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パティのトラウマ克服大作戦


「パティ、本当に? ほんっっっとーに、行くのか!?」

「い、行く……行ってきますっ!」


 アレニウス王国唯一の自治区、シャルベリ辺境伯領。

 これを治めるシャルベリ辺境伯邸の表門を出ようとする私の腕を掴むのは、黒い軍服をかっちりと着込んで腰にサーベルを提げたシャルロ閣下である。

 すでに三十回を超えるほど、冒頭のようなやり取りを繰り返している私達を、閣下の側近であるモリス少佐が生暖かい目で見守っていた。

 一方、いつもならそんな少佐の足元に控えているはずの彼の愛犬ロイは今、私の隣でパタパタと黒いしっぽを振っている。

 しかも、彼の首輪に繋がったリードの先は、私の手の中にあった。

 手の震えを誤魔化すみたいにそれをぎゅっと握り締める。

 そんな私の顔を覗き込み、閣下は心配そうな声で問うた。


「やっぱり、まだ無茶なんじゃないか? ――ロイだけ連れてお使いに行くなんて」


 この日、私は奥様に頼まれて郵便局まで手紙を出しに行くことになった。

 手紙は、シャリベリ辺境伯領を出てお嫁に行った三人のお嬢様達に宛てたものだ。

 シャルベリ辺境伯邸にも毎日夕刻に郵便の集配があるのだが、できれば今日出発の汽車に乗せたいらしい。

 町を散策するついでにお願いできるかしらという奥様の言葉に、私は一も二もなく頷いた。

 奥様からお使いを頼まれるのはこれが初めてではない。深窓の令嬢でもあるまいし、町を一人で歩くのだって何ら問題はなかった。

 それでも閣下が心配そうなのは、犬が苦手な私がロイを連れて行くと言い出したからだ。


「ロイと、早く仲良くなりたいんです。だからまず、一緒に行動することに慣れようと思うんです」


 私の犬恐怖症の原因となったミゲル殿下の愛犬ホロウは、異形と化したまま竜神に一呑みにされて消滅した。

 とはいえ、身に染み付いたトラウマは、そう簡単に消えるものではない。

 私は相変わらず犬が苦手だし、うっかり吠えられたりなんかすると、とたんに心臓がドキドキして子竜になってしまいそうになる。

 それはロイに対しても例外ではないのだが、きっとこれから長い付き合いになるであろう彼とは、せめて平常心で接することができるようになりたかった。

 

