第一章 その一
本編の始まりです。なにやら、色々と動きがありそうで…
第一章
耳障りな、囁き声の細波が、幾度となく押し寄せては砕けてゆく。ただし耳ではなく、脳に直接。
ベッドに横たわったまま彼、後嶋 密は微かにそれを意識していた。細波は、彼の精神を呑み込んでしまう程までの大波へと、変化しようと躍起になっている様子だったが、ある程度になるとかき消されてしまう。
「…全く、性懲りもなく」
双眸を閉じたまま、迷惑そうに後嶋は小さく呟いた。三十代半ばで角張った、男らしい顔立ち。眉は濃く唇は厚めで、鼻梁はスッ、と通っている。左瞼を開き横を見る。サイドボード上の目覚まし時計は、午前五時前を示していた。起床までに未だ一時間以上はあった。再び瞼を閉じる。囁き声が消えるまで、充分な時間がある筈だった。彼がこの囁き声に悩まされる様になってから、もう何年も経っていた。こういった状況に陥った場合、大抵の人間は精神科でも受診する事になるだろうか。しかし、彼には通院歴は無かった。もちろん、薬物依存の逮捕歴や治療歴等も。彼は充分理解していた。それが、自分がいかな手を尽くそうとも完全に解消しうるものではない、という事を。それは極めて一方通行的な、アンフェアな力の作用によるものだった。通常、それに対抗しうる術は、彼の様な特殊な背景を持つ者達には与えられていないのだが、彼の場合少々事情を異にしていた。さて、これまでの叙述でお判りだろうが、彼の同類は、まだ他に何人も存在するのだった。
囁き声が、水が引く様に消え去った後で、今度は双眸を開きサイドボードへと顔を向ける。予想通り、目覚まし時計は午前六時少し前を示していた。
「有難うな、相棒」
左手を伸ばしスヌーズ機能を止めると、上体を起こす。三月上旬のこの時間帯は未だ暗く、寒い筈だが彼には心地良いくらいだった。ベッドの端に腰掛けると一つ伸びをし、パジャマのボタンを外しながらある人物の顔を思い浮かべた。彼より一回りは若い青年。茶髪で、両耳にイヤリングをしたチャラそうな外見。しかしその内面には熱く滾るものがある事を、後嶋は熟知していた。彼も呼ばれていなければ良いが、と彼は心配になった。一見無関係に見えそうな二人の間には、決して表沙汰に出来ない様な関係があった。立ち上がりサイドボードからスマホを取り上げる。充電ケーブルを抜き画面に触れると、時刻表示が未だ六時前を示している事に気付いた。起床から未だ幾らも経っていないのだ、呼ばれていないなら早過ぎるかと、一旦スマホを置いた。両手で顔を軽く擦り、着替えようとスマホを片手にクローゼットへと歩み寄る。戸を開けば、ハンガーに掛けられた背広やジャケット等がずらり、ハンガーに吊されてる。その下には畳まれたワイシャツや靴下、ネクタイ等が籠に分けて入れられている。籠の間にスマホを置き、脱いだパジャマはベッドへと投げ、手早くピンストライプのワイシャツと、ハンガーから吊されたスラックスを身に着ける。戸を閉じると一息つき、スマホを片手に寝室のドアを開いたのだった。
廊下に出る。真っ直ぐに伸びる廊下の左側、間近に見えるドアはベランダに続いている。正面のドアは脱衣室のもの。そこからでは陰に隠れ見えないが、その右側にはトイレと洗面台が並ぶ。玄関を挟み、一番奥には物置。寝室の並びに目を転ずれば、二つのドアが並んでいるのが見える。手前は彼が書斎として使っている部屋の、奥はダイニングキッチンのものだった。まずは洗面台へ向かう。手を洗い、三度顔をすすぐ。鏡に映った水に濡れた顔は、水の弾き方といい、実年齢より若々しく見える。彼自身、年の取り方が遅い様な気がしていた。十年前の、あの頃から。
