24話 落ちこぼれの意地
「まず、いの一番に北のトンネルを封鎖するように伝えるんだよ。あの辺りの山脈を越えるのは、訓練された軍人であっても至難の業だ。トンネルを押さえれば連中はそう簡単にシャルベリ辺境伯領には入れないだろう」
兄様は私にそう言い聞かせつつ、同じ内容を記したメモをロケットペンダントに入れて首に掛けてくれた。
子竜姿の私は人語を喋れないし、文字を書くのも拙いので正直ありがたい。
私はとにかく、ミゲル殿下一行が乗っ取った汽車がシャルベリ辺境伯領近くの駅に到着するよりも早く、このメモをシャルベリ辺境伯邸に届けなければならなかった。
「私達も王国軍に同行してすぐに追い掛けるからね。罪人どもの捕縛は王国軍に任せて、シャルベリ辺境伯領は守りに徹するよう伝えてちょうだい。パティも無理をしちゃだめよ?」
「まあ、万が一、我々が追いつく前に交戦することになったとしても大丈夫だ。シャルベリ辺境伯軍は強い。よほど不意をつかれない限り、子爵の私兵ごときに負けるはずがないよ」
姉と兄様の心強い言葉に私はこくりと頷きながら、七年振りに戻ってきた翼をバタバタとはためかせた。
不思議と不安はない。飛び方は身体が覚えているようだ。
窓を開ければ、外はやはり雨が降っていた。
新しい翼の初舞台は、できることなら晴れの日がよかったが、緊急事態なのでそうも言っていられない。
幸い、雨足はまださほど強くはなく、遠くの雲間からはうっすらと日の光も漏れている。
私は意を決して窓の桟に脚を掛ける。
そうして、いよいよ飛び立とうとする私を、慌てて呼び止めたのは長兄だった。
「パティ、兄ちゃんの相棒を連れていけ!」
彼はそう叫んで、自身の愛用のハンマーを私の手に握らせた。
先祖返りの姉妹に屋敷を壊されまくって、否応無く大工の道を選んだメテオリット家の男達。
長兄のハンマーは、そんな彼らが代々受け継いできた、汗と涙が染み付いた代物だ。
ただし、子竜の身にはハンマーの重さはなかなかに負担である。正直言って遠慮したいところだったが、末妹を思う長兄の必死の形相に、いらないとは言い出せなかった。
そんな私の背を、姉が勇気づけるみたいに優しく叩く。
「ひとまず、雲の間際まで高く上りなさい。そうすれば、アレニウス王国全土が見渡せる。シャルベリは、ここからまっすぐ南に位置している。山脈に囲まれた独特の地形をしているから、見ればすぐに分かるよ」
一度大きく翼をはばたけば、私の身体は驚くほど簡単に空へと舞い上がった。
姉の言葉に従って、雲を目指してぐんぐんと上昇する。
小さな雨粒にパシパシと頬を打たれたが、少しも気にならなかった。
だって、翼を得た私の世界はこんなにも自由だ。
短い手足でよちよちと歩いていたのが嘘みたい。
翼はまるでずっとこの時を待っていたかのように、瞬く間に私を雲の間際まで連れていってくれた。
アレニウス王国の王都は国土の北寄りにあり、まっすぐ南に行けばシャルベリ辺境伯領、そのずっと向こうの南端にはメテオリット家の始祖たる竜が棲んでいた土地がある。
もともと国土全体が起伏に富んだ地形のため、平野を選んで敷かれた鉄道はくねくねと曲線を描かざるを得なかった。
そのため、現在アレニウス王国内最速の交通手段である汽車でも、王都からシャルベリ辺境伯領近くの駅までは、一日近く掛かってしまう。
ミゲル殿下一行が、今朝方王都に到着した私と入れ違いに出発したとして、シャルベリ辺境伯領付近に到着するのは明日の早朝になるだろう。
一方、障害物がない空ならば目的地までまっすぐに行くことが可能だ。
常人よりも視力の優れた竜の目をぐっと凝らし、私は遠くに小さく、ぐるりと山脈に囲まれた盆地を見つけ出す。シャルベリ辺境伯領だ。
