17話 マルベリー侯爵令嬢
「クロエ・マルベリーと申します」
満面の笑みを浮かべてそう名乗ったのは、スレンダーで背が高く、洗練された雰囲気の女性だった。
黒い巻き毛をゆったりと背に垂らし、切れ長のヘーゼルの瞳が色っぽい美人である。
私が姉宛てに出した手紙と入れ違いで、いきなり単身シャルベリ辺境伯領に現れた彼女に、閣下も旦那様も奥様も、もちろん私も大いに戸惑った。
というのも、マルベリー侯爵令嬢クロエといえば、私の叔父がマルベリー侯爵から頼まれて閣下との縁談を取りまとめたにもかかわらず、日取りが決まった矢先に使用人の男と駆け落ちしてしまったはずなのだ。
「シャルベリ辺境伯領に嫁ぐのは本意ではないとおっしゃって、使用人と一緒に出奔なさったと伺っておりますが?」
表情を取り繕った閣下がそう指摘する。
マルベリー侯爵令嬢が「辺境伯領なんて僻地に嫁ぐのは嫌!」と大暴れしたという話が閣下の耳にまで届いており、ただでさえ女性不信気味の彼の心証は最悪だった。
ところが、クロエはさも心外だとばかりに首を横に振る。
「いやだわ、シャルロ様! そんな、駆け落ちしたみたいにおっしゃらないでっ!!」
「……違うのです?」
「一方的に想いを寄せてきた使用人が、私を無理矢理連れ出したんです! けれど、ご安心ください! すぐに助け出されて、この身は清いままですからっ!!」
「そ、そう……」
クロエの剣幕に、閣下はたじたじとなる。
私の隣では奥様が「うちのお姉ちゃん達みたいな一癖ありそうな子ねぇ」と独り言を零していた。
三人のお姉様達みたいということは、彼女達の言動がトラウマな閣下にとって、クロエは鬼門ではなかろうか。
僻地に嫁ぐのは嫌だと喚いた件については、家族と離れるのが寂しくて、つい心にもないことを言ってしまったとクロエは弁明する。
そんな綺麗事をにわかには信じられず、もしやクロエを名乗る偽物ではないかという疑念も抱いた。
しかし、昨年王都に出向いた際にマルベリー侯爵からクロエを紹介されていた旦那様が、彼女は本物で間違いないだろうと言う。
「シャルベリに骨を埋めるつもりで参りましたの。どうか、末永く可愛がってくださいませ」
艶やかに微笑んでそう告げたクロエに、私は一瞬見惚れた。
自信に満ち溢れた彼女を、いっそ羨ましいとさえ感じる。
一方、閣下と旦那様は困ったみたいに顔を見合わせている。
新たな縁談相手としてシャルベリ辺境伯邸に置いていかれた私がいる手前、いきなり現れたクロエの扱いに困っているのだろう。
しかし、当初の予定通り閣下とクロエの間で縁談を進めるにしても、はたまた完全に破談にしてクロエを王都に帰すにしても、仲人である私の叔父抜きでは話が始まらない。
結局、叔父がシャルベリ辺境伯領に戻ってくると言い残した数日後まで、クロエを客人としてシャルベリ辺境伯邸に滞在させることになった。
「まあまあ、シャルロ様! いけません! 朝食はたくさん召し上がらないとっ!」
「いや、朝はあまり食欲が……」
「朝にしっかりと栄養を取らなければ、集中力がなくなりイライラしやすくなってしまうんですよっ!!」
「あ、そう……」
当然のようにシャルベリ家の食卓に自分の席を加えたクロエは、さっそく甲斐甲斐しく閣下の世話を焼き始めた。
朝は小食気味の閣下の皿に、次々と料理を積み上げて満面の笑みで迫る。
朝食の重要性など、言っていること自体は正しいので、旦那様や奥様も止めるに止められないようだ。
それにしても、いくら精がつく食材だからといって朝からオイスターを山盛り食べさせようとするのは、さすがにやめてあげてほしい。
