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第五章 その四

 午後九時過ぎ、後嶋の部屋のダイニングでは、小隈が缶ビール片手にご機嫌だった。

「でも、その人も災難すよねぇ。よりによって後嶋さんにハニートラップ仕掛けなきゃなんないなんて!」

言ってビールを一口。

「まぁ、余り笑い話でもないけどな。少々悪い事をしたかも知れない」

つまみの漬け物盛り合わせを突きながら、後嶋は暗い表情で呟いた。彼女のあの哀願が演技とは思わなかったが、欺こうとしていた相手に容易く縋るその態度も気に障り、ああいう態度を取ってしまった。しかし、今となっては少々行き過ぎだったか、と反省しているのだった。

「間違いなく、生島さんの事は知らないッスよね、その調子じゃ」

「だろうな…ともかく、これで終りとは思えない。今度は、別の誰かが来るのか、あるいは」

「手荒な手段に訴えるかも、ッスね?」

小隈が表情を引き締める。この世界で戦いに巻き込まれたくない、というのは二人とも共通していた。彼らにとって、ここは戦う場ではないのだから。しかし、降りかかる火の粉は払わねばならない。

「…俺も、一応覚悟は決めたが…彼女の言葉通りなら、相手は三十人は下らないだろう」

そう言う後嶋の右手には、三本の指輪が嵌められている。安藤との一件以来、彼は指輪を缶ごと持ち歩いていた。三本とも嵌めるのは、恐らく十年ぶりだった。

「三十人、ッスか?直ぐ集まるとも、思えないッスけど?」

今日、明日にでも決起するというならばともかく、彼女の話を信じる限り、集結を完了する段階ではないだろう。もしそういった段階だったならこんな回りくどい手は打たず、危険を承知の上で実力行使に出る事も可能だと思われた。

