31話 落ちこぼれ子竜の縁談
ミゲル殿下を連れた国王陛下と、彼らに付き添って旦那様が部屋を出ていく。
一瞬しんと静まり返る中、真っ先に口を開いたのは叔父だった。
「いやいやいや、陛下も苦労するねぇ」
恰幅のいい身体を揺らしながら、私達のいるソファの方に歩いてきた彼は、やれやれといった風に肩を竦める。
「今の王妃を後妻に迎えるの、僕は反対したんだよ。陛下は聞く耳を持たなかったから、まあこうなってしまったのは仕方ないよね」
そう言う叔父を、姉がじろりと睨んだ。
「まるで、自分の忠告を聞かなかったから、こんな状況になったみたいな言い方するわね。叔父さん、一体何様なのよ」
「えっ、僕? 僕は善良な仲人だよ? ただし、数多の幸福な夫婦を誕生させてきた、凄腕のね!」
凄腕というのは誇張ではなかった。
事実、旦那様と奥様の仲を取り持ったのも、国王陛下と亡き前王妃が結婚したのも、はたまた私の両親をくっ付けたのまで叔父の功績らしい。
しかも、前王妃と私の母を引き合わせたのも彼だというから、姉と兄様の縁が結ばれるのにも一役買っている。
そんな叔父に、私と閣下も、それぞれ別々に縁談をまとめてもらうはずだったのだ。
結局私とロイ様も、閣下とクロエも、実際縁談まで至らなかったのだが……
「あっ、そういえば!」
と、ここで声を上げたのは、それまで閣下の従者として黙って後ろに控えていた少佐だった。
少佐は、私を抱いてソファに座り直した閣下の後ろからずいっと身を乗り出し、姉と兄様に向かって問う。
「クロエ嬢を名乗った女の身柄も、王国軍が引き取ってくださるんですよね? できれば早急にお願いしたいんですが!」
身勝手な理由でシャルベリ辺境伯領にやってきたのは、ミゲル殿下とドゥリトル子爵だけではなかった。
クロエ・マルベリーと偽って閣下の妻の座に収まろうとしていた女性。彼女はなんと、ドゥリトル子爵の娘、ミリア・ドゥリトルだったのだ。
旦那様が同一人物と判断してしまうほどミリアとクロエがそっくりな理由を、私達はここで初めて知ることになる。
「ーー双子? ドゥリトル子爵の娘とマルベリー侯爵の娘が、ですか?」
「もちろん、片方が養女に出されてややこしいことになっているんだよ」
目を丸くする閣下に、兄様が苦笑して答える。
ちなみに閣下の手はさっきから私のほっぺをムニムニしていて、それを見た姉がギリギリしている。
そんな姉を宥めながら兄様が語ったクロエ――いや、ミリアの境遇は、実に複雑であった。
「マルベリー家の姉妹が十歳の時のことだ。二つ年上の兄が原因不明の病を患ってね。医者にも見放され、マルベリー侯爵は途方に暮れた。大事な跡取り息子を何としても救いたかったんだろう。彼が藁をも縋る思いで頼ったのは、高名な占い師だった」
占い師は無責任にも、マルベリー家に凶星を呼び寄せているのは双子の娘達で、どちらかを家から出さねば更なる災いに見舞われるだろう、などと宣った。それによって、ミリアは母の妹が嫁いでいたドゥリトル子爵家に養女に出されてしまったのだという。
彼女は自分を捨てたマルベリー侯爵家をひどく恨んでいた。
そして今から半月ほど前、使用人と駆け落ちしたものの生活に行き詰まったクロエ本人が金の無心に来たことで、閣下と彼女の縁談が宙に浮いていることを知り、自分が成り代わることを思いついたらしい。
クロエのふりをして閣下との間に既成事実でも作り、自分がシャルベリ辺境伯夫人の座に納まることで、マルベリー侯爵家を見返してやろうと考えたのだ。
ただでさえこの時、養父であるドゥリトル子爵の金策のために、年老いた成金男の後妻に差し出されそうになっていた彼女は、何としても閣下を落とそうと必死だった。
ついでに、王国軍の会合に出席した閣下を目にしたこともあって、憎からず思っていたらしい。
ただ、ドゥリトル子爵がシャルベリ辺境伯領に進攻しようとしていることは知らなかったようで、ミリアは別段罪に問われることもなく王都に帰らされる運びとなった。
「ドゥリトル子爵家は今回のことで爵位剥奪を免れないだろうから、王都に戻ったところでミリアを待っているのは茨の道よ。正直、同情する。いっそ、本当にシャルベリ家に嫁がせてあげればいいんじゃない?」
「えっ、冗談はよしてくださいよ! これ以上あの人の相手をさせられたら、うちの閣下がストレスでハゲてしまいます! それに、そもそも閣下はパトリシア嬢と縁談を組み直す気満々なんですからねっ!!」
