3話 落ちこぼれ子竜
ずっとずっと昔、アレニウス王国がまだできて間もない頃のことである。
初代国王の幼い末王子が、権力争いに敗れて失脚した人物によって攫われ、南の国境付近に広がる森の奥の洞窟に投げ込まれるという事件が起きた。
その洞窟には恐ろしい竜が棲んでいると言われていたのだ。
末王子を攫った者は、彼を生け贄にして竜を仲間に引き入れ、自分がアレニウス王国を支配しようと企んだらしい。
「ところが、肝心の竜は王子を生け贄としては受け取らなかった。それどころか彼を保護し、ちょうど卵から孵ったばかりだった自分の娘と一緒に大切に育てたーーだったかな?」
「あらあら! 竜も、お母さんだったのね!」
旦那様と奥様の言葉に、私はこくりと頷く。
そんな私は、客室として与えられた二階東向きの角部屋から、シャルベリ辺境伯夫妻の私室である一階南向きの角部屋に連れてこられていた。
通常、屋敷の主人の私室というのは最上階に設けられることが多いが、シャルベリ辺境伯夫妻の場合は奥様が車椅子に乗っていることを考慮して一階にある。
温かみのあるベージュ色で統一された室内で、唯一真っ赤なソファは奥様のお気に入りだという。
そのすぐ横の壁際には、足の不自由な奥様が座ったまま身支度を整えやすいようにか、大きな姿見が取り付けられている。
そこに映った、頭でっかちでちんちくりんなピンク色の生き物ーー子竜の姿になった自分に対し、私はふうと一つため息を吐いた。
瞳は人間の時と同じ青緑色のままだが、瞳孔だけはヘビみたいな縦長になっている。
「竜に保護された初代アレニウス国王の末王子はやがて立派な青年に成長し、兄妹のように一緒に育った竜の娘と番った。以来、竜の血が王国の守護を担っているーー確か、そんな言い伝えを聞いたことがある」
向かいのソファに座った旦那様が語るのは、アレニウス王国に伝わる故事である。
善良な竜の加護を上乗せすることで、人々に王家をより神聖視させるのがそもそもの狙いだったのだろう。
歴代の国王達が竜を従えているような絵画も多く描かれ、アレニウス王家の権威を象徴するのに一役も二役も買っている。
しかも、この異類婚姻譚ーー何を隠そう、実話である。
末王子と竜の娘は確かに結ばれ、彼らの間に生まれた子供を初代アレニウス国王が正式に王族の一員として認知した。これが、メテオリット家の始まりである。
そして、突然の落雷をきっかけに子竜の姿になってしまった私は、そんなメテオリット家に時折生まれる先祖返りの一人だった。
竜の血は女にのみ遺伝するため、先祖返りの特質を持って生まれるのも必然的に女である。
これこそが、メテオリット家の当主が女であらねばならない理由であり、先代の当主である母も、そして現当主を務める姉マチルダも、竜の姿に身を転じる能力を持った先祖返りであった。
ただし……
「絵画に描かれていた竜と比べると、パトリシア嬢は随分……その、小さいんだな?」
旦那様がそう遠慮がちに零した言葉に、私はぐっと奥歯を噛み締める。人間の時よりも尖った犬歯が歯茎に刺さってわずかに痛んだ。
メテオリット家の始祖も、母や姉を含めた歴代の先祖返り達も、それはそれは美しい竜だった。
体長こそ人間よりいくらか大きいくらいだが、背中には立派な翼を持ち、鳥よりも高く速く空を飛ぶ。
すらりとしてしなやかな肢体は女性的で、全身を覆うのは爬虫類風の鱗ではなく、手触りの良いビロードみたいな肌だ。
手足の先に付いた鉤爪は鋭く、仇なす相手を容赦なく引き裂く強さと残酷さも持ち合わせていた。
そんな彼女達に比べて私ときたら、長い尻尾はあるものの、体長はだいたい小型犬くらい。