「ともかく、お互い気を付ける必要はあるな。当面は今まで以上に連絡を」

唐突にスマホから上がった電子音が、彼の口を閉じさせた。画面を見ればアパート周辺の地図が表示され、マーカーが一つ、その上を移動している。

「ん?あの女性…近付いてくるな?」

小隈も画面を覗き込む。

「これ、何のアプリすか?」

「ああ、その安藤って女性のジャケットの襟に、超小型のGPS発信器を取り付けてな。このスマホの一定距離内に接近したら通知する様になってる」

「え、何でそんなモン、用意してたッスか?」

不思議そうな小隈に。

「いや、”長老会”の人間が接触してきた時な。厄介事に巻き込まれる危険性を痛感したんだ」

「それでGPSッスか?探索系の魔術とかじゃなく?」

「相手も”闘士”なんだ。気付かれる危険性があるだろ?それに魔術を常時行使する訳に行かないしな」

「気付かれたら気付かれたで、警告にはなると思うッスけどね。ま、で、それをどうするッスか?」

マーカーは、確実にアパートへと接近して来ていた。身体強化を行なっているのか、乗り物ほどではなくとも速い様だった。そもそも道路を無視し直線コースを取っている。

「これは…迎えに行った方が良いかな?ここではまずいからな」

迎え、とは迎撃という意味だった。相手が身体強化を使用しているという事は、非常事態であるという事なのだ。「それ、俺が行っても良いッスか?」

「ん、どうしてだ?」

後嶋が怪訝げな表情をするが。

「いや、俺はこの人の顔知らないんで。この機会に顔合わせしとこうかな、と」

少し照れ臭そうな笑みを、後嶋は凝視し。

「…気を引き締めて行けよ。たとえ好みだっだとしてもな」

「了解ッス!」

敬礼の真似事をし、小隈は立ち上がった。ダイニングを出て行こうとするその背中に。

「気を付けてな。自分で対処しきれないと判断した時には、直ぐに連絡をくれ」

「判ってますって!」

右手を挙げ、サムアップ。微苦笑しつつ見送る後嶋だった。

 安藤は確実に追い詰められている事実を痛感しつつ、逃走を続けていた。それに意識を集中させていないと、後悔の涙が零れ落ちそうになる。一時、追っ手の気配が遠ざかった様だったが、今は既に元通りとなっている。魔術で建物の屋根や屋上に上がってみたり、巻こうと努力はしてみたが追っ手達も然る者、約一名を除き確実に追跡してきた。魔獣に追われるより、精神的にきつかった。いっそここで足を止めて、土下座でも何でもして同志に戻ろうか?一時の感情にまかせ性に合わない事をしてしまった、という言い訳で許して貰えるだろうか?しかし、許して貰えたとして今以上に肩身の狭い思いをさせられるのは目に見えていた。いざとなれば、捨て駒の様に使われるのがオチなのではないか?彼女の胸中に後悔や不安、疑心が渦巻く。この世界に自分は一人きりだと、ともすれば絶望感が湧き上がってきそうになるのを必死で抑える。もしそれに呑まれれば、もはや何も出来はしないのが判っていたから。といって今、自分が向かっている先に味方が居るのかも判然とはしない。昨夜、冷たく自分を放り出した男なのだ。それでもまだ、少なくとも幡谷よりはマシだと思えた。

 アパートを出た小隈は、駅方面へとゆっくりと道を歩きながら、さりげなく周囲を窺った。彼の視界の中に、それははっきりと見えていた。オーラなどとも呼ばれる魔力の、一部の者のみが視認可能な輝き。それは通常の光と異なり物質を透過し、個人差はあれど数百メートル離れていても視認可能だった。駐車場の向こう、三十メートル程離れた四階建てワンルームアパートの上に数人、この寒空に固まっている。彼の背後、優に二十メートルは離れているだろう、路肩に停まったバンの中にも、やはり数人。それらが反乱に関与する者達なのかは判然としない。ただ一般人なのは間違いがなかった。それともう一つ、確実なのは、それらがハイム プリマヴェーラを監視しているだろう事だった。あるいは後嶋達とは無関係の件かも知れなかったが、用心用心、と小隈は自分に言い聞かせた。アパート横の道を曲がる。

 小隈が認識出来た監視の目の死角に入ると、小隈は立ち止まった。イヤリングに右手で触れる。後嶋の部屋で使用したのとは反対側の、緑色の石。小隈の表情が引き締まる。このコールをするのは、本当に久し振りだった。

「ロムルス、レムス、カモーン!」

少し気恥ずかしさを覚えながら、両手を小さく前に倣え、の様に突き出す。その中空に空間の裂け目が出現し、刃物の柄が姿を現した。小隈は、両手にそれらを持った。ククリ状の肉厚な短刀で、右がロムルス、左がレムスだった。静かに呼吸を調えると、戦闘モードのスイッチが入る。

「さぁて、行きますか!」

小さな声で呟き、目の前の一軒家を見上げる。体を沈め、伸び上がると、次の瞬間にはブロック塀の上にいた。と、次の瞬間にはベランダの手摺り、屋根と、次々移動して行く。スタッ、と屋根の上に降り立ち、安藤が接近して来るであろう方向を見据えた。居た!、しかし。

「あれ?」

百メートル余り向こうに見える、幾つかの魔力。どれも”闘士”のもので、安藤達なのだろうが。先行する一人が背後に向け、恐らく風系列の攻撃魔術を使用したのだ。後続が回避し、散開する。立て続けに数発放つと、先行する者は再び動きだした。

「追われてる?」

小隈にはそう見えた。だがその状況が判然としない。仲間割れか、あるいは別の勢力にでも追われているのか?確認する必要があった。もし未知の敵が出現したとすれば、実力を計っておくべきかも知れないのだ。

「…行きますか…」

小隈は両手の短刀に視線を遣った。と、不意に放り上げる。クルクルと回転しながら、柄は元の手に納まる。次には中空で交差させ受け取り、それを二度行い元の手に収めた。どうやら腕に鈍りはない様だった。

「よっしゃぁ!」

得物を握り直し、小隈は弓より放たれた矢の如く、屋根の上を疾駆し始めたのだった。


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