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第二章 その一

 第二章

 時刻は午後八時を回っていた。利用している駅からゆっくりと歩いて十分余り、後藤が暮らす三階建てアパートが見えてきた。四方を囲むブロック塀の出入口、その門扉に架けられたアーチには『ハイム プリマヴェーラ』とある。どういうネーミングセンスで付けられたのか、彼には判然としなかった。建物中央の階段を上がってゆく。一階につき四部屋、築二十年余りで立地条件も申し分なし、それに比べ家賃は手頃と、彼一人が暮らすには丁度良かった。

 三階に上がると、彼の部屋の前で壁により掛かりスマホを弄っている人影があった。後嶋の目元が優しくなる。

「もう来てたのか?」

人影は小隈だった。スマホから視線を上げた。

「あっ、へへっ、久し振りだったもんで」

足元の鞄にスマホを滑り込ませ、代わりにコンビニ袋を手に取る。ビールの青基調の六缶パックが入っているのが透けて見えていた。

「これで良かったッスか?」

掲げて示すと、後嶋は頷いて見せた。玄関ドアを開け、中に入る。小隈がそれに続いた。

「着替えてくる。ダイニングで待っててくれ」

「了解ッス」

「腹は減ってるか?」

「一応、コンビニ弁当食ってきたッスけどね」

言いながら、何かをねだる様な目をする。何とも愛嬌があった。

「そうか」

後嶋も笑顔で答えた。書斎へ向かう。小隈はダイニングのドアの向こうへ姿を消した。

 ワイシャツ姿の後嶋がダイニングに姿を現すと、小隈はもはや指定席と化していた椅子に座り、スマホを弄っていた。コートや上着類は隣の椅子の背に掛けている。エプロンを着けながら、後嶋は訊いた。

「もう少し、待っててくれ」

「ういッス」

スマホを見詰めたまま、小さく会釈する。冷蔵庫を開け僅かに思案した後、食材を取り出してゆく。

「かれこれ二ヶ月ぶり、か?調子はどうだ?」

優しい兄の様な、くだけた口調。年の差を考えても長男と三男、丁度その様な感じだった。

「まぁ、平常運転、ってとこッスかね。ぽつぽつ忙しくしてるッス」

「はは、それこそ僥倖というものさ。何も知らない連中が、退屈と呼ぶものこそが」

彼の言葉の後半は、熱したフライパンに注いだサラダ油の爆ぜる音に聞き取り難くなる。

「まぁ、そうなんすけどね…」

語尾は酷く曖昧になった。

「?どうかしたのか?」

「へ?ああ、ちょっと。落ち着いたら話しますんで」

「この前、話していたヤツか?どうした、金銭絡みか何かか?」

ほうれん草を重ねて千切りながら、後嶋が訊ねる。電話での口調が少々深刻そうだったのが気に掛かっていた。

「そうじゃあ、ないんすけど…」

小隈の声には、不安が滲んでいた。

「そうか…」

そのまま会話が途切れ、調理する音だけがやけに大きく室内に響いた。

 テーブルの中央に、湯気を立てている白い大皿が置かれた。小隈が覗き込めば、適当に千切ったほうれん草に薩摩揚げ、鶏肉の炒め物だった。カレーの香りが鼻腔を心地よくくすぐる。到底酒肴とは言えない量が盛りつけられていた。

「あの、これ、なんて料理ッスか?」

一応訊ねてみるが。取り皿を配りつつ、後嶋は事もなげに答えた。

「さぁな。ほうれん草と薩摩揚げ、鶏肉を炒めたカレー風味の何か、だ」

「…えっと、これって、取り合わせ良いんすかね?」

「おや?俺を管理栄養士か何かだと、思ってたのか?」

取り皿の上に箸が置かれる。小隈は思わず噴き出した。

「ははは、相変わらず、後嶋さんの料理って雑ッスね!」

「食えるなら上等、だろ?」

にやけながら、後嶋は着席した。それは、かつて合い言葉の様に口にしていたフレーズだった。

「その通りッス!あっちじゃ肉に塩振って焼いたら料理だったッスもんね!」

菜箸を手に、小隈は料理の香りを楽しんだ。後嶋は缶ビールのプルタブを起こし、前方に引いた。プシュ、という音と共に、一日の疲れを解きほぐす様な芳香が頭の芯を痺れさせる。一口、口を付け。

