20話 約束を重ねて
シャルベリ辺境伯邸の裏門を出発した馬車は、大通りを右回りに走り出した。
閣下の腕の中でそれに気付いた私は、はっとして顔を上げる。
というのも、王都行きの汽車が出発する駅はシャルベリ辺境伯領の北側のトンネルを越えた場所にあり、そこへ向かう乗り合い馬車は最短距離の左回りで運行されているのだ。
自分の乗った馬車が反対方向に進み始めたことに慌てる私の背を、閣下の大きな掌が宥めるように撫でる。
「私に、少し時間をくれないか。大丈夫、ちゃんと汽車の出発時刻までには駅に着くようにする」
「は、はい……」
戸惑いつつも頷く私を、閣下はもう一度ぎゅっと抱き締めた。
対面式の座席が設置された馬車の中、進行方向を向いた方に二人くっ付いて座っている状態だ。
前方の小窓越しに、御者台に座る少佐の背中が見えている。
その脇から、犬のロイの黒々とした瞳が興味深そうにこちらを覗き込んでいた。
だんだんと冷静さを取り戻すにつれ、私の中では新たな混乱が広がっていく。
さっきは、閣下が馬車を降りてしまって二度と会えなくなるのが嫌で、とっさに彼の背中に腕を回した。
しかし、よくよく考えるまでもなく、私と閣下はそもそもこんな、ひしと抱き締め合うような仲ではないのだ。
確かに初対面に比べれば、お互いの好感度はぐっと上がっているとは思う。
閣下の城とも言える執務室でのお茶にも何度か誘ってもらえたし、先日なんて半日近く一緒に町を散策した。
とはいえ、結局私達は溢れ者同士で縁談を組み直すこともなかったし、ましてや恋人になったわけでもない。
むしろ、閣下には私とは別にクロエという縁談相手がいて、彼女が登場したことでシャルベリ辺境伯領に留まる意味のなくなった私は、今まさにすごすごと生家に戻ろうとしているのだ。
私はとたんに居たたまれなくなって、閣下の胸元に顔を埋めているのをいいことに、こっそりと涙ぐむ。
他の女性とこれから婚約しようとしている人の胸で泣くなんて。
自分の浅ましさに嫌悪を覚えるとともに、いっそう惨めな気持ちになった。
ところがここで、閣下が思いもかけないことを口にする。
「私は、クロエ嬢との縁談を正式に断ろうと思う」
「え……?」
今まさに泣きべそをかいていたことも忘れて、私はついついぱっと顔を上げてしまった。
私の潤んだ両目を見た閣下が、一瞬驚いた表情になる。
しかし、彼はすぐに眦を緩めて、大きな掌で包み込むみたいに私の後頭部を撫でた。
その蕩けるような眼差しには見覚えがある。
子竜姿の時に向けられたのと同じ、とにかく可愛くて仕方がないといった慈愛に満ち溢れたものだ。
同時に、以前メイデン焼き菓子店からの帰り道でも、こうして頭を撫でられたのを思い出す。
ちょうどこの時、私達を乗せた馬車が、そのメイデン焼き菓子店とリンドマン洗濯店の前を通り過ぎた。
あの時は、幼子をあやすみたいな優しいばかりの閣下の手付きに不満を覚えたのだ。
だって、私は決して、閣下から妹みたいに可愛がられたいわけではなかったのだから。
じゃあ一体、彼にどう思われたいのか――あの時の私はまだ答えに窮した。
けれども、今なら分かる。
私は女として、閣下に見られたかったのだ。
そんな私の恋心の発露に気付いているのか否か。
閣下が、実は最初からクロエと結婚するつもりなんてなかった、などと言い出した。
「縁談が持ち上がってすぐ、彼女がうちみたいな辺鄙な地に嫁ぐのを嫌がっているという噂は届いていたんだ。いくら政略結婚とはいえ、はなからシャルベリを愛する気もない人と上手くやっていけるとは思えなかったし、結局それが原因で離縁することになるなら、最初から一緒にならない方がいいと思っていた」
それでもひとまず縁談に臨もうとしたのは、ひとえに仲人である私の叔父の顔を立てるためだったという。
叔父の身内としては、少なからず申し訳ない気持ちになる。
閣下は苦笑いを浮かべながら、眉を下げた私の頭をまた撫でた。
「今回、改めてクロエ嬢と接してみて……うん……まあ、おそらくはパトリシアも察していることだろうが、私は彼女と致命的に合わないことを実感した。正直、このまま一緒にいるとストレスでハゲる自信がある」
「ハゲ……?」
私は思わず目の前の黒髪をまじまじと眺める。
