第四章 その四
既に天辺を回ろうという時間だった。ハイム プリマヴェーラの裏路地に、一台の黒いバンが停車していた。周辺は静まり返り、脇を通り過ぎる者もない。
「…帰って来ないな」
ノートPCのディスプレイを見詰めながら、苛立ち混じりに田ノ中が呟く。そこにはモノトーンのカメラ映像が表示されていた。向かいの駐車場、その案内看板にひっそりと仕掛けられた高性能の小型カメラが、明瞭なアパート入口周辺の様子を送信してきていたのだった。
「今夜は、帰って来ない?」
横から画面を覗き込みつつ同様な事を呟く安藤の表情は、しかしどこか安堵した様子だった。
「どうするんですか?今日はもう、撤収します?」
運転席から、幡谷が面倒臭げに問い掛けてきた。バンは大山の所有で、とある茶番劇の謂わば楽屋として、借りているのだった。出演者は、車内の三人の他にあと一人。その肝心の出演者が、大幅に遅刻しているのだ。
「…そうだな、頼む」
「全く、面倒だぜ」
幡谷は小さく呟き、ドアを開けた。カメラの回収に向かうのだ。田ノ中もノートPCを閉じた。
「明日も、同じ時間で大丈夫だな?」
横目で訊ねてくる田ノ中に、安藤は伏し目がちに頷いた。バイトのシフトは調整済みだった。
「きちんとシナリオは把握してあるだろうね?初っ端で失敗は許されないんだ。目的を達成するまで、何度も接触する」
「判ってます」
苛立たしげに安藤は言葉を遮った。田ノ中は今にも舌打ちしそうだった。老婆心(男だが)で言っているのに、と。
「君の役割は重要なんだ、自覚しているのか!?」
安藤は向こうを向いてしまった。
「全く、こんなのしかいないとは…」
田ノ中の小さな呟き。安藤には、しっかり聞えていた。私だって、そう思いますよ、と胸中で呟く。と、運転席のドアが開いた。
「どうしたんです、空気悪そうですけど?」
固定具付きの無線小型カメラを田ノ中に投げ渡しながら、幡谷が訊ねた。
「いや。私は不安なんだ、この大根役者で大丈夫なのか」
「それを言っても始まらないでしょ?俺や田ノ中さんが行ってもね。それより、カメラの設置やら回収やら、面倒臭いんですけどぉ!?」
語尾は大きく、運転席から鋭い視線と共に安藤に投げつけてくる。
「…相手が”闘士”だと、『千里眼』が気付かれる可能性が」
「そうだよなぁ?ろくにカモフラージュも出来ないで、よく魔獣に勘づかれてたよなぁ?ったく、使えねぇ魔術士だぜ!」
「でも、戦闘なら」
「攻撃魔術なんぞ、”闘士”なら誰でも使えンだよ!魔術士として使えねぇなら、せめて女使えよ、媚び売りまくってよ!」
余りのえげつない発言に、さすがの安藤もキッ、と幡谷を睨み付ける。それが仲間に対して言う事なのか、と。
「…最低」
「幡谷君、それは言い過ぎだろ…」
引いている田ノ中に、貴方もさっきまで大差ない事言っていた癖に、と胸中で毒づく。
「はいはい、俺が悪いんだろ俺が!」
ふて腐れた様に言い捨て、幡谷はバンを発進させたのだった。
翌朝、洲堂はいつもより早く出勤した。オフィス内を通る時、同僚達への挨拶もそこそこにハンドバッグをデスクに置くと、防犯カメラのモニタ室へと足を運ぶ。ドアを開ければ、モニタの前に男性が着いているのが見えた。
「室長は、在室ですか?」
室長室ドアの前に立ち、洲堂は男性に訊ねた。
「在室だよ。少し早いかな?それに」
男性はモニタに視線を戻した。
「何か、思い詰めている、いや、焦っている?」
洲堂はその問いに答えず、ドアをノックした。
「洲堂です。宜しいですか?」
少し間があって、三条の入室を促す声が聞えてくる。「失礼します」と、洲堂はドアを開けた。
「…早いな、どうかしたのか?」
