22話 失った記憶と真実
「――えっ……私、飛べたの!?」
思いもかけない事実が判明した。
落ちこぼれ子竜の私にも、かつて翼があったというのだ。
姉みたいな立派なものではないが、それでも空を飛ぶには充分だったらしい。
では、いかにしてそれを失うに至ったのか――話すのが辛そうな姉に代わり、兄様が話を引き継いだ。
「私に、弟が一人いるのを知っているだろう? ミゲル・アレニウス――私を含めた兄姉とは腹違い、父の後妻にあたる現王妃が産んだ唯一の子だ」
「はい……確か、生まれつき病弱で城から一歩も出られないと伺っていますが……その殿下が何か?」
現国王の第四王子であるミゲル殿下は、私と同じく現在十七歳。
これまで、自分は一度も顔を合わせたことのない相手だと思っていたのだが……
「この度、ハリス兄上の即位に先駆けて恩赦を与えられたのは、そのミゲルだよ。彼は十歳の時から七年間、王宮の奥で謹慎生活を送っていたんだ――パティから翼を奪った罪でね」
「え……?」
兄様の話は、当時の記憶がまったくない私にとって驚きの連続だった。
今から二十数年前、兄様の出産の際に最初の王妃を亡くして消沈していた現国王が、年若い子爵令嬢を見初めたことから全てが狂い始める。
王妃の喪も明けないうちに子爵令嬢を後妻に迎えた父から、王妃が産んだ子供達の心が離れていくのは当然のことだった。しかも、現国王が後宮に入り浸り、国政を疎かにするようになったのだから余計にである。
そんな中、ミゲル殿下が仮死状態で生まれたこともあって、現国王夫妻は必要以上に彼を甘やかした。
その結果、手が付けられないほど身勝手で我が侭な子供に育ってしまった末弟から、腹違いの兄姉達が呆れて距離を取るのも致し方ないことだろう。
特に兄様は、生まれると同時に母を亡くしたばかりか、後妻に入れ込んだ実の父には見向きもされないという辛酸をなめた。
そんな彼を我が子同然に育てたのは、王妃の親友であり当時メテオリット家の当主でもあった私達の母だ。
どこか、メテオリット家の始まりを彷彿とさせる話だった。
「父には、私達兄姉に避けられるミゲルが哀れに見えたんだろうね。せめて友達を用意してやろう、くらいの軽い気持ちで同い年のパティと引き合わせた」
それが、私とミゲル殿下が四歳の頃の話だという。
ミゲル殿下は私のことをたいそう気に入ったらしく、しばらくの間は特に大きな問題もなく交流が続いていたそうだ。
転機が訪れたのは、私達が八歳になった時。ミゲル殿下が犬を飼い始めたのがきっかけだった。
闇に溶けるみたいに全身真っ黒い犬だったと聞いて私が思い浮かべたのは、シャルベリ辺境伯領で出会ったモリス少佐の愛犬ロイだ。
怯えてばかりの私にも、愛想良くしっぽを振ってくれていた姿が印象的だった。
しかし、ミゲル殿下の犬はロイとは違い、ろくな躾をされなかったらしい。
最初は小さかった犬もみるみるうちに成長し、その体長は幼い私達の身長をすぐに追い越してしまった。
ある日、急に背後から犬に飛びかかられてびっくりした私が、ミゲル殿下の目の前で子竜化してしまう。
彼も王子であるから、メテオリット家が竜の始祖を持つことはそれとなく聞かされていたが、実際その目で竜の姿を見たのはこの時が初めてだったという。
「ミゲルは、とにかくパティを欲しがった。百歩……いや一億歩譲って、嫁に欲しいっていうのなら、その当時だったら考えてやらんこともなかったが――違った」
私をようやく膝から下ろして隣に座り直した姉が、苦々しい顔をして言う。
彼女の手は、今はもう翼の形跡も、それを奪われてできたであろう傷も何も無い私の背中をしきりに撫でていた。
「あいつはあろうことか、犬みたいに首輪を付けてパティを飼いたいって言ったんだ。己を棚に上げ、パティを躾けてやるだなんて私の前で宣った時には――くびり殺してやろうかと思った」
「マチルダ、どうどう」
「いいや、あの時本当に殺しておけばよかったんだ。そしたら、パティが後々あんな目に遭うこともなかったのにっ!」
「まあ、あの時点でパティとの接触を完全に禁止しなかったことは、私も一生後悔し続けるだろうね」
現国王がいくら腑抜けた親馬鹿でも、メテオリット家を蔑ろにするほど当時はまだ愚かではなかったらしい。
さすがに、私の人権を無視するような要求を通そうとはしなかった。
いつもは二つ返事で聞き入れられていた我が侭が拒否された上、メテオリット家に対して無礼な真似はするなと父親に窘められミゲル殿下はひどく衝撃を受けたという。
同時に矜持も傷付けられた彼は、私に悪い意味で執着するようになった。
『ひ弱なちびのくせに。お前みたいなのが竜を名乗るな』
『何の役にも立たない、出来損ない』
