15話 シャルベリ辺境伯領(前)
『親愛なるマチルダ様へ
お元気ですか。時々子竜になってしまいますが、私は元気です』
手紙の書き出しは、何とも自虐的な一文になってしまった。
お茶に誘われて軍司令官執務室にお邪魔した翌日のこと。
私は閣下に告げた通り、王都にいる姉宛てに近況報告の手紙をしたためていた。
うっかり子竜化してしまう体質が、旦那様と奥様にばれてしまったことを書くのは正直気が重かった。
常々私のことで気を揉ませてしまっている姉に、ますます心配をかけてしまうのが分かりきっていたからだ。
それでも、私の子竜化を知った上で、旦那様と奥様がとてもよくしてくれていることを伝えたかった。
「そうだ。そもそも、縁談自体が行われていないことも報告しておかないと……」
姉はきっと当初の予定通り、私が閣下の弟君であるロイ様との縁談に臨んだと思っているだろう。
けれども実際は、ロイ様にはすでに心に決めた相手がいて、シャルベリ辺境伯家を出てしまっていた。
その結果、私は叔父の独断によって、同様に縁談相手に逃げられた閣下と縁談を組み直すことを勧められ、有無を言わさずシャルベリ辺境伯領に置いていかれて今に至るのだ。
手紙を書き終わると、便箋を三つ折りにして封筒に入れる。
奥様がくれた便箋と封筒には、庭園で摘んで押し花にしたビオラとハーブがあしらわれ、ほんのりと優しい香りが付けられていた。
封をしていない封筒を持ったまま、私は与えられた客室を後にする。
シャルベリ辺境伯邸を裏口から出れば、小さな噴水のある中庭が広がっており、その先には軍の施設が立っていた。
中庭を突っ切って軍の施設までやってきた私は、扉の脇のベンチでぷかぷか煙管をふかしている年老いた衛兵に会釈をする。
そうして、衛兵が開いてくれた裏口から中へ入り、階段を上って最上階の真ん中にある部屋の前まで辿り着いた。
一つ深呼吸をしてから扉をノックすれば、中から聞き覚えのある声が誰何する。
私が扉の前で名乗ると、すぐにコツコツという靴音が近づいてきた。
そうして扉を開いて顔を出したのは、さっきノックに応えた少佐ではなく――
「いらっしゃい、パトリシア。中にお入り」
優しい笑みを浮かべた閣下だった。
初対面の時と比べれば、私の中で閣下の印象は百八十度変わってしまっていた。
もちろん、いい方向にである。
最初は、縁談が破談になったのならすぐにでも王都に帰りたいと思っていたのだ。
シャルベリ辺境伯領の竜神が怖くて仕方がなかったし、いつ不測の事態が起きて自分が子竜化してしまうかと不安でならなかった。
何より、縁談を組み直すにしても肝心の閣下にその気がなさそうな上、そもそも私のことをよく思っていない風に見えていたのだから。
けれどいざ向かい合ってみれば、閣下は私の存在を厭うどころか、むしろ好意的に捉えてくれていた。
さらには、その正体は知らないままながら、子竜化した私に対しても重いくらいの愛情を抱いてくれた。
ただ、子竜の耳で聞いた通り、閣下は年の差を理由に私を結婚対象として見られない――つまり、私と縁談を組み直す気はやはりないようだ。
けれども私は、姉への手紙にその事実を記さなかった。
縁談が進まないのなら帰ってこいと言われるのが嫌だったからだ。
「……私って現金よね」
こっそり自嘲した私に、今日も今日とて背中に貼り付いていた小竜神が相槌を打つみたいに「ふん」と鼻を鳴らした。
書状の写しを私の姉宛ての封筒に入れてから、閣下が蝋を落して封をしてくれた。
封蝋に捺された印璽はシャルベリ辺境伯軍の紋章――竜神を象ったものになっていて、これを受け取った姉はきっと驚くだろうと思うと少し可笑しくなる。
時刻は午前十時を過ぎた頃。
封書を完成させた閣下は、パンと一つ手を打ち鳴らすと、椅子から立ち上がる。
そして、愛用のサーベルを腰に提げながら、少佐に向かって声をかけた。
「さて、モリス。これで今日の午前中の仕事は片付いたな。少し出てきても問題ないだろう?」
