16話 シャルベリ辺境伯領(後)
おしゃべりな郵便局長を上手く躱して郵便局を出ると、閣下は再びロイのリードを手に歩き出す。
大通りをもうしばらく西へ下れば、北の水門が見えてきた。ここでは、山脈の向こうから貯水湖に流れ込む水の量を調整しているらしい。
トンネルから貯水湖までは大きな水路が川のように流れている。
その両脇には落下防止の鉄柵が設けられ、大通りと遜色ない石畳の道が整備されていた。
半月と少し前、王都からやってきた私も叔父が手綱を握った馬車で通った道である。
ふと鉄柵に手を載せて水路を覗き込めば、キラッキラッと水中に光る物を見つけて、私は思わずあっと声を上げた。
「魚だ……閣下、大きな魚がいます」
「あれはマスだよ。南の山向こうより貯水湖を経て遡上し、北側のトンネルを超えた辺りで毎年産卵するんだ」
「シャルベリ辺境伯領を丸々横切って行くんですか。大変そうだなぁ……それにしても、随分大きいマスですね」
「南側のトンネルの向こうで、山の栄養をふんだんに含んだ水で育って来るからね。肉厚で脂が乗っていて美味いぞ」
マスの銀色の鱗が、水面で太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
群れになって遡上するその光景は、まるで大きな竜が身体をうねらせながら泳いでいるみたいに見えた。
水路沿いの道は絶好のお散歩コースらしく、犬を連れて歩いてくる人と何度も擦れ違う。
その度にびくびくする私を、閣下が毎回背中に庇ってくれた。
ゆったりと散歩を楽しむ人々は、閣下を見かけると気さくに声を掛けてくる。
次期シャルベリ辺境伯は、随分と領民に親しまれているという印象を受けた。
それに……
「こんにちは、シャルロ様。絶好のデート日和ですね。可愛らしいお連れ様がいて羨ましいわ」
「竜神様のご機嫌も麗しいようで。もしかして、シャルロ様が素敵な方を連れてきたと喜んでいるのではありませんか?」
「気持ちのいい晴天ですなぁ、閣下。おや? どうやら閣下にもようやく春がきたようだ」
という風に、挨拶に続けて決まって私の存在に触れるのだ。
誰も彼もが笑顔だった。少なくとも、私が閣下と一緒にいることに関しては、好意的に捉えてもらえていると思ってよさそうだ。
ただ、郵便局長と話していた時と同様に、私を好い人だと決めつけてくる彼らの言葉を閣下が一向に否定も訂正もしないのだけが不思議だった。
やがて、私達は水路の沿道を逸れて路地へと入っていく。
路地裏は迷路のように道が入り組んでいて、私一人だとすぐに迷子になってしまいそうだ。
店舗と民家が混在し、頭上では建物と建物の間に張られたロープに色とりどりの洗濯物が揺れていた。
雑貨屋や古本屋、靴屋に花屋、画廊も覗いた。
きっと閣下は私が興味を持ちそうな場所を選んで案内してくれたのだろう。
おかげで、いつしか私は、ロイが一緒にいるのも気にならないほど散策に夢中になっていた。
太陽が真上に来る頃、私達は一軒の店に辿り着く。
外壁から店内まで蔦が生い茂った、アンティークな風合いの料理屋だった。
厨房から漏れるバターやにんにくを焼いた香ばしい匂いに食欲がそそられる。
犬のロイを連れているため、私達はテラス席に陣取った。
時を経たずしてテーブルに運ばれてきたのは、たっぷりのハーブと一緒に焼かれた魚のソテー。さっき水路で見た、あのマスを使った料理らしい。
閣下が教えてくれた通り、ピンク色のマスの身は肉厚で、脂が乗っていてとても美味しかった。
ただ困ったのは、量が多くてとてもじゃないが私一人では食べ切れそうにないことだ。
けれども、せっかく閣下に食事に連れてきてもらったのに、食べ残すのも気が引ける。
どうしたものかと途方に暮れていると、向いの席から「なあ、パトリシア」と閣下に声を掛けられた。
「私はこの後、定例会議を予定していてね。老獪な上に頭が固いじじい幹部どもとやり合わないといけない」
「は、はい……」
「英気を養うために、いつも昼は多めに食べるんだ。もしよかったら、君の分を分けてくれないかな?」
「あっ……はい! どうぞ! 是非ともお召し上がりください!」
閣下が、気を遣ってくれたのは明白だった。
私が食べるのを止める口実にもなるし、残りを閣下が食べてくれるのなら罪悪感もない。
とはいえ、いきなり目の前でぱかりと開いた閣下の口に、私の全身が硬直する。
これは、もしかしてもしかしなくても、閣下に「あーん」を要求されているのだろうか。
オープンテラスという、こんな思いっきり衆人の目がある状況で?