「ふぅー、喉にしみる」

満足げに菜箸を取り、料理を取り皿に分け始める。

「相変わらず、忙しいッスか?」

「まぁな。結構順調に仕事は来ている」

「アプリ開発の下請けとかって、儲かるんすか?」

「まぁまぁ何とか、やれているさ」

「なら良いんすけど。後嶋さんは俺らの希望ッスからね。いつか後嶋さんみたいになれるんじゃないか、って思ってるッスよ」

薩摩揚げを囓りながら、小隈は言った。

「なれるに越した事はないんだろうが。俺も大したアドバイスは出来ないからな。せいぜい強力な相棒を持て、ぐらいしか」

視線を下げ、溜息。自分の境遇について、小隈に対し多少の引け目を感じていたのだった。

「強力、ッスか…まぁ、うちのパピーじゃ無理ッスね。色々試してみたッスけど」

言って缶ビールを煽る。缶をテーブルに置くと、こちらもゲップ混じりの溜息。空気が重くのし掛かってくる。それを押し退ける様に、後嶋は口を開いた。

「…そういえば、話したい事があったんだろう?」

「あ、そッスね。実は、二年程前一緒になった人に、久々会ったンすけどね」

努めてだろう、あっけらかんとした調子で小隈は切り出した。

「向こうでか?」

「そうッス。田ノ中さんって言うッスけど、丁度今の後嶋さんくらいの時が初、だったッスよ。変わり種ッスよね?」

「そんな年齢でか?普通なら、三、四回目くらいだと思うが?まぁ、向こうの呼び出しの年齢基準など、判る筈もないしな」

「そうッスよねぇ。出勤途中で呼ばれたみたいで、スーツで帰ってったすけど。これが元で、家庭崩壊しちゃったみたいで」

「そうか。お気の毒ではあるが、良くある話だな」

「向こうの事情も、ほんと判らない事ばっかッスよねぇ。正直、あんま役に立たなかったし、何で呼んだ、って感じで。人数も少なくって、結構負担でかかったッス」

「それはご苦労だったな。向こうも人のやりくりに難儀しているのか?」

「さぁ。ま、それはともかく。その田ノ中さん、ちょっとヤバい事に首突っ込んでるみたいで」

「やばい事?犯罪絡みか?」

後嶋は箸を置き、身を乗り出した。

「そういう事に、なるッスかね」

言いつつ小隈は左耳のイヤリングを弄りだした。

「サイレンス」

小さく呟くと、二人の視界の中でイヤリングの玉が光り出した。その光はやがて円盤状に配置された図形の羅列を形成し始めた、と見るや、霧散する。テーブルを囲む周辺の空気が変容してゆく。まるでオーロラが突然室内に出現したかの様に、二人の周辺が揺らぎだした。これは異世界のテクノロジー、魔術の一つだった。特定の領域内で発生した音波が、その外へ漏れ出す事を阻害する。外からの音波は、エコーが掛かった様な感じで聞こえる。領域内に盗聴器が仕掛けられていたり、領域内に立ち入れば会話を聞く事は出来た。会議室で山神も、同様の魔術を使用していたのだった。

「誰も、聞いていないと思うぞ?」

苦笑じみた笑みを浮かべる後嶋に。

「念には念を、ッスよ。そんだけヤバい話ッス」

「そうか。心して傾聴しよう」

真面目顔で応じる後嶋。小隈はハンバーガーショップでの一部始終をかいつまんで語った。ただし、後嶋の事で喧嘩となった件については割愛した。

「…って事ッス。ヤバいっしょ?」

話を聞き終えて暫く、後嶋は額に右手を当て黙考していた。その間じっと、小隈は黙って見守るよりなかった。

「…まぁ、判らない話ではない、か」

両手をテーブルの上に置き、小隈を見据えた。その真摯な視線に、少し気圧される。よほどの事態だと、改めて思い知らされた瞬間だった。基本的に後嶋は、小隈の前ではくだけた態度をとる。それこそ生命に関わる様な事態でもない限りは。そういった場面に、二人は幾度となく直面していた。

「…これ、どうなるッスかね?」

恐る恐る、という風に訊ねると。

「…正直な所、予断は許さないな。最悪の場合、白日の下に晒された俺達”闘士”の存在が危険視され、特区どころの話じゃないだろうが…」

「失敗する、って事ッスか?」

「いや、そうとも言い切れない。その連中の暴れぶりでは、特区という檻に押し込めてそれ相応の便宜を約束し、ひとまず宥めるのが得策、という判断もあり得るからな。連中だってこの国の国民で、国側もそうそう血を流す訳にはいかないだろう?」

