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27話 成れの果て


 空は一面黒い雲に覆われ、朝日の居所はとんと分からない。

 止め処なく降り注ぐ雨は、貯水湖の湖面をしきりに叩いて波立たせていた。

 周囲を取り囲む山脈によって雨雲が遮られ、昔から水不足に悩まされてきたシャルベリ辺境伯領では、貯水湖が警戒水位に達するほど増水するのは珍しいことだ。

 しかし、過去には痛ましい水の事故も起きている。

 今から五年前、アレニウス王国全土を覆うような巨大なハリケーンが襲来し、各地に未曾有の大水害をもたらした際、シャルベリ辺境伯領でも貯水湖の氾濫を阻止しようとした一般市民二人が犠牲になった。

 当時すでにシャルベリ辺境伯軍司令官として立っていた閣下は責任を感じ、犠牲者の遺族を陰ながら支えつつも、今もまだ罪悪感から解放されていない。


『軍の失態によって一般市民の尊い命が失われたことは、決して忘れてはならない。二度と同じ過ちを繰り返さないために、私は一生この罪を背負っていくつもりだ』


 そう告げた閣下の固い声が、今も私の耳の奥に残っている。

 少佐から貯水湖の増水の報告を受けた際、自ら南のトンネルに向かうと言ったのも、そんな思いがあったせいだろう。

 

「こら、パティ。濡れるぞ。頭を引っ込めなさい」

「ぴっ」


 首を伸ばして雨に濡れる街並を眺めていた私は、頭上から降ってきた苦笑を含んだ声に顔を仰向ける。

 案の定、困ったような笑みを浮かべた閣下が、私の眉間にぷちゅっと唇を押し当ててきた。

 子竜のパティが人間のパトリシアと同一体であるという衝撃から、閣下は早々に立ち直ったどころか開き直ったらしく、愛情表現するにも躊躇がなくなっている。

 突然の再会に興奮した犬のロイの突撃により、またもや子竜姿になってしまった私は、軍馬に跨がった閣下のマントの中にいた。

 閣下は留守番をさせたかったようだが、子竜姿なのをいいことに胸元にしがみついて駄々をこねまくった結果、彼は私を引き剥がすのを断念したのだ。

 北側トンネルの向こうでは、シャルベリ辺境伯軍が築いたバリケードの前で立ち往生していたドゥリトル子爵の私兵団に、ようやく追いついたアレニウス王国軍が背後から奇襲をかけた。

 ドゥリトル子爵を含む大半はすでに捕えられ、現在は散り散りに逃げた残党の掃討作戦が繰り広げられているという。

 新国王の即位式を間近に控えているため、事を大きくしたくない王家は迅速かつ内密に事件が解決されることを望んでいる。

 王太子殿下の立場を斟酌した閣下は、急遽即位式に関係する王国軍との合同訓練を執り行うと称し、夜半から今日の正午まで南北のトンネルの封鎖と全領民の外出禁止を通達していた。

