閣下のパティ見守り大作戦 前編
アレニウス王国唯一の自治区、シャルベリ辺境伯領。
これを治めるシャルベリ辺境伯邸の表門を潜り、一人の少女が町へと出掛けて行く。
彼女がぎこちなく引くリードの先は、黒い大きな犬の首輪に繋がっていた。
犬はちらちらと後ろを気にするものの、少女の方は一切振り返ること無く大通りに足を踏み出す。
「パティー!!」
その背を見送ることしかできなかったシャルロ・シャルベリは、悲痛な声で少女の名を呼んだ。
先日、晴れて彼の婚約者となったパトリシア・メテオリット。
彼女がこの日の午前中、自分の母に使いを頼まれて外出することを、シャルロは実は前日の夜から知っていた。
そもそも母は、郵便局へ手紙を出しに行かせることを口実にして、シャルロとパトリシアのデートをお膳立てしたつもりらしい。
それを聞かされた時は母のお節介に呆れたものの、やがてシャルロははたと気付く。
せっかくパトリシアと婚約したというのに、仕事の忙しさにかまけて彼女を一向に外に連れ出してやれていなかったのだ。シャルロは己の不甲斐無さに愕然とする。
三人の姉達を筆頭に、これまで彼の周囲にいたのは押しの強い女性ばかりだった。
一方、優しく慎ましい性格のパトリシアが、仕事で忙しいと分かり切っている相手に我を通そうとするはずがない。
もしかしたら、随分退屈な日々を過ごさせてしまったかもしれないと思うと、シャルロはとたんに居ても立ってもいられなくなった。
これは是非とも母の期待に応えて、お使いに行くパトリシアの供をしなければなるまい――そう思っていたのだが……。
シャルロを羽交い締めにしていた部下のモリス・トロイアが「あーあ」と苦笑いを浮かべた。
「せっかく、午前中の仕事を完璧に片付けていらしたのに、ロイにお供役を掻っ攫われちゃいましたねぇ」
「……笑いたければ、笑え」
「それでは遠慮なく! ぷーくすくす……」
「くそう……」
結局、パトリシアが供に選んだのはシャルロではなく、モリスの愛犬にしてシャルベリ辺境伯軍に属する優秀な軍用犬ロイだった。
犬恐怖症を克服して早くロイと仲良くなりたいと、大きな瞳をキラキラさせながら訴えられてしまえば、シャルロも駄目だなんて言えるはずがない。
せめて自分も同行させてほしいと申し出たのに、「閣下が一緒だと甘えてしまうからダメなんです」なんて、可愛らしく唇を尖らせて断られてしまった。
どうあがいても、シャルロはお呼びでないように思われたが……
「――行ってくる」
「えっ、どこへ行くんですか?」
「パティをこっそり見守りつつ、ついでに町を見回ってくる」
「見回りのついでにパトリシア嬢を見守る、じゃないんですね。閣下のそういう正直なところ、嫌いじゃないですよ」
モリスの羽交い締めから抜け出したシャルロは、軍服の乱れを直して颯爽と表門を出て行く。
満面の笑みを浮かべたモリスが、当たり前のようにそれに続いた。
気の毒なのは、一部始終を目撃していた若い門番である。
門番は、散々擦った揉んだしたあげく何ごとも無かったように去って行く上司達に目を白黒させながら、「いってらっしゃいませ!」と声を裏返して叫んだ。
シャルベリ辺境伯領は本日も快晴だった。
澄んだ青空には雲一つない。
シャルベリ辺境伯領の郵便事業を統轄する中央郵便局は、シャルベリ辺境伯邸の表門を出て大通りをしばらく西に下った場所にあった。レンガ造りの古い建物には蔦が這い、扉の上には馬に跨がる郵便配達員をモチーフにした鉄細工の看板が掲げられている。
パトリシアが中に入ったのを見届けると、シャルロとモリスはこっそり郵便局の前までやってきた。
そして、扉から一番近い街灯の下で行儀よくお座りをしたロイを見て、同時に苦笑いを浮かべる。
パトリシアはロイのリードを街灯の柱にくくり付けていったのだが、どうやら結び方が甘かったらしい。
ロイが少し動いただけで、すっかり解けてしまっていた。
用を済ませて郵便局から出てきたパトリシアが、ロイのリードが外れているのに気付けばさぞ驚くことだろう。
さすがにそれくらいの驚きで子竜になってしまうことはないだろうが、シャルロはリードを街灯の柱に結び直しておくことにした。
「あっ、閣下! あまり固く結ぶと、今度はパトリシア嬢が解けませんよ?」
「分かっている……」
「解けなくなった彼女が途方に暮れているところに颯爽と登場して、ご自分の好感度を上げよう、っていう魂胆なら止めませんけど!?」
「やめろやめろ! 私をずるい男にしようとするなっ!」