ダイニングキッチンへと足を運ぶ。ドアを開ければ、決して広いとは言えないが機能的なキッチンと、ほぼ中央に据えられた六人掛けテーブルが目に入った。スマホをテーブルに置くと、椅子の背もたれに掛けられたエプロンを手に取り、手早く身につける。三十代独身の彼にとってはルーティンの、朝食作りに取り掛かった。冷蔵庫の中を思い浮かべながら、朝食のメニューを決める。とはいえさしてレパートリーがある訳ではない。ベーコンエッグにトースト二枚、ミルクとインスタントのコーンポタージュ。コンビニのサラダもあった。食材を取り出しつつ、チャラそうな青年の事を再び考える。彼との邂逅は全くの偶然であり、しかも極めて異常な状態での事だった。その為か、決して人付き合いが得意とは言えない彼が十年余りも接触を保ち続け、青年もまた自分を慕ってくれているのだと、彼は考えていた。そう、その異常な状態こそ、彼らが表沙汰に出来ない事なのだ。
フライパンから立ち上る、ベーコンと胡麻油の芳ばしい匂いを嗅ぎつつ火を止める。オーブンレンジから皿に食パンを取り出し、バターを軽く塗る。ベーコンエッグをフライ返しで掬う。焦げ付かないフライパンなので、難なく綺麗に食パンの上へと移せた。食パンでサンドし、フライパンに軽く水を張ると皿をテーブルに持って行った。次に牛乳。コップはテーブルに用意してあった。冷蔵庫からサラダのパックと牛乳パックを取り出し、テーブルの上に置いた。コーンポタージュはテーブル横の籠に入れてあった。テーブル端のポッドからお湯を注ぐ。最後に水切りから箸を一膳。全ての準備が整うと、エプロンを外し元の椅子の背もたれに掛ける。着席すると、両手を合わせ小さく「いただきます」をする。まずはグラスに口を付け、喉を潤してからトーストサンドを一囓り。こうして、テレビも点けず一人きりの朝食は静かに続けられた。十年以上も前は、テレビを点けていた。非常に痛い目を見た為に、彼の生活習慣は変わってしまったのだ。彼は独身で、結婚、離婚の経験もない。三十代半ばならば、今時さして珍しい事でないかも知れないが。愛する人がいない訳ではない。が、その人とは、人生の苦楽を分かち合える状況にはなかった。
二十分程で朝食を済ませると、全てをキッチンに持って行く。サラダパック等のプラスチック類は軽く流水で洗い、後で分別ゴミに出す。湯で食器類を洗い終えると、水切りに丁寧に並べて行く。手を拭きつつ一息つくと、若者に連絡を入れるのを思い出した。スマホを取り上げ、電話帳からとある名前を選び出した。画面に大きく表示されたのは『小隈 武見』という名前。コールのアイコンをタップする。じりじりする様な数回のコールの後。
『…はい、どうしたっすか、後嶋さん?』
軽い口調の若者の声に、微か安堵の表情を浮かべる。
「いや…実は、明朝呼ばれたんだが。そっちは大丈夫だったんだな?」
『え、そうだったっすか?ま、こうして話してられるって事は、お呼びじゃなかったって事っすね』
少々嘲笑の響きがある声。
「良いじゃないか?これ以上あの連中に人生を掻き回されたくないだろ?」
『そりゃ、そうっすけどね…後嶋さんみたいに求められてキョヒれるって訳にはいかないし…』
「大体の”闘士”達がそうだろう?俺が例外的なのも、ただの偶然だしな」
『ただの偶然って…偶然であの相棒は持てないっしょ!あの時の事をたまに思い出しますけど、今でも興奮するっすよ!』
「そうか?随分と恐がっていた様だったがなぁ?」
揶揄する様に言うと。
『そりゃ、最初だけだったっしょ!?勘弁して下さいよー』
笑いを含んだ声。嬉しげな表情がありありと思い浮かべられた。