『お前みたいな落ちこぼれの子竜は、ーーでしか生きていけないだろう』
私を夢の中で詰っていたのは、当時ミゲル殿下から実際に打つけられていた言葉達。知らない子供のものだと思っていたのは、私の記憶から弾かれていたミゲル殿下の声だったのだ。
夢の中ではいつもちゃんと聞き取れなかった部分には、〝僕のもと〟という言葉が入っていたらしい。
『お前みたいな落ちこぼれの子竜は、僕のもとでしか生きていけないだろう』
ミゲル殿下は会う度に私を罵って劣等感を刺激した。
大人達の前では仲良くしているように見せながら、人目がなくなったとたんに豹変する。
そんな彼の変わり身の激しさにおののいた私は、戸惑うあまりに姉にも相談できなかったようだ。
ミゲル殿下はともかく、自分が優位にあると思い込ませ、私が自ら屈するように仕向けたかったのだろう。
幼いが故に残酷さは極まり、彼の言葉は私の心をどんどん切り裂いていった。
辛うじて、物理的に傷付けられるようなことはなかったが、そんな状況もある時を境に一変する。
「今から七年前。ちょうど、私とマチルダが正式に婚約を交わした頃、ミゲルはとんでもない暴挙に出た」
「翼を捥いでしまえば、パティはどこへもいけない。傷物にする代わりに、自分が一生飼ってやればいいんだ――そんな手前勝手な言い分で、あいつは飼い犬にパティを襲わせたんだ」
姉と兄様の言葉に、私はひゅっと息を呑む。
と同時に、自分がどうしてこんなに犬が恐ろしいのか、合点が行った。
犬は、私を闇雲に噛んで傷付けただけではなかった。
いつまで経っても身体は小さいままで、せっかくの鉤爪だって猫のそれにも敵わない――そんな、ただでさえ竜としては落ちこぼれの私から、翼さえも奪ってしまったのだ。
幸いと言っていいのかどうか、話を聞いただけでは当時の記憶が甦ってくることはなかった。
ただ、自分の竜としての誇りや尊厳を傷付けられたことに対し、ふつふつと怒りが込み上げてくる。
膝の上に載せていた手を、ぎゅっと握り締めて息を詰めた。
そうしていないと、人目もはばからず泣き喚いてしまいそうだった。
さっき姉が悲痛な声で叫んだように、私の誇りを返せ、翼を返せ――、と。
七年前のあの日、翼を失い血塗れの私を見つけた姉は当然ながら怒り狂った。
一瞬にして竜に変化し、さっき兄様をそうしたように、ミゲル殿下を床に組み敷いてその喉笛を食い破ろうとしたが……
「寸でのところで、リアムが邪魔をした」
「まあ、ミゲルもまだ十歳だったし、一応兄としては命乞いくらいしてやらなきゃね」
心底不服そうな顔をする姉に、兄様は肩を竦める。
その時兄様は、ミゲル殿下を生かす代償として自分の右目を姉に差し出したのだという。
姉はそれを食らったことで、特別な竜になった。
何人もの乙女を食らって神となったシャルベリ辺境伯領の竜ほどではないが、これまでの先祖返りにはない様々な力を得たという。その一つが、兄様を自らの眷属にすることだ。
これには、兄様が私達の母の乳を飲んで育っていたことも幸いした。
こうして兄様は、姉の上司であり、夫でもあり、そして唯一無二の眷属ともなったのだ。
ちなみに、兄様のぽっかり開いた右の眼窩を覆う黒い眼帯――実はこれ、姉の翼で作られたものだという。
七年前――十歳の自分の身に起こったこと、それによって引き起こされた周囲を巻き込んだ諸々、しかもそれを自分が何一つ覚えていないことに、私はただもうひたすら愕然とするばかりだった。
無意識の内に握り締めていた両の拳は、血の気が失せて冷たくなっている。
私はゆっくりと掌を開いて血を行き渡らせながら、姉と兄様に疑問をぶつけた。
「でも結局、ミゲル殿下には恩赦を与えられて、王宮から出てきてしまったって話だったよね? その後、逃げられたとか、地下牢の化け物なんていうのを連れていったとか……あと、私のことを諦めていないって、あれはどういうこと?」
とたんに、二人は揃って苦虫を噛み潰したような顔をした。
彼らが言うには、当初ミゲル殿下を一生閉じ込めるという約束に、現国王は納得していたらしい。しかし、この七年の間に心変わりをしたのか、それとも後妻やその親族に唆されたのか、とにかく玉座を早々にハリス王太子殿下に譲る条件として、ミゲル殿下の謹慎解消を要求しだしたというのだ。
また私を抱き締めてうーうー唸り始めた姉を、残った左目で優しく一瞥してから、兄様がアレニウス王国の現状を語り出した。
「後妻を迎えてからの父は完全に傀儡だった。ろくに能力もない後妻の親族を重要な役職に登用しようとしたり、言われるままに王家の土地を譲渡しようとしたり……幸い、宰相を務める叔父上が上手く舵を取ってくれていたから何とか国が乱れずに済んだが、そろそろ限界だ。ライツ兄上――アレニウス王国軍大将がクーデターを起こすと言い出した」
