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21話 姉と義兄


 アレニウス王家の末席に連なるメテオリット家は、王都の南に邸宅を構えている。

 汽車の発着駅からは、王城までまっすぐに伸びた大通りを馬車で半時間ほどのところ。

 昨日の正午発の汽車に乗った私が王都の駅に到着したのは夜明け間近だったが、混雑する駅を出て乗り合い馬車に飛び乗った頃にはすっかり日も上っていた。

 そうしてようやく帰ってきた、おおよそ二十日ぶりの我が家は、まさに修羅場のまっただ中であった。

 爵位を持つ家ほどではないもののそこそこ大きい屋敷は、ごく少数の――かの家が竜の血を引くと知る先祖代々の使用人の手を借りて維持管理されてきた。

 そんなメテオリット家は今、一階のテラスに突き出たリビングの壁が半壊し、天井の一部からは青空が覗いている。

 そして、リビングの真ん中には漆黒のビロードを纏ったような美しい竜がいた。

 身体の大きさは馬ほどで、しなやかな四肢の他に大きな翼を持っている。

 落ちこぼれ子竜の私とは比べ物にならないほど立派な姿をしたその竜は、白い軍服を着た人間の男を一人、床に組み敷いていた。

 金色の鋭い目をギラギラさせ、ぞろりと並んだ牙を剥き出しにしてそれを威嚇している。

 鋭い爪が掠ったのだろう。男の左の頬が切れて血を流していた。

 しかし、恐ろしげな竜に襲われているというのに、彼は取り乱す気配もない。

 私は目の前の光景に一瞬唖然としたものの、すぐに我に返って叫んだ。


「な、何してるの!? ――お姉ちゃんっ!!」


 黒い竜は私の姉、マチルダ・メテオリットである。

 メテオリット家の現当主であり、始祖の再来と言われる優秀な先祖返り。

 しかし、私の声に応えたのはこの姉ではなく、組み敷かれた男の方だった。


「おかえり、パティ。ちょっとそこで待っておいで。君の姉さんは今我を忘れているからね。うっかり君に傷でも付けたら大変だ」

「で、殿下……でも、リアム殿下が……」

「そんな他人行儀な呼び方はいやだな、パティ。兄様、といつものように可愛く呼んでおくれ。なに、私のことなら心配いらないよ。マチルダがこうなるのにも慣れているからね」

「……」

 

 男は、アレニウス王国軍の参謀長リアム・アレニウス。現国王の三番目の王子であり、姉マチルダとは公私ともにパートナーの間柄にあった。

 銀色の髪と青い瞳の美形だが、右目の部分を黒い眼帯で覆っている。

 彼もなかなか長身なのに、竜になった時ばかりは姉の方が勝った。

 グルグル、と黒い竜が低く唸る。

 その鋭い牙は、組み敷いた相手の喉笛を今にも噛み切らんとしているように見えた。

 まさに、一触即発。

 私は居ても立っても居られず彼らに駆け寄ろうとしたが、後ろから伸びてきた手にいきなり襟首を掴まれ、有無を言わさず部屋の隅まで引っ張っていかれてしまう。

 犯人は、いつの間にか現れた実兄だった。閣下と同い年の長兄の方だ。


「リアム殿下、お早くそのじゃじゃ馬を鎮めていただけませんか。今夜は雨の予報なのに、これ以上家を壊されては修繕が間に合いませんよ」

「心得たよ、義兄殿」

 

 私を背中に隠した長兄の言葉に、殿下は――いや兄様は、辛うじて自由な右手をひらひらと振って見せた。

 メテオリット家の当主は代々女性で、総じて怒りの沸点が低いという共通点がある。

 怒りに任せて竜化して、手が付けられないほど暴れる、なんてことも昔から日常茶飯事。

 そのため、家を継がされないメテオリット家の男子は、必要に駆られて建築関係の仕事に就く者が多かった。もちろん、頻繁に破壊される自宅を外部の人間に知られずに修繕するためだ。

