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2話 初対面の印象は最悪


「ーーっ、ぶっ! ふふっ……あはは! はははっ!」


 縁談相手に他の男と駆け落ちされた閣下と、縁談相手が結婚を前提に恋人と同棲を始めていたことが判明した私。

 そんな哀れな溢れ者同士で縁談を組み直してしまおうーーなんて叔父の口上を聞いたとたん、腹を抱えて笑い始めたのは、応接室の扉の前に控えていた若い軍人だった。

 それを、閣下が苦い顔をして窘める。


「……モリス、笑い過ぎだ。私はともかく、卿の姪御に失礼だぞ」

「も、申し訳ありません、閣下。だってっ、溢れ者って……ぶふっ!」


 モリスと呼ばれた若い軍人は、閣下の直属の部下だという。シャルベリ辺境伯領の名家トロイア家の次男で、若いながらも少佐の位を戴いている。

 そんなモリス少佐は、上官である閣下に窘められてもしばらくヒーヒー笑っていた。

 さすがの私も少々ムッとして彼を睨もうとしたが、その足もとに鎮座している黒い物体に気付いて、ぴきり、と固まる。

 私の向かいと隣では、閣下と叔父の会話が続いていた。


「卿、お言葉ですが、何の相談もなしに縁談の相手を変更されては困ります」

「おやおや? 閣下はそもそも、結婚相手としてマルベリー侯爵令嬢にこだわっていらっしゃらなかったようにお見受けしましたが?」

「それは……まあ、そうですが……」

「いよいよ辺境伯の位を継ぐことが決まり、いつまでも独身ではいられないと腹を括って縁談を受け入れようとなさったんじゃありませんか? 僭越ながらこのパトリシア、身内贔屓を差し引いたとて、マルベリー侯爵令嬢と比べても遜色ないと断言させていただきますよ」