他人事みたいに言う姉に、少佐が食って掛かる。
すると、姉はいきなり真顔になって、少佐ではなく閣下を見据えて続けた。
「パティと縁談を組み直す、ですって? ミリアくらいで手を焼いているような男が、はたしてメテオリット家の女を扱えるのかしら。私達は人間だけれど、同時に竜だもの」
「おや、随分今更なことをおっしゃる。そもそも、ロイーー私の弟との縁談を勧めたのはあなただと伺っておりますが?」
「だって、ロイ・シャルベリは竜神の力を受け継いだ先祖返りでしょう? 同じ先祖返りとして、きっとパティの気持ちも分かってくれると思ったのよ」
「なるほど……我が家の事情をよくご存知で」
竜神の眷属とされているシャルベリ辺境伯家だが、現在先祖返りとされているのはロイ様ただ一人。
彼以外は、旦那様も閣下も、三人のお姉様達も普通の人間として生まれている。
メテオリット家との大きな違いは、そもそもシャルベリ家に直接竜の血が混ざっていないことだろう。
シャルベリ家が竜神の眷属となり得たのは、あくまで生贄を捧げたことへの対価である。
姉は閣下をまっすぐに見据えたまま、淡々と言葉を続けた。
「もしも、途中で持て余して放り出されるくらいならーーそうしてパティが傷付けられるなら、今すぐ手を引いてもらいたいの。傷が浅いうちに、王都に連れて帰るわ」
私はひゅっと息を呑んで、とっさに閣下にしがみついた。
閣下はそんな私を両腕で包み込み、落ち着いた様子で姉と対峙する。
「正直に申し上げると、ミリア嬢に限らず、私は基本的に女性の相手が苦手です」
「あら、だったら尚更、妹は任せられないわね」
「いえ、そんな私にとってパティは特別なんです。彼女との縁を繋いで下さった卿には、今では深く感謝しております」
「……ちょっと、そこ! 叔父さんったらニヤニヤしない! パティの縁談相手を勝手に変更しようとしたこと、私はまだ許していないんだからねっ!!」
閣下の感謝の言葉を聞いて、「損はさせないって言ったでしょう?」と誇らしげに胸を張る叔父を、姉がぴしゃりと牽制する。
私はハラハラしながら、閣下と姉の顔を見比べていた。
「竜のパティも、人間のパトリシアと同じくらい、私にとっては大切です。持て余すだなんて、あり得ない。姉上が心配するようなことは、何も起きないと断言いたしましょう」
「へえ……その根拠は?」
姉が胡乱げな顔をしてそう話を振ったとたん、閣下はたちまち水を得た魚のようになった。
「だって、パティはこんなに可愛いんですよ? 大事にするに決まっているでしょう!? 手だって小さくて可愛いのに爪だけは健気に尖っているとか、ご存知でしたか? いや、当然ご存知でしょうね! あなたはお姉さんですからね!!」
「は? ご存知もご存知、あったり前じゃないのっ! パティの爪切りは赤ちゃんの頃から私の担当だったんだもんねー! それにしても爪に注目するなんて……あなた、なかなかの見る目があるわね。パティ愛好家筆頭の私的には、ちっちゃな牙も推してるんですけど?」
「ほう、牙……どれ、パティ。ちょっとあーんして、私にも牙を見せておくれ。ほら、あーん。大丈夫、恥ずかしくないよ?」
「ああん、パティ! お姉ちゃんにも久しぶりに可愛いの見せてっ! あーん、してぇ!!」
一体これは何が始まったのだろう……。
自分の子竜っぷりを話題にしてたちまち意気投合した閣下と姉に、私は目が点になる。
パティ愛好家って、何ソレ。初耳なんですけど。
私の困惑をよそに、閣下と姉はますます盛り上がっていく。
「一度、子竜姿で字を書いてくれましてね。小ちゃい手でぎゅっとペンを握っているのも、プルプル震えながら一生懸命紙に向かっている姿も、何なら書いた字までも可愛いくて……あれはもう、悶えずにはいられませんでしたね」
「分かる、それ! 書いた字はへったくそなんだけど、一生懸命さがひしひしと伝わってきて尊いの極みなのよね! 私なんて、初めてこの子が書いた字、こっそり額に入れて私室に飾ってるんだから!!」
いつぞや、王都で行われたという王国軍の会合の打ち上げで、閣下と姉が弟妹談義で大盛り上がりしたことがあったと聞いたが、その時の光景を彷彿とさせるようなやり取りである。
ただその時と決定的に違うのは、今は二人とも素面だということだ。
