30話 永遠の決別
旦那様や叔父と同年代のはずの国王陛下だが、彼らと並ぶとずっと老けて見えた。
三番目の息子であるリアム兄様の銀髪と違い、国王陛下のそれは加齢による白髪のようだ。
国王陛下は、姉の足置きにされているミゲル殿下を見て目を丸くしていたが、すぐに顔を引き締め、私達が陣取るソファの方へ歩いてきた。
そんな国王陛下に敬意を表して直立不動の姿勢を取ったのは閣下と少佐だけで、床に転がされたミゲル殿下はともかくとして、姉と兄様はソファから立ち上がる素振りさえない。
玉座を譲る条件としてミゲル殿下の謹慎解消を掲げたことで、国王陛下と兄様を含めた上の息子達の関係は完全に決裂してしまった。七年前の約束を反故にする上、なおも後妻が産んだ子供だけに心を砕こうとする父親を、前妻が産んだ子供達が見限るのも当然だろう。
それでも、国王陛下は国王陛下である。
私は閣下の腕に抱かれながら、姉と兄様が不敬罪に問われまいかとハラハラしていた。
しかし、幸いそれは杞憂に終わる。
国王陛下は姉と兄様の態度を咎めることもないまま、二人に向かっていきなり頭を下げたのだ。
ぎょっとする一同の前で、国王陛下は口を開く。
「この度のミゲルの暴挙、父親として心より詫びたい。誠に申し訳なかった」
「ち、父上……」
自分の行いが原因で、父親にーーしかも、一国の国王に頭を下げさせてしまったことに、さしものミゲル殿下も動揺する。
なおも床に転がったままの末息子を、国王陛下はひどく悲しそうな目で一瞥した。
そんな父子に、姉は冷淡な眼差しを向ける。
「お言葉ですが、陛下。そもそも謝る相手を間違えていらっしゃるんじゃないですか? 今回、あなたの愚かな息子のせいで最も迷惑を被ったのは、私でもリアムでもなく、そちらにいる私の可愛い妹とシャルベリ辺境伯領の方々です」
「ああ、そうか……そうだな……」
不躾な姉の言葉にも神妙な顔で頷いた国王陛下が、閣下とその腕に抱かれた私、後ろに控えた少佐の方に向き直る。
改めて姿勢を正して緊張する私達の側で、犬のロイだけが暢気な顔をしてしっぽを振っていた。
「息子が、すまなかった。長年、よく王家に仕えてくれたシャルベリ家に対し、無礼千万な振る舞いであった。私は国王である前にミゲルの父親として、この度のこと、心より申し訳ないと思っている」
「いいえ、陛下。我ら一族がこのシャルベリ辺境伯領を治めることを、陛下が正しく認めて下さっているのでしたら、私はもう何も申し上げることはございません。今後も変わらず、ここに住まう民のため、アレニウス王国の平穏のため、粉骨砕身して努める所存です」
沈痛な面持ちで謝罪する国王陛下に、閣下は穏やかに、しかし堂々と言葉を返す。
すると、国王陛下が懐から一通の書状を取り出した。
それは本来なら早々に届いていたはずの、シャルベリ辺境伯位を閣下が継ぐことを認める、国王陛下のサイン入りの任命状だった。
「君のますますの活躍を期待している。新たに国王となる私の息子にも、どうか力を貸してやっておくれ」
「拝命致します」
閣下と国王陛下のやり取りを見て、扉の側に立っていた旦那様が目頭を押さえている。叔父はその肩を叩いて、立派な息子さんだねぇ、と笑った。
そんな中、国王陛下は閣下の腕に抱かれた私に向き直る。
メテオリット家の成り立ちを知っている国王陛下は子竜を見ても驚く様子はないが、私個人は彼とほとんど面識がない。ガチガチに緊張する私の背を、閣下が宥めるように撫でてくれた。
国王陛下はそんな私達に眦を緩め、懐かしそうな顔をする。
「やあ、パトリシア。驚いた。お母さんの小さい頃にそっくりだ。あの頃は、彼女もそうやってだっこさせてくれたんだがなぁ」
「……ぴ?」
意外なことを聞いた。
メテオリット家は王家の末席に連なり、時の国王やその家族と浅からぬ関係を築いてきた流れで、目の前の国王陛下と私の母が幼馴染であることは知っている。
ただし、母は自分の幼少期の話など、一度も語ったことがなかったのだ。これは、姉も然り。
メテオリット家の先祖返りは総じてプライドが高く、弱々しかった子供の頃のことなど思い出したくないのかもしれない。
それでも、姉や母にも確かに、今の私みたいな子竜の時代があったはずなのだ。
そんな至極当たり前のことに、私はこの時、国王陛下の言葉で気付かされた。
とたんに、ミゲル殿下に落ちこぼれだとか成り損ないだとか言われたのを真に受けて、いちいち落ち込んでいた過去が馬鹿らしくなる。
ちびだけど、姉みたいに美しくも強くもないけれど、そんな自分を恥じる必要なんて少しもないんだと、私はこの時思い至ったのであった。
「パトリシアにはいくら詫びても足りないだろう。幼い君の尊厳を傷付け、とてつもなく辛い思いをさせてしまったこと、そして再びそれを繰り返そうとしたことーー私の余生の全てをかけてミゲルを真っ当な人間にすることで、償いたいと思っている」
現在、実質アレニウス王国の頂点に立っているハリス王太子殿下は、ミゲル殿下を裁判にはかけずに王都から追放することに決めたらしい。
