第一章 その四
乗車率百パーセントを超える通勤電車を降り、駅を出て五分余り大通りを歩くと、まずまずの床面積を持つ、十階建てオフィスビルがあった。ブロンズ製プレートには『第二扶桑ビル』とある。時刻は未だ八時二十分少し前。周辺に並ぶ工具や機械部品等の個人商店は未だシャッターが降りている。ぽつぽつとあるコンビニなども、客の出入りは疎らだった。目の前に聳えるビルはともかく、付近にある、片手の指で余る程のオフィスビルの正面玄関シャッターも、警備の関係上かこの時間では上がっていないのが殆どだった(早く出社する者は、勝手口から入るのだろう)。その一角は、オフィス街と呼べる区域からは少々離れていた。
正面玄関を入ると、正面に二台、エレベータが並んでいた。右側には勝手口へと続く通路。エレベータの横にはフロア共同の会議室、その裏側には二部屋ある。
「お早う御座います」
右側から声を掛けられ、後嶋はそちらを向いた。守衛室から、制服姿の初老の男性が会釈をしてくるのが見えた。
「お早う御座います」
笑顔で会釈を返し、守衛室の隣の鋼鉄製ドアへと歩み寄った。
「今日もご苦労様ですね」
「まぁ、運動不足解消の為、ですから」
ドアを開ける。向こうは階段室だった。彼は常にこの階段で六階のオフィスと往来していた。ドアを静かに閉めると、軽快に階段を上がり始める。軽快な足音が、階段室に低く谺した。
息切れ一つせず階段を上がりきり、階段室を出るとエレベータの前を横切る。エレベータホールには一台の自動販売機と丸テーブル、椅子などが置かれている。時には徹夜明けの社員等が眠気覚ましのコーヒーを啜っていたり、朝食を摂ったりする姿がある。奥へ向かう通路を曲がり、二番目のドア(一番目はフロア共同の会議室のもの)の前で立ち止まった。ドアに貼り付けられたネームプレートには、白地に青色で『O.G.システム』の文字が。パソコンの市販アプリやスマホのアプリ等の下請け開発を主に行なうソフトウェア会社だった。バッグからキーホルダーを取り出し、一本の鍵を選び出すとドアノブ下の鍵穴に差し込み、捻った。カチリ、という音が、いやに大きく響く。鍵を抜き、ドアノブを回す。ドアが開き始めると、微かに暖かい空気が流れ出してくる。夜遅くまで、誰かが残って作業していたのだろう。少々呆れ気味の表情と共にドアを全開にし、足を踏み入れた。ブラインドの降ろされた室内は薄暗い。そのまま奥へ進もうとして一歩足を踏み出した所で、彼は不意に立ち止まった。未だ室内を点灯していなかった事に気付いたのだった。傍らのスイッチを押す。室内の様子が、蛍光灯の明りに露わとなる。テニスコートより一回り広い程の床面積。手前の、受付代わりのスチール製ラックの向こうには、二つの島になった十二程のオフィス机が。そこには誰の姿もない。左右の壁際にはスチール棚やロッカーが並んでいる。奥には間仕切りで囲まれた社長室と、その右側にトイレが並ぶ。後嶋は受付の横を通り抜け、真っ直ぐ奥へと進んでいった。社長室のドアを開けその身を滑り込ませた。
社長室内にはオフィス机が一つと、その手前に小さなテーブルがある。机上にバッグを置きハーフコートを脱ぐと、それを壁のフックに引っ掛けた。再び出て行く。左隅の用具入れのドアを開き、プラスチック製のバケツと、干してあった雑巾二枚を取り出すと、オフィスを出て行った。これから給湯室でバケツに水を溜め、全ての机の上を拭くのが彼の日課となっていた。水の溜まったバケツに雑巾の一枚を浸し、固く絞る。バケツと雑巾を手にオフィスへととって返し、まずは受付の上を拭き始めた。それが済むと、足元のバケツを手に社員の机へと向かった。どの机上にも、何も置かれていない。紙の資料等は全て、退社時に棚やロッカーに片付ける事を徹底している為だった。机の引き出しにはノートパソコンと筆記用具があるのみ。USBメモリ等の記録メディアは、会社で管理している物のみ使用を許される。彼の会社で開発しているパソコンやスマホ用のアプリケーション等は、社長室隣のサーバ用タワーパソコンにのみソースやバイナリ、仕様書等が保管されており、ノートパソコン上には残らない様になっている。サーバへのリモートアクセスにも制約が掛けられていた。一方で、無線LANで接続されたノートパソコン間は、サーバ上のファイルへのリアルタイムな変更の共有を可能とし(もちろん変更履歴はその都度更新されてゆく)、カメラ会議が時を問わず行なわれている。このシステムは社内で開発された物だった。
一つ一つ、丁寧に机の上を拭いてゆく。そうしながら、彼は今日の予定を胸中で反芻するのだった。あのプロジェクトの新規機能追加スケジュールを確認しなければ。あの要求仕様について、変更要請のメールを投げておこう…等々と、手を片時も休めることなく。社員の机が済むと、残るは社長室。自分の机、テーブルと、雑巾を替え時間を掛け拭いて行く。拭き終えると、満足げに一息ついた。
「ふぅ。今日の、始まりだ」
バケツの水に雑巾を浸し、社長室を出た。
「あ、社長、お早う御座います」
オフィスに入ってきたOLが、後嶋に気付き声を掛けてきた。去年入社したばかりの新人だった。
「ああ、お早う。早いね」
爽やかさを心掛けつつ挨拶を返し、オフィスを出て行った。
一応始業時間は午前九時だが、出勤していたのは八名だった。現在の社員数は十一名。残る三名の出勤予定を知りたければ、出退勤管理アプリを起動すれば判る。それは出退勤時間を入力するだけのものでなく、半休、どこそこへ直行等、予定を記入しておく機能も持っていた。予定外の休業等の場合、スマホの専用アプリから記入する事も可能だった。
「三井君は午前休だね?遅くまでご苦労だった様だね」
朝礼が始まり起立した社員達のうち、手前の新人OLに向かって話し掛ける。
「はい。七時頃に新機能追加の方式変更について、至急の検討依頼のメールが飛んできまして。午前中の進捗会議で報告するから、と」
「そうかい。ふぅ、先方さんも、こちらの勤務時間をきちんと理解して欲しいね」
苦笑を見せると。
「そうですね」
新人も、苦笑を返す。
「まぁ、それは仕方がないとして。三橋さん、プロメテウスの話は聞いているかな?」
プロメテウスとは、スマホ向けアプリの開発コードだった。彼女は小さく頷いた。
「はい。メール添付の資料がある筈です」
作成したドキュメントは、サーバ上に全て保管されている。
「了解。まずはプロメテウスの進捗報告から。私の会議室に集合して。では、朝礼を終わります」
社員達を一瞥する。
「今日も一日、頑張りましょう!」
後嶋が声を張ると、「頑張りましょう」と復唱が帰ってきた。踵を返すと社員達は着席した。後藤が言っていた会議室とはサーバ上の仮想のもので、そこに接続して(入室、などと呼んでいる)テレビ会議を行なうのだった。多数の会議室が設定されており、会議室毎に入室を許可される者が指定されていた(彼の会議室は、簡単にグループを切り替えられるよう設定されていたが)。朝礼の終了から十分余り、後嶋のノートパソコンのディスプレイ上には、プロジェクトメンバーのライブ映像を映すウインドウが複数、表示されていた。
「さて、始めようか?」
後嶋はノートパソコンのカメラに向かい、微笑を浮かべて見せたのだった。