いや、衆人の目があるからこそ、結局私は閣下の求めに従うしかなかった。
だって、シャルベリ辺境伯領の人々の前で、これから領主になろうという彼に恥をかかせるわけにはいかないだろう。
「し、失礼します……」
私はフォークの先にマスの肉厚な身を刺して、おそるおそる閣下の口元に持っていく。一口で頬張るには大き過ぎるかと思ったが、何度も閣下に「あーん」をするのも気恥ずかしい。
半ば無理矢理押し込むような形になったものの、マスの身は何とか閣下の口に納まってくれた。
「うん、いいね。心無しか、自分で食べるよりもパトリシアに食べさせてもらった方が美味しく感じる。ありがとう、満腹になったよ。君のおかげで、午後のじいさん達にも対抗できそうだ」
閣下はそう言ってにこりと笑う。
わずかに口の端に付いたソースを、彼の赤い舌がぺろりと舐め取った。
その光景がいやに扇情的で――あと、今更ながら自分のフォークを使ってしまったため、間接的にキスしたみたいな気分になって急激に顔が熱くなる。
ぴゅう、とどこかの誰かが口笛を吹いたのが聞こえ、私はますます恥ずかしくなった。
ランチが済むと、私達は大通りへと戻ってきた。
しかし、閣下が向かおうとしている場所に気付いたとたん、私の足はその場に縫い付けられたかのように動かなくなった。
「パトリシア、どうした?」
「か、閣下……あの……」
私の方を振り返った閣下の背後には、貯水湖の中央に浮かぶ島へと続く跳ね橋があった。
島の上には竜神を祀る神殿があり、半月ほど前の大嵐によってその屋根が壊れ、現在は修繕工事が行われている。
そのため一般人は立入り禁止だが、閣下は工事の進行状況を確認するついでに、私に神殿を見せようと考えたらしい。
確かに、これといった名所も特産品もないシャルベリ辺境伯領では、竜神の伝説が残るこの島の神殿が唯一の観光場所だろう。
しかしながら、私にとってそこは、おいそれと足を向けられる場所ではなかった。
「こ、こわ、怖くって……」
「うん? 怖い? 跳ね橋がかい? 大丈夫。頑丈にできているから揺れたりしないよ」
「いえ、橋じゃなくて……その、シャルベリの竜神は、生け贄の乙女を食べたという話を聞いたことがあったので……それが怖くって……」
「なるほど……確かに、シャルベリに伝わる竜神の伝説は血腥いからな。無理もない」
シャルベリ辺境伯領に到着した際、馬車の窓越しに目が合った気がして震え上がった竜神の石像は、現在シャルベリ辺境伯邸の敷地内に保管されている。
それに伴い、目の前に現れた石像サイズの竜神――小竜神に親しみを覚えたことで、竜神そのものに対する私の恐怖心も随分と和らいだ。
ただし、シャルベリ辺境伯領の竜神がかつて生贄の乙女達を食らったことは事実であり、今まさに閣下が私を連れていこうとしている神殿が、彼女達が捧げられた祭壇があった場所なのだ。
『生け贄に選ばれたのは、領主の一番下の娘です。領主はその娘を目に入れても痛くないほど可愛く思っておりましたが、民のため、身を切る思いで彼女を捧げました。
竜の神様が娘をばくりと口にくわえて天に昇れば、鋭い牙が突き立った彼女の身体から赤い雨が流れ落ち、乾いた大地をしとどに濡らします。
我が子を失う悲しみに、領主の目から溢れたしずくもほとほとと大地に零れ落ちました。
雨は三日三晩降り続け、その間領主の涙も止まることがありませんでした』
シャルベリ辺境伯領で語り継がれる昔話の一節である。
これを持ち出して、竜神の神殿に行くのが怖いのだと言って立ち竦んだ私を閣下は笑わなかったし、呆れることもなかった。
ただ、ロイのリードを持つのと反対の手を差し伸べてくれる。
その手と閣下の顔を見比べていれば、彼はふと柔らかな笑みを浮かべた。
「シャルベリの水不足は解消し、今となっては竜神に生け贄を捧げる必要もない。もちろん、万が一竜神がパトリシアを欲しがったって、絶対にあげたりなんてしないから安心しなさい」
閣下はそう言うと、差し伸べられた手を取ろうか取るまいか迷っていた私の手をぐっと掴んだ。
「おいで、パトリシア。――大丈夫、私が一緒だよ」
「あっ……」
そのとたん、今の今まで根が生えたみたいに地面に貼り付いていた足が剥がれた。
私は閣下に手を引かれ、ようやく跳ね橋を渡り始める。
たちまち、空の上から何かに見られているような感覚を覚えた。
けれども、不思議とあまり怖くない。
この時私は、自分の手を包み込む閣下の温もりの方が気になって気になって仕方がなかった。
貯水湖に浮いた島にいる間だけではなく、再び跳ね橋を渡って大通りに戻ってからも、私と閣下の手は繋がれたままだった。
そのため、道中擦れ違う人々は揃って、私達の仲を誤解する。
けれども閣下はやはりそれを否定することもなく、極めつけは、南の水門の側を通り過ぎていよいよシャルベリ辺境伯邸の裏門が見えてきた頃のこと。
「こんな時間からデートか? いい身分だな、兄さん」
突然、頭上から茶化すみたいな声が降ってくる。
私達はちょうどリンドマン洗濯店の前に差しかかっており、声の主は閣下の弟君であるロイ様だった。
洗濯屋として働いている彼は、屋上で客から預かった洗濯物を取り込んでいるところらしい。
相変わらず〝自分より力の強い竜〟の気配がぷんぷんするロイ様を前に、私はぎゅっと身を強張らせる。
手を繋いでいた閣下にも、それが伝わったのだろう。
閣下はさりげなく私をロイ様の視界から隠すと、彼を見上げて笑う。
「いいだろう? 日頃頑張っているご褒美として、彼女を独占させてもらってるんだ」
デートじゃない、と閣下は言わなかった。
結局、少佐に戻ると約束した午後二時ぎりぎりまで、私達はずっと手を繋いでいた。
いざ離さなければならなくなった時——私は閣下の手を名残惜しいと思ってしまう。
だから、閣下が最後に一度、私の手をぎゅっと握り――
「まだまだパトリシアを案内したい場所があるんだ。君の叔父上が戻って来るまでに改めて時間を作るから、楽しみにしておいで」
そう約束してくれたのは、決して社交辞令なんかじゃないと思いたかった。
けれど――
「――お待たせして申し訳ありません、シャルロ様! あなたのクロエが参りましたわ!!」
そんな第一声と共に華やかな女性が現れたことで、約束が果たされる可能性は潰えたのであった。