「しかし、いきなり一対一で、というのは難易度が高過ぎないか? せめて、私が同行して……」

「閣下が一緒だと、甘えてしまうからダメなんです」

「んんん? 甘えてくれてもいいんだが? むしろ、全面的に甘えてほしいんだが!?」

「それだと、ロイと一緒に行く意味がないじゃないですか」


 ついに、私をぎゅうぎゅう抱き締め始めた閣下に、若い門番が目を白黒させている。

 すると、見兼ねた少佐が閣下を羽交い締めにして、ベリッと私から引き剥がした。


「おい、モリス! 何をするっ!!」

「はいはいはい、どうどうどう。パトリシア嬢、閣下は私が押さえておきますので今の内にどうぞ。早く郵便局に行かないと午前の便に間に合わないですよ」

「わっ、たいへん! ありがとうございます、少佐! 行って参ります!」


 相変わらず上司を上司とも思わない少佐のおかげで閣下を振り切った私は、ぎくしゃくしながらもロイのリードを引いてようやくシャルベリ辺境伯邸を出発する。

 パティー! と閣下の悲痛な声が聞こえてきて、非常に後ろ髪を引かれる思いだった。

 振り向きたくなるのをぐっと堪えて大通りへ足を踏み出した私に、賢くて優しいロイが大人しく付いてきてくれる。

 シャルベリ辺境伯領は本日も快晴だった。

 閣下の瞳の色みたいに澄んだ青空には雲一つない。

 シャルベリ辺境伯領の郵便事業を統轄する中央郵便局は、シャルベリ辺境伯邸の表門を出て大通りをしばらく西に下った場所にあった。

 ロイの爪がチャッチャッと石畳を叩く音に緊張を覚えながらも、どうにかこうにか無事に目的地まで辿り着く。

 レンガ造りの古い建物には蔦が這い、扉の上には馬に跨がる郵便配達員をモチーフにした鉄細工の看板が掲げられていた。


「ごめんね、ロイ。ちょっとだけ、ここで待っていてね?」

「わふっ!」

「ひぅっ……! す、すす、すぐに戻るからね!」

「きゅーん……」


 局内には動物を連れていけないので、以前閣下がそうしたように、私はロイのリードを街灯の柱にくくり付ける。

 そうして郵便局の扉を開けば、相変わらず中は人でごった返していた。


「――おやおや、お嬢様。いらっしゃいませ。今日はお一人で?」

「こんにちは、局長様。今日は、犬のロイと参りました」


 すぐさま、腰の曲がった白髪の老人が声をかけてきた。

 丸い老眼鏡をずらして私に微笑みかけるのは、このシャルベリ辺境伯領中央郵便局の局長である。

 奥様の手紙を午前の便に乗せたい旨を告げると、彼はなるほどと頷きつつ懐中時計を取り出したのだが……


「ん? んん? 八時? いや、おかしいなぁ……」

「局長様、針が止まってしまっているみたいですよ?」


 竜の意匠が施された銀製の懐中時計は、一目で高価なものと知れた。局長曰く、彼の曾祖父の形見らしい。

 百年ほど前に作られたものだがまだまだ現役で、今朝局長が家を出る時には問題なく動いていたという。

 参ったなぁと心底困ったような顔をして呟く彼に、私はたまらず声をかけた。


「あの、もし時計屋さんに修理に出されるのでしたら、よろしければ私がこれから届けて参りましょうか?」

「おお、本当ですか! ありがたい! そうしていただけると、今日の仕事帰りにでも修理が済んだものを受け取れますなぁ!」


 私の申し出に、局長はぱっと顔を輝かせた。

 どうやら時計の針が動かなくなることはこれまでも何度かあって、その都度懇意にしている時計屋で直してもらっていたらしい。

 時計屋の場所を聞くと、以前閣下とランチをした料理屋の並びにあるようだった。

 奥様の手紙を預けた代わりに、局長の懐中時計と時計屋へのメッセージを書いたメモを託されて郵便局を後にする。

 私は街灯の柱からリードを外しながら、お座りをしてしっぽをパタパタ振っているロイに声をかけた。


「ごめんね、ロイ。あの……もうちょっとだけ、付き合ってもらってもいい?」

「わん!」

「あ、ありがとう。何だか返事したみたいに聞こえたけど……もしかして、君は私の言葉が分かるのかな? 時計屋さんの場所も、知っていたりする?」

「わふんっ!」


 私の言葉に、任せておけとでもいう風に一鳴きしたロイが、すっくと立ち上がって歩き出す。

 少佐と一緒に町を見回ることも多い軍用犬の彼は、当然ながら私よりもずっと道に詳しかった。

 郵便局から大通りをさらに西に下っていくと、北の水門が見えてくる。

 そこで、私とロイは見知った相手に声を掛けられた。


『ごきげんよう。パトリシア、ロイ』

「こ、こんにちは」

「わふっ」


 ふよふよと宙に浮かんでいるのは、一般的な成人男性くらいの体長の竜――小竜神だ。その長い胴体は、虹色に輝く鱗でびっしりと覆われている。

 かつて、私の翼を食って異形化したホロウ。それを食らったことで結果的にメテオリットの竜の血を取り込んだ竜神の影響か、小竜神は私と念話で会話をすることが可能となったばかりか、竜神の眷属であるシャルベリ辺境伯家の人々の目にも映るようになっていた。

