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11話 首輪は断固お断り


 シャルベリ辺境伯邸の敷地内に広がる庭園の片隅に、小さなハーブ園があった。

 私が奥様の車椅子を押してそこを訪れたのは、メイデン焼き菓子店で鉢合わせしたシャルロ閣下と、初めて午後のお茶の時間を一緒に過ごした日の夕刻のことである。

 夕食前の散歩がてら、料理長からローストチキンのソースに使うタラゴンを摘んでくるよう頼まれたのだ。

 メテオリット家の始祖たる竜が元々棲んでいたのは、アレニウス王国の南端に位置する温暖な地域で、そこにもたくさんの種類のハーブが自生していたという。そのせいか、メテオリット家の人間にとってハーブはごくごく身近な存在だった。

 タラゴンはキク科の多年草で、独特の甘く柔らかな香りと、ほろ苦さにかすかな辛味が加わった味わいが魅力だ。ジビエなどの臭み消しや、酢に漬け込んでドレッシングとしても重宝されている。

 また、私が個人的に親しみを覚えるハーブでもあった。

 というのも、このタラゴンという名前。実は〝小さな竜〟を語源としているのだ。

 昔は薬草としても広く使われ、毒ヘビに噛まれた傷を癒したから、あるいは根の部分がトグロを巻いたヘビのように見えるから、と名前の由来には諸説あるらしい。

 そんな話をしながら、薄暮の中で奥様の車椅子を押して、屋敷の方へ戻り始めた時のことである。

 突如、ガサガサッと大きな音を立てて垣根が揺れたかと思ったら、何やら黒い物体が飛び出してきた。


「きゃっ……!?」

「あらあら」


 私は悲鳴を上げつつも、とっさに奥様の車椅子を停止させる。

 びっくりして心臓がバクバクと脈打ったが、何とか子竜化せずに堪えられた――と、安堵したのも束の間。

 あろうことか、その黒い物体がこちらに向かってびょーんと勢い良く飛び付いてきたではないか。


「わんっ!」

「ひええっ……」


 鳴き声を耳にして、黒い物体の正体が犬であると知る。

 とたんに私の心臓は、胸を突き破って外に飛び出すんじゃないかと思うくらいに激しく跳ねた。

 こうなってしまえば後の祭りだ。

 私は私を、もはや制御しきれない。


「ぴっ! ぴいっ……ぴいいっ……!!」


 犬に押し倒されて地面にひっくり返った時には、私の身体はもう人間のものではなくなっていた。

 今の今まで身に着けていた衣服の中であっぷあっぷともがくのは、ピンク色の子竜だ。

 頭上からは、奥様の慌てた声が降ってくる。


「まあ、ロイ!? そんな小さな子に乱暴をしてはダメよっ!!」


 私を子竜化させた犯人は、またしてもモリス少佐の愛犬ロイだった。

 奥様がめっと窘めてくれたが、どうやら彼は私を驚かせようとしたわけではなさそうだ。

 地面でもがいている私を気にしつつも、空中を見上げてしきりにしっぽを振っている。

 その視線の先には、先日からずっと私にくっついて回っている小竜神がぷかぷかと浮いていた。

 私以外には見えないと思っていたその姿が、どうやら犬のロイの目には映っているらしい。

 彼が飛び付こうとしたのは空中の小竜神であって、私はたまたまその下に立っていたがために足場にされただけだった。


「パティ、大丈夫? ほら、私の膝の上にいらっしゃいな」

 

