第一章 その二
クローゼットの鏡に映る後嶋は、グレイのスーツに身を包み、地味な柄のネクタイを締めている。ネクタイの好みといっても、彼には特に拘りがない。大抵のシチュエーションで特に問題のない事が、彼にとっては大事だった。それは彼の生活全般に言える事ではあるが。スーツにせよネクタイにせよ、彼という人間を他人に印象づける記号は、可能な限りリーズナブルで無個性である事を彼は好んだ。それは一種の、防衛本能の為せる業と言えた。鏡を覗き込みネクタイが曲がっていない事を確認すると、ハンガーからハーフコートを外し、クローゼットの扉を閉めた。未だ八時前。会社まではドアトゥドアで四十分余りなのを考えれば、家を出るまで充分すぎる程時間はある。しかし、彼には始業時間前に済ませておくべき慣習があった。書斎へ移動する。ドアを開ければ、窓際に簡素な木製の机が見えた。机の上には、A4サイズのノートPCが余裕で入るビジネス鞄が一つ。椅子の背もたれにハーフコートを掛けると、鞄のジッパーを開け中身を確認した。ノートPCは入っていないが、ファイル類が何冊かと、筆記用具が見えた。机横の一番上の引き出しを開けると、キャンディーの丸い缶を取り上げた。少し迷った後で引き出しに戻し、閉める。ポケットの一つのカバーを開くと、スマホを滑り込ませた。
「さて」
取っ手を右手で握るとハーフコートを小脇に抱え、彼は書斎を後にしたのだった。
玄関ドアの鍵を閉めていると、階段を上がってくる足音が聴こえてきた。
「お早う御座いますー」
少し鼻に掛かった、優しげな女性の声が掛けられる。そちらへ視線を遣れば、緑色のワンピースにファー付きのコートを羽織った女性が、近付いてくるのが見えた。三十代だろうか、化粧は濃いめ、夜の仕事と一目で知れた。
「お早う御座います、時田さん」
一つ礼をする。さほど気にしそうにもないが、仕事に関して余り立ち入った様な発言は控える。時折帰宅時に擦れ違う事はあったが、夫らしき人物を見掛けた事はなく、男性と帰宅したらしき様子も、今まで感じた事はなかった。
「まだまだ寒いですねぇ。この調子だと、桜は遅いかしらぁ」
愛嬌ある笑顔と共に話し掛けてくる。彼女の働く店名も知らないがさぞや人気なのだろうと、後嶋は彼女についてそんな事を想像した。
「…暖かくなる前に寒くならないと、桜は咲かないそうですから」
施錠出来たのを、ノブを捻り確認しながら後嶋が答えると。
「あら、そうなの?だったら、明日暖かくなったら、明日咲くかしらねぇ?」
と、ハンドバッグから鍵を取り出しつつ。
「…だと、良いですね」
真顔で一礼し、彼女が来た方へと歩み去るその後ろ姿を、鍵を鍵穴に差したまま女性は暫く見送ったのだった。




