第二章 その二
街灯も疎らなその一角は、夜の闇の中に沈み込んでいた。本来なら常夜灯の一つも点灯していそうなその倉庫は、息を潜め鬼から隠れている子供の様に、夜の闇を隠れ場所としていた。ポールと鉄鎖で囲まれた駐車スペースには車一台、自転車一台見あたらない。そこへいま、数人の男女が徒歩で近付いて来ていた。対向者が居たとして、衝突する寸前まで判らなそうな闇の中、一向は周辺に視線を巡らせつつ鉄鎖を跨いでゆく。巨大なシャッターの横、『事務所入口』と看板の掛かったドアを、先頭に立った男性がハーフコートのポケットから取り出した鍵で解錠した。カチリ、という音が異様に大きく響いた。ドアノブを押し、入ってゆくその男性に皆が続く。最後の男性がゆっくり、ドアを閉めた。
ドアを入ると鉄製の階段が真正面にあった。倉庫内は真っ暗だったが、裸眼で彼らにはそれが見えていた。まるで暗視装置でも装着しているかの様に。倉庫内はガランとしており、隅々まで見渡す事が出来た。荷物はおろか、フォークリフトの一台も見掛けない。奥の方に多数のパレットが積み上げられ、他に段ボール箱が幾つかあるのみだった。
「良し、問題ない」
暗闇の中に、大山の声が低く響く。彼の視界の中で、後に続く者達の頷く姿があった。彼を先頭に、二階へ上がってゆく。
事務所は結構な広さがあった。折り畳みの椅子が六脚あるだけならば、余計にそう感じられる。男女は真っ直ぐ椅子に向かい、腰を下ろした。定員は満たされた。皆が着席したのを確認すると腕時計をチラ見し、大山は口を開いた。
「宜しい。では、予定時刻を大分過ぎて申し訳なかったが、定期連絡会を始めよう。まずは”長老会”との会議の結果報告から始めさせて頂く」
「どうせ相も変わらず、ではないのかな?」
「田ノ中さん。大山さんが説明するところですから」
混ぜっ返す様な田ノ中に、苛立たしげに若者が注意する。アパートの前で安藤と話していた若者だった。
「幡谷君、大丈夫だ。田ノ中さん、確かに仰る通りです。相も変わらぬ弱腰、無意味な慰撫の言葉を聞かされました。ところが一つ、奇妙な提案がありましてね」
「ほう?」
田ノ中が身を乗り出してくる。”長老会”の者が、この期に及んで何か新規な提案をしてくるとも思えなかった。
「今の我々の陣容で充分なのかと。戦いに予想外は付き物だからと、人を紹介する用意がある様でした。もっとも、未だ接触していない様子でしたが」
「はっ!話にならないですよ!」
幡谷と呼ばれた若者が、嘲笑混じりに斬って捨てる。
「同感だ。今更どういうつもりだ?これまでの否定的態度は?」
「あのご老人が何を企んでいるかは判りかねますがね。まぁ、もし本当に参加を申し出られた場合には、皆で面接といきましょうか」
「まさか、本気ですか!?」
幡谷は不満げだった。
「どうしたのだ?何か問題が?」
「あの、”長老会”からの紹介なのですよ!?我々の中にスパイでも潜り込ませるつもりかも知れません!邪魔をする気かも!」
「もちろんその可能性がないとは言わないが、そういった意図を秘めているのかは我の目で見極められるのではないか?確かに、我々はより多くの参加者を欲している。もしその者が本心から参加を望んでいるのであれば、これを歓迎するのに吝かではないだろう?一両日中に中京方面へ状況確認に向かうが、あちらでもそういった同志の出現を望んでいる」
「…大山さんが、そう言うなら」
不承不承、幡谷は口を閉じた。
「なるほど、同志、ねぇ…実は、私もその同志を勧誘しようと試みたんだが…」
田ノ中の、歯切れの悪い物言い。大山の表情が幾分険しくなった。
「…今日、ここに同道してはいませんね?どうしましたか?」
あくまでも静かに、しかし険を含んだ言葉遣い。田ノ中が情けない表情になる。
「それが…最初は良かったんだ、説得出来る自信があった。本当なんだ、小隈君と言うんだが、二年前、初めて呼ばれた時に会った若者で、あちらでは先輩だったよ。一見チャラそうだったが、芯のしっかりした」
「それは結構。それで、どうなったのですか?」
言い訳がましく早口になる田ノ中の言葉を、大山が押し止める。これ以上見苦しい真似はするな、とでも言いたげに。
「…それが、彼の人間関係の話が出た時に、ちょっと、まぁ、その人物を貶したら、怒らせてしまって…」
「全ては、水泡に帰した、と?」
「その、怒って、帰ってしまった」
大山と目を会わせないよう、答える。ごにょごにょと、聞き取り辛い。まるで親に叱られる小学生の様だった。
