19話 駅に向かう馬車
「姉から手紙で、ロイ様との縁談がまとまらなかったのなら、家に戻ってくるように言われたんです」
昨日の夕刻、私のもとに姉からの手紙が届いたことは閣下も知っている。
一週間ほど前、私は自分の近況報告とともに、シャルベリ辺境伯から領有権を取り上げんとする書状について、姉とその上司であるアレニウス王国軍参謀長リアム殿下に意見を求める手紙を送っていた。
その答えが閣下宛てに封書で届き、私への返事もそこに同封されていたのだ。
現在メテオリット家の当主は、私の姉マチルダ・メテオリットである。
そして、当主の決定は絶対だという風潮は古い家ほど強い。
だから、旦那様も奥様も、そして閣下も、姉の命によって王都に戻るという私の言葉を否定することはなかった。
閣下は、朝一で軍の重要な会議があるとかで、早々に朝食を済ませて席を立った。
私は、朝食を終えたらシャルベリ辺境伯邸を出るつもりなので、彼とはこれっきりだろう。
「閣下、お世話になりました」
もう一度そう言った私に、閣下は小さく頷いただけでそのまま食堂を出て行ってしまう。
実に、あっさりとしていて素っ気無い別れだった。
ぐっと唇を噛んで俯く私の頭を、ふいに大きな手が撫でてくれる。旦那様だ。
「こちらの都合で引き留めてしまってすまなかったね。パティと過ごしたこの数日は、我々にとって掛け替えのない日々だった。後で、私の方からも姉上にお礼の手紙を送っておこう。道中気を付けなさい。姉上のお許しがあれば、またいつでもここにおいで」
「……っ、はい。ありがとうございます、旦那様」
温かい言葉と労るように撫でてくれる無骨な掌に、私は涙腺が緩みそうになるのを必死にこらえた。
旦那様が優しくしてくれればくれるほど、何も言わずに行ってしまった閣下と比べ、私は自分の独り善がりを痛感する。
閣下にとって特別な存在になれたのでは、なんて自惚れていた数日前の自分を殴り飛ばしてやりたくなった。
「パティがいないと寂しいわ。何とかして、滞在延長の許可をいただけないかしら? 私から、お姉様にお手紙を書いて……」
奥様は、両目に涙まで浮かべて私の帰郷を惜しんでくれた。
何とか姉を説得できまいかと、便箋とペンを用意しようとする。
そんな彼女に、ぴしゃりと水を差すようなことを言うのはクロエだった。
「まあ、お義母様、いけませんわ! パトリシアさんにはシャルベリに留まる意味なんてありませんのに、引き留めてしまっては可哀想! 気持ちよく送り出して差し上げないとっ!!」
私が王都に戻ると告げてから、ずっと一人だけにこにこしていたクロエが、ねえ? と猫撫で声で同意を求めてくる。
私がそれに何も応えずとも気にする様子もなく、彼女は晴々とした笑みを浮かべて言った。
「後日、私とシャルロ様の結婚式の招待状を送りますから、是非ともご出席くださいね!」
私は、自分がどんな顔をしてそれを聞いているのかも分からなかった。
*******
シャルベリ辺境伯領はこの日も快晴だった。
陰鬱とした私の心なんて素知らぬ風に、閣下の瞳の色みたいに真っ青な空には雲一つ無い。
はあ、と吐き出したため息は、誰に拾われることもなく冴え冴えとした空気の中で掻き消えた。
馬車を出してトンネルの向こうまで送っていこうと言う家令の申し出を断って、私はシャルベリ辺境伯邸の裏門を出た。
貯水湖を囲む大通りを一周して、汽車の駅がある北側のトンネルの向こうまで行く乗り合い馬車がそろそろ来るはずだったからだ。
私物を詰め込んだ鞄を抱えて無言で佇む私に、年若い門番が気遣わしそうにしている気配がする。
そんな善意の視線さえも今は煩わしくて、私は俯いて足元の石畳ばかり見つめていた。
やがて、カツカツと馬の蹄が地面を叩く音と、ガラガラと車輪が回転する音が聞こえてくる。
ついに乗り合い馬車がやってきたのかと思ったところで、私はふと違和感に気付いた。
音が、大通りがある前方ではなく、後方――シャルベリ辺境伯邸の敷地内から近づいて来ていたからだ。
はっとして顔を上げたのと、私の隣で馬車が止まったのは同時だった。
「わんっ!」
「ひえっ!?」
とたんに響いた犬の鳴き声に、私はびくりとしてその場で飛び上がる。
たちまち跳ね上がろうとする鼓動は、とっさに胸に手を押し当てることによって抑えた。
