28話 竜の神様
「……っ、黙れっ!!」
キン、と切り結んでいた刀身を弾き、ミゲル殿下が後ろへ飛び退いた。
煌びやかなサーベルはただの飾りではなかったのか、腕にはそれなりに覚えがあるらしい。
七年間の謹慎生活中に、彼に剣術の稽古を付けた者がいたのだろう。
柄を握り直して、腰を低く落としている。
雨はいつの間にか小降りになっていた。
湿って重くなった栗色の前髪の隙間から、ギラギラと光る緑色の瞳が、閣下とその腕に抱かれた私を睨み据える。
「貴様……その落ちこぼれをどうする気だ?」
唸るような声でそう問うミゲル殿下に対し、閣下は冷ややかな眼差しを返した。
「質問にお答えする前に、パティを落ちこぼれなどと称すのを即刻やめていただきたい。その言葉は、彼女を表すのにまったくもって不適切です」
「落ちこぼれを落ちこぼれと呼んで何が悪い。歴代のメテオリットの竜のような強さも美しさもないちびが……」
「なるほど、殿下はとんだ節穴をお持ちで。彼女の良さが理解できないとは、なんともお気の毒なことです」
「なっ……ふざけたことをっーー!」
ミゲル殿下は怒りで顔を真っ赤にして、再びサーベルを振り上げた。
冷静さを欠いた状態で繰り出される剣戟は、打撃一辺倒だ。
ただただ力任せに振り回すばかりで、技術も何もあったもんじゃない。
一方、落ち着き払っている閣下は、私を抱えたまま最小限の労力で悠々と相手をいなしていた。
「……っ、くそっ!!」
当然ながら、疲労の度合いは圧倒的にミゲル殿下に傾いていった。
肩で息をしているようでは、渾身の一撃だって閣下の片手で簡単に受け止められてしまう。
しかも、切り結んだのは一瞬で、閣下はそのまま刀身を滑らせ、相手の鍔を強く叩いた。
その衝撃に堪えかねたミゲル殿下が、とっさにサーベルを手放す。
ガシャンと音を立てて石畳に叩き付けられたそれを、閣下はすかさず遠くへ蹴った。
濡れた地面に膝を付いたミゲル殿下が、口汚く悪態を吐く。
閣下はそれを淡々と見下ろしつつも、年長者らしく落ち着いた口調で言った。
「さて、先ほどパティをどうする気だとおっしゃっいましたね。質問にお答えしましょう。僭越ながら、私は早々に彼女との縁談を進めたいと思っております。姉上のお許しさえいただければ、今すぐにでも」
「え、縁談、だと……!?」
閣下の言葉にミゲル殿下は目に見えて動揺した。しかし、すぐに取り繕うみたいに顔面に嘲笑を貼付けると、ふんと鼻を鳴らす。
「そんな、何の役にも立たない出来損ないを娶ろうっていうのか? はっ、随分と酔狂なことだ。田舎貴族の考えることは、まったくもって理解できないね」
「殿下に理解していただけなくとも構いませんよ。価値観は人それぞれですからね。邪魔さえしないでいただければ結構です」
「邪魔も何も、そいつは最初から僕のものだって言っているだろう! 僕の許しもなく縁談を進めようなんて、無礼にも程があるっ!!」
「無礼ついでに申し上げれば、パティをご自身の所有物かのように主張するのは、あなたの単なる独り善がりです。幼い子供ではないのですから、いつまでも駄々を捏ねるのはおよしなさい。みっともなくて見るに堪えないです」
ミゲル殿下に武器を手放させた閣下は、自らもひとまずサーベルを鞘に納めた。
しかし、言葉はむしろ斬れ味を増すばかり。
子竜の私にデレデレになっていた人と同一人物だなんて嘘みたいに、この時の閣下はそれこそサーベルの切っ先のように鋭く、また施政者らしい矜持に満ち溢れていた。
その迫力に呑まれ、さしものミゲル殿下もたじろぐ。
この間に、少佐が呼びに行った増援や王国軍が到着してくれればいいのに、と私が思った時だった。
「ーーキャン!!」