盛大に顔を引き攣らせている閣下も気の毒だったし、私の胸もなんだかチリチリと痛んだ。
しかし、クロエ本人は周囲の戸惑いもどこ吹く風で、すでに閣下の婚約者であるかのような振る舞いはこれに留まらなかった。
「さあ、お義母様! 今日はどちらへ参られますか? クロエがどこへだってお供しますわ!」
「あ、ありがとう。でもね、せっかくだけど車椅子はパティが押してくれるから……」
「あら、お義母様のお世話は嫁の私がすべきことでしょう? それに、赤の他人に車椅子のハンドルを預けるなんて不用心だわ!」
「赤の他人だなんて……そんな風に言わないでちょうだい。パティはとってもいい子なのよ」
奥様の車椅子を押す役目も、早々に私からクロエに移った。
いや、奪い取られたというのが正しい。
私に関しては、客としてシャルベリ辺境伯邸に滞在しているとクロエには伝えられていた。
しかし、彼女は閣下の側に自分以外の女がうろつくのを煩わしく思っているらしい。
「それで? パトリシアさんは、一体いつまでシャルベリに居座るおつもりなのかしら?」
直球でこんな質問を投げつけられたら、嫌でも自覚する。
私は、クロエにとって紛うことなき邪魔者だった。
「クロエ嬢、口を慎みなさい。パティは君とシャルロの縁談を取りまとめた仲人の姪御だぞ。勝手な振る舞いで仲人の顔に泥を塗った自覚はあるのか? 叔父上が迎えに来るまで、せめて姪御のパティに礼を尽くすのが筋ではないか」
その場に居合わせた旦那様が少し厳しい口調で咎めるみたいに言う。
しかし、クロエはそれでへこたれるような柔な神経はしていなかった。
当初の縁談の日取りに間に合わなかったのは自分のせいじゃないのに、と旦那様の苦言に唇を尖らせていたかと思ったら、私に向かってこう宣ったのである。
「つまり、仲人がお戻りになったらパトリシアさんはシャルベリを出ていく……それでは、あと少しの辛抱ですわね!」
「えっ……」
絶句する私に、クロエはぱっと大輪の花を思わせる笑みを浮かべて続けた。
「そうだ! せっかくですから、私とシャルロ様の結婚式に出席していってくださいな! 私、あなたに向かってブーケを投げますわね!」
いやだ——! 心の中で即座に答える。
閣下とクロエの結婚式になんて絶対に出たくない。
私はこの時、はっきりとそう感じた。
クロエが閣下や奥様に纏わり付くほど、私が彼らと一緒に過ごす時間は極端に減っていった。
始終張り付いてこようとするクロエを回避するため、閣下は軍の施設をシャルベリ辺境伯軍の軍人以外立ち入り禁止にした。必然的に、執務室でのお茶に私が誘われることもなくなった。
奥様が定期的に庭園で開いていたお茶会も、なんだかんだでクロエが仕切るようになったため、私には居心地が悪い。
その結果、時間を持て余した私は専ら旦那様の書斎に入り浸って本を読んでいた。旦那様が自由に出入りしていいと言って鍵を預けてくれたからだ。
旦那様も旦那様で、シャルベリ辺境伯位の引き継ぎ業務が大詰めらしく慌ただしい毎日を送っており、私は一人きりで過ごすことが増えていた。
それでも、しばらくは平気だったのだ。
クロエの存在に胸の奥にはもやもやとしたものが蓄積していたが、叔父が戻ってくるのを待つつもりでいた。
というのも……
「あなた、本当にチョコレートが好きなのね?」
一人ぼっちで過ごしているように見える私だが、実はちゃんと相棒がいた。
竜神の石像と一緒にシャルベリ辺境伯邸に留まっているあの小竜神が、ずっと側にいてくれたのだ。
よほど一人で寂しそうに見えるのか、私の身体に巻き付くみたいにぴったりとくっついてくる。