結局、モリスの言葉には唆されず、パトリシアでも簡単に解けるくらいの固さでリードを結び直したシャルロは、パタパタとしっぽを振っているロイの頭を撫でた。
「すまんな、ロイ。パティをよろしく頼むぞ」
「わんっ!」
頼もしいロイの返事を聞くと、シャルロとモリスはパトリシアが戻ってくる前に再び建物の影に身を潜めた。
そんな彼らに、軍服を纏った数名の男達がそっと近づいてくる。
「――閣下、少佐、お疲れ様です」
「やあ、中尉。巡回ご苦労」
軍服の男達は、ミゲル・アレニウス第四王子がシャルベリ辺境伯領に不当に侵入しようとした事件の際、南のトンネルの警護に当たっていた一個小隊。話し掛けて来たのは、それを率いていた中尉である。
あの時、バリケードを強行突破されて十名が下敷きになったものの、幸い大きな怪我を負った者はおらず、中尉を含めて全員すでに通常勤務に戻っている。
それを労うシャルロに恐縮してから、中尉は神妙な顔付きになって続けた。
「ここ数日、老舗ばかりを狙った空き巣が多発しているらしいんです」
「空き巣……ということは、怪我人などは出ていないのか?」
「ええ、今のところは。ただ、日に日に犯行が大胆になってきているようですので、そのうち居直り強盗に発展するのではと危惧しております」
「そうか……ご苦労。引き続き警戒にあたってくれ。必要とあらば、巡回の人数を増やそう」
シャルロの言葉に頷いて、中尉達は巡回任務に戻っていく。
郵便局の扉が開いてパトリシアが出てきたのは、そのすぐ後だった。
ロイに小走りに駆け寄った彼女は、シャルロがこっそり結び直したなんて気付く様子もないままリードを解く。そして、おずおずとロイに何ごとか話し掛けてから歩き始めた。
「うん?」
「あらら?」
物陰に隠れて彼女を見守っていたシャルロとモリスは、思わず顔を見合わせた。
郵便局でのお使いが終わったのだから、てっきりシャルベリ辺境伯邸に戻るものだと思っていたのに、パトリシアが反対方向へ歩き出したからだ。
「モリス――」
「はいはい、局長に何を話したか聞いてきたらいいんでしょう? 閣下、私がいない間に暴走しないでくださいよ」
モリスを郵便局に行かせたシャルロは、一定の距離を取りながらパトリシアとロイを追い掛けた。
そうとも知らない彼女達は、大通りをさらに西へと下っていく。
いつぞや、シャルロが彼女と二人で歩いたのと同じ道だ。
そういえば、あの時もロイが一緒だったな、とさほど時間が経っていないというのに何だか随分と懐かしく感じた。
やがて、大通りと北のトンネルに通じる水路との交差点が見えてくる。
パトリシアとロイは、北の水門の前で立ち止まっていた。
何をしているのだろうと目を凝らしたシャルロは、次の瞬間、はっとして足を止める。
長い胴体に虹色に輝く鱗を纏った存在が、パトリシアの視線の先でふよふよと宙に浮かんでいたからだ。
「小竜神様……」
それは、貯水湖の真ん中に立つ神殿に納められた石像そのものにも見える竜――小竜神である。
ある日を境に、突然シャルロの目にも映るようになったが、以前からパトリシアや犬のロイには見えていたのだという。
パトリシアはそんな小竜神と何やら話しているようだったが、しばらくすると手を振って別れ、今度は水路の沿道を北のトンネル方面へと進み始めた。
シャルロもそれを追うように、今の今までパトリシア達が留まっていた北の水門の前までやってくる。
すると、パトリシアの背中を見送っていた小竜神が声をかけてきた。
『ごきげんよう、贄の子』
「こんにちは、小竜神様」
彼はシャルロを〝贄の子〟と呼ぶ。いや、シャルロだけではなく、シャルベリ家の人間を皆そう呼んでいるようだ。
シャルベリ家の血筋はこれまで、七人の娘を雨乞いの生贄として竜神に捧げてきた。
そのうち六人の娘をその場で食らって雨を降らせた竜神だったが、七人目の娘だけは生きたまま連れ去っている。このことから、七人目の娘は竜神に娶られたのだとシャルベリ家では考えられてきた。
それからさらに百年ほど経った頃、再びシャルベリを厳しい干ばつが襲ったという記録が残っている。
時の領主は先祖に倣って雨乞いの儀式をするよう周囲に迫られ、たった一人の、しかも身重の娘を生贄に差し出さざるを得なくなった。
絶望の縁に立たされた領主だったが、ある夜のこと、彼の夢に一人の美しい女性が現れる。
女性は、生け贄を捧げる代わりに身重の娘に飲ませるよう告げて、虹色に光る鱗を一枚枕の上に置いていったらしい。
翌朝、領主がその鱗を粉にして飲ませたとたんに娘は産気づき、あれよあれよと言う間に元気な男の子を産んだ。
