18話 お役ご免
「――し、失礼しましたっ!!」
上擦った声でそう叫んだ少佐が、叩き付けるみたいに勢い良く扉を閉める。
バタンッ! と大きく響いた音に驚いて、ロイが後ろに飛び退いた。
一方、部屋の中からは、モリス! と閣下の焦ったような声が聞こえてくる。
それに応えて少佐が再び扉の取手に手を掛けたところで、私は身を捩って彼の腕から逃げ出した。
もう一瞬たりとも、閣下とクロエが一緒にいるところを見たくなかったからだ。
「あっ、こら……パティ、待って!!」
廊下に敷かれた絨毯の上に丸まって落ちた私は、運が良いのか悪いのか、ちょうど一歩前に出ようとしていた少佐の足に当たってボールみたいにポーンと跳ねた。
おかげで捕まえようと伸びてきた少佐の手を躱し、コロコロコロコロ転がって、幾つもの扉の前を通り過ぎていく。
曲がり角の直前では、廊下の隅に置かれていた荷物に打つかって方向転換した。
上手い具合に角を曲がった子竜ボールは、さらにコロコロ。
このままどこまでもどこまでも転がっていくかと思われたが——予想に反し、いくらも行かないうちにポテンと何かに打つかって止まった。
「――パティ!?」
とたんに降ってきたのは、聞き覚えのある声。旦那様の声だ。
たまたま軍の施設を訪れていた旦那様と、私は偶然鉢合わせたらしい。
これは、間違いなく運が良い。
そうこうしている間にも、曲がり角の向こうからは子竜を呼ぶ少佐の声が近づいてくる。
私は慌てて立ち上がり、旦那様の足にしがみついた。
それを見て即座に状況を把握したらしい旦那様は、すぐさま私を抱き上げて上着の中に隠した上で、やにわに手近な窓を開け放つ。
息急き切らした少佐が角を曲がってきたのは、その直後であった。
「すっ、すみませんっ! 今し方、こちらにピンク色をした小さな生き物が来ませんでしたか!?」
「はて、ピンク色をした小さな生き物……そういえば、そこの開いた窓から何かが出て行ったようだったな」
少佐は旦那様の言葉を疑いもせず、窓から身を乗り出して「パティー!!」と悲壮な声で叫ぶ。
その傍らでは、ロイが鼻をヒクヒクさせながら、じっと旦那様を見上げてしっぽを振っていた。
旦那様に匿われて無事客室に戻ることができた私だったが、これまでとは違って一晩経っても人間の姿には戻らなかった。
原因はおそらく、昨夜一睡もできなかったせいだろう。
鼓動はもうすっかり落ち着いているというのに、胸の奥が、心臓が、心が、とにかく痛くてたまらなかった。
瞳を閉じると、執務室のソファの上で折り重なるようにしていた閣下とクロエの姿ばかりが浮かんでくる。
あの場面だけ切り取れば、二人は恋人同士で、執務室でいちゃついていたように見えるだろう。
しかしながら、現実はまったく違っていた。
私の様子に諸々察した旦那様が集めた情報によると、まずクロエが執務室に現れたことからして、閣下の望むところではなかったようだ。
とにかく閣下の近くに行きたかったクロエは、部外者立ち入り禁止の軍の施設に潜り込むために、扉を守る衛兵を買収することにしたらしい。
裏口の扉の脇に置かれたベンチでいつもぷかぷか煙草をふかせている、あの年老いた衛兵である。
何でも、王都でしか手に入らない高価な煙管を融通すると約束したのだとか。
そうして、老衛兵から閣下の執務室の場所まで教わったクロエは迷わずその扉を叩き、てっきり少佐が戻ってきたものと思い込んだ閣下は誰何もせずに入室を許可してしまったというわけだ。
当然のことながら、入ってきたのがクロエだと気付いた閣下は驚き、彼女を説得して追い返そうとする。
ところが、件の老衛兵から余計な情報を仕入れていたクロエは食い下がった。
「パトリシアさんは、この部屋に招き入れられたことがあるそうではないですか! ただの客人のあの子がよくて、婚約者の私がだめだなんて――そんなの、納得いきませんっ!!」
まだ婚約したわけではない、という閣下の主張は呆気なく無視されたらしい。
押し問答の末、クロエがソファに倒れ込んだのはたまたまだったかもしれない。
しかしその際、閣下を道連れにしたのは、はたして偶然か。
とにかく、二人してソファに倒れ込んだところで、子竜姿の私と犬のロイを連れた少佐が扉を開いた。
「もう少しモリスの戻りが遅かったら、わざと着衣を乱して私に乱暴されたとでも嘯きそうな雰囲気だった」
閣下は青い顔をして、そう旦那様に語ったらしい。
クロエは、あわよくば既成事実を……くらいは企んでいたのだろうか。