突如甲高い悲鳴を上げて、ロイがホロウから離れた。
ぱっと周囲に血飛沫が飛ぶ。
ホロウの前足の鉤爪が、ロイの横っ腹を掠めたらしい。
犬らしからぬ鋭い爪は、私の翼を食らったことで得た竜の爪だ。
ホロウは図体が大きいばかりでさほど強くはないが、再生能力に優れているせいで回復が早く、やたらとタフなのが厄介だった。
ロイがとっさに距離を取ったために深い傷には至らなかったが、体勢を崩したところに、ホロウが猛然と襲いかかる。
それを目の当たりにした私は、気が付けば閣下のマントの中から飛び出していた。
「……っ、パティ!」
はっとした閣下が私の名を叫ぶ。
一瞬の隙を狙って、ミゲル殿下が懐に隠し持っていたらしいダガーを振り上げた。
閣下は間一髪のところでそれを躱し、再びサーベルを鞘から抜いて応戦する。
私が無我夢中で横っ腹に体当たりをしたホロウは、ばしゃーんと水飛沫を上げて水たまりの上にひっくり返った。
すかさず、ロイとともにホロウから距離を取り、実はちゃんと持って来ていた得物――長兄のハンマーの柄を握り直す。
するとここで、私の背中に震える声が掛かった。
「パトリシア? お前……その翼……」
閣下のマントに隠れて今まで見えていなかったのだろう。
私の背に、七年前に自分が奪ったはずの翼が戻っていることに気付いたミゲル殿下は、いきなり烈火の如く怒り出した。
「ふざけるな! そんなもの、いらないって言っただろうが!! どうして、僕の言うことをきかないんだっ!!」
彼はそうやって喚き散らしながら、手に持っていたダガーを私に向かって投げようとした。
それに気付いた閣下は、私に気を取られていたミゲル殿下と一気に距離を詰め、右手を捻り上げてダガーを奪う。
さらに、足を払って地面にうつ伏せに倒すと、膝で背中を押さえつつ後ろ手に彼を拘束してしまった。
閣下の鮮やかな手際に、ミゲル殿下は成す術もない。
ところが彼は、自分を押さえつける相手には見向きもせず、ひたすら憎悪に塗れた両目で私を睨んで叫んだ。
「ホロウーーそいつを捕まえろっ!!」
飼い主の言葉に突き動かされるように、凄まじい咆哮を上げたホロウの真っ黒い身体が大きく膨れ上がる。
それに驚いて後退ろうとした私は、水たまりに足を取られてひっくり返ってしまった。
慌てて起き上がろうと身を捩ったとたん、ガッと背中を押さえつけられて息が詰まる。
翼の付根の間に、鋭い鉤爪の先がぐぐっと食い込んだ。
「……っ!!」
私は言葉もなく喘いだ。
七年前とそっくりの状況に、あの時感じた恐怖と痛みが甦ってきたからだ。
全身がブルブルと震え出した。胸が張り裂けそうに苦しくなって、涙で視界が滲む。
私を押さえつける大きな足に、ロイが噛み付いて引き剥がそうとするが、ホロウはもはや痛みも感じていないのかびくともしない。
そこに、ミゲル殿下の高笑いが聞こえてきた。
「あははっ、落ちこぼれのくせに、僕に逆らうのが悪いんだ! やれ、ホロウ! もう一度、翼を引きちぎってやれっ!!」
ぐわっとホロウが牙を剥いたのが、背中越しにも分かった。
凄まじい恐怖が私の全身に伸し掛かり、身体の動きを封じてしまう。
「翼なんか二度と生えないよう、背骨まで食らってしまえっ!!」
ミゲル殿下の声は狂気に満ちていた。
七年前と、結局彼は少しも変わっていなかったのだ。
狂気と恐怖と痛みで私を支配して、自分の手もとに置いておこうとする。
あの時の私は必死に姉を呼び続け、一番に助けにきてくれたのもやっぱり彼女だった。
けれど今、脳裏に浮かんだのは姉の金色の瞳ではなく、彼女と同じくらいーーいや、時にはそれ以上に蕩けて私を見つめた空色の瞳。
(ーー閣下! 閣下、助けてっ!!)