身体の色は人間の時の髪の色が反映されたピンク色で、竜らしい威厳は皆無である。
手足は短く、お腹なんかぽってりとしていて完全に幼児体型だった。
せっかくの鉤爪も小さ過ぎて、きっと戦うには力不足だろう。なんなら、猫の爪の方がよっぽど戦闘力が高そうだ。極めつけは……
「パトリシア嬢には、翼が無いのだな」
シャルベリ辺境伯として王宮に出向く機会も多いのだろう。歴代の国王と竜達の絵画を見たことがあるらしい旦那様が、ふとそう呟く。
とたんにとてつもない胸の痛みを覚えた私は、小さな竜の手でぐっと胸を押さえた。
旦那様の言う通り、私の背中には翼がなかった。
他の竜のように飛べないため四足歩行で移動するのだが、そもそも手足が短いせいであまり速く走ることもできない。
つまり私は、竜として、どうしようもない落ちこぼれなのだ。
それを今、改めて目の前に突き付けられたように感じ、私の視界はみるみるうちに滲んでいく。
丸い眼球に張っていた水の膜は雫となって、ピンク色の膝の上にポタポタと滴った。
「あらまあ、旦那様ったらパティを泣かせて。いけない人ねぇ」
「あ、いや……私は、そんなつもりでは……」
ソファに並んで座っていた奥様がすかさず私を膝の上に抱き上げ、小さな子をあやすみたいに背中をトントンとしてくれる。
向いの席からは旦那様がおろおろする気配が伝わってきた。
旦那様を困らせたかったわけではない私は、必死に涙を止めようとするがうまくいかない。
子竜の姿だと外見の幼さに精神が引っ張られるみたいで、どうにも感情の起伏が制御できなくなってしまうのだ。そんな自分の不甲斐無さに余計に涙腺が緩む、という悪循環。
竜の声帯や舌は人語を発するのに向いていないため、会話だって不可能だ。喉から出るのは、みいみいといった甘ったれた鳴き声ばかりで嫌になる。
私は居たたまれなくて、両手で目元を覆って奥様の膝の上でぎゅっと小さく縮こまるしかなかった。
やがて、ギシリと音がして、旦那様がソファから腰を上げる気配を感じた。
かと思ったら、すぐに「パティ」と奥様みたいに私を愛称で呼ぶ声が聞こえてくる。
おそるおそる両目を覆っていた手を退ければ、奥様の膝に乗せられた私の前にしゃがみ込み、厳つかった黒い眉を八の字にしている旦那様が見えた。
「言葉が足りん、と私はいつも奥に叱られてな……小さいというのも、翼がないというのも、パティを貶めるつもりで言ったわけじゃないんだ。私の言葉で傷付けてしまったのなら謝る。すまなかったな」
「あらあら、旦那様ったら相変わらず顔も台詞も堅苦しいわねぇ。パティは小さくて可愛いし、翼がない分だっこしやすそう、って素直におっしゃればいいのに」
「いや、それだとだっこをさせろと要求しているみたいじゃないか。いくら今は幼い竜の姿をしていようが、パティは年頃の娘だ。そんな不躾な真似は……」
「まあまあ、言い訳がましいったらありませんわ。旦那様の意気地なし! 意思の疎通はちゃんとできるんですもの。パティだって旦那様にだっこされるのが嫌なら嫌と意思表示できるでしょう。ーーねえ、パティ。そうよね?」
有無を言わせぬ奥様の勢いに押されて、私はこくこくと頷くしかない。
いきなり始まった旦那様と奥様の言葉の応酬に面食らっているうちに、自然と涙も止まっていた。
旦那様は奥様の容赦ない駄目出しにたじたじとした様子。
しばらくの間「いや」とか「だが」とか口をもごもごさせていたが、やがて一つ態とらしい咳払いをすると、意を決したように私に向かって両手を差し出してきた。
「パティ……その、いいかい?」
だっこ、したいらしい。
私はもちろん戸惑ったものの、ここで断っては旦那様の体裁を傷付けてしまうのではなかろうか。
