23話 守られる尊厳
「――ど、どうして? どうして、シャルベリに!?」
私は兄様に駆け寄って、掴み掛からんばかりの勢いで問うた。
私の翼を犬に食いちぎらせたというミゲル殿下が、七年にも渡った王宮での謹慎処分を解かれたのが昨夜のことだという。
そのまま王家の別荘地に送られ、実質隠居状態の現国王夫妻と静かに暮らしていくはずだった彼が、地下牢から化け物を連れて姿を消したと今朝判明した。
化け物とは、結局何なのか。
そう問う私を、姉と兄様は痛ましそうに見つめながら口を開いた。
「あれは、パティの翼を食らったミゲルの犬の成れの果て。首を切り落とそうが火を掛けようが幾度となく甦り、とてもじゃないが人の手には負えないから地下牢に幽閉していたのよ」
「ただ、唯一ミゲルにだけは懐いていたらしい。ミゲルは謹慎が解かれてすぐ地下牢に向かい、化け物を檻から出してしまったそうだ。いよいよ、兄の私でも庇えないな……」
不死身の化け物と成り果てたミゲルの飼い犬は、始祖の再来と呼ばれる姉でもってしても消滅させることができなかったという。
メテオリットの竜自体は不死身ではないが、その再生能力は人間や他の動物よりも遥かに優れている。
そのため、姉はもちろん、先祖返りとしては落ちこぼれの私でも、怪我をした時の治りは常人と比べ物にならないくらい早かった。
私の翼を食らった犬は、図らずもそんな再生能力だけ特化してしまったのだろう。
身体が壊れてもすぐに再生する代わりに、その姿はどんどんと歪になっていき、今では犬の頃の面影もない異形に成り果てているという。
そんな化け物を地下牢から連れ出したミゲルが、シャルベリ辺境伯領に向かっているのだ。
「ドゥリトル子爵が手引きしたようだ。即位式の準備で軍の大半を王都の警備に割いている隙を狙われたみたいだな。私兵団を王都を出てすぐの駅周辺に潜伏させていたらしい」
私を再びソファに座らせた兄様が、苦虫を噛み潰したような顔をして唸る。
彼の口から飛び出した新たな登場人物の名に、私は隣に座る姉を見上げた。
「お姉ちゃん、ドゥリトル子爵って?」
「現王妃の実兄、ミゲルにとっては伯父にあたるね。現国王の口利きで宰相の下に就いてはいたけれど、全然使えない小物だから完全に干されていた。次の政権では、間違いなく真っ先に首を切られる人間だね」
自分は新しい国王に重用される可能性もなく、唯一血の繋がりのある王子は王宮での謹慎が解けたといっても、実質王都から永久追放されることになる。
自暴自棄になった末か、あるいは天運が味方するとでも思ったのか、後の無いドゥリトル子爵とミゲル殿下が向かっているのは、アレニウス王国において、現在唯一にして随一の自治区、シャルベリ辺境伯領。
ここで私は、はたとあることに気付いた。
「もしかして……最近になってシャルベリ辺境伯宛てに、領有権を返上しろって書簡を送っていたのは……」
「確証はないけど、おそらくドゥリトル子爵が絡んでいるだろうね。何が何でもミゲルに権力を与え、自分はその下にぶら下がりたいんだろう。件の書簡はもちろん正式なものじゃないし、シャルベリ辺境伯邸に返した手紙にもその旨は綴っておいたよ」
「ドゥリトル子爵を取っ捕まえたら、拷問でも何でもして全部自供させてやるわよ」
兄様の言葉に合いの手を入れるみたいに、姉の口からはまた物騒な台詞が飛び出す。
けれども、今度ばかりは兄様もそれを窘めなかった。
「すでにライツ兄上が兵の派遣を決めたようだが、連中が汽車を乗っ取ったとなると馬車では間に合わないな。後続の汽車でも、今からなら追いつけるかどうかも微妙だ」
「でも、空を行けば先回りは可能だよ。シャルベリ辺境伯領ではパティが世話になったみたいだからね。私がひとっ飛び行って先方に知らせてこよう」
姉がやれやれとため息を吐きつつ立ち上がろうとする。
ところが、兄様は彼女の肩を押さえてそれを阻止した。
「何よ、リアム。軍服なら、破れないようにちゃんと脱いでおくわよ」
「そうじゃない。私は軍服じゃなくて、身体のことを心配しているんだ。君――もう自分ひとりの身体じゃないって、分かっているのか?」
兄様の言葉に、私はえっ!? と声を上げる。
姉一人の身体じゃない、ということはつまり……
「パティがシャルベリに行っている間に判明したんだ。マチルダのお腹には子供がいる。三ヶ月だそうだ」
「えええ! お姉ちゃん、本当に!? お、おめでとうっ!!」
「いくらメテオリットの竜が常人より頑丈にできているとはいえ、身重の妻を雨に曝すわけにはいかない」
「それは、もちろん――えっ、雨?」
兄様の言う通り、いつの間にか窓にはポツポツと水滴が付いていた。