行き先は、元々移り住むはずだった田舎の別荘地から離島へと変更になった。こちらも一応別荘地には違いないが、実質流刑だ。
それに付いて行くらしい現国王夫妻も、おそらく悠悠自適の余生とはいかないだろう。
とにかく、間近に控えた即位式にこれ以上けちを付けられたくないハリス王太子殿下は、ミゲル殿下に関してはそれで手打ちにしたいようだ。
しかし、当事者に相談もなく勝手に話を進めたことで、姉の機嫌は再び最悪なことになった。
私だって、ミゲル殿下のことを許せと言われれば簡単には頷けないだろう。
ただ、少なくとも国王陛下の誠意は伝わってきたため、人語を話せない私はこくこくと頷いて返した。
ところがである。
国王陛下が、今後二度とミゲル殿下を私に接触させないことを誓う、と告げたとたんだった。
「そんなっ……そんなこと、認めるもんかっ!!」
それまで口を噤んでいたミゲル殿下が、姉の足の下から顔を上げて猛然と抗議し始めたのだ。
パトリシアは自分のものだ、自分が飼うんだ、と相変わらず彼の主張は一貫していた。
それを聞かせまいとしてか、閣下の大きな手が私の子竜の耳を塞ぐ。
姉は青筋を立てて、ミゲル殿下の頭を思いっきり踏みつけようと足を上げた――その時だった。
「ーー黙れ、ミゲル!!」
「……っ!?」
鋭い声で一喝したのは、国王陛下だった。
これまで甘やかされるばかりで、声を荒げて叱られたことなどなかったであろうミゲル殿下は絶句する。
「お前はもう何も喋るな。己がこの場にいる人々の恩情によって、辛うじて生かされていることを自覚しなさい」
そう続けた国王陛下の声は震えていた。
もしかしたら、自身がこうしてシャルベリ辺境伯邸に到着するまでの間に、ミゲル殿下が王国軍なり姉なりの手で死んでしまっていてもおかしくない、と覚悟してきたのかもしれない。
痛ましいものを見るような目でミゲル殿下を一瞥してから、国王陛下が改めて向き直ったのは姉だった。
「ミゲルをこんな風にしてしまったこと、私自身責任を感じている。必要とあらば、この目をーー片目と言わず、両目を抉ってくれても構わない。そうする覚悟で、ここに来た」
「ち、父上っ……そんなことっ……!!」
国王陛下は、この場で一番力を持っているのは姉だと判断したらしい。
部屋の主である閣下でも、現シャルベリ辺境伯である旦那様でも、王国軍参謀長である兄様でもない。
今ここで物理的に最強なのは、始祖たるメテオリットの竜の再来と謳われる姉なのだ。
おそらく、その判断は間違ってはいないだろう。
当の姉はしばらくの間真意を探るようにじっと国王陛下を見つめていたが、やがてため息を吐きながら口を開いた。
「いらないですよ。陛下の目玉なんて、私にとって何の価値もない。まあ、パティとシャルベリ辺境伯領の方々が望むならば、抉って差し上げますけれど?」
「結構です。遠慮します。必要ありません」
姉の言葉を閣下が食い気味に否定する。私もブンブンと首を横に振った。
それを見た姉が、肩を竦めて続ける。
「陛下、勘違いしないでいただきたいんですけど、七年前に私が代償として目玉を受け取ったのは、あれがリアムのものだったからですよ。リアムは私にとって掛け替えのない存在ですから」
「いや、マチルダ……改めてそういうことを言われると、照れるんだけど……」
「照れたきゃ照れればいいじゃない。食らった右目も含めて、今じゃあなたの全部が私のものなんだからね」
「うーん……これは、参ったね……」
目玉を食った食われたと物騒な話題だが、姉と兄様的には惚気話だったようだ。
仲がいいね、と閣下に耳元で笑われて私まで照れくさい気分になった。
一方、姉と兄様の様子に国王陛下も気が抜けたらしく、一つ大きなため息を吐いた。
そうして、ようやく床に転がっていたミゲル殿下を立たせて部屋から連れ出そうとするその背に、姉が思い出したかのように、そうそう、と声をかける。
「陛下は全然ご興味ないかもしれませんが、一応報告しておきますね。来年早々、陛下に孫が一人生まれますよ。女の子の場合は、もしかしたら竜かもしれません」
「ま、孫!? そ、それはつまり……」
姉の言葉で、彼女が妊娠していること、そしてその父親が自分の息子であることを察した国王陛下は、慌てて立ち止まってこちらを振り向く。
一瞬ぐっと言葉に詰まってから、噛み締めるように言った。
「教えてくれてありがとう、マチルダ。女子でも、男子でも……竜であろうとなかろうと、ただ健やかに生まれることを心より祈っているーーおめでとう、リアム」
それを聞いた兄様は、姉と顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
それから、小さく肩を竦めて茶化すように言う。
「生まれて初めて、名前を呼んでくださいましたね」
二十数年冷えきっていた兄様と国王陛下の親子関係が、ようやくわずかに融解した瞬間だった。
そして――
「さようなら、父上」
永遠の決別の瞬間でもあった。
 




