29話 兄王子と弟王子
「返せ、返せよ! ホロウを返せっ!!」
「あー、うっるさーい」
そろそろ喉が潰れるのではと心配になるくらい、ミゲル殿下はずっと喚き続けていた。
その顎を、ガッと片手で鷲掴みにしたのは私の姉マチルダである。
骨を粉砕しそうな勢いでミゲル殿下の顎をギリギリと締め上げながら、姉は隣に座る相手に、ねえと問い掛ける。
「リアム。こいつ、うるさいから舌を引っこ抜いてもいい?」
「うーん、まだだめかな。色々と聞かなきゃいけない話があるからね」
物騒な姉の言葉に苦笑いを浮かべたのは、第三王子にしてアレニウス王国軍参謀長のリアム殿下。
公私に渡って姉とパートナーを組む彼を、私は兄様と呼んでいる。
第四王子ミゲル殿下とその母方の伯父にあたるドゥリトル子爵によるシャルベリ辺境伯領への進攻は、シャルベリ辺境伯軍と王国軍の協力のもとで速やかに鎮圧された。
南のトンネルを守っていた十名の兵は、ホロウが無理矢理倒したバリケードの下敷きになって身動きが取れなくなっていたが、大きな怪我を負っていなかったのが不幸中の幸いだった。
北のトンネルの前で拘束されたドゥリトル子爵とその私兵団は、王国軍によって早々に王都へ送り返されることになっている。
国家が正式に認めたシャルベリ辺境伯家を脅かし、その領土を不正に手に入れようとした彼らの罪状は、内乱罪に当たる。
首謀者はドゥリトル子爵。次の政権において完全に居場所を失うばかりか、現王妃の実兄という立場を利用して行っていた数々の不正が暴かれて王都に居られなくなることを見越した上での犯行だった。
シャルベリ辺境伯領が狙われたのは、アレニウス王国で唯一の自治区であり、南北のトンネルを封鎖してしまえば篭城できると考えたかららしい。
国法では、内乱罪の首謀者は死刑または無期禁錮に処すとされている。いずれにせよ、裁判は新国王の即位式が済んでから行われるため、それまでドゥリトル子爵は拘置所で過ごすことになるだろう。
ミゲル殿下は、結局ドゥリトル子爵に担ぎ上げられただけだった。
シャルベリ辺境伯領は王族が正しく治めるべきであり、現国王最愛の末王子であるミゲル殿下が復権して活躍する場としてふさわしい、と唆したらしい。
そして、七年前の行いをちっとも反省していなかったミゲル殿下は、当たり前のように私の所有権を主張するつもりだった。とはいえ、少しは年を重ねて分別を覚えたのか、相応の権力がなければメテオリットの竜を側に置くことができないのも理解していたようだ。
つまり結局のところ彼は、落ちこぼれ子竜と扱き下ろしていた私が欲しくてシャルベリ辺境伯領を得ようとしたのだという。
「はあ……まあ、どちら様も、こちらの意思を無視して好き勝手やってくれますね」
一連の事情を聞き、深々とため息を吐いたのは閣下だった。
現在、閣下の執務室に集まっているのは、閣下と少佐とロイと私、それから姉と兄様と、彼らの足下に転がされたミゲル殿下だ。
兄様とソファに並んだ姉は、向かいに腰を下ろしている閣下をビシリと指差した。
「ちょっと、そこの人! さっきからパティを撫で過ぎ! なでなでし過ぎっ!!」
姉の指摘通り、閣下は膝の上に抱いた私の頭をずっとなでなでしている。
ちなみに、私の姿は子竜のままだ。
というのも、事態が収束してから、実はまだ一時間ほどしか経っていなかった。
モリス少佐とともに現場に駆け付けた兄様から遅れること半時間。お腹の子供に配慮し、駅からは馬車を使ってやってきた姉とは、シャルベリ辺境伯邸で合流した。
「いやもう、こうやってパティを撫でて癒されていないとやってられませんよ。無能な子爵をここまでのさばらせたのも、七年かけてもそちらの王子殿下を更生させられなかったのも、全部中央の失態ではないですか。我々シャルベリ辺境伯領としてはとばっちりもいいところですよ」
「うーん、耳が痛いね。慰謝料代わりに、気が済むまでパティを撫でてくれ」
閣下の苦言に肩を竦めた兄様が、私を生け贄に差し出した。
そんな彼の肩を、姉が掴んでガクガクと揺すぶる。
「ちょっと、リアム! 勝手にパティを売らないでちょうだい! 私だってパティに癒されたいし、なでなでしたぁいっ!!」
「はいはい。君は十七年間たっぷりパティを享受しただろう。そろそろ妹離れしなさい」
駄々を捏ねる姉を、兄様が手慣れた様子で窘める。すると、彼らの足もとからも声が上がった。
「その竜は僕のだって言ってるだろう! 気安く触るなっ!!」