隣のリビングからは、大至急布を掛けて屋根の穴を塞げー、と長兄の怒鳴り声が聞こえてくる。
お腹に子供がいるという姉を、雨の中行かせるのは当然私も反対だった。
けれど、シャルベリ辺境伯領に先回りするには、直線距離で空を行くしかないという。
私はしばし考え込んだ後、意を決して口を開いた。
「ねえ、お姉ちゃん――私の翼って、もう一度生えるのかな?」
「……え?」
「兄様の眼帯はお姉ちゃんの翼からできているんだよね。でも、さっき竜の姿になっていた時、お姉ちゃんの翼はどこも欠けていなかった。それってつまり、切り取った部分が再生しているってことでしょう?」
「それは、確かにそうだけど……でも……」
姉は珍しくおろおろし、助けを求めるように兄様を見た。
一方の兄様は、私をじっと見つめて問う。
「パティが、シャルベリ辺境伯領に知らせに行くつもりなのか?」
「……はい」
「翼を再生させるためには、それを失った時の記憶を取り戻さなければならないんだよ?」
「えっ……」
先にも述べた通り、メテオリットの竜は再生能力に優れている。
兄様の眼帯用に切り取られたはずの姉の翼が元通りになったように、本来なら犬に食いちぎられた私の翼もやがて再生していたはずなのだ。
それなのに、何故七年経った今でも私には翼がないのか――それはひとえに、私自身が翼のあったことを忘れてしまっていたからだった。
当時弱冠十歳だった私の心は、大きな犬に襲われた恐怖にも、翼を食いちぎられる凄まじい痛みにも耐えられなかった。
手負いの獣のように泣き叫んで暴れ、手当てさえさせなかったという。
このままでは発狂してしまうのではと恐れた姉は、強硬手段に出た。
恐怖や痛みと一緒に、私の事件の記憶一切を封じたのだ。
それは、兄様の右目という贄を食らったことで姉が手に入れた能力の一つらしい。
「痛くて辛くて恐ろしいばかりの記憶だよ。思い出したって、何もいいことはない。私もマチルダも、パティには一生思い出す必要のない記憶だと思っている。それでも?」
「それでも――記憶が戻れば、私の翼も再生する可能性があるんですよね? だったら私、全部思い出したい」
とたんに、隣に座っていた姉がわっと顔を覆って泣き出した。
姉の泣いた姿なんて初めて見る。
私がおろおろしていると、兄様が彼女の頭を優しく撫でて諭すみたいに言った。
「パティの覚悟を聞いただろう、マチルダ。記憶を返してあげよう」
「うっうっ、でも……」
「七年間、君は妹の心を守ってきた。今度は、彼女のメテオリットの竜たる尊厳を守ってやろう」
「……っ、うっ、うんっ……」
兄様の言葉に頷いた姉が、ゆっくりと顔を上げる。
その金色の瞳に覗きこまれると、私の中の竜の血がふつふつと沸いた。
相手が、自分より遥かに強い竜だと本能的に恐れているからだ。
鼓動は激しく乱れ、人間の形がたちまち崩れていく。姉のしなやかな腕の中で、私は小さなピンク色の子竜になった。
背に、翼はない。
『ひ弱なちびのくせに。お前みたいなのが竜を名乗るな』
『何の役にも立たない、出来損ない』
『お前みたいな落ちこぼれの子竜は、僕のもとでしか生きていけないだろう』
脳内に響く子供の声は、今までよりもずっと明瞭になっていた。
私の思考はそのまま、過去を遡っていく。
ああ、あの日――姉と兄様に贈る婚約祝いを一緒に考えようと誘われて、私はミゲル殿下の私室に行ったのだ。
それなのに、部屋に入るなり真っ黒い大きな犬に飛びかかられて、私は子竜化してしまった。
犬の名前はホロウ。見た目はモリス少佐の愛犬ロイにそっくりで、ミゲル殿下にだけ従順だった。
うつ伏せで床に押さえつけられた私の傍らにはミゲル殿下が立っている。
整った顔立ちをしているが、兄様にはあまり似ておらず、現王妃譲りの栗色の髪と緑色の瞳をしていた。
彼は怯える私の頭を優しく撫でたかと思うと、いきなり両の翼を掴んだ。
この時の私には、確かにちゃんと翼があったのだ。
それなのに、ミゲル殿下はひどく落ち着いた声でこう言った。
『こんなもの、いらないよね?』
次の瞬間、犬の鋭い牙が私の背中に突き立てられた。
身体を引き裂かれる痛みに、私はそれこそ耳を劈くような悲鳴を上げる。
側にはいない姉に、狂ったみたいに助けを請い続けていた。
しかし無情にも、犬はわずかな躊躇もなく私の両の翼を食いちぎってしまう。
背中が燃えるように熱かった。
逆に、傷口から血が流れるほどに指先が冷たくなっていく。
床にできた血溜まりにびしゃっと膝を付き、ミゲル殿下は今度は血塗れの手で私の頭を撫でた。
『これからずっと、僕がパトリシアの手を引いてあげるから、どこへも行かないで』
……っ、ひっ! やあ、痛っ、痛い! いたいいたい!! 怖い、こわいこわい!!