恐る恐る顔を横に向ければ、すぐ隣に止まった馬車の御者台の上で、よくよく見知った黒い犬がしっぽをフリフリしているではないか。私は一瞬ぽかんとした。
「ロイ……?」
「わふっ」
犬は、少佐の相棒ロイだった。
もちろん、どれほど賢い軍用犬であっても犬が馬車を御するのは不可能で、御者台にはちゃんと彼の飼い主がいて手綱を握っていた。
少佐はロイの頭をモフモフと撫でながら、何故だかじとりとした目で私を見下ろす。
「おはようございます、パトリシア嬢。私とロイに一言も無く出て行くなんて、随分水臭いじゃないですか?」
「少佐……あ、あの……」
おろおろし始める私に、彼は一転して困ったような笑みを浮かべ「すみません、冗談です」と続けた。
「今更何だと思われそうですが……実は私、あなたに謝らなければならないことがあるんです」
「え? ええっと、何でしょうか……?」
「ほら、パトリシア嬢がシャルベリにいらした日。閣下とあなたを叔父上が溢れ者同士っておっしゃったのを、私が思いっきり笑いましたでしょう。あれ、後から考えたら相当失礼だったなと反省したんです」
「あ、はあ……」
少佐の言葉に、私はそんなこともあったなと心の中で呟いた。
あれからまだ一月も経っていないのに、何だかひどく懐かしく感じる。
そういえば、子竜の姿で二度目に閣下の執務室に連れて行かれた時だったか。
初対面で私に対してやらかした、と少佐が後悔を口にしていたのを思い出した。
「閣下はともかく、あなたを軽んずるつもりはなかったんです。その節は、本当に申し訳ありませんでした」
「いえ、平気です。気にしておりませんので……」
「ああいう突発的な縁で繋がった閣下とあなたの関係が、これからどんな風に展開していくのか楽しみにしていたんです。だから、あなたが帰ってしまうのを心底残念に思います」
「……恐れ入ります」
少佐の言葉が社交辞令には思えず、私も素直に申し訳ない気持ちになる。
そんな私に苦笑して、少佐は「汽車の駅まで送ります」と言ってくれた。
とはいえ、少佐も暇ではないだろう。
そう思った私が家令と同様に彼の申し出も断ろうとした、その時である。
バタン! と、いきなり馬車の扉が開いた。
かと思ったら、中からにゅっと手が伸びてきて、私の二の腕を掴む。
そうして、悲鳴を上げる間もなく馬車の中に引っ張り込まれてしまった私は、手の主を知ってぎょっとした。
「――か、閣下!?」
馬車の中にいたのは、朝食の席で素っ気無く別れたはずの閣下だった。
しかし……
「え……か、会議だったのでは……?」
「父に頼んできた」
確か、重要な会議があると聞いたはず。
おずおずと尋ねた私に、閣下は何故か怒ったような顔をして答えてから、いささか乱暴に馬車の扉を閉めた。
バン、と響いたけたたましい音に思わず身を竦める。
そんな私を、閣下はあろうことかいきなりぎゅっと抱き締めた。
「か、閣下……? あ、あの……?」
突然のことに、全身が硬直する。
心臓なんて、びっくりし過ぎて一瞬鼓動を忘れてしまったほどだった。
そんな私の耳元に、閣下がそっと囁く。
「――私と、これ以上一緒に居たくないのなら、遠慮なくそう言ってくれて構わない。その時は、私はすぐにこの馬車を降りよう。心配ないよ。どちらであっても、モリスがちゃんと君を汽車の駅まで送ろう」
落ち着いてはいるが、決意を秘めた声だった。
その声を聞く限り、一緒に居たくないと言えば、彼は本当に私を解放して馬車を降りてしまうだろう。
そしてきっと、私達はもう二度と会うことはないに違いない――そう、感じた。
(そんなの、嫌だ――!)
私は反射的に閣下の背中に両手を回してしがみつく。
ひゅっ、と息を呑む音を耳元で感じた、次の瞬間――
「……っ、あ」
今度は息もできないほど強く、閣下の両腕にかき抱かれた。
私と閣下の身体の隙間が限りなく零に近づき、押し付け合った互いの胸の奥が脈打つリズムさえも一つになっていく。
ドクドクドクと、私の心臓は煩かった。
ドクドクドクと、閣下の心臓も騒がしかった。
そんな中、閣下は私のこめかみにぐっと唇を押し当てると、御者台に向かって声をかける。
「――モリス、出してくれ」
御意、とすかさず少佐が応え、私と閣下を乗せた馬車はゆっくりと走り出した。