25話 パティとパトリシア
子竜の姿で、私は真っ黒い世界の中にいた。
背中には、ちゃんと翼もある。
少し離れた場所には、子供が一人、ぽつんと立っていた。
母親譲りの栗色の髪と緑色の瞳をした十歳の男の子――七年前、自身の飼い犬に私の翼を食いちぎらせた張本人、ミゲル殿下だ。
彼は口をパクパクさせて、懸命に何か言っているようだった。
『ひ弱なちびのくせに。お前みたいなのが竜を名乗るな』
『何の役にも立たない、出来損ない』
『お前みたいな落ちこぼれの子竜は、僕のもとでしか生きていけないだろう』
声は聞こえないが、きっとまたそうやって私を詰っているのだろう。
記憶を取り戻した今、幼い頃に幾度も彼から投げ付けられた心無い言葉を思い出すのは容易い。
けれども、恐ろしくもなんともなかった。
だって、相手はたった十歳の子供で、今の私はただの傍観者だ。
自分を罵る子供の表情を初めてまじまじと眺めた私の口からは、思いがけない言葉が零れ出た。
『――かわいそう』
だって、幼いミゲル殿下の顔には愉悦どころか嘲笑さえも浮かんでおらず、むしろ、寂しそうで心細そうで、今にも泣き出してしまいそうに見えたからだ。
そうこうしている内に、背景の闇がミゲル殿下の姿まで飲み込んで、私の視界はいつしか完全な黒一色に染まってしまった。
けれども、ふと遠くの方に一筋の光が射す。
光はゆっくりと領域を広げていき、闇をどんどん隅へと追いやっていく。さっき闇に飲まれた子供の姿は、もうどこにもなかった。
いつしか光は私のもとまで辿り着き、足先からゆっくり上へと這い上がってくる。
光に撫でられた部分より、私の身体は子竜から人間へと戻っていった。
やがて顔まで辿り着いた光が眩しくて、ぎゅっときつく瞼を瞑る。
そうして次に瞼を開いた時――
「え……あれ……?」
私はベッドに横たわって、見知らぬ天井を見上げていた。
ざあざあと雨の音がする。
私はのろのろと起き上がり、ぼんやりとする頭を振った。
いつの間にか子竜から人間の姿に戻っていた身体は、ゆったりとした寝衣を纏っている。
それを自分で着た覚えもなければ、今いる部屋がどこだかも分からなかった。
壁際の棚の上に置かれた時計は、六時を指そうとしている。
雨が降る窓の外は薄暗く、朝なのか、それとも夕方なのか判然としない。
夕闇迫る時刻にシャルベリ辺境伯領に到着し、閣下の執務室の窓を叩いて彼と目が合った所までは覚えているのだ。
並々ならぬ苦労の末の出来事なのだから、あれは全部夢だった、なんてことだけは勘弁願いたい。
そんなことを思いながら部屋の中をきょろきょろと見回していた私は、すぐにある物を発見する。
長兄愛用のハンマーと、金属製のロケットペンダント――私の苦難の道程が夢ではなかったという物的証拠が、ベッド脇の棚の上に並べて置かれていた。
私は後者を手に取って、中身を確認しようとする。
その時、ふいにガチャリという音がしたかと思ったら、ノックも無しにいきなり扉が開いた。
そのままつかつかと部屋の中に入ってきた人物に、私はぎょっとする。
相変わらずきっちりと軍服を身に着けたその人は、ベッドに起き上がっている私を見てほっとしたような顔をした。
「おはよう、パトリシア。気分はどうだい?」
「お、おはよう、ございます――閣下」
現れたのは、閣下だった。
ノックも無しに入ってきたのも、そもそも私が寝かされていた部屋が閣下の私室だったからだ。
おはようと挨拶をされたのだから、今は朝の六時なのだろう。
閣下はベッドに座りこんだまま呆然としている私の側までやってくると、椅子を引いてきて正面に腰掛けた。
そして、私の手の中にあるロケットペンダントを指差し、中身を確認したことを告げる。
「メモにあった通り、昨夜のうちに北のトンネルを封鎖したよ。念のため、南のトンネルにも見張りを置いている。――それで、第四王子ミゲル殿下とドゥリトル子爵の私兵団がシャルベリ辺境伯領への侵攻を目論んでいると?」