全てを思い出した私が、姉の腕の中でぴいぴいと泣き叫ぶ。
それを聞きつけたのだろう。修繕中のリビングから、長兄が愛用のハンマーを握り締めたまま飛んできた。
ああ、痛い、怖い、辛い、恨めしい、憎らしい――!!
七年間、記憶とともに封じ込められていた負の感情が爆発する。
目の前のものをやたらめったら引き裂いてしまいたくなる衝動は、竜ならではの凶暴性か。
けれども辛うじて残った理性が私自身を押さえ込む。だって、今私の目の前にいるのは身重の姉だ。
そのお腹には、私の甥か姪が入っているというのだから、傷一つ付けるわけにはいかなかった。
ふうふうと息を荒らげて凄まじい破壊衝動を必死に押さえ込む。
そんな私を、ふいに誰かが姉の腕からかっさらった。
兄様だ。
思わず腕に爪を突き立ててしまったが、彼はびくりともせずに私を抱き締める。
「大丈夫だよ、パティ。私にならいくら爪を立てても構わない。噛み付いたって構わない。恨んでもいい、憎んでもいい。ミゲルは――弟はそれだけのことをパティにしたんだ。兄の私が償えるなら本望だよ」
ミゲル殿下に対して恨みや憎しみを覚えないと言えば嘘になる。
けれども、兄弟だからという理由で兄様に責任を負わせる気になんてなれなかった。
兄様が姉に捧げた右目は失われたままだ。竜の眷属となった彼も常人よりは傷の治りが早いが、欠損した身体までは戻らない。
それに、今の私には復讐よりももっとずっと大事なことがあった。
姉のような立派な竜になれなくてもいい。
落ちこぼれでもいい。弱くたっていい。
ただ、今すぐ閣下のもとに飛んでいける翼だけが欲しかった。
あの人も、子竜の私を慈しんでくれた。
可愛い可愛いと惜しみなく褒め称え、優しく抱き締めてくれた。
そして、私との未来を思い描いたと、そう言った。
閣下の力になりたい――そのためには、恐怖も、痛みも、恨みも、憎しみも、全部乗り越えなければならない。
「……ぴっ、……っ!!」
私は兄様の腕に爪を立てるのをやめ、両手を胸の前でぎゅっと握り締める。
背中が急に熱くなってきた。
血が、竜の血が、そこに集まっていくのを感じる。
やがて行き場を失った血潮は、私の背中の皮膚を二カ所突き破った。
パティ!! と姉の悲鳴が聞こえる。
ところが、背中から噴き出した血は床に飛び散ることも伝い落ちることもなく、空気に触れた瞬間に固まっていく。
ちょうど肩甲骨の辺りから突き出た血の塊は、まるでコウモリの翼の骨格みたいに細長くなって三叉に分かれ、やがてその間を繋ぐように飛膜が張った。もちろん、身体と同じピンク色だ。
姉と兄様、そして扉の前に立ち尽くす長兄が固唾を呑んで見守る中――ついに、私の背中で二枚の翼がはためく。
兄様の膝の上から、子竜の身体がふわりと宙に浮いた。
水滴の付いた窓に映る自分の背中に、確かに翼があるのを確認し、私は無性に泣きたいような気持ちになる。
けれども実際に泣いたのは、姉と、扉の方から猛然と駆け寄ってきた長兄だった。
「わああん、パティ!!」
「パティ! えらいぞぉ!!」
血の気が多くて物騒で騒がしい——けれども妹思いな兄姉によって、たちまち私の胴上げが始まった。




