13話 トラウマ持ち同士
「……美味しそうだね。いただくよ」
南向きで日の光を遮るもののないシャルベリ辺境伯軍司令官の執務室は、昼間は照明がいらないほど明るい。
今朝のお誘いを受けて参上した私は、その中ほどに置かれたソファに腰を下ろした。
閣下もローテーブルを挟んだ向かいのソファに座っている。
時刻は午後三時。
お口に合えばいいのですがと断って、私が手作りクッキーを差し出したとたん、閣下は明らかに顔を強張らせた。
しかしそれも一瞬のことで、彼はにこやかな表情でクッキーを手に取ったが、その笑顔が作りものであるのはすぐに分かった。
閣下が本当はどういう風に笑うのか、私はもう知っていたからだ。
だから閣下が私に気を遣って、食べたくもないのに無理矢理クッキーを食べようとしているのだと思い、ひどく居たたまれない気持ちになった。
ところがである。
「——ん? え、うまっ……!?」
「えっ……?」
クッキーを口に入れたとたん、閣下の顔から偽物の笑みが消え去った。
彼は空色の瞳をまん丸にしてまじまじとクッキーを眺めたかと思ったら、ぐりんと私に向き直る。
その顔にはありありと、〝信じられない〟と書かれてあった。
さらには、本当にパトリシアがこれを作ったのか、なんてしつこく尋ねてくるものだから、私はクッキーを差し出した時に閣下が顔を強張らせた理由に思い至った。
「閣下……私にはお菓子なんて作れっこないって、思っていらっしゃったんですね?」
「あ、いや……」
「私の作ったものなんて、どうせまずいに決まってるって、うんざりしてらしたんでしょう?」
「いや! いや、その……」
私がじとりとした目を向ければ、閣下は面白いくらいに目を泳がせた。
姉という、一族の誰もが認める立派な先祖返りが先に生まれていたおかげで、メテオリット家の跡継ぎになる必要性も可能性も皆無だった私は、早々に嫁に出るのを見越して花嫁修行に余念がなかった。
家事全般に関しては、全てが完璧とまではいかないものの、人並み以上にはこなせると自負している。
竜としてはどうしようもない落ちこぼれだからこそ、せめて人間パトリシアのスペックを上げようと励んだ結果だ。
そういうわけで、この時の閣下の評価は私にとって不本意極まりないものだった。
思わず唇を尖らせると、閣下は両手を挙げて降参のポーズをとる。
「すまない、パトリシア。頼むから怒らないでおくれ。君を貶める意図はなかったんだ。どうか弁明させてほしい」
そうして、眉を八の字にした閣下が語ったことによれば、そもそもの元凶はやはり彼の三人の姉達だった。
「あの姉達ときたら、レシピ通りにしようとも必ずダークマターを錬成してしまうんだ。食物だけで形成されているはずなのに、彼女達の手に掛かればおおよそ口にできそうにないものにしかならない。もはや、呪われているとしか……」
「出来上がったものをご覧になったお姉様方は、自分達は料理が不得意なんだと自覚なさらなかったんですか?」
「なさらなかったんだな、これが。なにしろ、毎度自分達が作り上げた消し炭を、嬉々として私に食べさせようとしてきたからね」
「うわ、質が悪い」
姉達としては閣下を苛めているわけではなく、むしろ可愛がっているつもりだったらしい。
さらに間が悪いことに、閣下のお母様である奥様も料理の才能にだけは恵まれなかった。
奥様が厨房に寄り付かないのは足が不自由なのが原因かと思っていたが、そうではなかったらしい。ちなみに彼女は、裁縫に関してはプロのお針子顔負けの腕前である。
また、閣下が目を掛けているバニラさんとアミィさんも料理はからっきしで、メイデン家でもリンドマン家でも台所仕事は男性陣が担っているという。
不幸にも、閣下が傍若無人な三人の姉達のせいで女性に抱いたマイナスイメージを、こと手料理に関しては払拭できる存在が周りにいなかったのだ。
閣下はもう一度すまないと謝ってから、改めて私が手作りしたクッキーを指で摘んでまじまじと眺め始めた。
「生地に練り込まれているのはハーブかな? ……うん、これがうちの姉達だったら、練り込まれるのはせいぜい芝生か牧草だよ」
「そ、それは、随分と独創的な……。そもそもどうして、人間の食べ物以外を混ぜちゃうんでしょう」
「ああ、素晴らしい……生焼けじゃないし、炭化もしていないなんて。もしかして、パトリシアは天才なんじゃないか!?」
「褒めていただけるのはとっても嬉しいんですが、そもそも及第点が低過ぎます」
話を聞けば聞くほど、閣下が気の毒に思えてくる。
私がこの日の午前中、シャルベリ辺境伯邸の厨房を借りて焼いたのは、ハーブ園から摘んできたカルダモンとクローブに、シナモンとジンジャーを加えたスパイスクッキーだった。