「「ーーお前は黙ってろ」」
後ろ手に縛られて絨毯の上に転がされたミゲル殿下の主張は、瞬時に一刀両断された。
息の合った姉と兄様に、閣下はほうと感心したように頷いている。
一方、めげないミゲル殿下は、キッと兄様を睨んで叫んだ。
「リアム兄上は狡いっ! 自分だけメテオリットの竜を手に入れて、味方にしてっ……昔からそうだ! 兄弟はみんなリアム兄上の味方で、僕には見向きもしてくれなかった!!」
「んん? おやおや……何か言い出したな?」
青い目をぱちくりさせた兄様が、姉から足裏マッサージするみたいにふみふみされているミゲル殿下の顔を覗き込む。
国王夫妻に甘やかされて我が侭放題のミゲル殿下に、兄様を含めた腹違いの兄姉達が呆れて距離を取ったのは事実だが……
「ミゲル……お前まさか、私がマチルダと一緒にいたから、パティにーーメテオリットの竜に執着したのか?」
「……ち、ちがうっ」
「もしかして……私が、羨ましかったとか?」
「……っ」
唇を噛み締めたミゲル殿下が、涙目でぐっと兄様を睨みつける。無言の肯定だった。
すると兄様は、いきなり弟の栗色の髪をわしゃわしゃと撫でてから、困った顔をして続ける。
「あのね、私もお前が羨ましい時があったよ。父の愛情を独り占めするお前が、子供心に妬ましかったさ。なにしろ私は生まれてこの方、父に抱いてもらうどころか、名を呼んでもらったことすらないのだからね」
「え……?」
前王妃は、兄様の出産直後に亡くなった。彼女を深く愛していた国王陛下は食べ物がろくに喉を通らないほど消沈し、それはミゲル殿下の母親と出会うまで続いたという。
国王陛下は言葉にすることはなかったが、心のどこかで前王妃が亡くなったのは兄様のせいだと思っていたのだろう。
「私は、親から与えられなかった分の愛情をメテオリット家の人々からいただいて、今こうして生きている。一生添い遂げたいと思う人と出会えたし、可愛い妹もできた。でもーーお前のことも、弟として大事に思っているよ」
「う、嘘だ!」
とっさに兄様の言葉を否定したミゲル殿下を、姉がまたガスッと踏みつけて呆れた顔をした。
「ちょっとは考えてから物を言いなさいよ。どうでもいいヤツのために、片目を差し出す馬鹿がどこにいるっていうの」
「で、でも……」
「私は今でもお前を殺してやりたいほど憎んでいるよ。私の可愛いパティを傷付けたこと、絶対に許さない。けれど、リアムに免じてあの時は牙を収めた。竜に身体の一部を捧げるということは、人生を捧げるということだ。そうまでして守られたのに、お前ときたらっ……」
「うっ、ぐえっ……だって、そんな……」
姉はゴミを見るような目で見下ろしながら、ミゲル殿下をグリグリと踵で踏みつけた。
当のミゲル殿下はというと、呆然と兄様を見上げている。
自分が知らずに兄弟に守られていた事実を突き付けられ、振り上げた拳をどうしていいのか分からなくなってしまったのだろう。
そんな中、コンコンと扉がノックされる。
部屋の主である閣下が投げ掛けた誰何に、応えたのは旦那様の声だった。
扉を開いた旦那様が、姉の足置きにされているミゲル殿下を見て目を丸くする。
しかし、すぐに気を取り直してコホンと一つ咳払いをしてから、客人を連れてきた、と告げた。
「おや! おやおやおや! 役者が揃っているねぇ!!」
はたして、場違いなほど声を弾ませながら部屋の中に入ってきたのは、私を最初にシャルベリ辺境伯領に連れてきた叔父だった。
あの時、一月後に迎えにくると言い置いて出掛けていったが、予定より早く戻ってきたようだ。
「あら、叔父さん、ここで会ったが百年目。私がお願いしていたパティの縁談について、随分勝手な真似をしてくれたそうじゃない? ーー後でちょっと、倉庫裏まで顔を貸してもらえるかしら?」
こめかみに青筋を浮かべた姉の言葉に、おお、こわい! と叔父は全然怖くなさそうに笑う。
相変わらず悪怯れる様子のない叔父に、閣下は飽きもせずに私の頭をなでなでしながら苦笑いを浮かべていた。
しかしここで、叔父に続いてとある人物が入ってきたことで、部屋の空気は一変する。
とたん、閣下は両目を見開いて、私を抱いたままさっとソファから立ち上がった。
ごくり、と閣下が唾を呑み込む音を、私は至近距離で聞くことになる。
「陛下ーー国王陛下」
唐突に現れたのは、アレニウス王国の現国王――兄様とミゲル殿下の父親だった。