そんな小竜神の好みは相変わらず。
瞳をキラキラと輝かせながら、私が読書のお供にもらってきたおやつの皿からチョコレートを啄んでいる姿には愛嬌があった。
小竜神の瞳は、閣下のそれと同じ青空の色だ。
そのせいか、私のスパイスクッキーにいたく感動していた閣下の瞳を思い出し、ついつい彼が恋しくなってしまう。
そんな思いを誤魔化すみたいにさりげなく撫でた小竜神の胴体は、ひんやりとしていて案外触り心地がよかった。
「あなたはどうして私の側にいてくれるのかな? 竜のよしみ?」
初めて見た時は怖いと思った小竜神だが、今となっては私の心の拠り所の一つになっていた。
だから、神殿の屋根の修繕が終わって石像が元の場所に戻されたと聞いた時――小竜神の姿が消えて、本当に一人ぼっちになってしまった時。
私は、自分が一体何のためにシャルベリ辺境伯邸に留まり続けているのか分からなくなった。
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にわかに空を黒い雲が覆い、ゴロゴロと雷鳴が轟き始めたのは、竜神の石像が貯水湖の真ん中にある神殿に戻された日の夕刻のことだった。
クロエがシャルベリ辺境伯邸にやってきて、今日で一週間。
その前に姉に送った手紙の返事がまだ来ないことに、私は少しやきもきした気持ちでいた。
旦那様の書斎にある本を読むのにも飽きてきて、気晴らしに庭園に出た私の足はハーブ園に向かう。
そこで摘んだのは、〝小さな竜〟を語源とするタラゴン。それ自体に仄かな苦味と甘い香りを持つおかげで、他のハーブとブレンドせずとも単体で美味しいハーブティーを楽しむことができる。
のんびり散策する気分にもならなかったため、タラゴンを二房摘んだらすぐにハーブ園を出た。
いつの間にかぽつりぽつりと雨が降り始めていて、傘を持ってきていない私は屋敷へと急ぐ。
その最中のことである。
「ひゃっ……!?」
突如、ピカッと空が光った。
かと思ったら、バリバリバリと空気を引き裂くような耳触りな音に続き、ドーンと凄まじい霹靂が響いた。
雨にばかり気を取られてすっかり油断していた私は、その場で飛び上がるくらいにびっくりする。
あっ、と思った時には遅かった。
私の心臓はたちまち恐慌をきたし、胸の中でひっくり返りそうなくらいに暴れ始めた。
ドクッ! ドクッ! ドクッ! と鼓動が異常なほど激しくなる。
強烈な勢いで心臓から吐き出された血液が凄まじい早さで血管の中を駆け巡り、全身に張り巡らされたありとあらゆる毛細血管の先端にまでメテオリット家の竜の血が行き届いた。
私は迂闊にも、またもや庭園の真ん中で子竜化してしまったのである。
「ぴい……」
尻の下に広がる衣服と、地面に散らばったタラゴンを見つめてため息を吐く。
これまで何度か子竜化した私を回収してくれた小竜神がいない中、旦那様か奥様のもとへ――いや、奥様にはクロエが張り付いているので助けを求められないだろう。
とにかく、人目に付かずに私室に戻るにはどうすれば……と途方に暮れている時だった。
「――わんっ」
「ぴっ!?」
すぐ側の生垣がガサガサと音を立てて揺れたかと思ったら、ぬっと出てきたのは真っ黒い犬の鼻先だった。ロイだ。
私はもう一度飛び上がるくらいびっくりしたものの、現れたのが見知った相手であったことにほっとする。
犬に対する恐怖心が消えたわけでない。ロイのことは嫌いじゃないが、やっぱり怖いものは怖いのだ。
ただ、クロエが来てから少佐と会うことも無くなり、必然的にロイとの距離も遠ざかっていたために、なんだかひどく懐かしい気分になった。
