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秘書見習いとやればできる子


 湯の中で、くるくるくるくる茶葉が踊る。

 大きい茶葉を使用しているので、じっくりと時間をかけて蒸らす必要があった。

 ポットに被せたティーコージーは、手先が器用な奥様の手編みだ。

 茶葉が開き切ると、味を均等にするためスプーンで一回かき混ぜてから、ポットの中身をストレーナーを通してカップに注ぎ入れる。

 とたんに立ち上る芳しい香りと鮮やかな色合いに、自然と私の口元も綻んだ。

 用意したカップは二つ。一つはポットから注いだままの紅茶で満たし、もう一つは湯で割った。

 しんと静まり返った室内に、私がカップをソーサーに載せるカチャリという音が響く。

 すると、これまで書類を睨んでいた空色の瞳が、壁掛け時計へと向けられた。


「――ああ、もうこんな時間だったか」


 時計の短針は三の数字を指していた。午後三時――お茶の時間だ。

 ここは、シャルベリ辺境伯軍司令官シャルロ・シャルベリ閣下の執務室。

 いつも閣下の秘書役を務めているモリス・トロイア少佐は、本日は午後休をとっていた。

 何でも、もうすぐ産み月を迎える奥方の診察に同席するためだとか。

 そんな愛妻家であると同時に、実はなかなかに上司思いでもある少佐が、自身の代理として本日の秘書役に指名したのが私――閣下の婚約者となったパトリシア・メテオリットであった。

 とはいえ、そもそもシャルベリ辺境伯軍に属していないばかりか、正式にこの地で暮らし始めてまだ日も浅い私が携われる仕事は限られている。

 軍の機密に関わるような重要な書類には触れるのさえおこがましいし、閣下の部下の顔と名前がまだまだ一致しないため連絡係を務めるのも難しい。

 そんな私の仕事は専ら、執務室の整理やお茶入れ、それから閣下の話し相手くらいだった。


「パティ、少し休憩にしようか。紅茶はこっちにお願いできるかな?」

「はい、ただいまお持ちします」

「ああ、慌てなくていいからね。その代わり、自分のカップも持っておいで」

「え? はい……」


 閣下は未処理の書類の山を執務机の隅に追いやりつつ、私に向かって手招きをする。

 いつも休憩に使っているソファではなく、執務机の方に呼ばれることを不思議に思いながらも、私は言われるまま両手にカップを持った。

 世界的に女性の社会進出が目覚ましい近年、シャルベリ辺境伯軍にも女性の士官が多く在籍している。

 彼女達の軍服は、基本的には男性と同じパンツスタイルだが、内勤者に限ってはワンピースタイプも選べるようになっていた。

 何故ここでこんな話題になったのかというと、今まさに私がこのワンピースタイプの黒い軍服を着せられているからである。

 言い出しっぺは少佐だった。曰く、閣下のやる気を出させるための秘策だとか何だとか。

 閣下はやればできる子なんです——なんて、上司を上司と思わぬ少佐の言動は健在である。

 私が軍服を着ることで閣下のやる気が出るという理屈が分からないし、そもそも軍人でもない私が着るのはおこがましいのでは、という至極真っ当なはずの主張は完全に無視されてしまった。

 そうして、少佐の思いつきに賛同したらしい、軍の施設一階事務室勤務のお姉様方の着せ替え人形に甘んじること一時間。

 どうやら閣下は、私が少佐の代わりにやってくるなんて知らされていなかったようで、ぺいっと執務室に放り込まれた私を見て空色の目をまん丸にしていた。

 私自身はというと、着慣れない黒と軍服特有の丈夫な生地に戸惑いつつも、姉のかっこいい軍服姿に少なからず憧れがあったため、実のところ満更でもない。パリッと糊の利いた白いシャツと生まれて初めて締めたネクタイに、自然と背筋が伸びるような心地がした。

 そんな私に与えられた本日の肩書きは、閣下の秘書見習い。

 ニヤニヤ笑いを浮かべた少佐に、「せいぜい主従プレイを楽しんでください」と肩を叩かれた閣下は、しばらく両手で顔を覆って天を仰いでいた。けれども、絞り出すような声で「いいっ……!!」と言っていたところを見ると異論はないのだろう。

