10話 可愛い弟と可愛い妹
ロイ様が住み込みで働いているリンドマン洗濯店の経営者は、なんと私と同い年――弱冠十七歳の女の子だという。そして、アミィという名のその子が、ロイ様の恋人だった。
メイデン焼き菓子店の店長を務めるバニラさんといい、若い彼女達が家業の看板を背負うに至るには、退っ引きならない事情があったらしい。
閣下はそれを、シャルベリ辺境伯邸に戻る道中、私に語って聞かせてくれた。
「リンドマン家とメイデン家の前の家長――アミィとバニラの父親達は、五年前の嵐の夜、氾濫寸前の貯水湖の水門を開くために犠牲になったんだ」
五年前の嵐に関しては、私も記憶している。アレニウス王国全土を覆うような巨大なハリケーンが襲来し、各地に未曾有の大水害をもたらしたのだ。
シャルベリ辺境伯領も例外ではなく、竜神の神殿を中心に抱く貯水湖は瞬く間に警戒水位を越えたらしい。
シャルベリ辺境伯軍はすぐさま山脈の向こうから流れ込む北の水門を閉め、海へと水を逃す南の水門を全開にしたのだが、どういうわけか貯水湖の水は増えるばかり。
あわや氾濫するかと思われた時、南の水門が実は開き切っていないことに気付いたのが、自警団として近くを巡回していたアミィさんとバニラさんの父親達だった。
二人は力を合わせて南の水門を開いたが、その拍子に奔流に押し流されて命を落としてしまったのだという。
「南の水門が全開にできていなかったのは、経年劣化による錆びが原因だった。水門を管理していたのはシャルベリ辺境伯軍であり、不具合を見逃したのは我々の失態だ。一家の大黒柱を亡くしたリンドマン家とメイデン家に、私は何と詫びればいいのか分からなかった……」
当時すでにシャルベリ辺境伯軍司令官として立っていた閣下は、アミィさんとバニラさんの父親達の死にひどく責任を感じたらしい。そのため、せめてもの贖罪に、と遺された娘達を影ながら支えてきた。
「アミィもバニラも、ともに一人娘でね。まだ十代の女の子が家を継がなければならなくなって、相当苦労をしたと思うんだ」
そう呟く閣下の声は苦渋に満ちていて、私は思わず隣を歩く彼の顔を見上げる。
思えば、こんなに長く彼と一緒にいたことは今までなかった。
閣下は多忙だし、それでなくても彼の側には高確率で少佐が――私が苦手とする犬のロイがいたのだ。
二人きりで言葉を交わすのも、並んで歩くのも、これが初めてのこと。
私に対する彼の表情は、いつの間にか白々しく取り繕ったものではなくなっていた。
いや、そもそもそれは、閣下に嫌われている避けられていると思い込んでいた私の、一種の被害妄想だったのかもしれない。
私達の間に距離があったのは確かだ。けれど、そこに悪意がなかったことは、先日子竜化した際に、閣下と少佐の会話によって判明している。
思い掛けず閣下と二人で大通りを歩くことになり、私はひどく戸惑い、また緊張もしていた。
ただし、嫌だとは微塵も思わなかった。
むしろ、明らかにコンパスの長さが違うにもかかわらず、当たり前のように私に歩調を合わせてくれたり、さりげなく馬車が行き交う車道側を歩いて盾になってくれたりと、そこかしこに感じる紳士的な振る舞いに好感を覚えた。
だからだろう。私は閣下の憂え顔を見過ごすことができずに、でも、と口を開く。
「私の目には、今のバニラさんはとても幸せそうに見えました。優しい旦那さんがいて、可愛い赤ちゃんが生まれて……赤ちゃんをあやしてくださる閣下もいて」
「えっ……?」
閣下の空色の瞳が、一つ、二つ、大きく瞬いて私を見る。
私はそれを見つめ返しながら続けた。
「パパ閣下って呼び名にはびっくりしましたけれど、きっとあれはバニラさんが閣下に心を許している証だと思うんです。だってお母さんは普通、信頼もしていない人に赤ちゃんを預けたりしませんもの」
「んん……そ、そうかな?」
何だか自信無さげな閣下に、私は「はいっ」と大きく頷いて見せる。
「弟さんとアミィさんは、閣下が引き合わせたんですか?」
「いや、あの子達が知り合ったのはまったくの偶然らしくてね。私の知らない間に、心を通わせていたようだ」
「閣下は、お二人の関係を認めていらっしゃるんですよね?」
「ああ、それはもちろん。ロイもアミィもずっと幸せになってほしいと思っていたから、そんな二人が手を取り合って生きていこうとしていることを、私はとても喜ばしく思っているんだ。いや、ロイとの縁談のためにシャルベリに来てくれた君の前でこんなことを言うのは、いささか心苦しいが……」
とたんに申し訳なさそうな顔をする閣下に、お気になさらず、と私は首を横に振った。
だって、閣下はご存知ないかもしれないが、竜とは総じて一途で、また番に執着する生き物なのだ。
ロイ様がシャルベリ辺境伯家の次男という肩書きも何もかも捨ててアミィさんを選んだというのなら、もうきっと誰も彼らを引き離せない。
そして、ロイ様には竜神の強い加護がある。彼に想われるアミィさんは、生涯安泰だろう。
だったら、と私は閣下を見上げて続けた。
「閣下も、いつまでも気に病まなくていいと思います。バニラさんもアミィさんも幸せを見つけられたんですから、閣下だってそろそろ罪悪感から解放されてもいいんじゃないでしょうか」