「それで、貴方はどうしたのですか?」
大山の声が剣呑になる。秘密保持の為、適切な処置を執ったのかと、訊ねるが。
「いや、それは、そのままだ」
「つまり、その小隈さんは、今でも何処かで元気にしている、と?」
一見静かな大山の声は、しかし田ノ中に巨大なプレッシャーを与え続ける。
「その、大事の前に、事を荒立てるのは、まずいだろう?第一、彼は、実に良い奴なんだ。芯はしっかりしているし、口も固い。信頼出来る」
「それは危ういと思いますが。貴方は、ご自身の愚挙がいかに我々を危険に晒しているか、自覚しているのですか?」
大山を始め、幾つもの冷ややかな視線を感じ、生命の危機すらも田ノ中は覚えた。
「いや、大丈夫だ!そもそも、誰に話したところで相手にされないだろう事くらい、よく判っているさ!」
実際には、この時点で後嶋に漏れていたのだが。尚も大山は疑わしげだった。
「本当に?その、小隈さんが近しい人に漏らすといった可能性はないと?一般人ならばともかく、同じ”闘士”ならば?」
「もちろん…ああ、あ?」
返答の途中で、田ノ中はある事を思い出した。小隈が相談をしたい、と言っていた事を、その相手の名を。
「どうかしましたか?」
圧迫感のある大山の声、正直に話さざるをえないだろうと観念する。
「ああと、実は…彼の人間関係の話が出た、と言ったが、その経緯を思い出したのだ。その、小隈君が、相談したい人がいる、と言って」
「…その人物に話す、あるいは話した可能性があると?」
誰か水系列の氷結魔術でも使用したかの様に、その場の空気が凍り付く。田ノ中は萎縮してしまい、言葉もない。
「その人物の名は、判りますか?」
大山は、静かに訊ねた。
「ああ…ああ、そうだ、後嶋だ、後嶋さん、と言っていた!」
「後嶋?誰か、知っている者は?」
周囲を見回しつつ問い掛けるが返答はない。視線を投げ掛けられた者達も、お互いに顔を見合わせているばかり。
「いないだろうよ。何しろ、十年前に一度、呼ばれたきりの役立たずだそうだからな」
嘲笑気味に田ノ中が説明する。
「十年前?それは知らない筈ですね。私でも最初は七年前ですから」
大山が小さく頷く。
「そうだろう?そんな前に一度呼ばれただけ、などと言うから」
「大山さん!」
それまで沈黙を守っていた若者達のうちの一人が不意に、田ノ中の言い訳がましい言葉を緊迫した声で遮った。
「一体どうした、君津君?」
そう訊ね返す大山の声も、俄に緊迫感を帯びる。
「この倉庫を監視している車があります!」
「何っ!?詳細を!」
「はい!車内には二人、スーツ姿で三十代程と四十代程の男性。暗視装置らしき物でこちらを窺っています!」
若者は『視たまま』を報告した。それは所謂『千里眼』の様な魔術で、予め大山に指示された通り着席後、意識を集中させ周辺を監視していたのだった。
「警察か!?」
田ノ中の慌てふためく声。しかし大山は冷静だった。
「この建物は”長老会”幹部の会社の所有で、鍵も正式に貸与された物です。あるとすれば公安関係、でしょうか?」
「公安?まさか計画が」
身も世もなく震え出す田ノ中。自分の軽率な行動が招いた結果かと、生きた心地がしない。
「会合場所まで話しましたか?」
「いや、そういう話をする前に帰ってしまったから…とすれば、小隈君から漏れた訳ではない?」
「それは判りませんが…あるいは…いや。ともかく、今日はこの辺でお開きにしましょう。安藤さん!」
不意に呼び掛けられ、参加者唯一の女性である安藤はピクリ、と肩を震わせた。
「はい、何ですか?」
おずおず、という風に大山に問う。大山は少し苛立ちを面に現した。
「撤退する、と言っているのですが」
その声音は、その程度の事も察せられないのか、と言外に罵倒していた。
「さっさとクラゲを出しゃ良いんだよ!」
幡谷はもっとストレートだった。立ち上がる。
「…ゴンです」
消え入りそうな抗弁と共に安藤も遅れて立ち上がるや、右手の甲を口元へ持っていった。中指には指輪が嵌められている。その石は小隈のイヤリングと同様、金属の様な質感だった。黄色に鈍い光沢を湛えた金属塊。到底高価そうには見えない為、まず盗難の心配は無用だった。
「ゴンちゃん、来て」
言って指輪に吐息を吹き掛ける。彼女の視界の中で、指輪の放つ光が魔法陣を形成する。と見る間に霧散し、代わりに漆黒の闇が口を開けた。その中から姿を現したのは、確かにクラゲだった。ただ類似しているのは形状のみで、透明ではなく薄緑色、触手類はさほど長くはない。魔獣などと呼ばれる、異世界に棲む魔力を生命活動に活用する生物の一種だった。クラゲ同様、ただし水中ではなく空中を漂い出す。彼女が右手を伸ばすと、触手が絡みついてきた。