ふいに視界が滲み、ぽろぽろと涙が零れ出す。雨粒よりも大きいそれが、ペタンと地面に座り込んだ私の膝の上でぴちゃんと跳ねた。
すると、ずいっと顔を近づけてきたロイが、私の顔中をペロペロと舐め始める。
一瞬だけ恐怖に身体が強張ったが、彼が涙を拭おうとしてくれているのは明白だったため、私は大人しくされるがままになっていた。
ロイはやがて、いつぞやのように私の首根っこを優しく咥えて歩き出す。
子竜の姿が人目に付くことを恐れた私は慌てたが、すぐに杞憂と分かった。
生垣を越えたところで、子竜化した私にとっても馴染み深い相手と出会えたからだ。
「――パティ!?」
ロイの口にぶら下げられた私を見つけたとたん、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきたのは、彼の飼い主である少佐だった。
「ちょうど良かったよ、パティ。本当にいいところに来てくれた」
少佐はそう言ってすぐさまロイの口から私を受け取ると、小雨に濡れないように軍服の上着の中に抱き込んで足早に歩き始める。少佐にだっこをされるのはこれが初めてのことだった。
前回の邂逅の際、子竜が人語を理解し拙いながら字も書くと知った少佐は、被せた上着越しに私の背中を撫でながら、実はね、と続ける。
「ここのところ、招かざる客人のせいで閣下がすっかり参ってしまっていてね。是非とも君に癒して差し上げて欲しいんだ」
閣下が、クロエの扱いにほとほと困っているのは私も知っていた。
自由奔放かつ傍若無人な彼女の振る舞いは、かつて閣下のトラウマ製造機であった三人の姉達を彷彿とさせる。
にもかかわらず、クロエがシャルベリ辺境伯邸への滞在を許されている理由は、単純にシャルベリ家とマルベリー家の爵位の差にあった。
一般的に、侯爵と辺境伯では前者の方が身分が上である。
曲がり形にも侯爵令嬢を名乗るクロエを、閣下はなかなか邪険にはできない。
それに、本来ならば侯爵家から花嫁を迎えることは、シャルベリ辺境伯家にとっては良縁だったはずなのだ。
ところが……
「クロエ嬢が来たせいで、やっと打ち解けてきたパトリシア嬢をデートに誘う隙もない。閣下がお気の毒で仕方がないよ」
閣下の一の忠臣ともいえる少佐の中で、人間パトリシアはそれなりに株が上がっていたらしい。少なくとも、クロエよりは評価は上のようなのにほっとする。
そうして、私は少佐の胸元に大事に抱かれたまま、一週間ぶりに閣下の執務室までやってきた。
「閣下ー! 最高のお届けものですよー!!」
この時、少佐がノックもせずに扉を開いてしまったのは、子竜を早く閣下のもとに届けてやりたいと気が急いていたせいだろうか。
上司を上司とも思わない言動が目立つ少佐だが、本当は閣下をとても大切に思っているのがよく分かる。
はたして、ガチャリと音を立てて開いた扉の向こうに見えたのは、この部屋の主である閣下本人の姿。
奥の執務机ではなく、部屋の中央にあるソファにいた閣下は、盛大に顔を強張らせていた。
その表情の理由は、すぐさま判明する。
「――いやだわ、シャルロ様ったら。人払いなさって?」
閣下の執務室の中で上がった甘ったるい声に、私も少佐も、たぶんロイも聞き覚えがあった。
真っ白いしなやかな腕がするりと伸びて、閣下の首に絡み付く。
ひくり、と閣下の口の端が引き攣った。
シャルベリ辺境伯軍の軍人以外立ち入り禁止となったはずの閣下の執務室に、この時何故かクロエがいた。
しかも、ソファにしどけなく寝転んだ彼女の上に、閣下が覆い被さるような恰好で――。