 とはいえ、この小竜神。そもそも媒体となっているのが、貯水湖の真ん中に立つ神殿に祀られている石像らしく、あまり離れることができない。

 それが寂しいらしい彼からしきりに神殿に誘われたのだが、生憎私達にはお使いの続きがあった。


「ごめんね。預かり物を届けに行かないといけないから、また今度……」

『ふぇ……』


 とたんに、小竜神の空色の瞳がウルウルし始める。

 すると、今の今まで青く晴れ渡っていたはずの空に、どこからともなくもくもくと雲が現れた。

 シャルベリ辺境伯領の竜神は天気を司ると言われており、小竜神の感情もまた空模様に直結する。

 ぽたっと頬に一滴雨粒を食らった私は、大慌てで小竜神を宥めにかかった。


「わわわっ、な、泣かないでっ! 届け物が済んだら、神殿に寄っていくから待ってて! ね?」

『ほんとう……?』


 何とか小竜神の機嫌と天気を持ち直させた私とロイは、目的地へと急いだ。

 水路の沿道の途中まで小竜神に見送られ、やがて路地へと入っていく。

 複雑に入り組んだ路地裏は、一度閣下に連れてきてもらっただけの私には迷路に等しく、先導するロイの背中がひどく頼もしく見えた。

 以前閣下と訪れた料理店の扉には、まだ準備中の札が掛かっていたが、ランチの準備は着々と進んでいるらしく、道にまでバターやにんにくを焼いた香ばしい匂いが漏れ出していた。

 時計屋は、そんな料理店の四軒隣だ。

 雑貨屋、靴屋に続いて、指輪をモチーフにした鉄細工の看板が掲げられた扉の前を通り過ぎようとした――その時だった。

 バンッ! と大きな音を立てて扉が開く。


「きゃっ……!?」


 凄まじい勢いで中から飛び出してきた男とぶつかりそうになったが、ロイがとっさにリードを引っ張ってくれたおかげで何とか躱すことができた。

 突然の出来事に心臓はドキドキと煩くなったものの、これだけならきっとまだ持ち堪えられたのだ。

 けれども直後、男が開けっ放しにしていった扉から、黒くてふわふわでぬいぐるみみたいなものがトコトコトコと現れて、私の両足の間をするりと通り抜けたとたん――それが、歴とした犬であると知ったとたん。


「ひぅっ……!!」


 私の心臓は、胸の中でビクンと大きく跳ね上がった。

 時計屋の隣は宝石店だった。私の足に戯れ付いたのは、そんな宝石店の看板犬だろう。

 犬に遅れること数秒、店主らしき人物が血相を変えて外に飛び出してきたと思ったら、どろぼー!! と叫びながら、私とぶつかりそうになった男を追い掛けていった。

 宝石店の看板犬はそんな飼い主に見向きもせず、店の前に脱ぎ捨てられたみたいに置かれたワンピースに興味津々。

 フンフンと鼻を鳴らして顔を突っ込もうとするのを、ロイが前に立ち塞がることで阻んでいた。

 私はというと――子竜姿でワンピースに埋もれ、真っ青な顔をしてブルブルと震えている。


(ど、ど、どうしよう……)


 こんな町中で子竜化してしまうなんて想定外。

 これまで、シャルベリ辺境伯領の町中で野良犬を見たことがなかったから、リードのない犬に出会うことなんて滅多にないだろうと油断していた。

 私が今いる路地にはランチを提供する料理屋も多く、これから正午にかけて人通りが多くなっていくだろう。

 七年振りに背中に戻ってきた翼を駆使したとしても、人目に付かずにシャルベリ辺境伯邸に帰り着くのはまず不可能だ。

 それに……


(局長様の懐中時計……自分から申し出て預かってきたのに……)


 時計屋はすぐ目の前にあるのに、子竜の姿では訪ねていって懐中時計の修理を頼むことはできない。

 一体どうしたものか、とワンピースの中で途方に暮れていた時だった。


「――ぴっ!?」


 いきなり、ワンピースごと何者かによって地面から持ち上げられる。

 ぎょっとして身を固くした私の耳に届いたのは、思いがけない人の声だった。


「――追え、ロイ。犯人を確保せよ」

「わん!」


 威厳に満ちた声が命じる。同時に、カチャッと首輪からリードを外す音が聞こえ、応と答えるみたいに一鳴きしたロイが猛然と駆け出す気配がした。

 私は慌てて頭の上に載っていた布を掻き分け、ワンピースから顔を出す。

 そうして上を仰いだ私の目に飛び込んできたのは、相変わらず雲一つない青い空と、それと同じ色をした一対の瞳――さっきシャルベリ辺境伯邸の表門で別れたはずの閣下がそこにいた。