「あ、はい……王都の郊外で汽車を乗っ取ってこちらに向かっています。どうやら以前閣下に届いていた、シャルベリ辺境伯領の領有権を要求する書簡とも無関係ではないようです」
「なるほどね。つまり、あれに書かれていた〝アレニウス王家直系の後任者〟とは、ミゲル殿下のことだったわけか。しかし、私兵団を率いての侵攻ということは、殿下はアレニウス王国が認めた正式な後任者ではないということだね。そもそも彼は病弱で、王城から一歩も出られないと聞いていたが、何だって急に?」
「そ、それがですね……」
なにしろ時間がなかったもので、兄様のメモに記されていたのは、ミゲル殿下とドゥリトル子爵の私兵団がシャルベリ辺境伯領に迫っているという事実と、後発の王国軍が到着するまで彼らの侵攻を阻止するために北のトンネルを封鎖せよ、という指示のみ。
だから、事態の詳細を閣下に説明するのは私の役目だ。
ミゲル殿下が王城から出られなかったのは病弱なせいではなく、贖罪と更生のために謹慎生活を送っていたこと。
この度、新国王陛下の即位に先立ち恩赦を与えられたものの、釈放の条件を無視してシャルベリ辺境伯領に向かっていること。
そして、ミゲル殿下が化け物を――得体の知れない存在に成り果てた犬を同行させていること。
焦る気持ちを必死に宥めつつ、私は懸命に語った。
閣下はそれを黙って聞いていたが、やがて根源的な質問を口にする。
「ミゲル殿下は、いったいどのような罪を犯して七年間も謹慎することになったんだろうか。話を聞く限り、更生はできていないようだが……」
「それは……」
ミゲル殿下の罪を語るということは、すなわち、私自身が彼から受けた仕打ちを改めて言葉にするということだ。
あの時の恐怖や痛みがぶり返してくるような気がして、私の心は動揺した。
うっかり鼓動を乱して子竜化してしまっては大変だ。
ところが、閣下は私の答えを待たずに、畳み掛けるみたいに問うた。
「そもそもパトリシア――今、私の目の前にいる君と……ピンク色の可愛い子竜は、同一体ということで間違いないかな?」
私はひゅっと息を呑み、とっさに胸元を押さえる。ドキリ、と大きく跳ねた心臓の鼓動が掌まで伝わってきた。
おそるおそる顔を上げれば、閣下も私をじっと見下ろしていた、かと思ったら……
「はぁああああ……」
「か、閣下……?」
いきなり盛大なため息を吐き出して、私が腰掛けたベッドに突っ伏してしまう。
そんな体勢のまま閣下が話し始めたのは、これまでの経緯だった。
昨日の夕刻にシャルベリ辺境伯領に到着し、閣下の執務室の窓を叩いた私は、やはりあのまま気を失ってしまったらしい。
すぐに私が首から提げていたロケットペンダントの中身に気付いた閣下は、少佐に隊を率いさせて即行北側のトンネルを封鎖すると、旦那様とともに軍の幹部を緊急召集して対応を協議した。
突然のことに戸惑っていた老齢の幹部達も、アレニウス王国軍参謀長のサインが入ったメモを見て納得したという。
その間、子竜姿の私に付いていてくれたのは奥様だった。
ずぶ濡れで、あちこち傷だらけだった身体は、奥様に湯浴みをさせてもらったらしく綺麗になっている。
そんな子竜の私を、会議から戻った閣下は自分のベッドに寝かせてしまった。
子竜が朝には人間の姿に戻ってしまうと知っていた旦那様と奥様は、やむを得ず閣下にメテオリット家の秘密を話したのだろう。
閣下は最初、半信半疑だったらしいが……
「パティがパトリシアになる瞬間をこの目で見てしまっては、信じないわけにはいかないだろう!? いや、何となく雰囲気が似てるな、とか! どっちも可愛いな、とか! 前々から思ってはいたんだけどね!?」
「か、閣下……あのぅ……」
「まさか、パトリシアがパティで、パティがパトリシアだったなんて――!!」
「ええっと、その……閣下、黙っていて、ごめんなさい」
私がおずおずと謝れば、閣下はベッドに突っ伏したまま首を横に振った。
それはもう、ぜんまいを巻かれ過ぎた絡繰り人形みたいに、ぷるぷるぷるぷると。
おかげで彼の黒髪が寝衣から出た素足を掠めて、私もくすぐったいやら気恥ずかしいやらだ。
