第四章 その二
バー スプリングフィールドは、O.G.システムの最寄り駅近くにあった。カウンター席十余りの、小さな店だった。内装は西部劇の酒場を彷彿とさせる板張りで、壁には大判の写真が幾つも飾られている。それらの多くはオーナーであるマスターの、若かりし頃の勇姿を留めたものだった。カウボーイスタイルで、西部劇で使用されている様な銃器を手に、笑顔を浮かべている。それらは全て実銃で(ただし、当時の物ではないそうだが)、二十代の頃、三十年以上も前によく渡米しては撃ちまくっていたという。同様なスタイルの(中には南北戦争当時の軍服を着用している)、かなりの年配と思われる白人男性等と並んで写っている物も数枚あった。他に様々な銃器のみを写した物も。何丁か、レプリカの銃器も飾られていた。後嶋に西部劇の趣味はなかったが、かつて映画好きの社員に案内され来店して以来、なぜかこの店に居心地の良さを覚えたまに通う事にしていた。魔力の注入を行った日も、ここに立ち寄ったのだ。他に一人で考え事をしたい時なども、主にここを利用していた。客数が多いとは言えない店内の、カウンターの片隅でオンザロックを傾ける一時に、安堵の溜息を漏らすのだ。最後に酒で正体をなくしたのは、もはや十数年前の、若気の至りで無茶な飲酒を行なっていた頃の事だった。今では何本酒瓶を空にしようと、直ぐに酔いが醒めてしまう。これも”闘士”となった副作用だったが。次のプロジェクト立ち上げについて、ぼんやりと考えていると、ドアのカウベルが鳴った。
さすがにスウィングドアとはいかないが、木製のドアが開かれた。近くにいた後嶋と、奥で馴染み客と映画談義に華を咲かせていたマスターが顔を向けた。入ってきたのは、二十代半ばの、スーツにコートを羽織り、キャリーバッグを手にした女性。洲堂だった。後嶋にとっては初顔の筈だったが、新しく開拓しようとしている店を、品定めとばかり見回しているかの様な、その顔を一目見た途端、彼は固まった。あの女性が、まだ彼に微笑みかけてくれていた頃の面影が、目の前に現れた洲堂に重なり、思わずその名を口にしていた。
「…由加莉!?」
その呟きを耳にするや、今度は洲堂が動揺した。自分がこれから接触しようとしている者の口から、なぜ呼び慣れているかの様にその名が発せられたのか、と。一時、表情が硬くなる。不用意な声が出そうになるのを辛うじて呑み込み、表情も取り繕う事に成功した。そうしてみれば、こちらを見詰めている後嶋に声を掛けるには好都合な状況だった。後嶋に目を留め。
「あら、宮川さんじゃないですか?お久し振りです、覚えてますか!?」
人違いを装い接触する。ベタな方法だが、有効と思われた。わざとらしさを感じ取られさえしなければ。その辺に、余り自信はなかったが。それでも精一杯の笑顔で、彼の左側のスツールに滑り込む。コートを脱ぎ、足下に置いたキャリーバッグの上に畳んで置いた。
「もう何年になりますっけ!?あの頃は本当に、お世話になりました!」
オーダーを受けに来たマスターにカシスオレンジを頼むと、適当に作った宮川という人物像に対し話し掛け続ける。小さく頭を下げた。
「…申し訳ないが、人違いでしょう。私は後嶋です」
洲堂をチラ見する様に、後嶋は答えた。意外そうな表情を、洲堂は作った。
「え、違うんですか?この付近だからてっきり…すいません!」
また頭を下げて見せた。
「構いませんよ…失礼ですが、お名前は?」
「あ、そうですよね!私は河島 愛理って言います!久し振りにこっちに用件があって、初めてのお店を覗いてみたら…本当に、すいませんでした!」
偽名で架空の会社の名刺や社員証等も用意してあった。さすがに公的書類までは手が回らなかったが。