 ここから叔父による、怒濤の私の売り込みが始まった。

 メテオリット家は爵位を持たないが、王家の末席に連なる由緒正しき一族である。

 とはいえ、その生活は質素倹約。庶民感覚にも精通し、婚家を食い潰す心配も無い。

 私はそんなメテオリット家の秘蔵っ子で、どこに出しても恥ずかしくないよう花嫁修行も済ませている、と。


「とにかく、閣下には絶対損をさせないと約束しますから! しばらくこの子を側に置いて、見極めてごらんなさいって!! ねっ!?」

「は、はあ……」


 そうして、弁が立つ叔父さんが押し切る形で、私はシャルベリ辺境伯領に滞在することが決定してしまっていたのである。


「じゃあね、パティ。叔父さんはこれから別件で海を渡ってくるからね。じっくりシャルベリ辺境伯領を見せていただきなさい」

「お、おじ、叔父さん……」


 もちろん、私は叔父の言葉にこれっぽっちも納得なんてしていなかった。縁談が破談になったのなら一刻も早く王都に帰りたかったのだ。

 トンネルの向こうまで一緒に馬車に乗せてもらえれば、後は一人で汽車に乗って帰れるから――そう訴えたかったのに、残念ながら私は声を出すことができなかった。

 少佐の足もとにある黒い物体――真っ黒い長毛種の大型犬が、その黒々とした瞳でじっとこちらを見つめていたからだ。

 物心ついた頃から、とてつもなく犬が苦手だった。

 私自身はその時のことをよく覚えていないのだが、ひどく噛まれて大怪我を負ったことがあるらしい。

 記憶はないのに恐怖だけはしっかり身に染み付いてしまっていて、犬の存在が、その視線が恐ろしくてならなかった。

 そんな私に、叔父はにっこりと微笑んだものの、その所業はさながら我が子を千尋の谷に突き落とす獅子のよう。


「いつまでも、強い姉さんの翼の下に隠れていちゃいけないよ。パティだって、ちゃんと一人で飛べるんだってことを証明してごらん」


 叔父は一方的にそう告げると、じゃあねっ、と片手を上げて颯爽と出て行ってしまった。

 時刻は午後四時を回ったところ。

 叔父が馬車ごと去ってしまい、今から別の馬車を手配してシャルベリ辺境伯領を出ても、王都に向かう汽車の最終便には間に合いそうにない。


「想定外の事態にさぞ驚いたことだろう。ここは、王都と違って何もないところだが……まあ、ゆっくりして行きなさい」

「す、すみません……お世話に、なります……」


 私はひとまず客人として、シャルベリ辺境伯邸に滞在させてもらうことになった。

 しかし、閣下は随分と気まずそうだ。

 私だって居たたまれないし、それにひどく憂鬱な気分だった。

 なにしろ、閣下とは初対面で躓いてしまったのだ。

 私のことを、シャルベリ辺境伯領を僻地と蔑んだマルベリー侯爵令嬢と勘違いしていたせいとはいえ、白々しい態度と棘を含んだ言葉から醸し出された〝招かざる客〟扱いにはおおいに傷付いた。