そうこうしている内に、閣下はついに頭を抱え始めた。
「パティに散々デレデレしておきながら、パトリシアの前では取り澄ましていたなんて……さぞ、滑稽だったことだろう。穴があったら入りたいよ」
「いえ、そんな……お気になさらず……」
「あああ……自分がパティに何をしたのか思い出したら居たたまれないんだが? 抱っこして? 頬擦りして? ーーあっ、待ってくれ! 爪を切り過ぎて出血させてしまったのを思い出したぞ!? パトリシア、手を見せなさいっ!!」
「だ、大丈夫です。ちょっと深爪しただけですから。もう治りましたし……」
いきなり顔を上げた閣下に左手を取られる。
竜は再生能力が優れているし、そもそも深爪してからもう何日も経っているので、あの時血が出た人差し指の爪は完全に復活していた。
それでも閣下は、傷が残っていないか念入りに検分していたが、私が照れくさくて首を竦めたのを見てカッと目を見開く。
「――そうだ、首輪。子猫用に手配したものを使い回そうとしたこと……もしかして、怒っているかい?」
「え? いえ、未使用品を使い回されそうになったことは、全然気にしていませんが……」
「モリスには最低男呼ばわりされたからね。次は正真正銘、パティのために選んだ新品を用意するから許しておくれ」
「あ、あのですね。できれば首輪を付けること自体、諦めてもらってもいいですか? きっと姉を怒らせてしまうと思いますので……」
もはやわずかにも取り繕うことなく、素の表情を曝け出す閣下に私はたじたじとする。
けれども同時に、自分も子竜姿では言葉にできなかったことが、今なら伝えられることに気付いて口を開いた。
「竜の時の姿を閣下に受け入れていただけて、私は嬉しかったんです。怖がられたり、気味悪がられたりするんじゃないかって、不安だったから……」
「――は? 怖い? 気味が悪い!? パティが? あんなに小さくて可愛い子が!? いやいやいや、全身全霊をかけて愛でる以外、私には考えられないんだが!?」
閣下はそう叫ぶと、ついに私をぎゅっと抱き締めた。
彼の大きくて温かな掌が、労るように背中を撫でてくれる。
生えたばかりで翼を酷使したせいだろうか。人間の姿に戻った今でも肩甲骨辺りにわだかまっていた倦怠感が、不思議と消えていくようだった。
落ちこぼれながらよくぞ最後まで頑張った、とやっと自分を褒めたい気持ちになる。
閣下の背中に両腕を回して縋り付き、私はほっと安堵のため息を吐き出した。
ざあざあと、昨日からの雨はまだ降り続いている。
私は閣下の腕の中で、先ほどの質問ーーミゲル殿下が七年前に犯した罪について、答えることになったのだが……
「ーーうん? ううん? 待ってくれ。パティの翼を、何だって? 犬に、食いちぎらせた!?」
「は、はい……」
「いやいや、そんなとんでもないことをしでかしておいて、殿下は謹慎処分だけで済んだのか!? 嘘だろう? 君の姉上がそれで納得するわけがない。もちろん、私も全然納得できないんだが!?」
「姉も納得していなかったそうですが、最終的には兄様ーーミゲル殿下のお兄様であるリアム殿下が、片目を差し出したことで手打ちにしたそうです」
私が受けた仕打ちを知った閣下は、今まで見たこともないような怖い顔をした。
竜神の眷属の気配が顕著なロイ様を前にしたような畏怖を、この時初めて閣下にも覚え、私の身体は勝手に震え出す。
すると、閣下は慌てて優しい顔に戻り、君に怒っているんじゃないよ、と言って頭を撫でてくれた。
ほっとした私が擦り寄れば、こめかみにぐっと唇を押し当てられる。
痛かったろう、辛かったろう、と我が事のように苦しげな声で労られ、鼻の奥がツンと痛んだ。
その時である。
コンコン
軽やかなノックの音が響いた。
それに続いて扉の向こうから聞こえた声に、私はびくりと肩を跳ね上げる。
「――おはようございます、シャルロ様。起きていらっしゃいますの?」
声は、クロエ・マルベリーを名乗ってシャルベリ辺境伯邸に滞在中の女のものだった。