すると閣下は、「まだだ! まだ! 大丈夫だからっ!!」と全力で否定した。
それから、気を取り直すみたいにこほんと一つ咳払いをしてから、彼はとつとつと胸の内を語り出す。
「そもそも、だ。私は傍若無人な姉達に植え付けられたトラウマのせいで、もともと結婚に対して消極的だった。最悪自分に跡継ぎができなくても……まあ、ロイや姉達の子供の誰かに家督を譲ればいいか、なんて他力本願なことを半ば本気で考えていたんだ」
そんな中で、そもそも縁談相手でもない私がシャルベリ辺境伯邸に滞在することになったのが、人生の転機だったと閣下は言う。
「パトリシアが、父や母と打ち解けて和やかに過ごしているのを見た時は意外だった。社交的な母はともかく、父は……息子の私が言うのもなんだが、強面な上に無愛想で近寄り難いだろう?」
「そんなことないです。奥様はもちろん、旦那様にも最初から優しく接していただきました」
確かに、旦那様は寡黙で一見すると厳しそうな人だが、にこにこしている奥様を見つめる眼差しは柔らかく、仲良く寄り添う二人を見ていると、私はいつも微笑ましい気持ちになった。
二人とも、子竜化した私を見て驚いても忌避するような素振りは一切なかったし、メテオリット家の秘密を守るのにも協力してくれた大切な味方である。
旦那様も奥様も大好きです。
そう告げた私に、閣下はさも嬉しそうな顔をして、そうか、と頷いた。
「家族の食卓にパトリシアがいることが、いつの間にか私の中で自然になっていた。ふと見下ろした窓の下で、母の車椅子を押しながら談笑している君を見つける日常が愛おしくなっていた。この手を伸ばせば届く位置に、ずっと君を置いておきたいと思うようになっていたんだ」
ガラガラガラ、と馬車の車輪が回る音が大きく響いていた。
ちょうど南側の水路の横に差し掛かったらしく、貯水湖から水門を通して流れ出る水音もけたたましい。
それでも、ぴたりと寄り添った閣下の言葉を私が聞き逃すことはなかった。
彼の胸の奥では、心臓が早鐘のように激しく脈打っていた。
そのリズムが移って心拍が乱れ、うっかり子竜化してしまうことを懸念した私は、自分を落ち着けようと大きく深呼吸をする。
それなのに、なおも切々と語られる閣下の言葉が、容易く私の鼓動を乱してしまう。
「とにかく、私はいつの間にか、パトリシアと過ごす未来を思い描くようになっていた」
「私と過ごす、未来……?」
「それなのに君は、今朝になっていきなり王都に帰るなんて言い出すし……そもそも、姉上から手紙で帰ってくるように言われたという話――パトリシア、あれは嘘だね?」
「えっ……」
はっと息を呑んだ私に、閣下が畳み掛ける。
「姉上は君への手紙と一緒に、件の怪文書に対する見解を私宛てに送ってきてくださった。その手紙の追伸には、妹をくれぐれもよろしく頼む、とのお言葉がしたためられていたんだ。同時に送られた二通の手紙に、正反対のことが書かれていたとは考え難いだろう?」
「……」
問うようでいて、その実、確信を秘めた閣下の言葉に私は口を噤んで俯く。
図星、だったからだ。
閣下の言う通り、姉から手紙で帰ってくるように言われたというのは真っ赤な嘘。
むしろ、せっかくのご縁を大切にして、新国王陛下の即位式が済むまでシャルベリ辺境伯領でお世話になるように、と書かれていた。
姉に手紙を送ったのは、閣下に良く思われていないのではという誤解も解け、彼の城とも言える執務室でのお茶にも誘ってもらえるくらいまで打ち解けていた頃だ。
縁談相手に逃げられた溢れ者同士で縁談を組み直す、なんて叔父の無茶振りに応えるか否かはともかくとして、私達の関係は良好だったといえよう。
――シャルベリ辺境伯家の方々によくしてもらっているから、お姉ちゃんは何も心配しないで
あの時は、少なくとも叔父が戻ってくるまではシャルベリ辺境伯邸にお世話になるつもりでいた私は、姉への手紙にもそうしたためた。
けれども、その返事が届くのを待っている間に、クロエが現れたことによって私の置かれた状況は一変する。
彼女は最初から閣下の婚約者か妻であるかのように振る舞い、奥様を義母と呼んで車椅子を押す役目さえ私から取り上げてしまった。