 そんな中、私達は南のトンネルに向かうために、シャルベリ辺境伯邸の裏門を出て大通りを右回りに走り出す。少佐も軍馬に跨がり、彼の愛犬ロイも随行する。

 昨夜より降り続く雨のため、多くの家では雨戸を閉めてしまっていた。

 蹄鉄が石畳を叩く音が、無人の町に雨に混じって響く。

 軍馬の動きに合わせて、閣下と少佐の腰に下がったサーベルがカシャカシャと硬質な音を立てた。

 本日休業の札を掲げたメイデン焼き菓子店とリンドマン洗濯店の前を通り過ぎ、貯水湖から南の山脈の向こうへと流れる水路に辿り着く。

 すっかり増水して濁った水路の中には、以前北側で見たようなマス達の姿を確認することはできなかった。

 水の流れに沿って進んでいくと、やがてぽっかりと空いたトンネルの口が見えてくる。


「……っ、ぴっ!?」


 とたんに、私の全身に悪寒が走った。

 軍馬は嘶いて脚を止め、閣下と少佐を乗せた二頭とも前に進まなくなってしまう。

 ロイも歯を剥き出し、トンネルの方を見据えてウーウーと低く唸り始めた。


「どうやら、中に何かいるみたいだな。モリス、南のトンネルに派遣した兵の数は?」

「北側に人員を多く割いているので、南側には中尉率いる一個小隊のうち、十名を配置しています」


 閣下は私の背中を宥めるように撫でながら少佐と言葉を交わすと、動かなくなった軍馬を降りて歩き始める。

 ぽっかりと口を開けたトンネルの奥は、脚を踏み入れるのを躊躇するほど真っ暗だった。

 封鎖しているとはいえ、灯りが点っていないのは不自然だ。

 入り口で立ち止まった閣下のマントの中で、私は全身がぞくぞくするような寒気に震える。

 やがて、カツン、カツン……と、何か固い物が地面を叩くような音が聞こえてきた。

 人間の靴音かと思ったが、それにしてはやけに重くて鋭い。

 音は、トンネルの入り口に立つ私達の方へ徐々に近づいてくる。

 私は閣下のマントをぎゅっと握り締め、固唾を呑んでそれが姿を現すのを待った。


「なんだ、あれは……」

「え、熊……? 牛……?」


 それが雨空の下に這い出てきた瞬間、私はひゅっと息を呑む。

 閣下と少佐は、腰に提げていたサーベルを抜いた。

 ロイは私達の前に回り、体勢を低くしてさらにウーウーと唸る。

 同じような唸り声がトンネルの方からも上がったがーーその姿は、犬とは似ても似つかなかった。

 閣下がサーベルの切っ先を向けたまま、苦々しい顔をして呟く。


「地下牢から連れ出されたという化け物――パティの翼を食いちぎった憎き犬の成れの果て、か」


 それは、熊や牛よりもまだ大きく、全身毛むくじゃらの黒い塊だった。

 四本の脚の先には竜のもののような鋭い鉤爪が付いていて、カツンカツンと聞こえていたのはそれが地面を打つ音だったらしい。

 大きく裂けた口からは鋭い牙が覗き、爛々と輝く目は真っ直ぐに私を捉えていた。

 さらにはもう一対、子竜の私に絡み付く視線がある。

 それは、化け物の背に平然と跨がっている人物から放たれていた。


「……へえ、驚いた。本当にいたよ。ホロウが、こっちに竜が居るって言うから半信半疑で来てみたけれど、まさかお前だったなんてね。久しぶりだねーー落ちこぼれ子竜」


 嘲み笑って私を「落ちこぼれ子竜」と呼ぶ声は、夢の中で何度も聞いた子供のものとは声変わりを経て随分と違っていたが、その風貌は取り戻した記憶の中の人物の面影を色濃く残していた。

 私と同じ、十七歳。現王妃譲りの栗色の髪と緑色の瞳をし、十歳の頃よりは少し腹違いの兄様と似てきたように思う。

 濃紺色の軍服は案外様になっているが、腰に提げたサーベルは典礼用みたいにやたらと装飾が目立った。

 

「……パティ、彼がミゲル殿下だね?」


 こそりと小声で問いかけてきた閣下に、私は震えながらこくこくと何度も頷いた。

 北側のトンネルからシャルベリ辺境伯領に侵攻しようとしていた連中は王国軍に捕えられたが、その大捕り物から運良く逃れたのか、それとも最初から別行動する計画だったのか、とにかく化け物に跨がったミゲル殿下は警備が手薄だった南側のトンネルを突破してきたようだ。

 配置されていた十名の兵の安否も気になる所だが、ただならぬ存在をシャルベリ辺境伯領内に踏み込ませないためには、この場を死守する以外の選択肢はない。

 すぐに冷静さを取り戻した閣下は、隣で呆然と立ち尽くしていた少佐を叱咤した。


「モリス、ぼうっとしていないで増援を連れてこいっ! それから、王国軍の士官に状況を報告!!」

「で、でも、閣下お一人ではっ……」

「さっさと行って、三分で戻って来い!」

「えええー、無茶をおっしゃる!! ああ、もうっ! ロイを置いて行くので使ってください!!」

 

 少佐が乗った軍馬の駆ける音が遠のいていく。

 それを背中で聞きながら、閣下は震える私をマントの下に隠した。

 そして、サーベルの切っ先を相手に向けたまま口を開く。


「ミゲル・アレニウス第四王子殿下とお見受けします。私は、シャルベリ辺境伯軍司令官を務めます、シャルロ・シャルベリ。王国軍の命により、御身を拘束させていただきます」

「いやだね、お断りだ。こちとら七年も不自由を強いられていたんだよ。せっかく解放されたのに、また窮屈な毎日に戻るなんてのはご免だね」

「ならば何故、この度のような暴挙に出たのです。恩赦を与えてくださった王太子殿下に感謝して、慎ましく身の丈に合った人生を送るべきではなかったのですか」

「ふん、田舎貴族風情が分かったような口をきくな」


 化け物の上で踏ん反り返ったミゲル殿下は態度だけは一人前だが、人格形成に失敗しているのは私の目から見ても明らかだった。

 彼はじろりと閣下を睨め付けると、さも当然のように言い放つ。


「これより、僕がこの地を統治する。シャルベリ家はさっさと荷物を纏めて邸宅を明け渡せ」

「お言葉ですが、そのような勅命は受けておりません。我がアレニウス王国は歴史ある法治国家でございます。いかに王子殿下であろうとも、正当な理由もなく領有権を取り上げることなどできますまい」