 その後、少佐と無言で固く握手を交わしている姿が印象的だった。

 そういうわけで、私は軍服ワンピース姿でカップを両手に閣下の側までたどり着く。

 閣下はカップを執務机の上に置くよう告げると、ポンポンと自身の左腿を叩いた。

 座れと言いたいらしい。


「閣下、まだお仕事中では……」

「休憩にすると言っただろう? いいから、おいで」

「でも、執務室なのに……」

「あー、困った。早く座ってくれないと、せっかくパティが入れてくれたお茶が冷めてしまうなぁ」


 どうあっても主張を曲げる気がなさそうな閣下に、結局私が根負けしてしまう。

 おずおずと膝に乗っかった私の腰を左手で抱き、彼はさも満足そうな笑みを浮かべた。


「そういえば……初めて子竜のパティを見つけた時も、確かこうして膝に抱いて執務机の前に座ったね」


 閣下はしみじみと呟きつつ、私が入れた紅茶に右手を伸ばす。

 濃い紅茶が好みの閣下は、お湯で割っていない方のカップを手に取った。


「いきなり爪を切られてびっくりしましたけど」

「あれは、心底すまなかったと思っているよ。反省している。あの時ばかりは、私が小動物を扱うのに向いていないとうるさいモリスに反論のしようがなかったな」

「次にお会いした時なんて、首輪を付けられそうになりましたし」

「うん、耳が痛いね……いや、他意はなかったんだよ? 純粋に、装飾品としてパティに似合うと思っただけだからね?」


 意趣返しみたいにぼやく私に、閣下はカップに口を付けつつ苦笑いを浮かべた。

 彼とは違って濃い紅茶が苦手な私は、だいたいいつも湯やミルクで割って飲む。

 そんな私の頭に頬を寄せた閣下が感慨深げに続けた。


「しかし……まさか、こんな風に〝パトリシア嬢〟を膝に抱く日が来るなんて、出会った当初は思いもしなかったな」


 もともとは、別々の相手との縁談に臨むはずだった私と閣下。

 お互いに相手の都合で破談になったものの、楽観主義の叔父の采配で引き合わされたのがそもそもの始まりだった。

 私はちらりと閣下を見上げて肩を竦める。


「閣下は最初、私のことなんて全然歓迎していらっしゃいませんでしたものね」

「そういうパティこそ、さっさと家に帰りたいって顔に書いていたよ」


 私にとって閣下の第一印象は最悪で、閣下にとっても私は招かれざる客だったのだ。

 それなのに、結局私達は縁談を組み直すことになり、出会って一月後には正式な婚約者同士となっていた。

 今なら私は閣下の紅茶の好みだけでなく、食事の好みも、どんな香りが好きなのかまで知っている。

 まさしく、叔父の筋書き通りに事が運んだといえよう。


「まったく、人生何が起こるか分からないものだね」


 笑みを含んだ閣下の言葉に、私はこくこくと頷く。

 だって、自分は立派な姉の翼の下に守られたまま、彼女を羨むばかりの一生を送ると思っていたのだ。

 姉の庇護下から飛び出すきっかけとなった閣下との出会いは、まさしく奇跡だった。


「閣下が、私みたいな落ちこぼれ子竜を手放しで受け入れてくださったこと……今でも夢のように思います」

「こらこら、パティ。私の可愛い子竜に不名誉なレッテルを貼るのはやめなさい。子竜のパティを落ちこぼれなんて言う者はもう誰もいないし、私が言わせないよ」

「でも、翼は戻ってきましたけれど、チビには変わりないですもの」

「小さいことの何がいけないんだい? 私としては、外套にすっぽり隠してしまえるからちょうどいいんだけどな。何より、可愛い」


 閣下は紅茶で唇を湿らせてさらに続ける。


「私が思うに、姉君やリアム殿下、兄君達やご両親、もちろん叔父上殿だって、これまで子竜のパティに対して否定的なことなどおっしゃっていないんじゃないかな?」

「それは……だって、身内だから……」

「つまり、落ちこぼれなんて口にしていたのは、ミゲル殿下ただ一人だったということだ。にもかかわらず、彼の聞くに値しない戯れ言が、今もパティを苛んでいるんだね」

「あ……」


 閣下はぐいっ紅茶を呷ると、空になったカップをソーサーに戻した。

 そして、自由になった両手で私を後ろからぎゅうと抱き竦める。

 傾きそうになったカップを慌てて両手で支えた私の耳元に、閣下は唇を寄せた。

 

「シャルベリ辺境伯軍の軍服を着せ、私の秘書の真似事をさせて、さらにはこうして膝に抱いている時でさえ、パティの心にミゲル殿下の言葉がへばりついているのかと思うとーーちょっとおかしくなりそうなくらい、嫉妬する」

「……っ」


 低く囁く閣下の声に、私はひゅっと息を呑む。

 手が震え、紅茶の表面には波紋ができた。同じように、閣下の言葉も私の心の表面に広がっていく。


「私の言葉がパティの心に響けば、ミゲル殿下に吹き付けられた呪詛を上書きすることもできるだろうか」

「え……?」

「いいかい、パティ。竜になった君は、確かに赤ちゃんみたいに小さくて庇護欲をそそるけれど、とても勇敢で優しい子でもある。生まれたばかりの翼で懸命にはばたいて、シャルベリ辺境伯領に迫る危機を知らせてくれた恩……私は一生忘れないよ」