「河島さん、ですか。失礼ですが、お姉さんはおいでですか?」
「はい?」
また動揺が走る。この男性は、一体何を知っているのか、と。その無言の問いに答える様に、後嶋は言った。
「…私も、貴女にどこかでお会いした様な、そんな気がしたもので。でも、よく考えてみれば年齢が合わない様ですのでね。お姉さんでも、いらっしゃるのかな、と」
とすると、この男性は私の知らない何かを知っているのか、と、問い詰めてみたい衝動を堪える。今は洲堂明理ではなく、河島愛理なのだ。
「いえ!あ、ひょっとして、母かしら!?母は若作りで、私によく似ているから!」
設定に沿った返答。もっとも、母云々は完全なアドリブだったが。
「そう、ですか」
短く答えると、またグラスを傾ける。飲み干し、同じ物を注文した。
「あの、この近辺にお住まいなんですか?」
後嶋はチラリ、河島こと洲堂を見遣った。既に承知している事を見透かされた様な気がして、鼓動が早くなる。
「…これから、帰宅する所ですよ」
淡々と答える後嶋に、取り付く島のなさを感じる。「一緒に帰りますか」などと、少々下品だろうと冗談交じりなら、話の接ぎ穂もあるのだろうが。
「そうですか…これから帰宅して、奥さんとか怒りません?」
「独身の一人暮らしですから」
それきりの沈黙。酒の席で、ここまで異性に対し淡泊とは、と、洲堂は面食らった。これは酒癖なのか、草食系なのか、はたまた、考えたくはないが、自分に異性としての魅力が不足しているせいなのか?ただ単にタイプでないだけだろう、と、願望込みで推測してみる。とにかく、もう少し相手に好印象を持たれるまで、ここは粘らねばならない。次の機会に繋げる為に。グラスを傾け、口を離すとほっ、と溜息をつく。
「美味しい…お酒、好きですか?」
殆ど破れかぶれで水を向けてみると。
「まぁ…余り酔えませんがね」
「まぁ、お強いんですね」
「…体質、の様なものですか」
意外な所で、会話が繋がり一安心する。ただ、長続きしそうな話題でもない。アルコール類について、彼女は余り造詣が深くはなかったのだ。それでも杯を重ね、ポツリポツリ会話を重ねるうち、とりあえず当初の目的は果たせたと、洲堂は判断した。
「うふ、私、このお店が気に入っちゃいました!」
グラスを掲げ、ほんのりと朱に染まった頬に笑みを刻む。到底若い女性が好みそうな雰囲気の内装ではないが。
「…良かったですね」
あくまで素っ気ない後嶋。スマホを見、洲堂は撤退の為の言葉を口にした。
「ああ、もうこんな時間!?そろそろ」
コートを取り上げると、少し上体をふらつかせながら立ち上がる。
「タクシーを呼びましょうか?」
マスターの言葉に手を振り、ゆっくりとコートを羽織った。
「大丈夫です。電車に、乗ってしまえば」
少々呂律の妖しい口調で断わるとキャリーバッグの取っ手を伸ばし、やはり覚束ない足取りで店を出て行こうとした。
「河島さん」
後藤の声に呼び止められ、立ち止まり振り返る。
「はい?」
「…一度、貴女のお母さんと会ってみたいですね」
「母と?」
一瞬、何を言い出すかと、洲堂は怪訝そうな表情になった。
「いえ、私が会った事があるのはお母さんではないか、と仰っていたので」
「え…ああ、そうですね!もし機会があれば」
自分のアドリブを思い出し、慌てて笑顔を作る。その様を、眉根一つ動かさず後嶋は見詰めていた。
「あの、それじゃ!」
失態を誤魔化す様に、洲堂は心持ち早足で店を出て行った。
「なかなか、面白いお嬢さんでしたね」
新しいグラスを差し出しながら、マスターが言うと。
「そうですね」
相も変わらず、淡泊な態度を崩さず後嶋は受け取った。