「ぴゃぴ、ぴぴぴぃ……」


 閣下、どうしてここに、と呟いたはずの言葉は、残念ながら子竜の口内で変換されて原形を留めていない。

 それでも、閣下本人には伝わったらしく、彼は私の額に自分のそれをコツンとくっ付け、苦笑いを浮かべながら口を開いた。


「モリスと町の見回りをしていたんだ。そうしたら、パティがこの路地に入って行くのが見えてね。当初の予定と違うから、何かあったのかと……追い掛けてきて、正解だったな?」

「ぴい……」


 時期尚早ではないかと引き留める手を振り切ってまで出掛けたというのに、結局閣下の手を煩わせてしまったのが情けなかった。やっぱり、私みたいな落ちこぼれ子竜は……なんて、長年拗らせ続けてきた卑屈が顔を出す。

 その一方で、自分が困っていたところに颯爽と現れた閣下に、胸がきゅんとした。

 甘えてもいいよと言ってくれた彼の襟元に顔を埋めれば、大丈夫、大丈夫、と大きな掌が優しく背中を撫でてくれる。

 

「焦らないでいいんだよ。パティが自分を嫌っているわけではないことも、自分と仲良くなるためにトラウマを克服しようと努力していることも、ロイはちゃんと分かっているからね」

「ぴ……」

「ゆっくりでいいんだ。ゆっくり、ロイに馴染み、シャルベリに馴染み――そうして、パティがいつかこの地を自分の故郷のように慕わしく思ってくれると、私はとても嬉しい」

「ぴい」


 襟元に顔を埋めたままこくりと素直に頷いた私の後頭部に、閣下の唇がそっと押し当てられる。

 ちょうどその時、泥棒らしき男が路地を出る一歩手前でロイが追いつき、背中に飛びかかって地面に引き倒した。

 

 懐中時計は、局長のメモ書きを見て事情を察した閣下が修理に出してくれた。

 それからシャルベリ辺境伯邸に戻るまで、私はずっと閣下の外套に包まれて抱かれていたのだが、いつの間にかうとうとしてしまったらしい。

 ふと気がつくと、私は子竜の姿のまま閣下の私室のベッドに寝かされていた。

 しばらくの間、寝ぼけ眼で辺りを見回していたが……


「おや、急に雲が出てきた。今日の予報では一日晴れだったと思うが……どうやら一雨きそうだな」

「――ぴっ!」


 閣下が窓の外を見て呟いた言葉に、私は一気に眠気が吹き飛んだ。

 届け物が済んだら神殿に寄る、と小竜神に約束したことを思い出したのだ。

 見上げた空は、涙が零れる一歩手前だった。


「ぴゃいっ!!」

「――んん!?」


 私は慌てて閣下の首元に飛び付き、無防備だった彼の唇に子竜のそれを押し付ける。まるでぶつかり合うみたいな色っぽさの欠片もないキスに、閣下の両目がまん丸になった。

 それでも無事に人間の姿に戻った私は、呆然と佇む閣下をその場に残したまま、小竜神の好物であるチョコレートを山盛り抱えて竜神の神殿まで全力疾走する羽目になる。

 その甲斐あって、シャルベリ辺境伯領の人々の洗濯物を想定外の雨で台無しにせずに済んだのだが――


「まったく……パティはいったい、私をどれだけ悶えさせたら気が済むんだろうね!?」


 シャルベリ辺境伯邸に帰ってきたとたんに閣下に捕まって、キスのやり直しを迫られるなんて想定外。

 思ってもみない展開に、またもや子竜になってしまいそうなほど、私の心臓はドキドキと高鳴った。




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[一言] 犬恐怖症はなかなか治らないだろーね! 『ぴー…』
[一言] 番外編ありがとうございます! 小竜神がどうしても3歳くらいのショタに思えてきて辛いです……。 小竜神に「寂しいから遊ぼ?」とか言われたら断れないわ……。 パティと小竜神は天使かなにかです…
[一言] パティちゃん、カッワイイイ~~(^○^) 更新、有難うございます♪
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