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26話 閣下の後悔


「ねえ、シャルロ様。扉を開けてもかまいません?」


 媚びるような声で、クロエを名乗る女は閣下の名を呼んだ。

 扉に鍵はかかっていないが、さすがに許しも得ずに入ってくるほど無作法ではないらしい。

 閣下はやれやれと言わんばかりにため息を吐きつつ立ち上がり、扉の方へ向かおうとする。

 私がとっさに袖を掴むと、彼は弾かれたように振り返り、それから相好を崩して私の耳元に唇を寄せた。


「大丈夫。すぐに戻ってくるからね。いい子で待っておいで」


 閣下は優しい声でそう囁いてから、コンコンと催促するみたいにノックの音を響かせる扉へ向かう。

 取手に手を掛けた彼が、そのまま扉を開いてクロエを名乗る女に応対するのだと思った私は、そこではたと気がついた。

 閣下には言いそびれてしまったが、姉と兄様の言葉が確かなら、本物のクロエは今、王都の拘置所にいるはずなのだ。

 そんなクロエを――閣下の縁談相手と偽って現れた女の目的は何なのか。そもそも彼女は一体何者なのか。

 マルベリー侯爵が体裁を保つために用意した替玉だとしても、本物のクロエが使用人と駆け落ちした事実を仲人に知られている時点で無意味だろう。


(――まさか、ミゲル殿下やドゥリトル子爵が送り込んだ、刺客!?)