デスクに着いたまま、三条は変わらぬ調子で訊ねてきた。つかつかと、洲堂は歩み寄った。
「室長に、お訊ねしたい件があるのですが」
「…何だね?」
デスクの上で両手を組む三条は、冷ややかな視線を洲堂に投げ掛けるのみだった。自分の質問を予期している様に、洲堂には思えた。
「室長は、特定の時期に消息不明となった”特殊失踪者”の資料を、独自に管理されていると伺いましたが?」
「ふむ。それが何か?」
あくまで冷淡な三条。洲堂は、一つ深呼吸した。
「…その中に、洲堂由加莉、という女性のものは、御座いますか?」
暫し、沈黙が落ちてくる。心なしか、三条の口元がほころんだ様だった。
「…残念ながら、その名の資料は、ないな」
「そうですか…」
落胆した様に洲堂は俯き、一礼すると踵を返したが。おもむろに三条が大声を発した。
「旧姓の資料は、ないが」
「はい?」
振り返った洲堂の目の前で、立ち上がった三条はキャビネットから一冊のバインダーを取り出していた。後嶋の時と同様、デスクの上で広げ、押しやる。洲堂は足早にデスクに近寄った。整理番号は『58(ごー はち)』、添付されていた顔写真は、多少窶れてはいたが、彼女の知る姉のものに間違いなかった。名前は『生島 由加莉』、となっている。
「生島、由加莉。旧姓は洲堂。十一年余り前に結婚、夫の名は生島 省吾。十年余り前に不可解な状況下で消息不明となり、”特殊失踪者”として情報収集対象となる」
デスクに着き直しつつ、淀みなく三条はそこまで説明した。洲堂は資料を読み続けた。その中に記された彼女の失踪状況は、以下の様なものだった。
物流倉庫の正社員である生島省吾は、検品のアルバイトとしてやって来た洲堂と出会い意気投合、間もなく交際を開始し半年余りで結婚した。結婚一周年を祝い間もなく、その日はやって来た。
その日は、春になったといってもまだまだ寒さが厳しかった。午後七時近く、省吾は二階建てアパートに帰宅した。二人で夕食を済ませ、彼はダイニングのテーブルに着いたままテレビを視聴していた。由加莉は後片付けに台所に立っていた。七時半頃、宅配便が届き、省吾が対応に出た。由加莉は洗い物を続けていた。玄関と台所は隣り合っていたが、壁があり玄関から彼女の姿は見えない。受け取りの伝票にサインをしている時、彼女の呻き声を耳にした様な気がしたが、テレビを点け放しであり、特に注意を払わなかった。荷物を受け取り、玄関ドアの施錠を確認後ダイニングに戻った時には、台所に彼女の姿はなかった。洗い物も終わっておらず、水道も出し放しだった。トイレかと水道を止め、荷物を私室に置くと(彼の趣味の物だった)ダイニングに戻り、テレビを再び視聴した。二十分程して、彼は不審に思った。幾ら何でも長すぎるのではないか、と。トイレに明りはなくドアも開いており、中に彼女の姿はなかった。部屋中を探したが彼女はおらず、全ての窓は施錠されていた。彼女がどうやって部屋を出たか、全くの不明だった。窓から出た痕跡がない以上、玄関から出て行く以外方法はない筈だった。たとえ痕跡を残さず窓から出られたとして、その部屋は二階の角部屋だった。たった数分間のうちに、狭い室内を彼に気付かれず痕跡も残さず脱出する、などというのは非現実的と言えた。ならば彼が玄関にいる間に何処かに隠れ、彼の目を盗み玄関から外へ出たか?しかしそれも考え辛かった。ダイニングからは玄関が丸見えで、テレビを視聴している時に気付かない、とは考えられない。荷物を部屋に置く時間とても一分も掛かってはいない。そもそも、彼女の履き物は全て、玄関に残されていた。では、新たな履き物を用意し、何処かに隠しておいたのか?