「閣下……」


 私はおずおずと顔を上げる。すると、閣下は満面の笑みを浮かべて言い放った。


「そして、何より可愛い。まさしく、可愛いの権化だ」

「えっと……」

「ピンク色の肌は滑らかで手触りがいいし、牙も爪も慎ましくていじらしいし、お腹もほっぺもぷにぷにのふわふわだし、リンゴ三個分の重さだからずっと抱っこしていられるし」

「リンゴって……え……?」

「甘い匂いがするし、よちよち歩く姿はたまらないし、ロイと仲良くなろうとプルプルしつつも頑張る姿は頬擦りしたくなるくらい愛おしいし、その大きなエメラルドみたいな瞳にずっと自分が映っていたいと思うしーー」

「も、もういい……もういい、ですっ!!」


 私は慌てて、閣下のおしゃべりな口を片手で覆った。

 メテオリット家の先祖返りとして、私はやっぱり落ちこぼれなのだと思う。

 姉のように立派な爪や牙が生える気配は相変わらずないし、体長だってこれ以上伸びそうにない。

 けれども、そんなちんちくりんの子竜を閣下が今みたいに全肯定してしまうから、いつまでも卑屈になっていられなくなった。

 私は赤くなった頬を隠すように閣下に背中を向けてから、ふうと一つため息を吐く。

 それから、残っていた紅茶を飲み干すと、閣下の膝からぴょんと飛び降りた。

 引き留めようとする手を躱して距離を取り、くるりと彼に向き直る。


「ーー閣下、三十分経ちました。休憩はおしまいです。お仕事を再開なさってください」

「もう? いやいや、もっとパティを愛でて英気を養わないと、やる気がでないなぁ」


 壁掛け時計はすでに三時半を過ぎていた。

 大人げなくごねる閣下に、私は自分史上最高に怖い顔を作ってむんと胸を張る。


「ダメです。少佐からはスケジュールを遵守するよう言いつけられておりますので、予定通りお仕事を進めていただかなければ困ります」

「おやおや……パティもなかなか手厳しいなぁ。モリスといい勝負だ」


 閣下はやれやれと肩を竦め、観念したかのように書類を手に取った。

 

「可愛い秘書さんに叱られてみたいような気もするが……まあ、今日のところは真面目に仕事をするか。すまないが、紅茶のおかわりをいただけるかな?」

「はい、閣下。喜んで」


 渋々ながらも仕事を再開した閣下に、私は満足げに微笑んでポットを手に取る。

 閣下の二杯目の紅茶は、ミルクティーと決まっていた。

 私はそれを満たしたカップを執務机に置く。

 書類を見つめる閣下の表情は、今し方私を膝に抱いていた人と本当に同一人物なのかと疑いたくなるくらい、キリッと引き締まっていた。

 

「本日中に目を通していただかないといけない書類は、そちらにある分だけだそうです」

「了解」

「ですので……もしもお仕事が早く片付いたら、閣下を外にお誘いしても構わないと少佐からは伺っております」

「……うん?」


 言葉の意図がすぐには理解できなかったのだろう。

 閣下は書類から私に視線を移し、一つ二つと空色の瞳を瞬いた。

 しかし、はっと何かに気付いた様子で両目を見開くと、もしかして……と唇を震わせる。


「パティは、私をデートに誘ってくれようとしているのかな?」

「デ、デートかどうかは分かりませんが……もうすぐお子さんが生まれる少佐ご夫婦に贈り物をしたいと思っているんです。できれば、少佐には内緒で。だから、閣下と一緒に町に行って何かいい物を見つけられたらいいなって……」

「それをデートって言うんだよ! よーしよしよし、任せなさい! こんな書類、私にかかれば三分もあれば充分だ!」

「ちゃ、ちゃんと目を通してくださいね? 後で少佐に叱られちゃいますからね!?」


 俄然やる気を出した閣下は、おかわりのミルクティーを飲む間も惜しんで一心不乱に書類を捌き始めた。その集中力たるや凄まじく、未処理の書類の山はみるみる低くなっていく。

 閣下はやればできる子なんです——なんて言っていた、少佐の言葉が甦ってくるようだった。

 やがて全ての書類にサインをし終え、閣下は晴れて自由の身となる。

 彼は辛うじて温度が残っていたミルクティーを一気飲みすると、私の手を引いて執務室を飛び出した。



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― 新着の感想 ―
[一言] 鼻先にニンジンをぶらさげられた馬 の絵が脳裡に浮かびました。
[一言] 僕も見てみたいな
[一言] 本当にやれば出来る子だったんですね!ww パティ竜バージョンへの誉め殺し…想像したら堪らないww …もふりてぇww
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