無為に過ごす日々の中で、私はシャルベリ辺境伯領に滞在し続ける意義を失い、落ちこぼれ子竜と詰ってくる夢の中の子供の声にまで、お前がここにいる意味なんてない、と嘲笑われる始末。
何より、閣下とクロエが一緒にいる光景を、私はもう見ていたくなかった。
たとえ閣下の心が彼女に無いと分かっていても、二人が一緒にいる姿を見れば私はきっと嫉妬してしまうし、悲しくなってしまうだろう。
それが嫌で、私はシャルベリ辺境伯領から逃げ出す口実として、メテオリット家の当主である姉が帰ってこいと言っている、と嘘を吐いたのだった。
私の無言の肯定に、閣下はやはりと呟いて小さくため息を吐き出した。
「別に、パトリシアを責めようと思っているわけではないよ。ただ、急に君が居なくなってしまうと思うと、年甲斐もなく居ても立ってもいられなくなってしまってね。こうして君を捕まえて、何とかその心を自分に繋ぎ止めようと足掻いているわけだ」
「……」
「さっきも言ったように、クロエ嬢との縁談は正式に断る。そして――改めて、パトリシアとの縁談をまとめてくれるよう、君の叔父上にお願いするつもりだ」
「え……?」
私の鼓動はますます跳ね上がった。
私がそうであったように、閣下にもこちらの心臓が大きく脈打っているのが伝わったのだろう。
彼は、私の背中を宥めるみたいに撫でながら続ける。
「ただ、曲がり形にもクロエ嬢は侯爵家の令嬢だ。うちのような辺境伯家が一方的に領内から排除するには分が悪い」
シャルベリ辺境伯家とマルベリー侯爵家では、後者の方が身分が上だ。
上位の家との縁故を下位の家が仲人も介さずに反故にするのは、一般的にタブーとされている。
そのため、仲人の叔父が帰ってくるまでシャルベリ辺境伯家はマルベリー侯爵令嬢であるクロエの存在を排除することが難しいのだ。
私も小さな子供ではないので、その辺りの事情は理解できる。
なりふり構わず自分に執着するクロエの言動を、閣下自身も異様に感じていた。
クロエが先日、老衛兵を買収してまで執務室に押しかけて既成事実を作らんとしたのも、彼の女性不信を加速させてしかるべき暴挙に違いない。
ただ、あの場面に遭遇したのは子竜姿の私であったため、事情を知らないことになっている人間の私が、その節は災難でしたね、と閣下を労るわけにはいかない。それがひどく歯痒かった。
とにかく、自分以外の妙齢の女を閣下の側に置きたくないらしいクロエが、私を排除したがっているのは傍目にも明らかだったという。
思い余った彼女が私に危害を加えるなんて事態は、何としてでも避けなければならない。
そのためには、縁談を白紙に戻し、クロエがシャルベリ辺境伯領から出て行くまでの間、私を一時王都に避難させるべきだ。
閣下はそう、自らの心に折り合いを付けた上で、私をこうして王都行きの汽車が出発する駅まで送っていこうとしているのだという。
「本心を言えば、パトリシアを駅になんて送りたくない。このまま、大通りを一周してうちへ戻れとモリスに命じたいのは山々なのだが……」
「んんっ……閣下、くるしい、です……」
大人しく話を聞いていた私を、閣下はまたもぎゅうぎゅう抱き締めた。
私の抗議を受けてすぐに腕の力は緩んだものの、思いの丈を全部ぶつけるみたいな抱擁は、普段の紳士然とした彼のイメージとは釣り合わない。
初めて子竜の姿で出会った日、自制が利かない閣下は繊細な小動物を飼うのに向いていない! と少佐に叱られていたことを思い出し、私はついつい笑ってしまいそうになった。
閣下がこんなに必要としてくれているとはっきりしたのだから、本当なら私は王都に戻らなくてもいいのかもしれない。
私がクロエに害されるのを閣下は心配しているが、曲がり形にも竜の血を引くメテオリット家の人間なので、身体の方は貴族のご令嬢より頑丈にできている。
ただ、私がシャルベリ辺境伯邸に留まることによって、閣下を独り占めしようとクロエの行動が過激化する可能性も否めない。
結局は、クロエを落ち着かせるためにも、やはり私は一度王都に戻るべきだという結論に至った。
大通りを半周した馬車は、貯水湖を挟んでシャルベリ辺境伯邸と対極にある豪邸の前を通過する。
ここで、それまで御者に徹していた少佐が私達の方を振り返った。
「パトリシア嬢、右手をご覧ください。こちらが我が家、トロイア家でーす」
