国の軍が直接ぶつかり合うような事態は起きていなかった。
それでも有事に備え、年に数度、アレニウス王国軍では実戦さながらの大規模な軍事訓練が行われる。
広義においてはアレニウス王国軍に属するシャルベリ辺境伯軍も、毎回それに参加していた。
すでに数年シャルベリ辺境伯軍司令官を務めている閣下は、もう何度も疑似戦場を経験しているという。
医療器具も何も不十分な戦場では、小さな傷さえ命取りになりかねない。
私は平和ぼけするあまり、自分に流れるメテオリットの竜の血にどこか慢心していたのだ。
閣下の言葉でそれに気付かされ、たちまち恥ずかしくなった。
右側にぴたりとくっついたままのロイの視線も痛くて、トゲで刺した右手の人差し指をぎゅっと握り込んで隠す。
そのまま口を噤んで俯けば、強く言い過ぎたとでも思ったのだろうか。
閣下は私に目線を合わせるように長身を屈め、とたんに小さな子供に言い聞かせるみたいな優しい声になった。
「脅すようなことを言ってすまなかったね。別に、怒っているわけじゃないんだよ? ただ、パティにはもっと自分の身を大事にしてほしいんだ」
握り締めていた右手をそっと開かされ、人差し指の傷をまじまじと検分される。
すでに血は止まって瘡蓋になり始めていたが、閣下は肩を竦めて続けた。
「パティがあんまり怪我に無頓着なようなら、私は自分の目の届くところに君を置いておかないと、心配で心配で仕事が手に付かなくなりそうだ。なんならいっそ、膝の上に抱いておこうかな? 朝も、昼も、夜も――食事も入浴も就寝も、ずっと一緒だ」
「ふえっ……?」
冗談か本気か分からない――少なくとも目は思いっきり真剣な閣下の言葉に、私はおおいに戸惑う。
混乱のあまり、右隣にお座りしている犬のロイに縋るような視線を送ってしまったくらいだ。
しかしながら、ロイはふさふさのしっぽをパタパタさせるばかりで、助け船を出してくれそうにはなかった。
「私の膝の上に過ごすのが、パティにとって一番安全だと思うんだけれど、どうだろう? 〝うん〟か〝はい〟で答えてもらえるかな?」
「ううううんっ!?」
「ではさっそく、パティを抱っこして一つ星でも見に行こうかな? この季節は西の空にあるんだよ」
「はいいいいいっ!?」
満面の笑みを浮かべた閣下が、ロイのリードを離して両手を差し出してくる。
その時だった。
「――させるかぁ!」
そう叫んで、ラベンダーの茂みを飛び越えて現れたのはモリス少佐だった。
私は一瞬ぎょっとしたものの、閣下との間に割って入ってくれた彼の背中にほっとする。
一方、閣下は心底不服そうな顔をして、邪魔をするなと抗議した。
けれども、それで怯むような少佐ではない。ああん? と、相変わらず上司を上司とも思わぬ態度で言い返す。
「だいだい、今何時だと思ってるんですか! 気分転換に散歩に行けとは言いましたが、一時間もほっつき歩いて来いとは言ってねーですよっ!!」
「おや、そんなに時間が経っていたか。ロイの気の向くままに歩き回っていたんだが……まあ、おかげで、パティに会えた」
「一つ屋根の下に住んでいるくせに、会えたも何もないでしょうが! こちとら、出産間近に控えた嫁さんを待たせて、連日残業続きだっつーのっ!!」
「ひえっ……少佐、ごめんなさい……」
少佐の剣幕に驚いた私は、目の前に立ち塞がった彼の背中にとっさに謝った。
少佐は慌てて私の方を振り返り、「パトリシア嬢が謝る必要なんてないんですよ! 全部全部、閣下が悪いんですからねっ!?」と叫ぶと、閣下に人差し指を突き付けて宣言する。
「いいですか、閣下! 私は、今日はぜっっったい、残業なんてしませんからね! 定時きっかりに帰らせてもらいますからっ!」
「分かった分かった。分かったから、そんなに熱り立つな。可哀想に、パティが恐がっているだろう」
閣下の言い草に、「誰のせいだと思ってるんですかっ!」と少佐の怒りが過熱する。
私がおろおろしていると、閣下はまあまあと彼を宥めて続けた。
「定時で帰ってくれればいいし、何なら出産後は二日でも三日でも一週間でも休みをとって、奥方についていてやればいい」
「はあ? そんなに私が休んだら、閣下の仕事が滞るでしょうが! 私以外に、誰が閣下の面倒を見るって言うんですか!?」
「いや、自分の面倒くらい自分で見るが……」
「馬鹿を言わないでくださいよ! 私がいないと、お茶も碌に飲めないくせにっ!!」
なんだかんだと文句を言いつつも、どうやら少佐は閣下のお守りが嫌いじゃなさそうだ。
その後、プンプンした少佐に首根っこを掴まれて執務室に戻っていく閣下を、私は呆然と見送った。
ハーブ園にはそんな私と……
「わふっ」
「……」
私の右側にぴったりくっついて座ったままのロイが残された。
別れ際、閣下は私にトゲで刺した傷を軍の医務室で診てもらうよう約束させたのだが、ロイはその見届け役である。
私はしばしの逡巡の後、恐る恐る彼のリードを握った。
そうして、空いた方の手にハーブの入った籠を抱え、小さく一つため息を吐く。
「……暗くなる前に、行こうか」
「わんっ」
ロイのリードをぎくしゃくしながら引いて軍の施設に寄ってから、私がようやくシャルベリ辺境伯邸に戻った頃にはすっかり日が沈んでしまっていた。
さらに、トゲに刺されてまでもいだレモンの実をハーブ園に置き忘れてきたことに気付いたのは、夕食を食べに一度シャルベリ辺境伯邸に戻ってきた閣下の顔を見た時。
この頃には、指先の傷はもう跡形もなく消えてしまっていた。