この頃には、飛び立った時よりも雨粒が大きくなっていたため、私は進行方向だけ確認するとすぐさま雲の上へ出る。
雲の上は一転して青天だった。
ふわふわの真っ白い絨毯がどこまでもどこまでも続いていて、まさしく圧巻の光景である。
空気は、下界よりもずっと薄い。
呼吸が苦しくなってもおかしくない高度でありながら、案外平気なのは私の身体に流れる竜の血のおかげだろう。
始祖たるメテオリットの竜や姉のような立派な先祖返り達にとっては、見慣れた光景なのかもしれない。
翼を失っていた七年間、私はそんなことも知らずに、ただ惨めに地べたを這って生きてきた。
けれども、翼がなかったからこそ、シャルベリ辺境伯邸の庭園で子竜化した際に犬のロイに捕まり、そのまま閣下と対面することになったのだ。
もしもあの時の私に翼があって、ロイから逃げ果せていれば、閣下のあんなに緩みまくった表情を目にすることもなかっただろう。
そうだったとしたら、私はきっと今でも彼と心を通わせられないまま――それどころか、もっと早くに王都へ逃げ帰っていたかもしれない。
そう思うと、あの時の自分は落ちこぼれ子竜でよかったとさえ感じた。
左手にあった太陽が頭上を通り過ぎ、右手の方に傾いて行くのを目の端に捉えつつ、私はひたすら南を目指して雲の上を行く。
空気の薄さにも翼を動かし続けることにも、当然疲れ始めてはいた。
それでも、シャルベリ辺境伯領に迫る危険を自分が知らせるのだという使命感が、私の背中をずっと押してくれている。
やがて、雲の絨毯が鮮やかな茜色に染まる頃、進行方向いっぱいに並んで飛ぶ鳥の一団に遭遇した。
南を目指す雁の群れだ。
翼を広げれば子竜姿の自分よりも大きいのに、その温和そうな顔立ちに油断したのは否めない。
先を急ぐから、と無闇に群れの間を突っ切ろうとしたのが間違いだった。
グァン! ガン、ガン!
いきなり現れたピンク色の異物に、混乱したらしい雁達がけたたましく鳴き始める。
彼らは翼をはばたかせつつも長い首をもたげ、私の方に注目した。
ツン、と最初に突かれたのは後脚の爪先だった。
それを皮切りに、四方八方から伸びてきた固い嘴が、ツンツン、ツンツンと、一斉に私の全身を突つき出す。
私の翼が七年もの時を経て再生したばかりだなんて事情も、彼らにとっては知ったことではないのだ。
「ぴー! ぴい、ぴいいっ……!!」
容赦ない攻撃に成す術もなく、私は這う這うの体で雲の下へと逃げるしかなかった。
けれども、いざ雲を抜けたとたん、ひゅっと息を呑む。
今まで見ていた夕焼け空が嘘みたいに、雲の下はざあざあ降りだったからだ。
下界はすでに夜闇に侵食を許していた。
眼下には大きな湖が広がり、落ちてくるものを食らおうとぽっかり口を開けているようにも見える。
いきなり雨の洗礼を受けた私は見事に体勢を崩し、錐揉み状態になって急降下し始めた。
急激な気圧の変化によって一瞬意識が飛びそうになる。
しかしその時、ポーと遠くで汽笛が聞こえたような気がして我に返った。
必死に翼を動かし、空中で体勢を立て直そうと奮闘した結果、私はどうにかこうにか地表への激突だけは免れた代わりに、湖の縁に立つ巨大な木に突っ込んだ。
ガサガサと枝葉を激しく揺らしながら、木の天辺から四半ほど滑り落ちた所で引っかかって止まる。
あちこち傷だらけになったものの、ひとまず助かった、と私がほっとしかけた時だった。
「ガアッ! ガアッ!」
「――ぴっ!?」
いきなり聞こえてきた濁った鳴き声に、私は不安定な枝の上でうっかり飛び上がってしまうくらい驚いた。
折り重なった葉の影からのっそりと現れたのは、一羽の大きなカラスである。
近くに巣は見当たらないので、雨宿りでもしていたのだろうか。
その身を覆う艶やかな黒は、竜となった時の姉の肢体を彷彿とさせる美しさがあった。