スプリングフィールドのドアを閉じるや、洲堂は大きく溜息をついた。我ながら大根振りが情けなく、悲しくなってくる。しかし、素人の自分なりにやれる事はやったのだ。相手が自分の事をどう思っていようと、このまま続けるしかない、と自分を鼓舞する為、両頬を両手で軽く張った。と、表情が一変する。赤ら顔ながら、きりりと引き締まった表情を浮かべる。彼女はアルコール類には強い方だった。お持ち帰り目的で酒を勧めてきた男達を、何人潰した事か。先程までとは違いしっかりした足取りで歩き出す。駅とは反対方向へ数十メートル行った所にセダンが一台停まっていた。それに近付き、周囲を窺いつつガラスを数度ノックすると、やがて後部座席が開けられる。洲堂の姿はその中に消えた。
「お疲れさん。緊張した?」
助手席の下山が、イヤホンを外しながら声を掛けてくる。彼女のスーツに仕込んだ盗聴器の音を聴いていたのだった。もちろん録音もされている。
「ふうっ。なかなか空気が重くて、大変でしたけれど」
キャリーバッグを奥に押し込み(中身は擬装用の書類と社員証くらいだった)、ドアを閉めた。セダンは走り出した。
「とりあえず今日は、57との接触が目的だからね。これからは週一くらいで通う事になる」
後嶋の暗号名である57は、彼の資料の整理番号だった。
「曜日は?適当に?」
「平日だね。休日には来ないだろうし。何回か通って、偶然の再会を演出しよう」
「判りました…」
こんな事を、これから何度も繰り返すのか、と内心溜息をつく。初めて話した印象では、悪人とは思えなかった。異性としても好みの方ではあるだろう。これから小細工を弄し親交を深め、場合によっては男女の関係になってでも情報源に仕立てようというのだ、不安や嫌悪感、諦め、悲哀等、様々な思いに心が揺れるのも致し方ない事だった。いっそ辞職してしまおうか、などと考える。が、同時にこの接触がもたらした僥倖に胸躍らせる洲堂明理がいた。
「そういえば、彼が誰かの名前を呟いていた様だけど、心当たりは?」
鼓動が再び高鳴る。
「名前、ですか?さぁ…」
咄嗟に嘘をついてしまった。職務上まずい対応かも知れなかったが、触れられたくない出来事だったのだ。
「由加莉、だっけ?彼は、君を見て呟いたんじゃないのか?」
「さぁ?誰かに、似ていたんでしょうか?適当に誤魔化しちゃいましたけど」
笑顔で誤魔化す。確かに、似た人物はいた。それは母ではなく、姉だったが。もう十数年も前に実家を出たきり、一切帰省する事もなかった。だから実家にある姉の写真は、成人式の際撮影した物が最後の筈だった。その消息不明、音信不通の姉に関する情報を握るかも知れない男性と、職場のバックアップを受けてこれからも接触を持ち続ける事が可能となったのだ。これを僥倖と言わずして何と言おうか!職務としての情報収集の他に、個人的な情報の入手も可能とするべく尽力しなければ。などと、とりとめもなく考えに耽っていると、不意に運転席から「あぁ」と声が上がる。
「そう言えば、由加莉って名前の、女性の資料がリストにあった様な…」
「本当か?お前は女性の資料だけは、よく憶えてるなぁ」
「勘弁して下さいよ…確か、それも室長案件だった様な」
「うえっ。厄介そうだなぁ」
下山は後頭部で両手を組んだ。
「あの、室長案件て?」
初めて耳にする用語に問いを発する洲堂に、下山は。
「うん?ああ、57みたいに、室長が特別に資料を管理している”特殊失踪人”の事だよ。特定の期間に集中していて、何か重大事に関与しているらしい」
「その、重大事、って?」
「さぁ?室長より上の人しか、内容は知らないらしいが…」
「何なら、室長に訊いてみたら?資料を保管してるかくらい、教えてくれるかも」
運転席からの提案に、「そうします」とだけ、洲堂は答えたのだった。