 だとしたら、彼らが動き始めた今、クロエを名乗る女も閣下を害す可能性があるのでは。

 そう思い至った私は真っ青になって、閣下の背中に向かって、待って! と叫ぼうとした。

 ところがである。


 ――ガチャッ


 その場に響いたのは、扉を開いた音ではなく、その逆――扉に鍵をかける音だった。


「「えっ……?」」


 図らずも、私と偽クロエの声が重なる。

 シャルロ様? と困惑した声を上げる扉の向こうの相手に対し、閣下は扉越しに何でもない風に口を開いた。


「おはようございます、クロエ嬢。こんな朝早くにどうかなさいましたか?」

「あ、あの……私、朝食のお誘いに上がったんです。昨日はあまり食が進まないご様子でしたから、シャルロ様が心配で……」

「そうですか。ご心配をおかけして申し訳ありません。しかし生憎、今朝は仕事が立て込んでおりましてね。私は朝食をご一緒できませんが、どうぞおかまいなく」

「そんな……昨日も、朝食後はずっと執務室にこもっていらっしゃってお会いできなかったわ! せめて、この扉を開いて元気なお顔だけでも見せてくださいませんか?」


 この後、閣下は懇切丁寧な口調ではあったが、偽クロエの要求をことごとく断っていった。

 偽クロエの方も負けじと食い下がり続けていたが、やがてどうあっても閣下に扉を開く気がないと気付いたのだろう。


「――中に、女がいるんです?」


 さっきまでの猫撫で声が一変、地を這うような声でそう呟く。

 次いで、ドン、と強く扉が叩かれた。


「寝室に女を連れ込んでいるんだわ! 絶対そうでしょう!? 私というものがありながら、ひどいわっ!!」


 偽クロエは金切り声を上げ、鍵が閉まった扉の取手を無理矢理動かそうとガチャガチャする。


「やっと、パトリシアさんがいなくなったと思ったのに!! やっと、シャルロ様と二人きりになれると思ったのにっ!!」


 この頃には、扉の向こうがザワザワし始めていた。騒ぎを聞きつけて、シャルベリ家の使用人達が様子を見に集まってきたのだろう。

 けれども、偽クロエは憚ることなくなおも扉の向こうで喚き立てた。


「ひどい、ひどいわっ!!  私を馬鹿にしているのっ!? せっかく、王都を捨ててこんな所にまで来てやったって言うのにっ……!!」

「――ほう、〝こんな所〟か」


 ここで、しばらく無言だった閣下が唐突に口を開いた。

 その温度のない声に、ひゅっと扉の向こうで偽クロエが息を呑む気配がする。


「申し訳ありませんね、シャルベリが〝こんな〟辺鄙な所で。〝来てやった〟とおっしゃるが、そもそも私が頼んだわけではないのですが?」

「え、いえ、そんな……今のは言葉のあやでして……」

「いいえ、本音でしょう。今更取り繕う必要もありませんよ。まあ、ここが辺境なのは事実ですからね」

「シャ、シャルロ様……私、そんなつもりじゃ……」


 己の失言に気付いたのだろう。さっきまでの威勢はどこへやら、偽クロエはしどろもどろになった。

 対して閣下は容赦なく畳み掛ける。


「〝こんな所〟に留まっているのは、あなたもさぞ不本意だったことでしょう。よかれと思って仲人が来るまでうちに滞在していただきましたが……いやはや、申し訳ありません。余計なことをしてしまいましたね」

「そ、そんなことは……」

「ご安心ください。マルベリー侯爵には私から手紙を送っておきます。〝お嬢様のご要望により、この度の縁談は白紙に戻りました〟とね。お父上も、二度とあなたを〝こんな所〟に嫁入りさせようなどとお考えにならないでしょう」

「や、やめてっ! 手紙なんか送らないでっ……!!」


 バンッと音を立てて扉が揺れた。偽クロエが縋り付いたようだ。

 ここを開けて! ちゃんと説明させて! と彼女は扉をドンドン叩いて必死に訴えている。

 しかし、閣下はただ淡々とした口調で続けた。


「あなたにとってはつまらない〝こんな所〟でも、私にとっては大事な故郷です。生涯をかけて守り抜き、骨を埋める地。そして――愛しい人と未来を紡ぐ場所なのです」


 最後の一文で、閣下は偽クロエに向けた冷たい声とは裏腹に、私を振り返りにこりと笑う。

 一昨日、王都に戻る直前、私と過ごす未来を思い描くようになっていた、と閣下の腕の中で聞いたのを思い出し、ドキリと鼓動が跳ね上がった。

 そうこうしている内に、「シャルロ様、如何様に?」と、扉の向こうからシャルベリ家の家令の声が掛かる。軍人上がりらしい家令は、執事というよりも用心棒というのが似合う、すこぶる体格のいい人だ。

 閣下はそんな彼に、躊躇うこと無く命じた。


「クロエ嬢を客室へ。それから、メイド長を呼んで荷造りを手伝って差し上げるよう伝えてくれ。――トンネルの向こうの問題が片付き次第、クロエ嬢は王都へお帰りになる」

「ま、待って! いや! ちがう、ちがうのよぉ……!!」


 とたんに、偽クロエが一際大きな声を上げたが、それも家令や他の使用人達の手によって程なく遠ざかって行った。

 やがて、完全に彼女の声が聞こえなくなると、閣下はようやく鍵を外して扉を開いた。

 部屋の前に誰もいなくなったのを確認すると再び扉を閉め、私の方を振り返る。

 そして、大きく一つため息を吐いた。


「もっと早く、こうすべきだったな。パトリシアにいらぬ面倒をかけた」

「閣下……あの、大丈夫なんですか?」


 マルベリー侯爵家がシャルベリ辺境伯家より身分が上なため、仲人を引き受けた私の叔父が帰ってくるまで閣下は縁談相手であるクロエを排除することが難しかったのだ。

 それなのに、クロエ――偽物の可能性が高いが――を王都に追い返してしまって、シャルベリ辺境伯家の立場に問題はないのかと不安になる。そんな私に、閣下はニヤリと悪戯そうに笑って見せた。

 

「確かに、うちが一方的に侯爵家との縁談を反故にするのは難しいが、クロエ嬢本人が〝こんな所〟は嫌だと言うのだから仕方がないさ。うちとしたら、侯爵家のお嬢様のご希望に添うだけだから、文句を言われる筋合いはないだろう?」