とはいえ、ギョロギョロとした目玉には私に対する親愛など欠片も浮かんではいない。
ガアガアと、警戒を示す鳴き声を上げながら、その視線は私の首にぶら下がった物に定められていた。
カラスは元来光り物を好む。
そして、兄様が私に持たせたメモ入りのロケットペンダントは金属製だった。
私はカラスにそれを取られまいと、ぎゅっと手で包み込んで後退る。
するとカラスは、私が遠のいたのと同じ分だけぴょんぴょんと跳ねて近づいてきた。
「ガア!」
「ぴい!」
先ほどの雁ほどではないがカラスも大きい。何より、雁よりも賢くて攻撃的だ。
私は恐怖に戦きつつも、とっさに右手に握っていたものを振り上げて威嚇する。
長兄が持たせてくれたハンマーだ。
カラスの嘴が固いか、それとも長兄のハンマーか。
まさに一触即発。カラス対子竜、世紀の一騎打ちが始まろうとした――その時だった。
ポーッ、とけたたましい汽笛の音が、私とカラスの足下から響いた。
と、同時に、もくもくと蒸気を吐き出しつつ汽車が通り過ぎていく。
私達がいる大木の袂を線路が通っていたらしく、それは湖を大きく迂回する形で南西へと曲線を描いていた。
南へ向かう汽車だ。それが、ミゲル殿下達が乗っ取ったものであると、私はすぐに確信した。
なぜならその屋根に、得体の知れない黒い塊が貼り付いていて、それに気付いた瞬間自分の身体が勝手にブルブルと震え出したからだ。
見れば、カラスも羽を膨らませて硬直している。
疑うべくもなかった。
あれが、ミゲル殿下が地下牢から連れ出したという化け物――七年前、私の翼を食らった犬、ホロウの成れの果てだ。
カラスに対峙した時とは比べ物にならないくらいの恐怖を覚え、私は枝の上に尻餅をついた。
手が震えて長兄のハンマーを取り落としてしまいそうになり、慌てて両手で柄を握る。
しかし、今一度、ポーッと響いた汽笛の音で、私ははっと我に返った。
雨が降りしきる薄闇の向こう。ぐねぐねと曲がりながら南に伸びる線路の先にぐっと目を凝らせば、黒い雨雲に覆われた空に一カ所だけぽっかりと穴が開いて光が漏れている場所がある。
シャルベリ辺境伯領だ。
それを見たとたん、あそこに行かねばならぬという使命感が甦り、心が奮い立った。
私は今一度翼を広げ、濡れて貼り付いていた枝やら葉っぱやらを振り落とすと、えいやっとばかりに空へ飛び上がる。
すっかり戦意を喪失したらしいカラスが、カア、と一声餞別みたいに鳴いた。
ミゲル殿下一行が乗った汽車は、カラスと別れてすぐに追い抜いた。
平野を選んで曲がりくねる線路とは対照的に、直線を行く私は随分と汽車との距離を稼げたはずだ。
ただし、雨は時間を追うごとにひどくなり、満身創痍の身体を容赦なく叩いてくる。
シャルベリ辺境伯領の町の灯りが見える頃には、私はくたくたに疲れていた。
どうにかこうにかその手前の山脈まで辿り着いたものの、最大の難関が私の前に立ち塞がる。高い山脈に打つかった雨雲が大量の雨を降らせて滝のようになっていたのだ。
意を決して飛び込んだ豪雨の中は、それこそ地獄だった。
冷たい雨に打たれた手足はすっかりかじかみ、生えたばかりで酷使された両の翼は今にも根元からちぎれてしまいそう。
優しく抱き締めてくれた閣下の腕の中が無性に恋しくて、私はついにえぐえぐと泣き出してしまう。
閣下、とどれだけ必死に叫ぼうが、助けにきてくれるはずがないのは分かっていた。
だって、人語をしゃべれない子竜の叫びは閣下には届かないし、そもそも彼は昨日見送ったはずの私がシャルベリ辺境伯領まで戻ってきているなんて知りもしないのだから。
何も知らないあの人は、今頃どうしているのだろう。
シャルベリ辺境伯邸一階の食堂で、夕餉の食卓を囲んでいる時間だろうか。
旦那様と奥様と――それから、私の脳裏に思い浮かんだのは、クロエと名乗ってシャルベリ辺境伯邸に滞在している女の姿だ。
