第五章 その六
小隈がアパートを後にして四十分余りが経っていた。ここまでの間に彼はシャワーで軽く汗を流し、ネルシャツとスラックスの私服に着替えると、今はダイニングのテーブルに着きスマホを前に連絡を待っていた。小隈が安藤に後れを取るとは思えなかったが、未だ戻って来ていない事情について、さすがに憂慮せざるをえない。GPS表示は近所の公園で留まっている。小隈が安藤を撃退したのならばもちろん、何らかの理由で苦戦を強いられているにしても、撤退は可能な筈だった、一対一ならば。あるいは伏兵でもあって、離脱が困難な状況なのか?悪い方向へと想像が膨らんでゆく。
「…迎えに行くか?」
一旦任せた以上、安易な介入は小隈のプライドを傷付けるかも知れない。しかしこれ程までの時間が掛かる事態は、尋常とは思えなかった。スマホを手に立ち上がると、書斎へ向かった。
書斎に入ると、電灯も点けず机の引き出しからキャンディ缶を取り出す。蓋を開け、三本の指輪を全て取り出した。右手の平に並べ、見詰める。かつては三本とも身に着け、命懸けの日々を送っていた。果たして今も、あの頃の様にやれるのだろうか?こと戦闘に限れば、小隈は未だ現役なのだった。しかし、だからといって動かない、という選択肢はなかった。小隈は、秘密を共有出来る数少ない友人なのだ。では、生島由加莉は何か?彼女は、彼にとって向こう側での恩人であり、また許されぬ恋人なのだった。
「…大丈夫、大丈夫だ、大丈夫」
指輪を握りしめ、自分に言い聞かせる。大丈夫だ、と。右手を開き、左手の指で摘み上げては右手の人差し指、中指、薬指に嵌めていった。呼吸を調える。体内を循環する魔力が、丹田などと呼ばれる辺りに集中し始めるのが体感温度の変化と共に感じられた。順調に魔力は貯蔵されていった。
「よし!」
表情が引き締まる。うまく戦闘モードに入れた様だった。蓋を閉めたキャンディー缶を、引き出しに戻すと静かに閉めた。書斎を出、寝室に向かう。
クローゼットを開ける。私服の中から、僅かな逡巡ののちダークグレイのパーカーを選び羽織った。と、ベランダの方の窓から、誰かが叩く様な音が聞こえてきた。クローゼットを閉め、そちらを見遣れば窓の向こうに異様な光景があった。遮光カーテンが引いてあったが、彼はそれを見る事が出来た。巨大な鳥。暗闇の中にそれは浮かぶ様にホバリングしていたのだった。後嶋は数度瞬きした後、足早に窓辺へ近付いていった。カーテンを引き、窓を開けると外へと呼び掛ける。
「パピー、迎えに来たのか!?」
暗闇の中でも、その巨鳥の詳細が判る。全体的には鷲の様なフォルム。頭部と背中側の大半を濃灰色、顔から首までを朱色の羽毛で覆われ、普通ならば夜の闇の中では識別が困難だろう(腹部から両翼の内側にかけてはクリーム色だが、彼の位置からでは見えない)。二つのゴルフボール大ほどの、ほの赤い両目が印象的だった。全長三メートル、全幅四メートルに近い巨鳥が、常識で考えて地球の重力圏でハチドリの様に空中で静止可能な筈はない。天然の魔術士たる魔獣ゆえの為せる業なのだ。この巨鳥が小隈の相棒である事を、彼は承知していた。それがここに居る、という事は。
「おい、まだ大丈夫なんだな?」
巨鳥が頷いた、気がした。
「少し待て、今行く!」
巨鳥に向かい言うなり、窓を閉め寝室を飛び出す。玄関でスニーカーを履くと施錠もそこそこに通路の端に向かった。左側に自室のベランダと巨鳥を見つつ、ほんの僅かの屈伸で高さ一メートル少々の手摺りの上に跳び上がった、と思う間もなく再び跳び上がる。体操の床競技の様に一回転し、みごと屋上に着地した。腰を落とし、スマホが示していた方向へ目をやる。さすがに状況の確認は出来ないが。それに肩を並べる様に、巨鳥が浮上してくる。
「よし、今行くぞ!」
巨鳥を一瞥し、全身のバネを一気に開放、伸び上がる。体内を循環する魔力が呪文によらず物理現象に干渉し、彼の意志のままに驚異的な跳躍を可能とする。アパートの屋根から一気に道を挟んだ一軒家の屋根まで、助走もなしに移動。巨鳥はその上空を、まるで見守る様に飛翔した。
ハイム プリマヴェーラでの異変に最初気付いたのは、下山だった。周辺を確認している際に、屋根の向こうから何かがぬっ、と出現したのに気付いたのだった。B班は大山達の追跡の為にこの場を離れていた。
「ん、鳥?」
下山の頷きに、洲堂は暗視装置を外し彼を見た。
「何ですか?」
「いや、何か、アパートの向こうから、巨大な鳥が出現した、様な…」
洲堂も下山と同じ方向を覗き込む。暗闇のなか、確かに何かが羽ばたき遠ざかってゆく様に見える。一見、巨大とも思えないが、距離を考えるならばそうなのだろう。一体、あの様な鳥がこの付近に棲息しているのか、と不可解に感じる。
「あんな鳥、どこに巣があるんですかね?」
「さぁ。向こうにも配置出来れば良かったんだけれどね」
アパートの裏側には適当な高さの建物がないのだった。ならば裏道に車を配置しておけば、とも思われるが、それ程の人手はないのだ。後嶋を具体的な事件、事故等の被疑者として監視している訳ではない彼らは、そもそも活動自体にどこかいい加減な部分があると洲堂は感じていた。一応”特殊失踪人”に追跡等は行なっているが、それはまるで税金泥棒のそしりを免れる為のアリバイ作りの様な気がしてならないのだ。
「そうだな、あと一時間くらいで引き上げようか」
軽い口調の、下山の言葉を聞きながら、ほらね、と胸中で呟く洲堂だった。