思い付く限りの連絡先に連絡を取り(彼女の携帯電話は残されていた)、どこにも彼女を発見出来なかった省吾は、改めてこの事態について考え直してみた。これが彼女の演出によって為された失踪劇なのだとすれば、なぜそうする必要があったのか?自分の出勤中に部屋を出て行く、では駄目だったのか?例えば彼女が離婚を考え、せめて別居したいと思っていたとしてその理由が、たとえ彼女に他に好きな人が出来た、というものであったとしても、この様な不審極まる方法で身を隠したのでは警察沙汰の大事になりかねない。それで困るのは彼女自身ではないのか?そもそも彼女の性格ならば、逃げずに真摯な話し合いを求めてくる事だろう。では、誰かに命を狙われていた、あるいは何処かの国のスパイか何かで、活動が露見し逃走する必要が出来た?思考は混迷を極めていった。結局、彼はこの失踪劇について何も解明出来ずじまいだった。
資料を繰る手が止まり、洲堂は溜めていた息を一気に吐き出した。
「どう、思うかね?」
両手を組み合わせたまま、三条が訊ねてくる。
「…57の場合より、不可解ですね。彼の場合は、一人で居た時でした」
「生島由加莉は、未だ消息不明だ。”特殊失踪者”としては珍しいだろう。普通ならば何事もなかったかの様に姿を現すか、あるいは、遺体となって、発見される」
三条の語尾が澱んだ。眦が震える。だが、それに気づける心理状態に、洲堂はなかった。
「この、省吾さんは?」
「今でも、君の姉を待っているそうだ。我々としてもそれを願っているが」
それは同情などでなく、情報収集対象としての希少性に鑑みての事だったが。
「有難う御座います…姉とはもう、十数年も会っていないんです」
「十数年?十年ではなく?」
三条もこの情報は、掴んでいない様子だった。
「はい…当時、大学に通うため実家を離れていた姉は、夏休みに帰省すると言っていたのに、帰って来なくて、連絡も取れなくて、顔を出したのは、夏休み明け寸前でした。両親はどうしたのか訊ねましたけれど、姉は、何も言わなくて。両親は何か、良くない道に進んでしまったのでは、と疑って問い詰めて、最後には喧嘩になってしまって。飛び出す様に姉は大学へ戻ってそれっきり、そちらの方で就職した、って聞きましたけれど…」
洲堂の頬を涙が伝う。ハンカチを取り出し、それを拭った。
「それは恐らく、その時に初めて”特殊失踪者”となる様な事態に遭遇した、という事だろう。ただその時には、我々の情報収集対象となる程の状況にはなかった、というだけで。だとすれば、我々の未だ知らない”特殊失踪者”が他にも存在しうる、という事か…」
”特殊失踪者”とは、把握されている失踪人のうち、その意図はともかく、不可解な状況を演出し失踪を遂げた者をピックアップした呼称であり、特に不可解な点がなければその範疇から漏れるのだ。
「…私は、どうすれば宜しいのでしょうか?」
資料をデスクに戻し、洲堂は訊ねた。未だ溢れそうな涙を必死で堪える。
「…今後も、57と接触を保つ様に。君の姉、58は、57の九日ほど後に失踪している。状況から考えて、これは偶然などでなく、二人が共通の目的の為に示し合わせた、と考えられる。この時期には他に数人の”特殊失踪者”が確認されているが、あるいは他に、目立たない者があったかも知れないな」
「”特殊失踪者”として、目立つ人と目立たない人の違いは、何が考えられますか?」
「判らない。そもそも、彼ら、彼女らが具体的に何らかの事件、事故等に関与したかも明白でない。あるいは密かに海外渡航し、テロ支援活動などに従事していた可能性も否定は出来ない。それを、知る為に我々がいるのだ」
「そうですね」
「君の役割は重要だ。その事を再確認して欲しい。我々の知らない所で何が起きているのか、その秘密のヴェールを剥がす糸口となりうるのだ。君も知りたい筈だ、更なる精勤に期待している」
