第四章 その三
あの独特なリズムのノック音を耳にし、ダイニングのテーブルに着き牛乳を注いだグラスを口に運ぼうとしていた老人の手が止まった。グラスをテーブルに置き、玄関の方をゆっくりと見遣る。夜の十一時を回っていた。もっとも、姿見の向こうに広がる魔術で生成した亜空間には、昼も夜も関係はなかったが。姿見を通し、室内の様子や音も、細大漏らさずモニタ出来た。彼は一日の大半をそちらで過ごし(寝室もある)、出てくるのは外出や食事の時などだけ、と言って良かった。
玄関ドアを開く。そこに立っていたのは、予想通り後嶋だった。それは飲酒をしてきただろう事も含めて。しかし少々、いつもと様子が違う様に、老人には思えた。視線が少々、落ち着きがない様な。そもそも、月に一度の訪問より数日しか経っていないのだ。老人の方から呼び出すのでもない限り、この様な事は珍しいと言えた。だから、ノックの意味を知る者のなりすましではないか、という可能性をチラ、と疑ったりもしたのだった。
「どうしたのだ?」
老人の問いに答えず、少し強引に玄関へと足を踏み入れてくる。慌て気味に老人は身を引いた。靴を脱ぎ、足早に奥へと消えてゆく後嶋を、玄関ドアを閉めた老人はただ見送るのみ。
「ドアを開けてくれ」
後嶋の声は、少し震えていた。寝室のドアは魔術で強化されており、解呪しなければプロレスラーが体当たりしようとバールを用いようと、開く事は不可能だった。また、拳銃弾やライフル弾程度では傷一つ付く事はない。後嶋にも解呪は可能だったが、黄色の指輪が必要だった。彼は普段指輪を持ち歩かないのだ。
「彼女ならば、この前と変わらぬぞ?」
居間の電灯を点けると、後嶋の行動を訝しみつつ解呪する。やはり無言のまま、後嶋は寝室に入った。数日前と変化のない女性の傍らに立ち、じっと見下ろした。
「何か、あったのか?」
後嶋の傍らに立ち、老人も女性を見下ろした。
「…妹さんに、会った。恐らく、間違いない」
それは、彼の心がたてた軋み音だったろう。まるで日本語を覚えたての外国人の様だった。
「妹さん?ユカリの?」
「…彼女が、言っていた。自分に、よく似た妹がいると。明理といって、もう何年間も会っていない、と。今からすれば、もう十数年間、だ」
「それは、結構な偶然だな」
戸惑う様な老人の声。後嶋は右手の拳を固めた。
「…彼女は、愛理、と名乗っていた。恐らく偽名だ」
「それならば、他人の空似、というものではないのか?」
「俺が思わず由加莉の名を口にしたとき、彼女の表情が強張った。俺の口からその名が出るのが、予想外だったんだろう。つまり、間違いなく、妹さんだ」
一時、沈黙が落ちてくる。
「…そうとすれば、そのご婦人は何者か?」
ここまで来れば、単なる偶然とは考えられない。嫌な予感しかしないのだ。
「偽名を使い接触してきたんだ、恐らくは警察関係、例の反乱絡み、だろう」
「ちと、面倒だのう…して、どうするのだ?」
「どうする、とは?」
「もし、そのご婦人が由加莉の肉親であるならば、十年以上も安否不明、という事ではないのか?生存を知らせなくて良いのか?」
もっともな質問ではあった。後嶋にも納得は出来たが、何度も小さく首を振る。
「…生存を知らせれば、今度は会わせろ、という事になるだろう。相手が警察関係とすれば、断わるのは難しい。で、この状態で会わせるのか?」
ベッドの上を、右手で示す。
「それは…」
「彼女は一般人だ。この状況を理解し、受け入れられると思うのか?」
少なくとも”闘士”ならば、魔力の体外への流出状況などを『視る』事で、相手が”闘士”か否かは判別可能だった。老人は沈黙するよりなかった。こちらに来て十年余り。自分達が行使する技術が、こちらでは異質なものだと充分理解出来る時間だった。後嶋は、生きながら眠り続ける女性の傍らに両手を付いた。
「…すまない…何で、俺達が、こんな目に遭わなきゃならない?これが罰だというのなら、どれだけの罪を犯したというんだ?」
面を伏せた、その陰から生温かいものが滴り落ちてくる。後嶋はそれを拭おうともしない。老人が、悲痛に面を歪める。
「あの時には、これ以上の方法はなかったのだ」
掠れがちの声で訴え、右手で後嶋の右上腕を掴む。それは許しを請う仕草だった。その上にそっと、後嶋は左手を重ねた。
「…判っている。封じ込める器に、自分を差し出したのも」
それはきっと彼女らしい決断だったのだと、これまで後嶋は自分を納得させようとしてきたのだった。
「必ずや、分離、滅殺する方法を発見する。待っていてくれるか?」
縋る様な老人の視線を、後嶋は躱した。もう十年待っているのだ、という言葉を呑み込む。
「…今日は、ここで休みたい。用意してくれるか?」
こんな夜だ、たまには良いだろうと、自分を納得させる。
「ああ、そうだな。隣に布団を用意しよう」
後嶋を放し、老人は押し入れへと歩いていった。