「…巣を、お願い」
その一言が終わるや否や、一同を包む空間が変貌した。背景が歪み、白一色に塗り潰されてゆく。もはや、そこには床も壁も、天井もなかった。
「裏の公園で、良いですね?」
「ええ。では、誘導を」
大山に促され一つ頷くと、クラゲの触手が絡みついたままの右手を突き出し、歩き出した。そこは二階の、決して広いとは言えない事務所の筈だったが、彼らは安藤を先頭に真っ直ぐに歩いてゆく。それはクラゲ型の魔獣が生成した亜空間だった。現実世界とは僅かに位相の異なる亜空間は、現実世界の物理法則や地形等の制約を受けることなく接合点、つまり出現すべき現実世界の場所を設定可能だった。接合点は安藤には見えないが、彼女の脳裏にはそこまでの道程の風景が浮かび、それを辿る事で接合点に到着する。高低差は無関係な為、超高層ビルの屋上から地上に降下する事も可能だった。幾度か方向を変え、遂に彼女は立ち止まった。
「…有難うね、ゴンちゃん」
愛おしげに左手で軽く撫でると、クラゲは触手を解いた。一同の周辺で、再び変化が起きた。白一色のカーテンが取り払われ、パースの歪んだ現実世界が姿を現す、と、それは間もなく見慣れた風景に固定された。
「それじゃあね」
召還時と同様、指輪に吐息をかける。彼女の視界内に再び漆黒の闇が口を開け、クラゲはその中に吸い込まれる様に消えていった。
「ったく、何で亜空間内で歩かなきゃなんないんだ?使い勝手悪りぃ」
これ見よがしに幡谷がグチってみせる。一種のお約束だった。
「こうしないと、目的地と接合、出来なくて…」
こちらもお約束の弁明だった。大山達は周辺を警戒していた。その公園は遊具の類も一切ない、四方にベンチと、古めかしい公衆便所がある程度の狭苦しい場所だった。物陰と言えば、周辺に何本か植えられた桜の木程度のものだった。この時間帯にこの公園で憩う人の姿がある筈もなかった。
「では今日の連絡会はこれまで。次の連絡会日時は、またいつもの方法で」
小声で大山が宣言する。一同は頷き返し、散っていった。幡谷の少し後を、安藤は歩いた。
「全く、田ノ中さんにも困ったもんだよな。慣れない事して面倒事起こしてくれてんじゃねぇよ。人望もねぇくせに!」
最後は吐き捨てる様な口調だった。安藤はそれをぼんやりと聞いていた。彼女は田ノ中という人物について、殆ど何も知らなかった。彼らの様な”闘士”は、その選定基準は判然としないが、通常短期間のうちに複数人が異世界に『呼ばれる』のが普通だった。自分達では対処出来ない魔獣の被害が発生した時、彼ら、彼女らは呼ばれるのだった。幡谷も安藤も四年程前、同時期に初めて呼ばれたのだが、初心者は教練場という、ブートキャンプの様な所で”闘士”に必要なスキルを身につけさせられ、長くて一ヶ月余りで対魔獣戦の為に様々な地方へ派遣された。同時期に呼ばれた者達の間ではある程度個人的な情報も交換され、帰還後の人間関係もそれなりに継続する事が多いが、そうでなければプロフィール不明の赤の他人、という状況だった。彼女も積極的に訊いてみようとは思わなかった。”闘士”には、様々な地雷がある事を熟知していたから。仕事は、家族は、住まいは、友人や恋人は、将来の夢は…こういった話題の一つや二つに、とても破壊力抜群な地雷が埋まっているのだ、様々な形で人生の破綻を経験してきた彼ら、彼女らには。
「…大丈夫かしら…」
それは何気なく漏らしたものだった。自分が確実に後戻り出来ない状況に向かっているという実感だけはあった。
「はっ!あんたの心配なぞ無意味だろうが!?戦力としちゃカウントされてねぇのに!」
幡谷が鼻先で嘲笑する。
「それは、そうだけど…」
「俺たちゃ作戦開始と同時にこの国の主要な機関に潜入して、VIPを人質に取る。連中に、俺達には敵わない、って事を思い知らせてやるのさ。あんたの役割は潜入の為の道案内だ、あのクラゲを使ってのな」
「だから。ゴンちゃんだって…」
消え入りそうな安藤の抗議なぞ、聞えていたとしても幡谷は取り合う気などなかったろう。それ以後は会話もなく歩き続ける。いつの間にか、駅前に辿り着いていた。アパートまでは三駅、徒歩十分余り。時間にして三十分に満たないが、彼女にとっては心労の絶えない長い時間になる筈だった。