「それもそうッスね…もし、警察とか自衛隊と戦う事になったら、どっちが勝つッスかね?」

「さあな。参加者個々の力量次第、ではあるんだろうが…まぁ、その連中が、どこまでやる覚悟があるか、次第だろう」

「覚悟、ッスか?」

後嶋はゆっくり頷いた。

「連中が言う通り、デモンストレーションでこの国の政府から譲歩を得られたなら、そこで戦いは終わるだろう?つまり連中の勝ちだ。それにはもちろん、魔術や魔獣を駆使して、こいつらには勝てない、って意識を植え付ける必要があるだろう。しかも出来る限り、被害は出さないのが望ましい。それなら、余計に要求は通り易くなるだろう。でも、そこで終わらなかったらどうだ?あくまで政府側が何を使ってでも徹底抗戦する気なら?その時、この国を滅ぼしてでも戦い抜く程の覚悟があるのか?もしないなら、連中の負けだ」

「いや、覚悟があったって、勝てっこないっしょ?」

少々呆れた風の小隈に対し。

「そうでもないぞ?例えば、お前が今の格好のままで国会議事堂やら首相官邸やらの見学者に紛れたとするだろ?所持品チェックはされるだろうが問題なしだ。で、入ってしまってから相棒やら武器やらを呼び出し、魔術も駆使して壊滅させる。籠城でも良いだろう。これを主要な機関や施設で繰り返せば、あっという間にこの国は機能不全に陥るな」

「うわっ、えげつなー」

小隈の頬が引き攣る。それもお構いなしに、後藤は話し続けた。

「たとえ自衛隊が出て来たとしてもだ。雷系列の魔術で通信も妨害出来るし、電子機器も破壊出来る。基地や駐屯地に潜り込んでこれをやれば、組織だって動けなくなるだろう。火薬類は炎系列でド派手に処理する」

「…」

小隈は言葉を失った。現代人の精神からすれば、最先端の兵器に魔術が勝てる、という発想には至った事がなかったが、よく考えてみれば、とも思える。もちろんそこまでの高度な魔術を使いこなせれば、の話であって、とうてい彼には無理だったが。

「何か、穴があるか?」

「…あの、後嶋さん…もしかして、叛乱計画とか、作成した事あります?」

「馬鹿を言うな。なぜそんな事をする必要がある?」

いかにも心外そうな表情をしてみせる。

「いや、だって…でも、後嶋さんだったら、そんなまだるっこしい事する必要ないッスよね。相棒の力を借りりゃ、ガチンコで戦闘機にでも勝てるっしょ」

「だから、何でそんな事をしなくちゃならないんだ?俺は今の生活に満足してるんだぞ?」

「そッスか…そッスよね」

コクコクと、小隈は頷いて見せた。

「さ、早く食え。冷めてしまうぞ」

皿を押しやる様にしながら後嶋。一つお辞儀をし、小隈は再び箸を動かし始めた。その様子をぼんやりと眺めながら。

「…出来れば、関わりたくはないが…もし、その連中が成功したなら、協力は出来るかも知れないな」

「えっ、協力するッスか?」

箸は止めず、小隈は視線だけを後嶋に向けた。

「その連中の心情は判るからな。理不尽に抗う術もなく、それを訴えたところで一般人は判ってくれないんだ。むしろ病人扱いされるのがオチだから、俺も十年前、硬く口を閉ざした。たとえどれ程人の心証を悪くしようとな」

「みんなそッスよね。そうやってみんな、少なからず生き辛くなってって」

溜息が漏れる。自分はまだマシな方だと、小隈は胸中で呟いた。

「特区には直接参加しなくても、その連中の創設する交換所に出資する事は可能だろう。円でもモルクでも」

モルクとは、異世界で流通している硬貨の単位の一つだった。

「後嶋さん、未だ持ってたッスか?」

「手つかずだ。使い途がないからな。連中にとってもそれが問題なんだろう?」

「そッスよねー。でも、連中が後嶋さんを認めるッスかね?おいしいとこ取りする気かー、なんて」

「確かに、そう言われても仕方がないだろうな。しかし、連中にとっても決して悪い話ではない筈だろ?特区という領域を与えられた”闘士”達が、この国の経済に独自のルールを伴い参加する為には…いや、モルクを一種の地域通貨としてみれば、それ程独自とも言えないか?」

「でも、そうなると、どれ位の”闘士”達が参加するんすかね?あまり少なくちゃ、回ってかない様な気もするッスけど」

「そうだな…アヒーヤの言ってたのは、大体四百人位だろう、という事だったな。いつの時代も、四百から六百位の”闘士”が、この国、地域から呼び出されてるらしい。他の国、地域から呼び出してる勢力があるのかは知らないが」