 閣下の部下だという少佐もいまだにニヤニヤしていて感じが悪いし、その足もとに鎮座する黒い犬の存在なんて、一刻も早く視界から消してしまいたい。

 とにかくシャルベリ辺境伯領の、ひいてはそれを実質治めるシャルロ・シャルベリに対する私の第一印象は、はっきり言って最悪だった。



 *******



「ここに一月も居るなんて無意味だわ。叔父さんの迎えを待たずに一人で王都に戻ろう……」


 宛てがわれた客室ーーシャルベリ辺境伯邸二階東向きの角部屋で、私は早々に王都に戻る決意を固めていた。

 閣下だって結局は、名の知れた仲人である叔父が連れてきた私をとんぼ返りさせるのは体面が悪いと考えて滞在を許しただけだろう。

 シャルベリ辺境伯の引き継ぎ業務に加え、軍司令官としても多忙らしい彼とは、この日は夕食を共にすることもなかった。

 叔父の提案を鵜吞みにして私との縁談を進めようという気は、閣下にはさらさらなさそうだ。

 そもそも、シャルベリ辺境伯領で語り継がれる竜神の存在が恐ろしくて仕方がなかった私としては、早々にこの地を脱出する口実ができて万々歳。

 王都から持ってきた荷物も解かず、明日の汽車の出発時刻に思いを馳せていた、そんな時である。

 コンコン、と扉を叩く音が響いた。

 時刻は間もなく午後九時になる。

 すでに就寝の用意を済ませてベッドに入ろうとしていた私は、応対に出るのが億劫で寝たふりをしようとした。

 だって、今日シャルベリ辺境伯領を訪れたばかりの私に、パジャマパーティをするほど親しい相手がいるはずもない。

 夕食も共にしなかった閣下が、よもや一緒にワインを飲もうと誘いに来るわけもないだろう。

 私の憂鬱な気分を助長するみたいに、外は雨。さっきからゴロゴロと雷までも鳴り始めている。

 ノックの主には申し訳ないが、今宵はこのまま不貞寝することを許してもらいたい。

 そんなことを考えながら、私はベッドに潜り込んで上掛けを被ろうとしたが……


「――パティ? あらあら、もう眠ってしまったのかしら?」


 扉の向こうから聞こえてきたのは、女性の優しい声だった。

 家族と同じように、私を「パティ」と親しげに呼ぶその声には聞き覚えがある。

 結局私は貝になり切れずに扉を開くこととなった。


「ああ、パティ! よかったわ。まだ起きていたのね」

「こんな時間にすまないね」

「こんばんは――旦那様、奥様」


 扉の向こうにいたのは、私の両親と同じくらいの年齢の男女だった。

 優しそうな面立ちの女性に対し、男性の方は厳めしい感じがする。

 このまったく正反対な印象の二人は夫婦で、何を隠そう現シャルベリ辺境伯とその夫人――つまり、閣下のご両親である。

 叔父に置いて行かれ、閣下も早々に仕事に戻ってしまった後、一人途方に暮れていた私を丁寧にもてなしてくれたのはこの二人だった。

 私みたいな若い娘の客は珍しい、と旦那様と奥様はとても歓迎してくれたのだ。

 彼らには嫁いで久しいお嬢様が三人もいるそうで、何だか懐かしくなってしまったのだとか。

 奥様は二十年ほど前に事故に遭い足を悪くしたらしく、車椅子の生活を強いられているが、笑顔を絶やさないお日様みたいな女性だ。

 旦那様は寡黙で一見すると厳しそうな人だが、にこにこしている奥様を見つめる眼差しは柔らかい。

 仲良く寄り添う二人を見ていると、私の心の憂鬱も少しだけ晴れるような気がした。


「おやすみのキスがまだだったでしょう、パティ。シャルベリにいる間は、私にあなたのお母様の代わりをさせてちょうだいね」


 そう言って、優しく手を握ってくれる奥様の厚意を無下になんてできるはずもない。

 私は少しだけ照れくさい気分になりながらも、おやすみのキスをちょうだいするために、車椅子の奥様に合わせて膝を折ろうとした――その時だった。 

 ピカッと、辺りに凄まじい閃光が走った。


「きゃっ……!?」


 咄嗟に悲鳴を上げたのは、私だったかもしれないし奥様だったかもしれない。

 とにかく、廊下の窓から飛び込んできた強い光に驚き、胸の奥で一瞬心臓が跳ね上がる。

 しかし、それだけでは終わらなかった。

 バリバリバリと空気を引き裂くような耳触りな音に続き、ドーンと凄まじい霹靂によって屋敷が揺れる。


「ひぇっ……!!」


 その瞬間、最初の稲光ですっかり竦み上がっていた私の心臓は恐慌をきたし、胸の中でひっくり返りそうなくらいに暴れ始めた。

 ドクッ! ドクッ! ドクッ! と鼓動が異常なほど激しくなる。

 強烈な勢いで心臓から吐き出された血液が、凄まじい早さで血管の中を駆け巡った。

 全身に張り巡らされたありとあらゆる毛細血管の先端にまで、古来より受け継いだメテオリット家の血が行き届く。

 それを、私はこの時ありありと感じていた。


「だ、だめっ……待ってっ!!」


 咄嗟に叫んだその言葉は、果たしてちゃんと音になっていただろうか。

 みるみる変わっていく視界に、成す術もない私は愕然とする。

 一方、私と同じくいきなりの大音量に驚いた旦那様と奥様は、互いに胸を押さえてため息を吐いた。


「やれやれ、すごい雷だったな。あの様子では、うちの庭の木にでも落ちたやもしれん」

「まあまあまあ、大変! 火事になってしまわないかしら?」

「雨が降っているから問題ないだろう。シャルロもまだ軍の施設にいるようだから、任せておけばよい」

「ふふ、そうですね。あの子がいるから安心ね」


 茫然とする私の頭上では、旦那様と奥様が顔を見合わせてそんな会話を交わしている。

 ところがふと、私の方に視線を戻した瞬間、二人の目がみるみるうちにまん丸になった。


「あっ、あらっ!? あらあらあら! まあまあまあまあ!!」

「な、なんと……これはいったい……」


 旦那様と奥様は、さっきの落雷以上にびっくりした表情になって、私を見下ろしていた。

 しかし、それも無理はない。

 なんと言っても彼らの目の前には、おおよそさっきまでの私と似ても似つかぬ存在がぺちゃんと尻餅をついていたのだから。


「……」


 私のお尻の下には、今の今まで身に着けていたシルクの寝衣が無造作に広がっている。

 それに包まれていたはずの身体は、肌色に朱色を混ぜ込んだみたいなピンク色――ちょうど、髪と同じ色をしていた。

 小さな五本の指の先には鉤爪が付き、ああ……とため息を吐いたつもりが、口から出たのは「みぃ……」という、何とも弱々しく情けない鳴き声。

 思わず天を仰げば、絶句する旦那様と奥様の顔が見え、私はますます絶望的な気持ちになる。

 そんな中でも真っ先に我に返ったのは、長年この地を治めてきたシャルベリ辺境伯である旦那様だった。

 旦那様は私の前にしゃがみ込むと、ゴクリと唾を呑み込んでから、震える声で言った。


「メテオリット家に竜の血が受け継がれているというのは……ただの迷信ではなかったのか……」


 旦那様の言う通り。

 私が生まれたメテオリット家は、アレニウス王家の末席に連なりつつ太古の竜の血を引く一族である。

 私はそんな一族の中で時々生まれる先祖返りの一人――ただし、何の役にも立たない、落ちこぼれの子竜だった。


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