 とばっちりで子竜化させられてしまった私に、奥様が車椅子から身を乗り出して手を差し伸べてくれる。

 私がこうなってしまっては、奥様としても状況的によくない。

 だって、庭園の外れにあって人通りの少ないハーブ園の近くで、車椅子の押し手が無くなってしまったのだから。


「困ったわ。ねえ、ロイ。ちょっと誰か呼んできてくれないかしら?」

「わんっ!」


 奥様のお願いに、軍用犬として躾けられたロイが一鳴き、小気味好い返事をする。

 そうして、空中でぷかぷかしている小竜神を気にしつつも腰を上げた――ところまでは良かった。


「――ぴっ!?」


 ロイはいきなり、奥様の膝に抱き上げてもらおうとしていた私の首の後ろを、はむっと咥えたのだ。

 そしてそのまま、どこかへ向かって全速力で駆け出した。


「ぴ、ぴい!? ぴいいっ……」


 凄まじい早さで後ろへ流れていく風景に目が回りそうになる。

 さらには、首根っこにやんわりと食い込む犬歯の感触に、私はとてもじゃないが生きた心地がしなかった。



 *******



「――うわっ、ロイ! お前、急にどこかに走っていったと思ったら、何を咥えて帰ってきたんだ?」


 ロイの主人であるモリス少佐は、軍司令官閣下の秘書のような役目も担っている。そのため、二人は必然的に一緒に行動している場合が多い。

 ロイが私を咥えたままやってきたのは、そんな閣下と少佐が書類を広げて額を付き合わせている、軍司令官の執務室だった。

 猫の子みたいに首根っこを咥えられてブラブラしている私を認めたとたん、執務机に向かっていた閣下の空色の目がまん丸になる。


「パ、パティ!? パティじゃないかっ!!」


 たちまち書類をほっぽり出して飛んできた閣下のおかげで、私はようやくロイの口から解放された。

 初めて子竜姿で閣下と遭遇したのは三日前のこと。

 不審がられたり排斥されたりはしなかったものの、閣下に悪気なく深爪にされた上、犬のロイに舐められた私は恐慌を来してこの場から逃げ出したのだ。

 その際、三階であることも失念したまま窓から飛び出したせいで、閣下に随分心配させてしまったこともまだ記憶に新しい。


「よしよし、おかえり。先日はすまなかったね。爪はもう大丈夫かい? あれから随分探したんだよ。今まで一体どこにいたんだい?」


 矢継ぎ早にそう話しかけつつ、閣下は子竜姿の私をひしと抱き締めて、ピンク色の頭のてっぺんにスリスリと頬擦りをする。

 彼の大きな掌に優しく背中を撫でられれば、犬に咥えられるという凄まじい恐怖に狂ったみたいに暴れていた心臓が、徐々に冷静さを取り戻し始めた。

 それにともなって思い出したのは、ハーブ園の近くに一人残してきてしまった車椅子の奥様のことだ。こうしている間にも太陽はみるみる西の山際へ沈んでいき、夜の闇はすぐそこまで迫っている。

 心細い思いをしているだろう奥様を思うと、私は居ても立ってもいられなくなった。

 

「ぴ、ぴい! ぴいいっ!!」

「ああ、よしよし、どうしたんだ? いい子だから、大人しくしなさい」

 