「モリス、こっちは取り込み中なんだ。少しは遠慮しないか」
「きっと私も、あなたとは長い付き合いになると思いますのでお見知りおきください。今度ぜひ、うちの奥さんも紹介させてくださいね。閣下はせいぜい頑張って、パトリシア嬢を口説き落としてください」
「分かったから。ちゃんと前を向いて運転しろ」
にやにやする少佐に向かい、閣下は苦虫を噛み潰したような顔をして、しっしっと手を振る。
ロイの黒々とした瞳は相変わらず興味深そうにこちらを眺めていて、何だか落ち着かない気分になった私は閣下の腕の中でもぞもぞした。
馬車はやがて北の水門の前に差しかかる。
その時ふと視線を感じ、貯水湖の方を見た私の口から、あっと声が漏れた。
貯水湖の真ん中に浮かぶ島の上――すっかり修繕が済んで綺麗になった竜神の神殿の屋根に、先日までずっと私にくっ付いていたあの小竜神がいたからだ。
表情までは判別できないが、小竜神はじっとこちらを見つめているようだった。
きっと見送ってくれているのだと感じた私は、彼に向かって車窓から手を振る。
この地にやってきた時は、生け贄の乙女を食らって神になったシャルベリ辺境伯領の竜神という存在が怖くて怖くて仕方がなかった。
けれども、小竜神と身近に接したことで、竜神そのものに対する恐怖もいくらか和らいだように思う。
「パトリシア、誰に手を振ったんだい?」
「ええっと、シャルベリの竜神様……の石像にです」
慌てて誤魔化した私の言葉を訝しむ風もなく、閣下はそうかと頷いた。
神殿の屋根の上に鎮座する小竜神の姿は、やはり閣下の目に映っていないらしかった。
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ポー、と汽笛を鳴らし、汽車はいよいよ出発の時刻を迎える。
私は閣下が手配してくれた一等車の窓際の席に座り、ホームに立つ彼との別れを惜しんでいた。
「パトリシア」
そっと、噛み締めるように名を呼ばれる。
とたんに離れ難くなった私が利き手を伸ばせば、閣下の大きな掌が包み込むみたいにぎゅっと握ってくれた。
蒸気音と喧騒の中、閣下が私の耳元に唇を寄せる。
「叔父上がシャルベリに戻ってきたら、その後一緒にメテオリット家を訪ねて姉上に直談判するつもりだ。パトリシアをもう一度シャルベリに――いや、私の許に返してください、と」
「閣下……」
「だから、私が迎えにいくまで他の誰との縁談にも応えないでおくれ。どうか、私を待っていてほしい」
「……っ、はいっ……」
車掌がホームに降りて来て、汽車の扉を後ろから順に閉め始めた。
私はたまらず閣下の手を握り返し、窓から身を乗り出す。
危ないよと窘められても、聞き分けのない幼子みたいに首を横に振った。
「また……また、町を案内してくださる約束……果たしてくださいますか?」
「ああ、もちろん。今度は丸一日、パトリシアのために時間を作ろう。君を案内したい場所が、シャルベリにはまだまだたくさんあるからね」
閣下は優しく微笑んでそう言ったかと思ったら、縋り付く私の利き手の甲にいきなりキスをした。
ドキン――と大きく鼓動を刻んだ胸を、反対の手でとっさに押さえる。
利き手の甲にまざまざと残った唇の柔らかな感触に、自分の顔がじわじわと赤くなっていくのが鏡を見なくても分かった。
私の気持ちに連動するみたいに、先頭の機関車の煙突がポーッと激しく蒸気を吹き出す。
我に返って慌てて手を引っ込めた私に、閣下は悪戯そうに笑って言った。
「次に会う時は、唇にキスをする許可を姉上からいただきたいものだね」
シュッ、シュッ、と音を立てて汽車が走り出す。
それに触発されるように、私の閣下への気持ちも加速していった。
「――っ、閣下っ!!」
もう一度、私は走り始めた汽車の窓から顔を出し、ホームに立つ閣下に手を振る。
その姿を、この目に焼き付けてしまいたかった。
汽車はあっと言う間にホームを離れ、そこに立つ人の姿はどんどんと遠ざかっていく。
私は、閣下が砂粒みたいに小さくなっても、それこそ全然見えなくなってしまっても――間もなく汽車がトンネルに差し掛かるからと車掌が窓を閉めにくるまで、ずっとずっと窓の外を見つめていた。