「ク、クーデター!? そんな話にまでなってたんですか!?」
「ライツ兄上の覚悟を知っているのは、ハリス兄上と、私とマチルダだけだ。パティも口外しないようにね」
「は、はい……それは、もちろんですけど……」
ライツ殿下は現国王の第二王子。王国軍を率いる彼がクーデターを起こせば、おそらく簡単に現国王から玉座を奪えるだろう。
しかし、そうなると腑抜けた現国王の代わりに奮闘してくれた宰相の叔父まで追い落とすことになるし、何より親子間でクーデターを起こしたとなると外聞が悪い。
ライツ殿下が軍を動かす前に何とか穏便に政権交代を行いたかったハリス王太子殿下は、現国王の要求を飲んでミゲル殿下に恩赦を与えることにしたのだ。
「玉座を降りた父と現王妃は、王都から離れた田舎の別荘で隠居生活を送ることになっていた。ミゲルもそれに同行し、王家の別荘地周辺に限って自由を許されることになったんだ。――まあ、それを決定して実行に移すまで、メテオリット家に何のお伺いもしなかったから、マチルダはブチ切れていたわけだが」
「あー、思い出したら、また腹が立ってきた。やっぱりハリスは始末してくるわ。玉座にはリアムが座ったらいいよ」
「いやいや、私はマチルダのお守りで手一杯だから、国王なんて大役は無理だよ。ハリス兄上を許せとは言わないが、今回のことであの人も相当こちらに対して負目があるから、今後上手に使っていこう」
「未来永劫許さないし、一生ゆすってやろ」
ハリス殿下は絶対に敵に回しちゃいけない二人を敵に回してしまったようだ。
これからの祖国の行く末に若干の不安を覚えつつ、私ははたとあることに気付いた。
「もしかして……この時期に私がシャルベリ辺境伯領に行くことになったのって、そのミゲル殿下の謹慎解消を心配したから?」
「ううーん……アタリ。何だかきな臭いことになりそうだったから、パティには安全な所にいてほしかったの。それに、私がベッタリし過ぎるのもパティのためにならないってリアムが煩いから、泣く泣くだよぉ……」
「マチルダが過保護になる気持ちは分かるけど、放っておいたらパティを一生束縛しかねないからね。パティが可愛いならなおさら、もっと生きる世界を広げてあげないと。――それで、結局シャルベリ辺境伯領はどうだった? 手紙を見る限り上手くやっているようだったから私達も安心していたんだが、こうして一月を待たずに帰ってきたところを見ると、何かあったのかい?」
優しい声で問う兄様に、私はこくりと頷いた。
一度は縁談をすっぽかしたはずのクロエが突然やってきて、シャルベリ辺境伯邸に居座っていること。
異様なほど閣下に執着しているクロエの行動が過激化するのを懸念し、彼女を刺激しないためにも私は一度王都に戻ることを決断したこと。
閣下は叔父を介してクロエとの縁談を正式に断る予定で、新国王の即位式が済んだら私を迎えにくると約束してくれたこと、などを告げた。
とたんに、姉と兄様が揃って訝しい顔をする。
「え、クロエ? クロエ・マルベリー? パティ、シャルベリ辺境伯領に彼女がいるって言うの?」
「うん、クロエと面識のある旦那様――現シャルベリ辺境伯閣下は、彼女の顔を見て間違いないっておっしゃったけど……えっと、クロエがシャルベリにいるのはおかしいことなの?」
私と姉が顔を見合わせて首を傾げていると、向かいのソファから兄様が口を挟んだ。
「あのね、パティ。クロエ・マルベリーは今、王都にいるはずなんだよ」
「え? でも……」
「一月ほど前にマルベリー邸の使用人と駆け落ちしたものの、生活に困窮して他人の家に盗みに入ったらしい。で、住民に気付かれたのに慌てて突き飛ばし、怪我を負わせた上で逃走。一昨日の朝に主犯格の使用人共々捕まって、現在拘置所の中で裁判を待つ身だよ」
「えええ、拘置所!? じゃ、じゃあ……シャルベリにいるのは、偽物……?」
何だかわけが分からなくなってきた。
クロエでないとしたら、今まさにシャルベリ辺境伯邸で閣下の女房を気取っている彼女は一体何者なのか。
コンコン
私の混乱が極まる中、突然扉を叩く音がして兄様が席を立つ。
扉の向こうには、アレニウス王国軍の灰色の軍服を着た青年が硬い表情をして立っていた。
わざわざ部屋の中にいる姉にも丁寧に会釈したところをみると、王国軍参謀部の者だろう。
部下から何ごとか耳打ちされた兄様は、一瞬身体を強張らせた。
彼は部下を帰して扉を閉めると、私達の方を振り返って口を開く。
「――ミゲルが、汽車を乗っ取って王都を出たそうだ」
その行き先が、シャルベリ辺境伯領であると聞き、私は思わずソファから立ち上がった。