そこには由加莉の消息が判明するかも知れないぞ、という含意があるだろう事を、洲堂は汲み取った。
「はい」
一礼する洲堂。直ると、三条を暫し睨み付け再び口を開いた。
「…室長は、私が姉、58の家族と知って、私の出向を要請したのでしょうか?私と57を接触させる事で、何らかの反応が得られる事を期待して」
「…もう、戻りたまえ」
あっさりと洲堂は一礼し、踵を返した。退室する、その背中を見送り。
「…思いのほか好調、という事か」
口元だけで、彼は微笑んだのだった。彼は、上司や部下には常に、大義名分を口にしてきた。そうしていればいずれ、彼の目的を達成出来ると信じて。そのゴールへの歩みが一気に早まったと、彼は実感していた。
室長室を出たはいいが、洲堂はそれ以上足を踏み出す事が出来ず立ち尽した。三十分余りの間に衝撃的な事実に触れ、激しく動揺していた。絶縁状態となっていた姉の消息を、こんな形で知る事になるとは!しかも十年前から消息不明だという。姉はどこに行き、今どこにいるのか?未だ生きているのか?室長の見立てでは、その謎を解く鍵はやはり57、後嶋にあるという。確かに彼が姉について何か知っている事は確信出来ていたが、それ程深刻な事なのか?例えば元恋人、ただの知人程度でしかなく、室長の単なる憶測、妄想の類ではないのか?資料の内容からして何年も前から調査が行なわれていたにも関わらず、両者の関連性は確認されていないのだ。しかし、と思い直す。昨夜掴んだ姉を捜す糸口は、決して軽視すべきではない、と。思い返してみれば、後嶋の振る舞いは不自然だった。姉を知っていながら迂遠にそれに触れようとする様な。特に問題のない間柄ならば、もっとストレートに話題にしても良さそうなものではないか?あるいは、不倫関係に後ろめたさがあった?しかし、それならば我々の網に引っ掛からないとは信じ難い。しかも十年間も。ならば考えたくはないが、姉は彼に殺され、何処かに遺体を隠されている?疑問が次から次へと脳裏に湧き上がる。これらを解消すれば、たとえ残酷な結果であれ姉の今に辿り着けるのではないか?とすれば、室長の期待に添うのは個人的な利益とも合致している筈なのだ。彼女には、忘れられない姉の言葉があった。
「私はもう、今までの私ではいられないの」
実家を出て行く前日の夜、洲堂の部屋を訪ねた由加莉は寂しげにそう言った。彼女が頑なに連絡も取れない状態だった事情を語らない理由を訊ねた、その返答だった。この言葉を聞いた時には、両親が疑っていた通り悪の道に染まってしまったのではないかと思わずにはいられなかったが、どうやら普通に結婚もしていたらしい。どの様な理由があれ(極端な話、省吾が姉を殺害、その死体を何処かに隠しているのだとしても)、死亡の偽装ならばともかく不可解な状況での失踪、という舞台装置の必要性が判然としない。悪戯に他人の耳目を(対テロ特殊対策室の様に)集めかねないだけ不利な筈なのだ。ならば、その理由を知る可能性の高い57に、たとえこの身を委ねる事になろうとも、積極的に関わってゆくべきなのだ。
「洲堂さん?」
はっ、と我に返った。傍らに男性が立っていた。立ち尽したまま険しい表情をしている彼女を不審に思い、モニタの前を離れたのだった。
「はい?」
少々間の抜けた声が漏れてしまう。
「どうしたの、立ち放しで。具合でも悪い?」
怪訝げ、というより心配げに、男性は訊ねてきた。
「ええ、いえ!少々考え込んでしまって…ええと、どの位ですか?」
立ち尽していた時間を問うと。
「ほんの数分だけれど。本当に、大丈夫?」
「はい、すみません。失礼します!」
そっと左肩に置かれた彼の右手を優しく退け、恥ずかしさに足早に退室してゆく洲堂だった。