「正当な理由ならあるさ。僕がこの地を治めることで、ここは正真正銘、王家の直轄地になるんだ。辺境伯領なんて、自ら田舎ですって名乗るような不名誉な名前も返上できる。きっと、民は喜ぶだろう」

「いや、領主が代わってもここが辺境であることに変わりないんですが……」


 ミゲル殿下の幼稚な屁理屈に、閣下は呆れた顔をしてため息を吐く。

 結局ミゲル殿下は、王都から離れた田舎の別荘で、退位する両親とともに隠居生活を送ることに納得していなかったのだ。

 そんな不満に付け入る形で、政権交代が迫って後が無くなったドゥリトル子爵に担ぎ上げられてしまったのだろう。

 七年にも渡る謹慎生活が、ミゲル殿下を少しも人間的に成長させてくれなかったことは、火を見るよりも明らかだった。

 彼は尊大な態度のまま、化け物の上で苛立たしげに言い放つ。

 

「とりあえず、その落ちこぼれ子竜を返してもらおうか。それは、生まれた時から僕のものなんだ」

「ほう、ご自分のものとおっしゃるわりには、ちっとも大事にされなかったように聞き及んでおりますが?」

「僕が僕のものをどうしようと勝手だろう。そいつはね、見ての通り、竜を名乗るのもおこがましいほどひ弱なちびで、何の役にも立たない出来損ないだ。それを、かわいそうだから王子の僕が飼ってあげようって言っているんだ。大人しく言うことを聞いていればいいんだよ」

「なるほど……かわいそう、ね」


 ミゲル殿下の口からは、実に滑らかに私に対する罵詈雑言が繰り出される。

 それはかつて、幼い私が彼と会う度に浴びせられていた定型文にも等しかった。

 明らかに自分よりも子供っぽい相手の言葉に今更傷付くことはないが、とはいえ聞いていて気持ちがいいはずもない。

 閣下は、身を強張らせる私の背中を優しく撫でながら、ミゲル殿下を見据えてぴしゃりと言い放った。


「かわいそうなのは、殿下ーーあなたの方だ」

「……なんだと?」

「愛しいものを愛しいと、ただ慈しむ方法もご存知ないのですねーーまったくもって、哀れなことだ」

「……っ、貴様っ!!」


 閣下のあからさまな挑発に、ミゲル殿下はたちまち逆上した。

 腰に提げていたサーベルを、ごてごてと装飾された鞘から抜き放ち、閣下の方に斬り掛かってくる。

 簡単に、化け物――ホロウから降りてしまったことが、彼が冷静さを欠いた証拠だった。

 この隙に、ずっと身を低くして唸っていたロイが、一気にホロウへ飛びかかって鼻面に噛み付く。

 急所を思いっきり噛まれたホロウは、キャン! とその風体に似合わぬ子犬のような悲鳴を上げた。

 ホロウは確かに化け物に成り果ててはいるが、元々はただのペットの犬で特別訓練されていたわけではない。

 一方、普段は温厚ながらも、ロイの方は正真正銘軍用犬だ。

 賢くて勇敢な彼は、素早くホロウの背後に回り、間髪入れずに後脚に噛み付く。

 バランスを失った真っ黒い巨体が雨に濡れた地面に倒れ、ばしゃん、と大きな水飛沫が上がった。

 

「なっ……ホロウ! くそっ……!!」


 明らかに体格差のあるロイに、ホロウが倒されるなんて想定外だったのだろう。

 地面に転がった大きな相棒の失態に、ミゲル殿下が焦り出す。

 彼のサーベルを片手で受け止めていた閣下は、静かな声で諭すように言った。

 

「恐れながら、殿下。私があなた様に差し上げるものは、何一つございません。シャルベリ辺境伯領もーーもちろん、パティも」



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― 新着の感想 ―
[一言] てっきり苦戦するかと思ってた ロイすげえ! よし、閣下。もっと言ってやれ!
[一言] 贔屓していた第四王子が二度目の暴走。 しかも国策レベルで手を出しちゃいけない相手に。 引き換えてはいえゴリ押しで恩赦を与えさせた国王陛下も 隠居だけじゃすまないんじゃなかろうか。 圧されて…
[気になる点] 〉ホロウが、こっちに竜が居るって言うから半信半疑で来てみたけれど、 ホロウってしゃべれるん?
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