しかも、産声が上がったとたん、空からはバケツを引っくり返したみたいな雨が降ってきて……それからというもの、その子が泣けばシャルベリに雨が降るようになったという。
領主の夢に出てきた女性は竜神の花嫁となった七人目の生贄であり、虹色に光る鱗は竜神の力の一端だったのだろう。竜神はそれを領主の血筋に与えることで、シャルベリを干ばつから救ってくれたのだ。
これ以降、領主の一族には時々竜神の鱗を映したような虹色の虹彩を持つ赤子が生まれた。そしてそれは、領主の直系の末裔とされているシャルベリ辺境伯家でも続いており、シャルロの弟のロイもその一人だ。
シャルベリ辺境伯家が竜神の眷属に数えられる所以でもある。
『パトリシアが町に出るのは随分と久しぶりだろう。何故、もっと頻繁に連れ出してやらない? あの子を独り占めしようとお前が閉じ込めていたのか?』
「いいえ、滅相もない。単に私の気が回らなかっただけです。そのせいで彼女に退屈な思いをさせてしまったことは深く反省しております」
『もうしばらく姿を見せないようならば、雨を降らせてこの湖を溢れさせ、依り代ごと贄の子の家になだれ込んでやろうかと思っていた』
「冗談でもそのようなことはおやめください」
カチカチと歯を鳴らして不穏なことを呟く相手に、シャルロは肩を竦める。
この小竜神、パトリシアの前では子竜の彼女に合わせるみたいに可愛い子ぶっているが、とんだ猫被りだ。
シャルロ達眷属に対する堂々とした態度や獰猛そうな目付きなど、身体は小さくても竜神以外の何ものでもない。
パトリシアへの対応だけ特別なのは、おそらく彼女が今もまだシャルベリ辺境伯領の竜神という存在自体に恐れを抱いているからだろう。
可愛らしくて無害そうな竜を演じて、彼女の警戒心を解こうとしているのだ。
つまり、小竜神は――おそらくその本霊たる竜神も、パトリシアをすこぶる気に入っている。
神殿で婚約を報告した際、彼女がずっとシャルベリ辺境伯領に住むことになると知ってたいそう喜んでいたのも記憶に新しかった。
「随分とパティに心を砕いておられるご様子で」
『メテオリットの竜は、我よりもまだ古くからこの世に存在している。先達の姫に敬意を払うのは当然のことだろう』
生贄として捧げられた人間をメテオリットの竜が我が子として育てたのに対し、シャルベリの竜は当初無惨に食らった。
このことからシャルロは、メテオリットの竜には最初から理性や感情が備わっていた一方で、シャルベリの竜はもっとずっと未熟な存在だったのではないかと考える。
けれども、生贄の娘達を食らう毎に、シャルベリの竜は成長していった。
生贄達が今際の際に感じた恐怖や未練、領民のために娘を捧げねばならなかった領主達の苦悩や悲しみ。そんなものを、少しずつ理解できるようになっていったのではなかろうか。
やがて竜は心を持ち、情が芽生え――七人目の生贄に恋をした。
そうして初めて、シャルベリの竜は神となった。
これには、生贄の娘達の尊い犠牲や人々の篤い信仰心とともに、竜神自身が人を愛し、慈しむ心を持ったことが大きく関わっているのではないか。シャルロはそう考えている。
とはいえ、シャルロがこのように竜神について思いを巡らすようになったのは、パトリシアと婚約してからだ。
それまで、彼には小竜神の姿も見えず、自分自身も竜神の眷属の一人であるという自覚は薄かった。
パトリシアの存在が、間もなくシャルベリ辺境伯領の領主となるシャルロと、この地に棲む竜神を繋いだと言っても過言ではない。
『メテオリットの竜は古いが、パトリシア自身はまだ雛のようなものだ。お前がちゃんと導いてやらねばならぬ。慈しんでやらねばならぬ』
「もちろん、この全身全霊をかけて……」
相変わらずぎこちなくロイのリードを握って歩いていくパトリシアの背中を、シャルロと小竜神は目を細めて見守る。
この日、彼女が身に着けているのは空色ワンピースだった。裁縫が得意なシャルロの母の手作りだ。
白いセーラー襟の上に流れるストロベリーブロンドの髪は艶やかで、飾りなんて何もいらなかった。
擦れ違う人々に挨拶をする度、彼女の横顔がちらりと見える。
その人好きのする笑顔をしげしげと眺め、シャルロはため息まじりに呟いた。
「あー……可愛い……」
「閣下ー、完全に不審人物になってますよー。自重してくださーい」
「は? 自重? 何を? 言っておくが、パティを愛でることに関しては一切妥協する気はないっ!!」
「わー、潔いなー、この人ー」
いつの間にか追いついてきたモリスの苦言に、シャルロはいっそ胸を張る。
小竜神の姿は、もうどこにも見当たらなかった。