「んー、俺も聞いた事ないッス。外国人を見掛けた事も、無かったと思うッス」

「そうか。まぁともかく、全員でないにせよ三百人くらいが参加したとすれば、それなりに形にはなると思うな」

「一体、特区でどうやって食ってくんすかね?」

「まぁ、基本的には自給自足、だろうな。農業か工業か、あるいは他の産業で生計を立てるにせよ、生産手段やら建物やらは必要だ。その大半は円で調達する事になるんだろうが、その出所は?」

「みんなで出し合う?」

「それが出来る程の蓄えがある者が参加するのか?まぁ、少なくとも最初は”長老会”が出すんだろう。あるいは、”長老会”自体は解散して、そこに合流するのか?」

「本当に特区が設置されるなら、もう必要ないッスもんね」

「そうだな。さて、問題は向こうの通貨の扱いだ。こちらで貴金属として通用するならともかく、今のところ役立たずと来てる。この世界の、どこの国や地域でも必要とされてはいない以上、特区内の地域通貨的役割ぐらいしかないだろう。必要に応じて円に交換する仕組みが重要になる訳だが、円やらドルやらと違って、交換レートが変動する様な事はないんだろう。市場のプレイヤーは特区内の人間のみ、だろうからな」

「メンバーズカードの一ポイント一円、みたいな?」

「実際どうなるかは知らないが、まぁそんなものだ。あと使い途があるとすれば。もちろん向こうで使用する為に準備しておくか」

「え、それって肌身離さず、って事ッスか?」

「向こうで苦労しなかったか?まぁ、それは良いとして…あるいは、向こうとの通商の可能性は?」

「あのプライドお化け共がッスか?俺達に規定以外の物の持ち出しとか、認めないっしょ」

「こちらの文物に興味を示しそうな者は?秘密裏に応じそうな者がいれば、本来の使い方が出来るだろう」

「本来の、ねぇ…で、後嶋さんはそこに出資する用意がある、って事ッスね?」

「さっきも言った通り、相手が認めれば、の話だけどな。まぁ、とにかく様子見だ。俺達に火の粉が振り掛からない限り」

ビールを一気に流し込むと一息つき、缶を握り潰した。

「そッスね。同感ッス。田ノ中さんにはお断りしとくんで」

「そうか。しかし、その田ノ中さんは大丈夫なのか?こんな話をした相手に断わられて」

「大丈夫っしょ?俺の口が固いのは知ってる筈なんで」

「でも俺に話したろ?」

「いやいや、最初から相談するって断わっといたんで。後嶋さんだって、誰かに喋ったりしないッスよね?」

「もちろんだ。自分の平穏が一番だからな。こう言うと自己中心的に聞えるか?」

「仕方ないっしょ。俺達ヒーローとかじゃないし、後嶋さんの力なんて、おいそれと使えないし」

「使わずに済めばいいな」

面を伏しがちに、ぼそりと後嶋は呟いた。

「それに、生島さんの面倒も看なきゃ」

「おい」

静かなその一言に、小隈の笑顔が凍り付く。自分が何を口走ったか、気付いたのだった。それは、軽々しく触れてはならない事柄だった。

「ああっ、済まないッス」

気まずげに、小隈は頭を下げた。

「…もう良い。話はこの辺にしよう」

「そう、ッスね。解除するッス」

小隈が再びイヤリングを弄る。「解除」と小さく呟くと、彼らを囲んだオーロラが、幕が上がるように消えていった。

「今日はどうするんだ?泊まっていくなら布団を敷くぞ?」

小隈はテーブル上のスマホをチラリ見した。

「うわ、もうこんな時間すか!すいません、明日の午前中に上げなくちゃならない仕事があって!」

残っていたビールを流し込み、立ち上がる。

「ビールなんか煽って、大丈夫なのか?」

「丁度良いガソリンッスよ!それじゃ、ごちそうさまでした!」

ヘコヘコと会釈してみせるとスマホを鞄に滑り込ませ、早足にダイニングを出て行く。後嶋が後に続いた。玄関の明りを点ける。靴を履いていた小隈が振り返った。

「気を付けてな。また何かあったら、遠慮せず連絡しろ」

「ありがとッス!」

履き終えると、改めて後嶋に向き直る。

「じゃ、また連絡するッス!」

敬礼の真似事をし、解くと無邪気な笑顔になった。

「ああ、向こうの事は、もうお前の方が先輩だ」

手を振り、小隈は玄関ドアの向こうへ姿を消した。

「…面倒事に、巻き込まれなきゃ、良いが」

小隈の背中を見送ると、立ち尽したまま後嶋は呟いた。


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