私は心の中でそう叫び、閣下を求めて顔を上げようとしたーーその時だった。
「ーーギャッ!!」
ゴキッと骨が砕けるような音が響いたかと思ったら、私を押さえつけていたものが唐突に無くなる。
反射的に上を仰ぎ見れば、ちょうど閣下の長い脚が、おそらく二発目であろう蹴りを繰り出すところだった。
ドンッと鈍い音を立てて、ホロウの身体が吹っ飛ぶ。
身体が二つ折りになるくらい強烈な蹴りを腹に食らった黒い塊は、巨大なボールみたいに二度三度と跳ねてから、湿った地面を転がっていく。
それを呆然と見ていた私を、温かな手が掬い上げてくれた。
「こーら、パティ。私のマントの中で大人しくしていないとだめだろう? 危ないことをしては、めっ、だぞ?」
「……ぴい」
今まさに、息もつかせぬ攻撃で化け物を蹴散らしたとは思えない、いっそ場違いな甘い口調で説教をした閣下は、再び私をマントの中に仕舞ってしまう。
もぞもぞと動いて顔だけ出せば、後ろ手に縛られたミゲル殿下は地面に座り込んでいて、ごろごろといまだ転がっているホロウをロイが吠えながら追い掛けていた。
さらには、遠くの方から馬の蹄の音が聞こえてくる。
少佐が呼びに行ったシャルベリ辺境伯軍の増援か王国軍が到着するようだ。
ようやく事態が収拾する気配を感じ、私は閣下の襟元に頭を預けてほっと息を吐く。
「怪我はないか? 後で、全身確認させてもらうからね?」
「ぴ……」
ただでさえ気が抜けたところに、閣下が優しく頭を撫でてくれるものだから、私は眠気に負けてうとうとしかける。
しかし、事態はまだ終わりではなかった。
「――ホロウ! 僕を置いてどこへ行くんだっ!!」
ミゲル殿下の悲痛な叫び声が響いたかと思ったら、たちまち閣下の身体に緊張が走る。
何ごとかと顔を上げれば、つい先ほどまでボールみたいに転がっていたホロウが、いつの間にか立ち上がって四本足で走り出していたのだ。
ホロウは水路の脇を水の流れに逆らって脇目も振らずに駆けて行き、ロイがそれを猛然と追い掛ける。
彼らの行く先には大通りがあった。
ホロウに町の中に逃げ込まれては厄介だし、それによってシャルベリ辺境伯領の領民に危害を加えられては大変だ。しかも相手は不死身ときた。
まずいな、と呟いた閣下が、私を抱いたまま軍馬に飛び乗り駆け出す。
わんわん、わんわんと、ロイの鳴き声が静まり返った町中に響いていた。
雨はいつの間にかすっかり上がっていて、雲の隙間からは所々光の筋が漏れている。
閣下ー! と、遠くの方から少佐の声が聞こえてきた。
竜の視力によって、少佐に続いて駆けてくる馬の乗り手を知った私はほっとする。アレニウス王国軍参謀長――兄様が来てくれたようだ。
ところが、彼らがこちらに辿り着くよりも先に、ホロウが大通りへと躍り出てしまった。
右へ行くのか左へ行くのか。一瞬だけ迷うような素振りを見せたものの、結局雨によって増水した貯水湖へと飛び込むことを選んだようだ。
誰でもいいから、捕まえて――!!
私がそう、他力本願なことを心の中で叫んだ時だった。
貯水湖の上空の雲に、突如としてぽっかりと穴が空いた。
それはみるみるうちに大きく広がっていき、やがてそこから、今の今まで雲に遮られていた分をぎゅっと濃縮したみたいな強い光が溢れ出す。
あまりの眩さに圧倒される私達の視界に、この時、一本の太い光の柱みたいなものが雲に開いた穴から伸びてくるのが見えた。
さらにそれは、湖面に到達する直前でくにゃりと曲がり、貯水湖の上で大きく蜷局を巻く。その表面は虹色の鱗に覆われてキラキラと輝いていた。
のそりと持ち上がってこちらを向いたのは、頭らしき部分。
閣下のそれとよく似た色の瞳と、私は一瞬目が合ったような気もした。
「ーー竜、神……?」
閣下が呆然とそう呟いたことで、今度ばかりは私以外の目にも同じ光景が見えていると分かった。
突然、雲の中から姿を現したのは、竜神だった。
しかも、私が今まで何度か遭遇していた石像の化身みたいな小竜神ではない。
正真正銘、シャルベリ辺境伯領の影の支配者たる巨大な竜の神様だ。
人間と血を交わらせることで細々と種を繋いできたメテオリットの竜と対照的に、人間の血肉を食らって神へと伸し上がった、私にとってはずっと恐ろしくてならなかった相手。
だが、いざ相見えてみれば、その眼差しは拍子抜けするほど穏やかだった。
呆気にとられて立ち尽くす私達に、竜神はふいにふっと目を細め、笑ったように見えた。
しかしそれも一瞬で、次の瞬間には貯水湖に飛び込もうとしていたホロウに突進し、大きな口を開けてパクリと食らい付く。
たった、一口。
それで、決着がついてしまった。
ホロウは悲鳴を上げる間もなく、竜神の腹の中へ。
不死身の化け物の、あまりにも呆気ない最後だった。
その後、竜神は貯水湖の上を悠々と一周したかと思ったら、現れた時と同様に光の柱のようになって、あっさりと雲の中へ戻っていってしまった。
「「……」」
私と閣下は無言のまま顔を見合わせる。
いつの間にか側に戻ってきていたロイは、閣下が跨がった軍馬の足下に行儀よくお座りしていた。