 ジタバタと暴れる私を宥めつつ、閣下はさっきまでいた執務机の前まで戻って椅子に腰を下ろす。

 机の上には書類が広げられおり、閣下の腕に抱かれた私の目の前にはちょうどペン立てがあった。

 とっさに手を伸ばしてペンを引っ掴んだ私は、目に付いた書類の端にペン先を押し当てようとしたのだが……


「わーっ、だめだめだめ!! 閣下、パティを止めて下さい! それ、来月の即位式の警備に関するむちゃくちゃ重要な書類ですよっ!!」

「こらこら、パティ。可愛い悪戯っ子ちゃんめ。ほーら、モリスに叱られちゃいまちゅよー」


 慌てた少佐と、保護者として零点な窘め方をする閣下によって、すぐさま書類は遠ざけられてしまう。

 その代わり、小さな紙切れを与えられたので、私は改めてそれにペン先を押し当てた。

 小さな竜の手ではペンを握るのさえも困難で、綺麗に字を書くなんてなおさら無理だ。

 できるだけ少なく簡単な文字で的確に用件を伝えるべく、私は小さな頭を捻りに捻った。

 その結果……


「あ、あれ? これって、もしかして文字では? ええっと……マ、マ、ニ、ワ、ままにわ? ままにわ、ままにわ……うーん、何かの暗号でしょうか、閣下」

「こ、これは……なんてことだ……」


〝ママ〟で閣下に奥様を思い浮かべさせ、〝ニワ〟で彼女が庭園にいることを示唆するのが狙いだ。

 文字を覚えたての幼子が書いたみたいに拙いばかりでもどかしいが、これで奥様を迎えに行ってもらえるのならば恥も外聞も構うまい。

 いまいちピンと来ない様子の少佐が首を傾げる一方で、私の書いた文字を瞬きもせずに見つめていた閣下がわなわなと震え始めた。

 日没間近の庭園に車椅子の奥様。その場景に違和感を覚え、彼女の身に何かが起きていると勘付いたに違いない。

 そう確信した私は、奥様の居場所をより明確に伝えようと、〝ママニワ〟の下に〝ハーブ〟と書き足した。

 ところがである。

  

「――パティっ!! なんっっって、可愛いんだっ!!」


 閣下はいきなりそう叫んで立ち上がったかと思うと、何故か私を高い高いし始めた。


「ぴっ……」


 翼を持たない落ちこぼれ子竜にとって、長身の閣下に抱え上げられるだけでもひやりとするのに、さらに高々と両手で掲げられて身体が完全に硬直してしまう。

 閣下はそんな私を今度はぎゅうと抱き竦めたかと思ったら、頭頂部にぐりぐりと額を擦り付けながら、「あー……」と熱い湯に浸かったみたいな声を上げた。


「小ちゃい手でぎゅっとペンを握っているのも、プルプル震えながら一生懸命紙に向かっている姿も、何なら書いた文字までも可愛いじゃないか! まったく……パティはいったい、どれだけ私を悶えさせたら気が済むんだろうね!?」

「いや、ちょっと閣下? 注目するのそこですか!? 竜なのに人間の文字らしきものが書けていることに、そもそも驚くべきなんじゃ……」

「はっ、そうだった! 文字が書けるなんて――うちの子は可愛い上に天才なんじゃないか!? 私も鼻が高いというものだよっ!!」

「うちの子って……閣下、その竜の子を飼うの、全然諦めてなかったんですね?」


 少佐の言葉に当然だとばかりに胸を張った閣下は、私を片手で抱え直してから執務机の引き出しを開いた。

 とたんに、少佐も私もぎょっとする。

 閣下が、思ってもみないものを引っ張り出してきたからだ。

 それは、蝶ネクタイみたいな赤いリボンから金色のベルがぶら下がった、小さな首輪だった。


「きっとパティに似合うと思って用意しておいたんだ。可愛いだろう?」

「いつの間に……パティを見つけて、まだ三日しか経っていませんよね?」

「以前、子猫用に手配したのが残っていたんだ。あいにく、あの子を飼い損なってしまって今まで使う機会に恵まれなかったが、やっと日の目を見たな」

「うっわ……ちょっと閣下、それ最低男のやることですよ!? 他の子に用意したものをちゃっかり新しい子に使い回そうなんて、女の子相手に絶対やっちゃいけないやつですって!!」

 

 などと、男二人で盛り上がっているところ申し訳ないが、使い回しだろうが新品だろうが、私としては首輪を着けるのは断固お断りだ。

 落ちこぼれとはいえ、私だってメテオリット家の一員である。

 ペットのように扱われては、一族の沽券に関わるというものだ。

 それに、そもそも私が文字を書いて訴えたかったことが、閣下には微塵も伝わっていなかったと判明して愕然とした。

 こうしている間にも、窓の外はどんどん暗くなっていく。

 閣下達の助力が期待できないのなら、私の事情にも精通している旦那様を捕まえて、一刻も早く庭園に取り残された奥様を迎えに行ってもらわねばならない。

 そうとなったら、この場に長居は無用だ。

 私が閣下の腕から逃れるために、身を捩ろうとした――その時である。


「女の子といえば――閣下、今日はパトリシア嬢とお茶をご一緒なさったんでしたっけ?」

 

 突然、自分の名前が話題に上ったことで、私は思わず動きを止めた。

 その背中を、少佐の言葉を頷いて肯定した閣下の手が、あやすみたいにゆったりと撫でる。


「いいですねぇ、可愛い女の子と一緒に甘ーいお菓子を囲んで、きゃっきゃうふふと優雅な一時。次があれば是非ともご相伴に与りたいものですが……私はパトリシア嬢の心証が良くないから無理でしょうねー」

