第六章 その四
ハイム プリマヴェーラ裏の路地を、二本の暖かい缶コーヒーの入ったコンビニ袋を手に、洲堂は足早に歩いていた。かつて幡谷達が車を停めていた辺りに停車しているセダンに向かって。周辺に自動販売機が見当たらず、町工場の正門近くのコンビニまで行って来たのだった。時刻は既に深夜近い。本来なら引き上げていてもおかしくはない時間だったが、安藤が後嶋の部屋に宿泊している事実が確認され、ほぼ二十四時間態勢で監視が続けられていた。ローテーションで、今は下山と洲堂が張り付いていた。もちろん正門側にも何人か張り付いていた。
下山の待つセダンまで十数メートル、という所で、彼女の視界、その上方に、何か俊敏に動くものが映った。街灯の頼りなげな明りでは、微細な判別は困難だったが、人の様な大きさに思えた。反射的に視線が追う。それは、確かに人だった。中空を驚異的な距離跳躍し、後嶋の部屋のベランダに音もなく降り立つ。
「!」
危うく声を上げそうになり、彼女は口を押さえた。ベランダの人影は窓に張り付いた。室内を観察している様だった。暫し立ち止まっていた洲堂は、自分の職務を思い出し大きな歩幅でセダンに近付いた。運転席に近付くと、ジェスチャーで窓を開けさせる。
「どうしたんだい?」
怪訝げな表情の下山に、顔を近付け洲堂は険しい表情で囁いた。
「57の部屋に、誰か侵入しようとしている模様です!」
「え、何で判ったの?入口は反対側のみだけれど?誰かベランダをよじ登ろうとしてたの?」
戸惑った様子で囁き返す下山に、洲堂は説明した。
「違います!誰かが空を、道を横切ってベランダに着地したんです!」
下山の戸惑いは困惑となった。まさか今の状況で、彼女が冗談を言う筈もなかった。
「…何かの見間違いじゃない?あるいは、その人物が道路向こうの家の屋根から、丁度そこのベランダに跳び移った」
とでも、と言い掛けた下山を、頭上から聞こえた物音が押し留めた。小さいが、明らかにガラスの割れる音。下山の表情が一変する。
「…ガムテープか何か張って、窓ガラスを割ったな」
ドアを開けようとする。洲堂は数歩、下がった。
「大家さんの住所は判ってるよね?ここからさして遠くなかった筈だ。悪いけど叩き起こして、鍵持たせて来て。私は先に回ってるから。表の連中にも状況報告はしておく」
降車しドアを閉めるなり、下山は指示をした。
「何て言えば良いですか?」
「この通りを歩いていたら、誰かがベランダをよじ登ろうとしていた、とでも。もう警察には通報したから、今頃到着しているかも、って」
「え、下山さんが警官役ですか?」
対テロ特殊対策室の職員は、公的機関に所属する旨を示す身分証を常時携帯しているが、警察のそれとは異なる。そもそも私服の彼が一番に現場に到着している、というのも違和感があった。しかし、下山はニッコリと笑い。
「これでも、私も元警察官だよ。まぁ、何とかするさ。早く行って!」
「はい」
あくまで小声で返答すると一礼し、洲堂は小走りにその場を離れていった。
寝室の窓にはカーテンが引かれていたが、もちろん魔力を感知出来る大山には何の支障もなかった。誰か道を歩いているのには気付いたが、特に騒ぎ立てていない為こちらには気付かなかったのだろう、と彼は判断した。窓に顔を寄せ、室内を窺う。確かに、二人の人間が横になっている様が判った。どちらも”闘士”であろう事も。
「ふむ、寝ているか」
歪んだ笑みを浮かべ、左側へ視線を向ける。ドアが目に入った。近付き、ガラス窓から中の様子を窺う。廊下には常夜灯一つ点いていないが、誰も居ない事は判った。就寝しているのは後嶋と安藤か?アパートに戻って来ていない所からしてそうだろう(今戻って来られるとも思えないが)。奇襲を警戒して小隈も詰めているかも、と思ったが、どうやら居ない様だ。これは好機、と、ドアノブに手を掛ける。鍵が掛かっていた。想定内だった彼は、侵入する為の準備をしていた。着用していたジャケットのポケットから、ガムテープを取り出す。道中コンビニで調達したものだった。袋を破りガムテープを取り出すと、袋はポケットに突っ込む。ガムテープを二十センチ程の長さに切りガラスの、ドアノブに近い辺りに隙間なく貼ってゆく。ほぼ正方形に貼り終えると、ガムテープをポケットに突っ込み、今度は軍手を取り出した。それもコンビニで調達したものだった。両手にはめ、右の拳をガムテープにそっと当てる。呼吸を調え、ほんの僅か拳を引き、打ち込んだ。魔力で強化した拳は、それだけでガラスを粉砕した。その音を『静寂』の魔術で漏れないようにすることは可能だったが、相手が”闘士”である以上、気付かれる危険性があった。こんな空き巣狙いの様な手段を用いるのも、その為だったのだ。ガムテープを剥がしてゆく。直径十五センチ程の穴が開いた。ガムテープに付着しなかった窓枠のガラスを静かに抜き、右手を突っ込むとサムターンを回す。カチリ、という音がやけに大きく聴こえる。周囲の変化に細心の注意を払いつつ、ドアを開けた。
室内には、やはり誰かの動く気配はなかった。寝室には、相変わらず二人が横になっている。どうやら気付かれた可能性は低そうだった。左腕の腕時計に右手を添え、ウォーハンマーを召喚する。これの一撃で、彼を悩ませる問題は解消される、筈だった。右肩に担ぎ、左手でそっと、寝室のドアを開けた。中に一歩踏み込んだ、その時だった。不意に耳鳴りがし、軽い頭痛が彼を襲った。それが精神干渉系の魔術だと、大山は直ぐに悟った。しかし、それは彼を戦闘不能にする様なものではなかった。一体何の目的で、と思っているうちに、横になっていた二人が起き上がった。