 今代も、長兄は大工、次兄が建築家になっている。

 長兄はすでに愛用の大工道具を担いで準備万端。その広い背中越しに、私は修羅場の行く末を見守ることになった。


「マチルダ、君の怒りはもっともだ。けれど、私を食らったところでそれが晴れるのか?」

『お前ではなく、お前の兄――ハリス・アレニウスを引き裂けば、少しくらいはこの腹の虫がおさまるかもね』

「うーん、残念だけど、ハリス兄上を殺してはだめだよ。もうすぐこの国の国王になる人だからね。彼がいなければ国が乱れる」

『国ならばすでに乱れている。メテオリットを敵に回しておいて、アレニウスの安寧が続くと思うな』


 あまりにも物騒で殺伐とした姉達の会話に、私は壁になってくれている長兄の広い背中にしがみつく。

 一体何があったのかと長兄に問えば、マチルダに殺されたくないから自分の口からは言えない、と頭を振られた。

 姉と兄様が殺る殺らないと言い合っているハリスというのが、もうすぐこのアレニウス王国に新国王として立つことが決まっている現王太子だ。

 そのハリス王太子殿下が、何やら姉の怒りを買ったらしいのは分かった。

 そして兄様は、身を挺して彼女を宥めているのだ。

 ちなみに、竜になった姉の口も人語を発することはできないものの、念話によって普通に会話ができる。

 ぴいぴい鳴くしかできない落ちこぼれ子竜としては、相変わらず劣等感を覚えずにはいられなかった。


『あいつに恩赦を与えるのは許さないと言ったはずだ。一生閉じ込めるという約束で、命ばかりは見逃してやったのを忘れたのか』

「約束を忘れたわけではないが、あれの謹慎を解くのが父が玉座を明け渡すための条件だったんだよ。その後は、父と現王妃が隠居先に連れていって、こちらには一切関わらせないという話だったんだけどね」

『謹慎を解いたとたんに逃げられていたんじゃ話にならないな。メテオリットも随分と舐められたものだ。一族郎党引き裂いてくれようか』

「まあ、あれを逃がしたことは完全に王家の失態だ。最悪あれ本人と、父と現王妃は引き裂いちゃってもいいから、ひとまず落ち着こうか」


 姉と兄様が言う〝あいつ〟やら〝あれ〟やらが何なのか、私は皆目見当がつかない。

 ただ、姉の怒りが、ハリス王太子殿下よりもその何かに傾いていることだけは分かった。


『王宮の地下牢に閉じ込めていた化け物まで連れていったそうじゃないか。あいつは、パティを諦めてなんかいないんだ。あの子が……私の大事なパティが、また傷付けられでもしたらどうしてくれるっ!!』


 また傷付けられるって? と姉の言葉に首を傾げる私の耳を、長兄が手で塞ごうとする。

 一方、完全に頭に血が上っている姉は、私が側にいることに全く気付いていないようだ。

 膨れ上がる竜の怒りに耐えられなくなったのか、辛うじて無事だったリビングの窓ガラスが、ここにきてパリンパリンと軒並み砕け散った。

 その音に混ざって、長兄の手を振り払った私の耳に姉の悲痛な叫びが届く。


『パトリシアの誇りを返せ! あの子の――翼を返せっ!!』

「――よせ、マチルダ。それ以上は喋るな」


 とたんに、兄様が腹筋を使って上体を起こしたかと思ったら、姉の――というか、黒い竜の顔を両手で挟んでキスをした。

 今度は慌てて目を塞いできた長兄は、いまだに私を小さな子供だとでも思っているのだろうか。

 その手を何とか引き剥がした時には、目の前の光景は一変していた。

 兄様を組み敷いていた黒い竜は、妙齢の人間の女性――姉マチルダの普段の姿に戻っている。

 兄様の膝の上に抱かれるような形でこちらに背を向けている姉は全裸で、天井に空いた穴から降り注ぐ光に照らされた白い肌が眩しかった。


「お、お姉ちゃん……?」

「……っ!?」


 私がおそるおそる声をかければ、姉の背中が一瞬びくりと震える。

 そうして、そろりとこちらを振り返った姉は、私の姿を認めた瞬間、金色の瞳を零れんばかりに見開いた。


「パ、パパパパパパ、パティ――!?」

「あの、ええと……た、ただいま?」


 あわあわと一通り慌てた姉は、やがて自分が生まれたままの姿で兄様の膝に抱かれていることに気付いたらしい。

 たちまち、顔どころか全身に至るまで真っ赤になった。全裸なせいで、染まりっぷりが顕著である。


「いやぁああっ!! パティの前で何すんのよっ!! リアムのすけべぇっ!!」

「いてっ」

 