私が旦那様の上着に隠されて私室に戻った後、閣下と少佐は力を合わせて、何とかクロエを軍の施設から追い出した。
もちろん、いとも簡単に彼女に買収された老衛兵には相応の処分が下され、軍の施設の裏口に彼の姿はもうない。
クロエが異様なほど閣下に――あるいは、次期シャルベリ辺境伯の婚約者という立場に固執している反面、閣下自身がそんな彼女の言動に思いっきり引いてしまっているのは傍目に見ていて明らかだった。
それでもクロエは、一度は閣下と縁談の日取りまで決まっていた間柄なのだ。
仲人の叔父が戻ってこなければ話が進まないので、クロエはそれまでシャルベリ辺境伯領に滞在するという大義名分が立つ。
それに対して、叔父の面子を保つために、その場凌ぎで閣下に宛てがわれただけの私はどうだ。
奥様の車椅子を押す役目からも下ろされて、日がな一日ぼんやりと過ごす自分自身を振り返ると、どっと虚しさが押し寄せてくる。
一晩経っても人間の姿に戻れず、私室に匿ってくれた旦那様と奥様にはいつも以上に迷惑をかけてしまった。
とにかく私は、今の自分が歯痒くて仕方がない。
子竜になった日の夜と、その翌日の朝昼夜。結局、四回続けて食事の席に現れなかった私をさすがに心配して、閣下が訪ねてきた。
と言っても、子竜の姿のまま応対できるはずもなく、旦那様と奥様が上手くごまかしてくれているのを扉越しに聞いているしかなかった。
その際、閣下に纏わり付くクロエの声がして、私は頭からシーツを被って耳を塞ぐ。
やがてうとうとし始めた頃に聞こえてきたのは、またあの知らない子供の声だった。
『ひ弱なちびのくせに。お前みたいなのが竜を名乗るな』
『何の役にも立たない、出来損ない』
『お前みたいな落ちこぼれの子竜はーーでしか生きていけないだろう』
相変わらず、私を詰り、嘲笑う。
いつの間にか目の前に現れた口元だけが見える子供は、ニイと笑ってこう問うた。
『ねえ――お前、一体何のためにここにいるの?』
私は、ひゅっと息を呑む。今まさに、自問していることだったからだ。
当初の縁談が破談になったのだから、早々に王都に戻るつもりでいたのだ。
ところが、ひょんなことから子竜化してしまうことが旦那様と奥様にばれ、それをきっかけに彼らに請われてシャルベリ辺境伯領に留まることになった。
最初は閣下に嫌われていると思い込んでいたために居心地はあまりよくなかったが、それが誤解だと判明して彼と打ち解けてからは、王都に戻りたいという気持ちも徐々に薄まり始めていた。
いや――むしろ、もっとシャルベリ辺境伯領にいたいと思うようになったのだ。
私が作ったスパイスクッキーを閣下が手放しで喜んでくれて嬉しかったし、王都からの不審な書状に意見を述べたことを評価してもらえて誇らしかった。
町を案内してもらった際、会う人会う人が私を恋人か婚約者のように誤解するのを閣下が否定しなかったから、もしかしたら彼もまんざらではないのかと心のどこかで期待した。
だから、また町を案内すると閣下の方から言ってくれたのが嬉しくて、社交辞令なんかじゃないって思いたかった。
女性不信気味なのにかまってもらえる自分のことを、閣下にとって特別な存在なのではないか、とどこか自惚れ始めていたのかもしれない。
けれども――。
本来の閣下の縁談相手であるクロエが現れたことで、叔父の体裁を保つために押し付けられた、その場凌ぎの縁談相手という私の役目は終わったのだ。
スレンダーで洗練された雰囲気のクロエは、黒い軍服に身を包んだ長身の閣下の隣に悔しいほど映えた。
年齢差を理由に、閣下に結婚対象としては見られないと言われた私では、きっと敵わないだろう。
卑屈を募らせる私を、夢の中の知らない子供がますます嘲笑う。
ニイと意地悪そうに歪んだ口が、冷たく言い放った。
『お前がここにいる意味なんてないよ――落ちこぼれの子竜』
王都の姉から手紙の返事が届いたのは、私が子竜姿になった翌日の夕刻のことだった。
そのさらに翌朝。
ようやく人間の姿に戻れた私は、私物を鞄に詰め込んで、二十日余りを過ごした二階東向きの角部屋を後にする。
一階テラスに設けられた朝食のテーブルまで行くと、閣下はすでに席に着いていた。
こちらに気付いて椅子から立ち上がった彼が何か言う前に、私は口を開く。
「今までお世話になりました。私――王都に帰ります」
当たり前のように閣下の隣を陣取っているクロエの手前、声が震えそうになるのを必死でこらえた。
私のなけなしのプライドが、彼女に情けない姿を見せるなと叫んでいる。
閣下は空色の瞳を大きく見開き、なぜ、と唇を震わせた。