幼いのは見た目だけなので、場の空気くらい読める。
目の前に差し出されたのは、武骨な手だ。
自治権と並んでアレニウス王国で唯一私兵団を構えることが許されているシャルベリ辺境伯は、代々軍司令官も兼任する軍人でもある。
あの方の手も随分大きかったな、と私は昼間握手を交わしたシャルロ閣下の手を思い出した。
叔父から急遽提案された私との縁談に消極的だった彼の手が、こうして差し出されることはきっとないのだろう。
何となくそれを寂しく思いながら、私はひとまず目の前の旦那様に応えるべく、「だっこ」をねだるみたいに両手を広げて掲げてみる。
すると、すぐさま両脇の下に手を入れて持ち上げられた。
「ぴっ」
一気に高くなった視界に戦いて、目の前の旦那様のシャツを咄嗟にぎゅうっと握り締める。
そんな私の背中を、旦那様もさっきの奥様みたいに優しくトントンしてくれた。
緊張していた身体からは徐々に余計な力が抜けていき、ぽつんぽつんと二つ空いた鼻の穴から安堵のため息が漏れる。
そんな私と旦那様を見上げて、ソファに座った奥様が顔を綻ばせた。
縁談のために遥々王都からやってきたというのに、本命だったはずの相手にはすでに心に決めた女性がいて、ならばと急遽提案された新たな縁談相手である閣下も結婚には乗り気ではない。
結局自分はシャルベリ辺境伯領にとって招かざる客だったのだ、とどうしようもなく腐っていた私の気持ちは、この時、旦那様と奥様の厚意に触れて少しだけ浮上した。
「パティがこの姿になることは、世間的には知られない方がいいのだろうか」
そんな旦那様の問いに、私は目一杯首を縦に振る。
元来メテオリット家の事情を知るのは、国王とその直系、それからメテオリット家の娘と婚姻関係を結んだ家というごく限られた者だけだ。
とはいえ世間一般的には、竜は伝説上、あるいは想像上の生き物に過ぎない。
メテオリット家に太古の竜の血が受け継がれている、その先祖返りが竜の姿に転じる特性を持つ、なんて吹聴されてもにわかに信じる者はいないだろう。
それなのに、旦那様と奥様が子竜になった私の存在を早々に受け入れてくれたのには、偶然その瞬間に立ち合ったからということの他にも、実は大きな理由があった。
「私も奥も、今宵見たことを口外すまい。その誓いとして、我が家のーーシャルベリ家の秘密を明かそう」
そんな前置きに続いて旦那様の口から語られたシャルベリ家の秘密に、私はさして驚かなかった。
というのも――実は、私はすでにそれを知っていたからだ。
このシャルベリ家の秘密こそ、姉マチルダが竜の血を引く私の縁談の相手としてシャルベリ辺境伯家の人間を推した理由だった。
「シャルベリ家は昔、幾度も娘を雨乞いの生け贄として竜に捧げ、最後の生け贄の導きにより竜の鱗を得てその眷属となった。さすがにメテオリット家のように竜の姿をとることはないがーー我が家にも時々生まれるんだ。竜の力を受け継いだ、先祖返りがな」
メテオリット家にも、シャルベリ家にも、竜の存在が深く関わっていた。
しかしながら、人間と血を交わらせることで細々と種を繋いできた前者と、神殿まで建てられて祀られている後者の存在の仕方は、対極にある。
生け贄として捧げられた幼い王子を保護して育てた竜の末裔である私からすれば、幾人もの娘達を食らって願いを叶えたというシャルベリ辺境伯領の竜は、正直とてつもなくやばい相手としか思えない。
シャルベリ辺境伯邸に向かう馬車の中、貯水湖の中央にある神殿に納められた石像と目が合って震え上がったのも、あの時、竜神の気配をまざまざと感じていたからだ。
自分の中に流れる竜の血とは相容れない竜神の存在が、私はとにかく、怖くて怖くて仕方がなかった。