「何も、パトリシアと二人っきりでお茶を飲んだわけじゃないぞ。父と母も一緒だったからな。ところで、心証が良くないとはどういうことだ? お前、彼女に何かやらかしたのか?」

「うわ、いつの間にか呼び捨てするような仲になってる! ほら私、初対面の際に、溢れ者呼ばわりされたパトリシア嬢と閣下のこと笑いまくったでしょ? たぶん、あれが良くなかったんでしょうねー」

「自業自得じゃないか。一度ちゃんと、面と向かって謝ったらどうだ?」


 呆れた顔をする閣下に、少佐は肩を竦める。

 彼は、足もとにお座りしていた犬のロイの頭を撫でながら、ため息まじりに続けた。


「そもそも避けられているようで、全然目が合わないんですよね。あと、たぶん彼女、ロイのことも嫌いみたいで、半径十メートル以内には近づいてきてくれないんですよ」


 この時私は、そうじゃない、と叫びたかった。

 苦手と嫌いは、根本的に違うのだ。

 噛まれた時の恐怖が身体に染み付いているせいで、ロイに限らず犬を見ると拒否反応を起こしてしまうが、その存在自体を嫌っているわけでは決してないのだ。

 ロイが、子竜化した私に対して悪意など抱いていないのも理解している。さっきだって、鋭い犬歯が万が一にも私を傷付けないよう、細心の注意を払って優しく咥えてくれていた。

 少佐の初対面の印象は確かに良くはなかったが、一緒にお茶も飲みたくないなんて思ってはない。

 閣下の右腕ともいえる彼も、その相棒であるロイも、私は嫌ってなんかいないのだ。

 しかしながら、奥様のことに関しても、少佐やロイに関しても、子竜の姿では言いたいことが一向に伝わらない。

 姉のような立派な竜ならば、車椅子ごと奥様を運ぶのだってわけがないかもしれないし、ロイみたいな友好的な犬相手にみっともなく怯えることも、それによって少佐を避けているなんて誤解を与えるようなこともなかったのだろう。

 私が出来損ないだから……だからきっと、何もかもうまくいかないのだ。

 

「ぴっ、ぴいっ、ぴぴっ!」

「こらこら、パティ。どうした? いい子だから落ち着きなさい」


 侭ならない我が身が歯痒くてならず、私は癇癪を起こしたみたいに閣下の腕の中でがむしゃらに暴れた。

 その時である。

 バタン――!! と大きな音を立てて、執務室の窓という窓が一斉に開いた。

 さらに、突然部屋の中央で風の渦が発生し、室内を縦横無尽に蹂躙し始める。

 閣下の執務机の上に広げられていたむちゃくちゃ大事な書類とやらも宙へ舞い上がり、少佐が「ぎゃっ」と悲鳴を上げた。

 そして、風に煽られて宙へ舞い上がったのは、書類だけではなかった。


「――パティ!?」


 突然の出来事に一瞬怯んだ閣下の腕から、風が私を掬い上げた。

 その際、小さな竜の手でとっさに握り締めたのは、ちょうど目の前を舞っていた紙切れ――〝ママニワ、ハーブ〟と自分が書いたメモ。

 風はそのまま私を窓の外へと攫っていってしまう――ように、閣下や少佐の目には映っただろう。

 しかし、実際に私を閣下の執務室から連れ出したのは、風ではなく、実は最初からずっと近くにいた小竜神だった。

 人間の目に映らないのをいいことに、執務室の真ん中にぶら下がったシャンデリアの上で傍観していたが、いよいよ私が焦れ始めたのを見兼ねて助けてくれたようだ。

 

「パティ! パティー!!」

「わんわんっ! わんわんわんわんっ!!」


 今度は小竜神に首根っこを咥えられた私は、閣下の悲痛な叫びとロイの吠え声を背に、暮れゆく空へと舞い上がった。



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[一言] うわー。首輪付けられて人間に戻ったら尊厳が…(笑)
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