正体不明の彼女の目的が何なのかは分からない。
もしかしたら本当に、純粋に閣下のことが好きで一緒になりたいだけなのかもしれない。
閣下はクロエとは合わないと言っていたが、私だって最初は閣下と仲良くなんてなれないと思っていたのに、ちょっとしたきっかけで印象が変われば打ち解けるまではすぐだった。
私がいないたった一日の間に、閣下が彼女に対する印象を改める場面がなかったとも限らない。
それでなくても最初の頃の私は、年の差を気にした閣下に結婚対象とさえ見られていなかったのだ。
対してクロエは、私よりも大人っぽくて閣下と年が近い。
さらには、王都に戻ってしまった私と、今まさに側にいるクロエ――閣下ははたして、もう一度私の方に手を差し伸べてくれるだろうか。
極度の疲労は思考力を低下させ、心を弱くする。
嫌な考えばかりが頭を擡げて、私を挫けさせようとした。
右手のハンマーが重くて、長兄の厚意さえ恨めしくなる。
けれども豪雨は私を閉じ込めて、もはや後戻りだってできやしない。
だったらもう、前に進むしかないだろう。
『泣くな! 行け! それでもメテオリットの竜か! 落ちこぼれの意地を見せろっ!!』
涙は雨にすっかり押し流されてしまった。
私はひたすら自分を叱咤して、必死に翼をはばたかせる。
そうして、ついに高い山脈を越えたとたん――ぱっと雨が途切れた。
ところが、やったと歓喜の声を上げようとした私に、最後の試練が降りかかる。
冷たい雨に打たれてかじかんだ手から、長兄に持たされたハンマーの柄がつるっと滑ってしまったのだ。
メテオリットの男達から長兄が受け継いだ大事な仕事道具を失くすわけにはいかないのはもちろんのこと、地上にいる人の上にでも落ちたらもっと大変だ。
私は慌てて急降下し、どうにかこうにかハンマーの柄を捕まえたまではよかったが、雁の群れから逃れた時ほど高度がなかったのが災いした。
はっと気がついた時にはもう、すぐ目の前にシャルベリ辺境伯領側の山肌が迫っていた。
とっさにメモが入ったロケットペンダントと長兄のハンマーを抱き込むようにして身体を丸め、ぎゅっと目を瞑る。
ところが――覚悟していたような衝撃は、訪れなかった。
固い山肌に激突する前に、滑らかで弾力のある何かが私の身体を受け止めてくれたからだ。
(な……何が……?)
疲労のあまり意識が朦朧としていたため、自分を助けてくれたのが何なのか、その正体をはっきりと見ることは叶わなかった。
けれども、霞んだ視界に虹色の鱗がキラキラと輝いたような気がする。
(……もしかして、竜神……?)
気付いた時には、私は広いベランダの隅に転がっていた。
大事なメモが入ったロケットペンダントはちゃんと首に掛かっているし、長兄のハンマーも手元にある。
それにほっとした私は、疲れ切った身体に鞭打ってのろのろと頭を擡げた。
どことなく見覚えのあるベランダには、室内から灯りが漏れていた。
這うようにして掃き出し窓へと近づき中を覗き込んだ私は、はっと息を呑む。
部屋の奥に置かれた執務机の向こうに、難しい顔をして書類を睨んでいる閣下がいたからだ。
(閣下……、閣下っ……!!)
私は窓に縋り付き、必死にガラスを叩いた。
しかし、疲れ切った小さな拳が窓を揺らす音は弱々しく、風に掻き消されてしまってまったく気付いてもらえない。
ここでついに、長兄のハンマーが真価を発揮する時がきた。
私は最後の力を振り絞り、両手で持ち上げたそれを窓へと打ち付ける。
ガシャン、とガラスが割れる音が響き、閣下がはっとしたように書類から顔を上げた。
そうして、こちらを向いた彼の青い瞳が、自分を捉えてまん丸になるのを見届けると、私はようやく安堵とともに完全に意識を手放したのだった。