 バシーンッ! と兄様の頬が引っ叩かれる音が半壊したリビングに響く。

 私の隣で長兄が一言、理不尽、と呟いた。



 *******



 トントントン、トントントントン。

 長兄が愛用のハンマーを打ち付ける音がリズミカルに響いている。

 それを劇伴代わりに、「それで?」と最初に口を開いたのは姉だった。


「パティはどうしていきなり王都に帰ってきたの? ……いや、誤解しないでほしいんだけど、帰ってきちゃいけないって言いたいんじゃないのよ? 私だって二十日余りもパティがいなくて、すごーくすごおーくすごおおおーくっ、寂しかったんだからね? 何度迎えに行こうとして、リアムに邪魔されたことかっ!」

「お姉ちゃん、落ち着いて」

「でもね、先日送ってきた手紙では、次期シャルベリ辺境伯閣下によくしていただいているって喜んでいたじゃない? だからてっきり、予定通り即位式が終わるまではシャルベリにいるものだとばかり思っていたのよ」

「うん……私もね、そのつもりだったんだけど……」


 歯切れの悪い私の言葉に、頭上で姉が首を傾げている気配がした。

 というのも、現在私はソファに座った姉の膝にだっこされ、後ろからぎゅうぎゅうと抱き締められている最中なのだ。

 私達は半壊したリビングから、隣にある書斎へと移動していた。

 向かいのソファでは、兄様が苦笑いを浮かべている。姉の爪に切り裂かれていたはずの彼の左頬は、血を拭うとすでに傷が塞がっていた。

 全裸だった姉も、参謀長閣下の右腕らしくきっちりと軍服を身に纏っている。

 ちなみに、竜になると身体が縮む私なら服がぶかぶかになるだけだが、姉のような立派な竜の場合は、あらかじめ脱いでおかない限り毎回着ているものがビリビリに破れてしまう。

 そういうわけで真新しい灰色の軍服を着た姉は、私の頭頂部にぐりぐりと額を擦り付けながら、あー……、と熱い湯に浸かったみたいな声を上げた。

 子竜姿の私を抱いた閣下も同じようなことをしていたのを思い出し、別れてまだ一日も経っていないのに無性に彼が恋しくなる。

 無意識に吐き出した物憂いため息に、私にくっついていた姉がぴくりと反応した。


「まさか――何か、ひどいことでもされたの?」

「……え?」

「紳士ぶってパティを油断させておいて、急に豹変したんじゃないの? 確か、執務室に招き入れられたとか、手紙に書いていたよね……そこで、嫌がるパティを無理矢理手篭めに――あっ、無理。殺そう」

「お、お姉ちゃん!?」


 始祖の再来と呼ばれる姉の気質は、人間よりも竜のそれに近く、何ごとにおいても殺意は高め。

 私の背中に胸をぴったりくっつけているせいで、怒りに震える彼女の心臓がドクドクと鼓動を早めていくのが手に取るように分かった。

 竜の血を自在にできる姉でも、落ちこぼれの私と変わらず心拍数の上昇によって竜化を果たす。

 自分よりもずっと強い竜が再び顕現しようとする気配に、本能的な恐れを感じた私の全身が総毛立った。

 私を抱き締める姉の白い手が、鋭い爪を備えた黒い竜のそれに変わりかけた――その時だった。


「――落ち着け、マチルダ」


 向かいのソファから伸びてきた兄様の手が、姉の手をぐっと握った。

 

「君ね、軍服を破るの今月だけで五度目だよ? その度に新調するのは別にいいんだけど、私が妻の軍服を破って興奮するような特殊性癖なんじゃ、と経理の連中に疑われているのを知っているか?」