 扉の前から戻ってきた閣下が、ベッドに腰を下ろして私の髪をさらりと撫でる。

 昨夜雨に打たれながら、自分のいないたった一日やそこらで閣下の心がクロエに移っていたら……なんて考えてしまったことが恥ずかしくなる。

 私はそれを誤魔化すみたいに、偽クロエが残していった話題を振った。

 

「昨日は、食が進まなかったというお話でしたけれど……?」

「パトリシアがいない食卓はどうにも虚しくてね。長居する気になれなかっただけだよ」

「ずっと執務室にこもっていらっしゃった、とも……」

「執務室を出たって、どうせパトリシアの姿も見られないんだ。仕事に没頭して寂しさを紛らわせていた。女々しいことを言うと呆れたかい?」


 最後の問いに、私はブンブンと首を横に振る。

 その拍子に乱れた髪を、閣下が手櫛で丁寧に整えてくれた。


「一昨日は、確かに納得して君を帰したはずだったけれど、あれから私は死ぬほど後悔したよ。無茶をしてでも、君を自分の側に繋ぎ止めておくべきだった」


 切なそうにそう呟いた閣下は、大人しくされるがままの私の頭をそっと自身の胸に抱き寄せた。

 すぐ側で聞く閣下の心音が、徐々に早くなっていく。


「そういえば、まだ言っていなかったね。――おかえり、パトリシア」

「閣下……」

「私が迎えに行くつもりだったのに、まさか子竜の姿で君の方から戻ってきてくれるだなんてね。道中の君の苦労を思えば申し訳ないし、昨夜の満身創痍な姿を思い出すと可哀想でならないんだが……」


 閣下はそこで言葉を切ると、私をぎゅうと抱き締める。

 耳を押し当てた彼の胸の奥は、忙しなく音を奏でていた。


「すまない――正直言うと、そうまでして私のもとに戻ってきてくれたことが、嬉しくて仕方がない! まったく……パティはいったい、どれだけ私を悶えさせたら気が済むんだろうね!?」


 ドキドキと、私の胸も高鳴る。

 今なら、このまま閣下の腕の中で子竜になってしまったって平気だと思えた――その時である。

 バーン! と、何の前触れもなく扉が全開になった。


「閣下ー! お取り込み中、失礼しますよっ!!」

「本当に失礼だな! ノックくらいしようか!?」


 偽クロエでも憚った閣下の私室の扉をノックも無しに全開にして、我が物顔で飛び込んできたのは、お馴染みのモリス少佐だった。今日も絶好調である。

 上司の苦言もどこ吹く風で、彼はさっさと用件を告げる。


「つい先ほど、北のトンネルの向こうに王国軍が到着し、大捕り物が始まっております。現在のところ、我が軍に負傷者はなし。屋内待機中の一般市民にも目立った混乱はありません」

「それは重畳。王国軍から制圧完了の通告があるまで、総員持ち場を死守すること。一般市民の外出禁止令も同様に継続する」

「御意。ところで閣下、昨夜からの雨のせいで貯水湖の水嵩が増えてきているようです。南のトンネルを一部解放しても構いませんか?」

「南のトンネルかーー待て、私が行こう」


 閣下と少佐が、珍しく主従らしい真剣な顔をして話し合う中、私はというと……


「ぴい! ぴいい……!!」


 さっきまで自分が着ていたはずの寝衣の中でもがいていた。

 やっとのことで顔を外に出せたかと思ったら、ぬっと黒い影が視界を覆う。


「ぴっ!!」

「わふっ」


 少佐と一緒に部屋の中に飛び込んできたかと思ったら、いの一番に自分に駆け寄ってきた犬のロイ。

 彼に驚いて、私はまたしても子竜になってしまったのだ。

 完全な好意によりベロベロと顔中を舐め回されながら、私は遠い目をした。




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― 新着の感想 ―
[一言] 肝心なことを伝えられないままに
[一言] 羽は生えてもノミの心臓は変わらずですなー(笑) パティ可愛いなぁー! 『ぴっ!ぴぃぃ…』
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