第五章 その一
第五章
由加莉と一つ屋根の下、一晩を過ごした後嶋は朝の五時には起床し朝食を摂った。フレークとオレンジジュース、パックのマカロニサラダ。鏡の向こう(正確には、鏡は魔術による亜空間と現実世界との接点に過ぎないが)にいる老人には声も掛けず一人で済ませ、後片付けもそこそこにアパートを後にした。一旦自宅に戻る。電車に乗り、三十分少々掛かった。未だ六時を少々過ぎた所だった。玄関前で鍵を鞄から取り出していると、向かいの玄関ドアが開いた。中からガウン姿の時田が姿を現した。手にゴミ袋を持っている。今日は燃えるゴミの日で、彼の帰宅理由の一つでもあった。
「あら、朝帰りですか?」
意味ありげな笑顔と、揶揄する様な口調。この時間帯にこうして顔を合わせる事は珍しかった。
「ええ、仕事で。昨夜はお仕事はお休みですか?」
彼女の方をろくに見もせずに答える。
「ええ。ちょっと、体調が優れなくて。今日は大丈夫そうですけれど」
艶然たる笑みを浮かべる。後嶋は一瞥しただけだった。
「それは、お大事に。それでは」
ドアを解錠し、ドアノブを回し始めた所で。
「ああ、ところで、お気付きですか、車の事」
焦った様に一トーン上げ、時田が話し掛けてくるのに後嶋は振り返った。
「?何ですか?」
「ええ、その、昨晩、この裏の路地に黒いバンが停まっていて。よくある事なのかな、と。午後七時過ぎ、くらいだったかしら?ちょっと喉が渇いてしまって、飲み物を取りにダイニングへ行って、寝室に戻ろうとしていたんです。その時、裏路地に車が来て、停車する音がして。エンジンも停めて。あれ、って思ったんですよね。だって裏手は町工場で正門は反対側だし、人通りも少ないし」
「確かに、そうですね」
「ええ。でもまぁ、他に路上駐車出来ないからかしら、とか思ってベッドに戻ったんですね。それでうとうとして、十一時過ぎ、くらいだったかしら、汗をかいて目覚めてしまって。体を拭きに浴室へ向かう途中で、ふっと、車の事を思い出したんです。まぁ、もうどこか行ってるんでしょ、と思いながら、軽い好奇心でベランダに出たら」「未だ居た、と?」
「多分。私、最初に車を見てないので別だったのかも知れませんけれど、黒いバンが、最初に音を聴いた辺りに停車していて。偶然、別の車が同じ場所に来た、っていうのも、ねぇ?」
「そうですね…」
後嶋も静かに頷く。
「誰も乗ってないのかと思ったんですけれど、中からぼんやりと光が漏れていて。あれって、多分スマホか何かのバックライトじゃないかしら?一体、あんな所で何してるのかしら、何時間も、って考えたら、ちょっと恐くなって。誰か誘拐でもするつもりなんじゃ、って思ったんですけれど、警察に連絡とかするのも恐くて…急いで体を拭いて、ベッドに戻ったんです」
「確かに。立ち去る音は、聴きましたか?」
「いいえ。十二時近くまでは起きていたのですけれど…」
不安げに口を噤む。
「なるほど。この付近で事件でも起きなければ良いのですが。お互い、気を付けましょう」
「本当に。それじゃあ」
通路に置いたゴミ袋を持ち直し、時田は階段へと歩いて行った。その背中を暫く見送った後、後嶋は玄関ドアの向こうへ姿を消したのだった。
名古屋発の新幹線、グリーン車のシートに納まり、一人大山はほくそ笑んでいた。時刻は午後三時過ぎ。彼は中京の同志達との会合を終え、確かな手応えを感じていた。参集したのは八名余り。しかし彼らは関西方面にも広く同志を募っており、既に二十名近くが賛同し、まだまだ増加する見通しだという。彼の配下と併せ、最終的には四十名を超える勢いと考えられた。彼らは全てと言って良いほど”長老会”の世話になっており、平日午前九時~午後六時で働いている者は皆無に近かった。だからこそ、大山の活動に強い賛意を示すのだろう。まだまだ決起の旅程は道半ば、という所ではあるが、大いに希望の持てる状況ではあった。作戦計画に関しては、まだまだ詰める必要があるだろうが(参加人数はもちろん、参加者個々の力量、特性等を考慮する必要があるため)、かつて後嶋が小隈に示した様な内容を想定していた。一~二名で首相官邸をはじめ主要官庁、警察関係等を襲撃、自分達の実力を充分に誇示した後で、異世界の通貨を自由に流通させられる、謂わば”闘士”達の拠り所となる特区の設置を承認させる。たったそれだけの人数で警戒厳重な建物一つを制圧など出来るのか?しかし、警備が拳銃を始めせいぜい小火器しか持たないならば充分可能だと、彼は考えていた。自分達が身につけたスキルを活用しさえすれば。更には便利な戦う道具もあるのだと。山神達の相棒とは似て非なる、自由意志を抑制された魔獣が。自分達に敵対する者達は、その猛威に晒され初めて理解する事になるだろう、”闘士”として戦う事の過酷さを。そしてそれまで自分達が犯してきた過ちを悔いる事になるのだ。是非ともそうなって欲しい、同志達の、そして何より私自身の為に。
名古屋駅を発車した新幹線は、順調に東京へ向け快走していた。大山の両目は車窓へと向けられていたが、それらを視てはいなかった。彼の頭の中には、光明溢れる未来図が広がっていた。彼は七年余り前に初めて呼ばれて以来、既に三回、”闘士”として戦わされてきた。経験からして、そろそろ呼ばれる頃だった。その前に全てを済ませておきたい、と彼は少々焦燥していた。あちらの世界でかなりの活躍をし、こちらでは使い途のない多額の『報酬』を、彼は得ていたのだ。今は貸倉庫に眠るそれらを、行動も制限されているあちらでは自由に使用する暇もなく(街での食事や息抜きなど、かなり限られる)、用が済めば追い返されてしまう。一刻も早く、それらをこちらの通貨と合法的且つ大規模に交換しうる機構を構築しなければ。交換レート次第で、宝籤などより遥かに効率よく自分は億万長者になれるだろう。初期の特区参加者の中で、自分が最も『報酬』を蓄えている筈だ…心は既に、事が成就した後の成り行きへと飛躍していた。列車は静岡駅を過ぎ、不意に陽光が弱まった。翳りを帯びた雲に太陽が隠されたのだった。行く先には、既に影を濃くした雲が、空一面に張り付いていたのだった。