「へえ、そんな変態が上司だなんて最悪だな。今すぐ人事異動を願い出て、私はハリス殿下の護衛役に移ろう」

「とか言って、即行ハリス兄上の寝首を掻く気だろう?」

「悲鳴さえ上げさせずに息の根を止めてやる」


 満面の笑みを浮かべて物騒な会話をする姉と兄様に、間に挟まれた私は震え上がる。

 けれど、姉がギリリと奥歯を噛み締めて、「ハリス・アレニウスの次は、シャルロ・シャルベリだ」と唸るのが聞こえたため、慌てて叫んだ。


「ち、ちがうっ! 閣下には、ひどいことなんて何もされていないよっ! てっ、手のっ、手の甲に、キスしてもらっただけだからっ!!」


 とたんに、正面の兄様がぽかんとした顔になった。

 背後の姉の表情は分からないが、しばしの沈黙の後、彼女が震える声で問うてくる。


「……手の甲に、キス? え……それだけ?」

「そ、それだけ! それだけだよっ!!」


 あの時感じた閣下の唇の感触を思い出し、みるみるうちに火照っていく頬を両手で覆う。

 そんな私を、姉は力一杯抱き締めて叫んだ。


「はぁあ、かぁわいい! 手の甲にキスされたくらいで真っ赤になっちゃって……ハイ、無理。可愛いの極み。だれー? この可愛い子、だれかなー!? ――あっ、私の妹ちゃんだった!!」

「いや、パティが初心過ぎて、お兄ちゃん逆に心配になってきちゃったよ」

「は? 黙って? 変態なリアム殿下は、可愛い妹ちゃんの前で今後一切発言しないでください」

「異議あり。その変態認定、そもそも冤罪なんだけど?」


 姉と兄様は、また私を間に挟んで言葉の応酬を始めた。

 その内容が物騒なものでなくなったのを機に、私はすかさず話題を変える。


「ところで、ハリス殿下は一体誰に恩赦をお与えになったの? お姉ちゃんが許さないって言うくらいだから、相当のことをやらかした人なんでしょう?」

「――え? あ、うん……ええっと……」


 とたんに、姉の言葉は歯切れが悪くなった。

 さきほど彼女が竜の姿で口にしていたことは、本当なら私には聞かせたくない事柄だったのだろう。

 あーとか、うーとか、唸るばかりで一向に質問に答えようとしない相手を見上げ、私は続ける。


「王宮の地下牢に閉じ込めていた化け物って何? 化け物って、何かの動物か悪人を喩えてそう言っているの? それとも――本当に、化け物なの?」

「いや……まあ、その……」

「私は、その恩赦を与えられた人とも化け物とやらとも無関係じゃないんでしょう? だって、私を諦めていないとか、私がまた傷付けられたらとか、お姉ちゃんは心配してくれていたし。〝また〟ってことは、以前私がそれらに傷付けられた事実があるってことだよね?」

「ううう……あの、あのね、パティ……」


 姉を困らせるのは本意ではないが、この時ばかりは譲れなかった。

 さっき、怒り狂った彼女が吐き出した言葉の中に、私にとってどうしても聞き捨てならないものがあったからだ。


「ねえ、お姉ちゃん。私の誇りって――翼を返せって、一体どういうこと?」

「……っ、そ、それはっ……」


 私の問いに、姉はいっそう分かりやすく狼狽えた。

 アレニウス王国軍参謀長の右腕として、腹芸だって御手の物なはずの彼女がここまで取り乱すのも珍しい。

 私は姉の腕の中でくるりと身体を反転させ、向かい合わせになるよう座り直す。

 極めつけに、じっと上目遣いに見つめれば、彼女の金色の目が盛大に泳いだ。

 その時、はは、と背後で兄様の笑い声が上がる。

 

「マチルダ、ここらが潮時だよ。パティだってもう小さいばかりの子供じゃないんだ。自分の身に起こったことを知る権利がある」

「でも、リアム……」

「それとも何か? 君の中ではいつまでも、パティは守られなければ生きていけない哀れな子竜なのかな? それって、彼女に対する侮辱ではないか?」

「そんな……そんなつもりはない! 小さくたってパティは立派なメテオリットの竜だ! その尊厳を踏みにじるつもりなんてあるものかっ!!」


 だったらと兄様に促された姉が、ついに観念したかのように語り始める。

 それは私の記憶から消えた、幼い頃の出来事についてであった。



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