「ははは。とにかく、今回は何よりだ」
『そうっすね。またそっち、行っても良いっすか?』
「ああ。連絡をくれ」
『了解っす。じゃ』
「それじゃあ」
電話を切る。一息つくと、スマホ片手にダイニングを後にした。
洗面台に立ち寄る。スマホを鏡の前に置き、充電器からシェーバーを取り上げた。数分程で髭剃りを済ますと、次は歯磨きの番だった。一部を除き、もはや十数年間ルーティン化した、ここまでの行動。それが、十年余り前の一ヶ月間ほど、途切れた事があったのだ。
当時の彼は二十代半ば、ソフトウェア会社に勤務し始めて四年近くが経っていた。一人暮らしをしていた彼が二日間無断欠勤した後、会社から実家の方へ連絡が行った。当時はまだ健在だった父親が彼のアパートへ確認に向かうが、そこで大家と異様な光景を目にする事となる(大家はテレビの音がうるさい、との住人の苦情から幾度となく彼の部屋へと注意をしに足を運んだが気配が無く、警察へ連絡すべきか迷っている所だった)。ダイニングのテーブル上には手つかずの朝食が、腐敗臭を漂わせていた。テレビは点け放し、テーブル上で開かれたままの携帯は、バッテリー切れとなっていた。充電し中身を確認してみると、会社からの留守電やメールの履歴が大量に見出された。しかし、それ以上に不審な物は何も発見出来なかった。
寝室には、つい先程脱ぎ捨てられたかの様なパジャマが。ワイシャツとスラックスが一式消えており、彼が出勤するつもりだったろう事は明白だった。室内を一通り見て回った父親は、ある有名な怪事件を思い出していた。
「マリア・セレスト号事件か…」
その呟きを、大家は聞いていた。かのオカルティックに語られる幽霊船の状況に酷似していると、他に妻や息子の会社の上司に語っている。即座に失踪人捜索願が警察に提出された。以後、一ヶ月余り後嶋の消息は、杳として知れなかった、が。
結論のみ簡潔に述べるならば、何事もなかったかの様に、彼は戻って来た。ここまで語っていれば、何の意外性もない結論だ。当然ながら、両親や会社側は失踪理由について説明を求めた。仕事上や対人関係、金銭等のトラブルなど、問題を抱えていたのか、と。それに対する彼の態度は、完全黙秘、だった。父親が激怒し、母親が落涙しようと、彼の態度は頑なだった。幼少の頃からそういった所のあった事を知っている両親は、早々に事情を聞き出す事を諦めた。しかし、会社の方はそうはいかなかった。その態度はもちろん上司等に悪印象を与え、彼は依願退職という形で事実上解雇された。失踪時の状況から、警察からも事情聴取を受けたが、彼の態度は変わらなかった。何らかの事件、事故に巻き込まれた、あるいは関与した疑いに関してのみ、否定を口にした。警察は彼に関する調査を行なったが、結局は何も出てこなかった。彼の友人、知人も失踪の間全く連絡も接触もなかった。海外渡航はおろか国内を移動していた形跡もない。それどころか、彼は部屋から出ていないのではないか、という一見荒唐無稽な可能性さえあった。
彼の住むアパートの出入口横には、ゴミの回収ボックスがあった。たびたびゴミ出しのルールを無視する住人がある為、監視カメラが設置されていた。当然出入口の人の出入りも撮影されていたが、そこに彼の姿はなかった。四方を高いブロック塀で囲まれているアパートには他に出入り出来る場所はなく、一階に住む彼が監視カメラにも写らず人にも目撃されずアパートを離れる事は極めて困難、と判断された。幾多の疑問点、疑惑を残しながらも、結局のところ事件性無し、と警察は結論付けた。この一件に関わった者達には、まるで彼が一ヶ月余りこの世に存在しなかったかの様な印象を残し。