「ええ、午後二時から定例会議がありますので、それまでにお戻りいただけるのでしたら結構ですよ」
「承知した――では、パトリシア。手紙を出すついでに、少し町を案内しよう」
「え……?」
思ってもみない閣下の申し出に、私は目を丸くする。
そこに、畳み掛けるみたいに少佐がとんでもないことを言い出した。
「あ、閣下。ついでにロイを散歩させてやってください」
「うえっ!?」
私が犬が苦手だということも、その理由も、昨日の説明によって少佐は理解してくれたものだと思っていた。
それなのに、閣下が一緒だとはいえ、犬のロイを同行させろだなんて……。
私は正直、裏切られたような気持ちになる。
しかし少佐は悪怯れる様子もなく、それどころか満面の笑みを浮かべて親指を突き上げた。
「閣下を保険にした荒療治ですよ。ああでも、ロイには無闇に飛び付かないよう、よーく言い聞かせましたのでご安心を。とりあえず、犬の存在が近くにあることから慣れていってくださいね」
かくして私は、閣下と、閣下が持つリードの先に繋がれた犬のロイとともに、町へと繰り出すことになったのである。
シャルベリ辺境伯領は本日も快晴だった。
閣下の瞳の色みたいに澄んだ青空に、薄く雲が棚引いている。
またもや留守番の小竜神は不服そうな顔をしていたが、大本たる竜神様のご機嫌は悪くないようだ。
私達がまず最初に訪れたのは、シャルベリ辺境伯邸の表門を出て大通りをしばらく西に下った場所にあるシャルベリ辺境伯領中央郵便局だった。
シャルベリ辺境伯邸にも毎日夕刻に郵便の集配があるのだが、午前十時半までにこの中央郵便局へ郵便物を預ければ正午発の王都行きの汽車に間に合うため、翌日の朝一番に向こうに届くらしいのだ。
レンガ造りの建物にはあちこちに蔦が這い、一目で年代物だと分かる。
扉の上には、馬に跨がった郵便配達員をモチーフにした鉄細工の看板が掲げられていた。
局内には動物を連れていけないので、閣下はロイのリードを街灯の柱にくくり付ける。
そうして扉を潜れば、中は人でごった返していた。
「――おやおや、シャルロ様。いらっしゃいませ。これはまた、随分可愛らしいお連れ様ではございませんか」
すぐさま閣下を見つけて声をかけてきたのは、腰の曲がった白髪の老人だった。
丸い老眼鏡をずらしてまじまじと私を眺める彼を、閣下は呆れた顔をして〝局長〟と呼ぶ。
「そんなにじろじろ見てはさすがに不躾だぞ」
「これは失礼。しかし、シャルロ様も隅には置けませんなぁ。わしにもお嬢さんを紹介してくださらんか」
「紹介するのは構わないが、王都から預かっている大事な客人だ。失礼のないよう重々頼むよ」
「ほう、王都から! こーんな何も無い僻地によくぞいらしてくださいましたなぁ。シャルロ様、こんな奇特なお嬢さんをみすみす逃してはなりませんぞ」
勤続五十年の郵便局長は閣下を幼い頃から知っているらしく、二人は気の置けない間柄のようだ。
私の姉宛ての封筒に切手を貼ったり消印を押したりしながら、郵便局長はにこやかに会話を続ける。
「いやはや、めでたいねぇ。シャルロ様も、爵位を継ぐに当たってようやく身を固める気になられましたか。こちらのお嬢さんは花嫁姿も絵になりそうだ。是非ともご成婚に合わせて記念切手を発行しましょう」
「……ん? 花嫁姿?」
「記念切手なら、新国王陛下のご即位に合わせて発行されることが決まっているだろう。これ以上の予算はどこからも出ないぞ」
「おやまあ、そんなケチくさいことをおっしゃっていては、度量の小さい男だと思われてしまいますぞ。ねえ、奥方?」
「え? お、奥方!?」
「ケチくさいとは失敬な。堅実の間違いだろう。なんと言われようが無い袖は振れないからな」
閣下と郵便局長の会話についていけずに、私は二人の間でおろおろする。
郵便局長が、私と閣下の結婚を決定事項みたいにして話を進めていくのに戸惑った。
しかし、何より私が困惑したのは、閣下がそれを否定も訂正もしないことだった。