ふいに、閣下が立ち止まった。
私もつられて足を止める。
すぐ横を、ガラガラと車輪の音を響かせて馬車が通り過ぎていく中、閣下は静かな目で貯水湖を見つめながら言った。
「軍の失態によって一般市民の尊い命が失われたことは、決して忘れてはならない。二度と同じ過ちを繰り返さないために、私は一生この罪を背負っていくつもりだ」
硬質な声で紡がれた閣下の言葉を聞いて、私はたちまち真っ青になった。
自分が差し出がましいことを言ってしまったと気付いたからだ。
余所者のお前に何が分かる、と責められたって仕様が無いだろう。
私は慌てて、閣下に謝ろうとする。
けれども、彼がこちらに向き直って、でも、と続ける方が早かった。
「君の言葉を聞いて、少し気持ちが楽になったよ。――ありがとう、パトリシア。君は、優しい子だね」
そう言って、閣下が微笑む。
その眼差しがあまりに優しくて、私の心臓はまたドキドキと煩くなり始めた。
敬称を取っ払って名を呼ばれたのも初めてのことだ。
おかげで少しだけ、お互いの間にあった心の壁が薄くなったような気がした。
シャルベリ辺境伯邸に帰り着くまで、私は閣下といろんな話をした。
それによって、実は閣下が私の姉マチルダ・メテオリットと面識があったことが判明する。
シャルベリ辺境伯軍司令官として、王都で開かれる王国軍の会合にしばしば出席していた閣下は、王国軍参謀長の第三王子リアム殿下やその部下である姉とも顔を合わせていたのだ。
さらには会合後の打ち上げで、酒を酌み交わす機会もあったとか。
ちなみにメテオリット家の先祖返りは代々大酒飲みで、姉もその例に漏れないし、落ちこぼれ子竜の私も酒精にだけは滅法強い。
「なるほど、彼女がパトリシアの姉上で、今代のメテオリット家の家長を務めているのか。どうりで、若いのに随分しっかりした方だと思ったよ。実に頼もしいお姉さんだね」
「そうなんです! 身内の贔屓目かもしれませんが、姉はいつだって格好良くて……私の憧れなんです!」
姉を褒められたことが嬉しくて、私は思わず声を弾ませる。
落ちこぼれの私にとって、始祖の再来と謳われるほど立派な竜の姿を持つ姉は羨望と嫉妬の対象であるが、そんな負の感情を凌駕するほど大切な家族なのだ。
姉の方だって、私に惜しみない愛情を注いでくれる。
そんな姉は、なんと酒の席で閣下相手にまで姉馬鹿を披露していたようだ。
「そうかそうか。あの時マチルダ女史が熱く語っていたのは、パトリシアのことだったのか。いや、私にも年の離れた弟がいるだろう? だから、妹を愛おしむ彼女の気持ちは痛いくらいに分かったんだ」
いい感じに酒が入った閣下と姉は、お互い上機嫌で弟妹自慢を始め、リアム殿下はそんな二人の噛み合わない会話を肴に酒を飲んでいたらしい。その時の光景が目に浮かぶようだ。
「妹は、こんなに小さくてピンク色で、とにかくめちゃくちゃ可愛いんだって力説していたなぁ」
「あわわ……」
閣下が子犬を抱えるような仕草をする。
それを見て、酔った姉が思い浮かべていたのは自分の子竜化した姿だと悟った私は、おおいに慌てた。
閣下がじっと、思案するような顔で私を見てきたから余計にだ。
もしも姉の語った〝子犬大でピンク色の妹〟の説明を求められれば、酔っぱらいの戯れ言と言って誤魔化すしかない。
私は閣下を見つめ返しながらそんな決意を固めていたが、幸い杞憂に終わった。
というのも、閣下は別段、過去の姉の発言を問題にすることはなかったのだ。
その代わり、ふいに伸びてきた彼の手が、私の頭を――子竜の体表と同じ色の髪をさらりと撫でた。
「か、閣下……?」
「うん、なるほど……確かに小さくてピンク色だ。マチルダ女史が、君を猫可愛がりしたくなるのも頷けるな」
閣下はしみじみと呟きつつ、大きな掌で包み込むようにして、私のストロベリーブロンドの髪をゆったりと撫でる。
自分の顔が、ピンク色を通り越して一気に赤に染まったのを感じた。
頬なんて、ひりつくくらいに熱くなっている。
「あの可愛がりようでは、君を一人シャルベリに送り出すのは苦渋の決断だったに違いない。今頃、マチルダ女史はさぞ気を揉んでいることだろうね?」
「あ、姉は心配し過ぎなんです。私だってもう小さな子供じゃないんだから、平気なのに……」
「兄の立場から言わせてもらえば、いくつになったって弟や妹に変わりはないんだ。私もロイが可愛くてね。弟でもそうなんだから、妹だったらもっと過保護になっていただろうさ」
「そう……ですか……」
閣下は、ロイ様の赤子の頃を懐かしんでいた時みたいな慈愛に満ちた表情をして、私の髪を優しく指で梳いた。
嫌ではなかった。
その仕草に他意はなく、ただ純粋に私を慈しんでくれているのだと分かったからだ。
けれども一方で、幼子をあやすみたいな優しい手付きに不満を覚える。
だって、私は決して、閣下から妹みたいに可愛がられたいわけではなかったのだから。
とはいえ、じゃあ一体、彼にどう思われたいのか――そう問われてしまえば、今はまだ私は答えに窮していただろう。
閣下と一緒にいる間、私の心臓はとにかくずっと騒がしかった。