字がへったくそだとか、初めて書いた字を額に入れて飾ってるとか、正直聞き捨てならない言葉は多々あれど、子竜の今は文句さえ言えない。
ぐぐっと眉間に皺を寄せた私を見兼ねた兄様が、ここでようやく二人の会話に割って入ってくれた。
「二人とも、肝心のパティが置いてきぼりになっているよ。君達のパティ愛は充分に理解できたから、後はパティ自身がどうしたいのかを聞くべきじゃないかな?」
そんな兄様の意見に、閣下も姉も異論はないようだ。ただ、一つ問題があった。
私が子竜から人間の姿に戻って話し合いの席に着くには、じっくり睡眠をとったりして心拍数を落ち着ける、という実に面倒くさい行程が必要なのだ。
そのため、この場はひとまず解散し、明日にでも仕切り直しを、というような空気になりかけたのだが……
「パティを……というか、メテオリットの竜を、強制的に人間に戻すとっておきの方法があるんだけどーーシャルロ殿、聞きたいです?」
「ーーは? ちょっとリアム、何を言って……!?」
「ええ、是非」
いきなりなことを言い出した兄様に、姉がぎょっとして胸倉を掴む一方で、閣下は一も二もなく頷いた。
私はまたもや目が点になる。だってそんな方法、私自身だって知らなかったのだ。
何故だか顔を赤くした姉にガクガクと揺すられながら、にこにこした兄様は自分と彼女の唇を順にトントンと人差し指で突いた。
「キスをするんだよ、唇に。竜に真実好かれている相手がね。なかなかロマンチックでしょ?」
私は思わず閣下と顔を見合わせた。
思ってもみない、それこそおとぎ話に出てきそうな方法だったからだ。
私だって幼い頃、王子様のキスでお姫様が目覚めるシーンに憧れたことがある。
女性優位なメテオリット家では、意識のない姫に断りもなくキスをする王子の行動は如何なものか、と叩かれた事案だが。
しかし、兄様の話はおとぎ話でも机上の空論でもなく、ちゃんとした根拠に基づいていた。
「まず、マチルダやパティのようなメテオリット家の先祖返りは、竜の姿をとることはあっても、生物学的には人間と変わりはない。彼女達が竜化するのはそもそも生存本能からなので、命の危険がなくなれば竜の姿でいる必要がないわけだ」
私が落雷や犬のロイに驚いて子竜になってしまったのも、命の危険を覚えて危機回避能力が働いた結果だった。つまり、竜の姿になっている時の私は、生存本能が全開だということだ。
兄様の言うように、メテオリット家の先祖返りは生物学的には人間であって、本来なら竜の姿であることは異常――ある意味、手負の獣の状態なのだ。
そんな中で他人とキスのような濃厚接触をする場合、竜は相手が自分を委ねられる対象かどうかを無意識に審査する。
竜であろうと人間であろうと、当然好いた相手にしか自分を委ねようと思わないだろう。すなわち、ここで行われるのは、相手が自分のパートナーとして相応しいか否かの選定でもある。
是と判断されれば、これ以上生存本能全開の異常な状態を継続する必要はない。
命の危険は去ったと脳が判断し、睡眠を取った後のようにリラックスして心拍数が落ち着き、その結果人間の姿に戻る、というわけだ。
姉のような優秀な先祖返りは精神力が強く、自分自身をコントロールすることで、人間にも竜にも自在に変化することができるのだが、著しく心が乱れている時などはこの限りではない。
事実、私は昨日王都の生家に戻った際に、竜になって怒り狂っていた姉が、兄様にキスされたとたんに人間の姿に戻ったのを目撃していた。
「なるほど、真実好かれていなければいけない理由は分かりました」
兄様の説明に納得したらしい閣下は、私の両脇に手を入れて自分の顔の前まで持ち上げた。
ぎょっとする私に、彼はにっこりと満面の笑みを浮かべる。
「そういえば、一昨日の駅での別れ際に、次に会う時は唇にキスをする許可を姉上からいただきたいものだと言ったね」
「ぴ……?」
「まさか、こんなに早くその機会が巡ってくるとは思わなかったな」
「みっ……!?」
とたんに、私はジタバタと暴れ始めた。
だって、閣下が自分にキスする気なのだと悟ったからだ。
周囲には姉も兄様も叔父もいる。身内の前で誰かとキスをするなんて、あまりにも恥ずかし過ぎるではないか。
人間に戻って全裸になることを考えてか、閣下は上着を脱いで私を包んでくれたが、そんなの気休めにもならなかった。
「みい! ぴいっ……!!」