「また、お会いしましたね」
「大山さん…」
後嶋と安藤、そしてゴンが彼の前に立ちはだかる。大山は悟った。あの魔術は寝室への侵入者があった事を、ゴンを介し二人に通報する為の、謂わば警報装置代わりだったのだ、と。
「判って、いたのか?」
「警戒はしていた、というだけですよ。貴方だけですか?」
「さぁ、どうかな?」
余裕ありげな笑顔を浮かべてみせる。幾らかでも牽制になれば、と考えたが、承知の上での問い、という可能性も高かっただろう。ちょっとした情報戦だった。
「そうですか…おや?」
チャイムが鳴ったのだった。続いて玄関ドアを叩く音。
「すいません、後嶋さん。何かありましたか!?」
男性の声が、ドアの外から聞こえてくる。
「誰か来た様ですね。まだやりますか?」
「誰が来ようと、関係ない!」
ウォーハンマーを構えつつ、大山は返答した。
「…なるほど」
小さく溜息をつくと、安藤を一瞥する。相棒の触手は彼女の右手に絡みついていた。
「…ゴンちゃん、お願い」
三人の視界は、急速に白に埋め尽くされていった。
下山に遅れること十五分余り、洲堂は大家の老婦人と共にやって来た。とるものもとりあえず来たのだろう、老婦人は部屋着にカーディガンを羽織ったのみだった。寒さに両腕をさすっている。
「私、こういう者ですが」
やって来た洲堂にのみ見える様に身分証を突き付けると、さっと下山は仕舞った。
「あっ、警察の方ですか。こちら、大家さんです」
大家は呆然としていたが、洲堂に振られ釈然としない表情ながらも会釈をした。
「夜分申し訳ありません。こちらの部屋に不審者が侵入したという通報がありまして」
下山が説明する。
「はぁ。こちらの河島さん?、からもお聞きしましたけれど…あの、この部屋の住人さんと、どういう関係なんですか?」
疑い深げな視線を、洲堂に向けてくる。洲堂は内心どぎまぎしながら。
「いえ、あの、仕事上のお付き合いで、たまたまこの裏の道を通り掛かったもので…」
「単なる仕事上の付き合いで、家をご存知なんですか?私の家も?しかも、この時間に?」
もっともな疑問に、しどろもどろになる。
「いえ、あの、その」
しかし逆に、その狼狽ぶりが功を奏した様だった。老婦人は何か合点がいった様に、ほくそ笑みながら数度、頷いたのだ。
「あぁ…侵入者ですか。運が良かったですねぇ、出くわさなくて」
玄関ドアに近付き、鍵穴に鍵を差しながら。
「そんな話、聞いた事なかったですけど、ちゃんとやる事はやってたんですねぇ」
何とはなしに嬉しそうに言った。洲堂としては苦笑するしかなかった。玄関ドアが開かれると、老婦人にここで待つよう言い残し、下山がドアを潜った。洲堂も続く。
「5…後嶋さん、大丈夫ですか!?」
開き直り、後嶋の名を呼ぶ。危うく符牒を口にし掛けたが、名前のお陰で言い直した感じは少なかった。電灯を点けつつ、二人は手分けして手当たり次第にドアというドアを開けてゆく。しかし、ここに居る筈の後嶋達の姿は、侵入者と共にどこにも発見出来なかった。寝室を確認した下山が、ベランダの出入口に気付いた。窓ガラスの一隅を破られた後を覗き込む。浴室から出て来た洲堂もそれに倣う。
「ここから侵入したのか…」
「どうでしたか?」
背後から不安げな老婦人の声が。二人は振り返った。
「室内には誰も居ませんでした。ここから脱出したのを、侵入者も追ったのかも知れません」
割れたガラス窓を示しながら、下山が説明した。老婦人は怯えた様な表情をした。
「まぁ!ここは三階ですよ、どうやって!?」
「さぁ…侵入者が用意していた梯子でも、あったのかも知れません」
頭を掻きつつ下山は憶測を口にした。もちろん自分では信じていない。そんな物がなかったのは重々承知なのだがら。
「ベランダでも、探してみませんか?」
老婦人以上に内心困惑している洲堂も、そう言って下山に水を向けた。まさかここから飛び降りた訳でもあるまい、と。ベランダには非常用梯子がある筈で、それを使用したのだろう、と。
「そうですね。ああ、大家さんはダイニングで休んでいて下さい」
二人の作業を見られたくないと、追い払うつもりで下山が促す。「そうですか?」と大家はダイニングへと踵を返した。その姿がダイニングのドアに消えてゆくのを見届け、視線を交すと二人はベランダに出た。
結局、ベランダには異常は見当たらなかった。非常用梯子を使用した様子もなく、ほぼ真下に見える彼らのセダンにも、特に異変はなかった。その周辺に人影もない。もちろん梯子の類も見当たらない。まさかここの住人は(そして侵入者も)、三階のベランダからアスファルトの道路へ飛び降り、何事もなかった様にこの場を離れたとでも言うのだろうか?
「まさか、俺達にも魔法を使ったのか?」
この状況を合理的に説明する言葉を探しあぐね、下山はスマホを取り出した。ここを監視している他の班員達に報告する為に。洲堂はぼんやりと、雲一つない夜空を見上げていた。彼らは気付いていなかった、直ぐ近くで死闘が繰り広げられている事に。もちろん、一般人ならばそれは当然だったが。