風味豊かなスパイスクッキーは、メテリオット家の始祖たる竜が棲んでいた南部地方の伝統菓子でもある。
生地に練り込むハーブや香辛料の組み合わせによって様々な味わいが楽しめるし、甘さを抑えてあるのでお酒のつまみにもなった。
「モリス、君もご馳走になりなさい。いや、お世辞抜きで美味いぞ」
「では、遠慮なくご相伴に与ります。――あ、本当だ! 美味しい!」
私がお邪魔する前から執務室にいた少佐も、スパイスクッキーを頬張って目を輝かせている。
閣下のプライベートスペースでもある執務室に誘われたことで、彼の女性不信を心配する奥様から多大な期待を背負って送り出されたが、出迎えてくれたのは閣下だけではなかった。
つまり、私はそもそも、閣下と二人っきりでお茶をするために呼ばれたわけではなかったのだ。
それにほっとしたような、それでいてどこかがっかりしたような、複雑な思いが顔に出ないよう努める私に、少佐がお茶を淹れてくれる。
ちなみにこの時、少佐の身重の奥様まで料理の才能に見放されているという悲しい情報がもたらされた。
そんな少佐は閣下が座ったソファの横に立っていたが、その足下には今日もまた当然のごとく真っ黒い犬が寄り添っている。ロイである。
黒々とした円らな瞳は、さっきからずっと私と、相変わらず私の頭の上にぷかぷか浮いている小竜神の間を行ったり来たりしている。
とはいえ、ふさふさのしっぽがしきりに振られていることから、敵意が無いのは明らかだった。
私はごくりと唾を飲み込むと、意を決して少佐に声をかける。
「あの、少佐。もし差し支えなければ、ロイちゃんにもこちらをどうぞ。犬が食べても問題のない材料で作ってきましたので」
「――ええっ、ロイに? わざわざロイのために作ってくれたんですか!?」
私がスパイスクッキーとは別の包みから取り出したのは、薄力粉と牛乳に、砂糖の代わりに蜂蜜を加えて焼いたクッキーである。渡す機会があれば、と思って作ってきて正解だった。
少佐の視線が、クッキーと自身の足下にいるロイを経由してから、私に戻ってくる。
彼はどこかばつが悪そうな顔をしてもごもごと口を開いた。
「いや、あの、ありがとうございます。……すみません。正直に言いますと、てっきりあなたはロイが嫌いなのだとばかり思っていました」
昨日も聞いた少佐の言葉に、今こそ私は子竜姿ではできなかった弁明をする。
「違うんです。ロイちゃんが嫌いなわけじゃなくて、ただ単に犬が怖いだけなんです。小さい頃に犬に噛まれたことがあるらしくて……。でも、避けていたのは事実なので、気を悪くさせてしまっていたら申し訳ありません」
「いえいえ! そういうご事情でしたら無理はありません。ロイのことは、どうぞ呼び捨てしてやってくださいね。えーっと、〝らしい〟ってことは、ご自身は噛まれたことを覚えていないんですか?」
「はい。どうやら相当ひどく噛まれたようで、衝撃のあまりその時の記憶がすっかり飛んでしまっていて……それでも身体は覚えているらしく、犬の前だとどうしても足が竦んでしまうんです……」
「なるほど、それは大変ですね――分かりました。あなたには無闇に飛び付かないよう、ロイにはちゃんと言い聞かせておきますので安心してください」
少佐は笑みを浮かべてそう告げると、もう一度礼を言ってからクッキーを受け取った。
そして、ずっとそわそわしていたロイにそれを与える。
幸い、クッキーは彼の口に合ったようで、瞬く間に食べ尽くされてしまった。
それにほっとして、少佐の淹れてくれたお茶に口を付けていると、ふいに向かいの席から伸びてきた手が私の髪をさらりと撫でる。
弾かれたように顔を上げれば、手の主である閣下と目が合った。
その慈しむような眼差しに、私の胸がトクンと小さく高鳴る。
「かわいそうに、随分怖い思いをしたんだな。犬に噛まれた傷は、もう大丈夫なのかい?」
「はい。おかげさまで、傷の方は後遺症もなく治っております。本当に、ただただ犬が怖くなってしまっただけで……」
竜の血が流れているせいか、メテオリットの先祖返りは常人よりも再生能力に優れている。
そのため、犬に噛まれて負ったであろう傷は今はもう跡形もなく、当時の記憶がない私はそもそもどこを噛まれたのかさえ知らなかった。
気になって姉に尋ねてみたことはある。しかし、痛い思いをしたことなんてわざわざ思い出す必要もないと言われてしまえば、それもそうだなと口を噤んで今に至る。
「トラウマはどうしようもないからな。私にも少なからず覚えがある。パトリシアの気持ちは痛いくらい分かるよ」
「あはは……ご理解いただけて嬉しいです」
閣下は三人のお姉様のせいで女性不信気味。
私は私で、過去に噛まれた経験から犬が苦手。
トラウマ持ち同士、妙な連帯感が芽生えた瞬間だった。