「ああこら、そんなに暴れないで。ほら、ちゅってするだけだから、怖くないよ。よしよし、いい子いい子、いい子だねー」
「なんというか……閣下がイケナイことをしようとしているみたいで、部下としては居たたまれないんですけど……」
「そもそも、姉上に許可をもらうって話どこへ行ったの!? 私はまだ、いいよなんて言ってないんですけどっ!?」
いたいけな子竜に迫る閣下に、少佐が両手で顔を覆うのに対し、姉は猛然と食って掛かった。
傍観に徹している叔父は、人間達の悲喜こもごもに付き合わされるロイの頭をなでなでしている。
そんな中で、兄様はじっと閣下を見つめていたが、やがて淡々とした声で問うた。
「その子に好かれている自信があるんだね。けれど、もしーーあなたがキスをしてもパティが人間の姿に戻らなかったら、どうします?」
「それはつまり、彼女が私のことを好きではないと判定されればどうするか、というご質問ですね?」
一瞬バチッと、閣下と兄様の間で火花が散った気がした。
不安になった私は暴れるのをやめ、おそるおそる閣下の顔を窺う。
とたんに、無防備だった額にぷちゅっと唇を押し当てられて、私はとっさにぎゅっと両目を瞑った。
人間だったら、きっと顔を真っ赤にしていただろう。
閣下は小さく笑って吐息で私の額をくすぐると、淀みない声で言った。
「答えは簡単です。ただパティに好きになってもらえるよう、精進するのみ」
その言葉に弾かれたように、私はぱっと瞼を開く。
そうして目の当たりにしたのは、まっすぐに自分を見つめる空色のーー涼しげな色合いにもかかわらず、たっぷりと熱を孕んだ眼差しだった。
その視線に囚われて動けなくなった私に、閣下は噛んで含めるみたいに告げる。
「手放す気なんて、微塵もないからね。君の全部を、私に委ねてしまいなさい」
「ぴゃ」
ぽかんとして半開きになった私の唇に、柔らかなものが重なったのはこの直後のことだった。
「「きゃーっ!!」」
姉と少佐の悲鳴が被る。初対面のはずなのに、息ぴったりだ。
不意打ちのキスにびっくりした私は、悲鳴を上げる間もなく閣下の上着に潜り込んだ。
そんな私を、閣下は上着ごとぎゅうと抱き締める。
耳を押し当てた彼の胸は、私と同じくらいドキドキしていた。
「さあ、顔を見せて。一緒に、これからの話をしようーー私のパティ」
自信に満ち溢れたその声を聞き、私はようやく覚悟を決めた。
上着の中からもぞもぞと顔を出せば、たちまち閣下が相好を崩す。
青空みたいな彼の瞳には、耳まで真っ赤に染まった人間の私の顔が映り込んでいた。
「――おや、みんな空をご覧よ。彩雲だ。こりゃあ、縁起が良いねぇ」
ふと、窓の外を見た叔父がそう声を上げる。
雨が上がったシャルベリ辺境伯領の空には、いつの間にか虹色の雲が広がっていた。
それはまるで、竜神の身体を覆う鱗の色のようだ。
彩雲は、太陽の光が水滴や氷晶によって回折することで、雲が虹のような様々な色に彩られる大気現象である。古来より吉兆の現れとされ、見た者には幸福が訪れると言い伝えられている。
「ね? 叔父さんは、まとまらない話は扱わないって言ったでしょ? 君達も、仲人たる僕の輝かしい功績の一つになるんだよ」
叔父はそう言って、閣下と寄り添う私に満面の笑みを向けた。
――ところで
七年前、私の翼を食らって、ただの犬から不死身の化け物に成り果てたミゲル殿下の愛犬ホロウ。
その最期は、シャルベリ辺境伯領の竜神に一吞みにされるという、実に呆気ないものだった。
だがこれにより、シャルベリ辺境伯領の竜神は、間接的とはいえメテオリットの竜の血を体内に取り入れてしまっている。
私がその影響の片鱗を知るのは、閣下とともに改めて、貯水湖の真ん中にある竜神の神殿を訪れた時だった。
『ごきげんよう、パトリシア』
「……え?」
神殿に祀られた石像そっくりの小竜神に、私はこの日、初めて念話で挨拶をされた。
と、同時に……
「パティ……その竜の子は、パティの友達かい?」
「ええっ!?」
これまで小竜神の姿が見えていなかったはずの閣下が、彼を指差してそう問うた。
つまり小竜神は、私と念話でもって意思の疎通ができるようになったばかりか、その姿が竜神の眷属――つまり、シャルベリ家の人間の目にも映るようになったのだ。
私が初めてシャルベリ辺境伯領を訪れた日から数えて、ちょうど一ヶ月目のことである。
この日、閣下は私との婚約を竜神の神殿に報告した。




