第一章 その三
明るくなり始めた道を歩きながら、彼女は小さく伸びをした。灰色のパーカーにデニムというラフな格好。仕事中は頭上で纏めていた肩まで掛かる髪を、今はさらりと流している。深夜のコンビニバイトは、決して彼女に充実感をもたらした訳ではない様だった。不機嫌そうな表情がそれを表していた。二十代後半、美人の部類に含まれるだろうが、目つきが良くない。陰気な印象を人に与えるのだ。これで笑顔を作ろうとすれば、やはりちぐはぐな事になった。
「…疲れた…」
デイパックを背負い直す。その右手人差し指には指輪が嵌められているが、四本の爪が支えている石は、宝石とは思えない程輝きに乏しい。むしろ黄色がかった、鈍い光を放つ金属というべきか。もちろん仕事中には外しているが、それは、彼女にとって極めて重要な意味を持つ物だった。といって恋人からの贈り物や親の形見、といった訳ではない。単なる装飾品ではないのだ。指輪は他に何種類か所有していたが、彼女は大抵その一つだけ嵌めているのだった。
狭い路地を暫く進み、十字路を右へ曲がると、彼女の住むアパートが見えてきた。築四十年近くの、良くあるタイプの二階建て。その敷地の入口、三段の階段の上に一人の若者が立っているのを見て、彼女の表情が少々険しくなる。が、次の瞬間にはそれを消し、何食わぬ顔で近付いていった。
「よお、朝帰りとは良いご身分だな、安藤さんよ」
ヤッケを着込んだ若者は、揶揄する様に女性を見下ろし言った。僅かばかり顔を上げ、安藤と呼ばれた彼女は若者を睨み付けた。
「…判ってる癖に。どいて」
「へいへい」
道を空けられ、彼女は階段を上がっていった。
「貴方こそ、こんな所に突っ立って、暇なの?」
「まさか。今日が初出勤さ。いつもの、”長老会”の斡旋さ」
彼女は若者の方へ視線を向けた。
「…そういえば、半月程静かだったわ。呼ばれていたの?」
若者は、彼女の下の部屋の住人だった。生活音が無いのには、直ぐに気付いてはいた。
「判ってなかったのか?全く…まぁ、今回は短期で済んだけどな。それより」
軽薄そうな若者の、声のトーンが落ちる。安藤の表情が、少し強張った。
「…何よ?」
半ば内容を予想しながら問うと。
「大山さんからの召集だ。午後七時に、例の場所でな」
「七時?そんな」
「今日はもう仕事無いんだろ?俺は仕事が終り次第合流する」
「…”長老会”は、了承してるの?」
嫌そうに眉を顰める安藤。若者の表情が少々険しくなる。
「ふん、あいつらは俺達の保護者か!?引退を認められた、ただの老いぼれ共だろうが!許可なんかいらねぇ!」「…その老いぼれから、仕事を斡旋されている癖に」
彼女の皮肉など、若者は歯牙にも掛けない。
「厚意は素直に受け取っておくさ。とにかく、連中のやり方じゃ俺達の、この惨めな状況は何も変わらねぇ」
「それって、大山さんの受け売りよね?」
皮肉げな笑みと共に安藤が混ぜ返す。若者に睨み付けられ、真顔になった。
「うるせぇな。お前だって大山さんには借りがあるだろうが。あの人がやろうとしてる事に加担しなくてどうすんだ!」
若者が身を乗り出してくる。思わず一歩引いた。
「借りって…それは」
「お前みたいなドジと一緒に行動させられて、ほんと良い迷惑だったぜ。ま、だから端から大した期待なんぞしてないけどな。数が多いには越したこと無い、ってだけだ」
ポン、と一つ、若者が軽く安藤の肩を叩く。アパートの方へ戻って行く彼の背中を恨めしげに見送りながら肩をはたく仕草をし、流されるままにとんでもない所まで辿り着いてしまった現実に、安藤は一つ溜息をついたのだった。




