第四章 その一
第四章
さして広くもないその部屋は、例によって暗闇に満たされていたが、引退したとはいえかつて”闘士”として活躍した山神には何の支障にもならない。向こうの世界、その住人達が『エル・ネアライン』などと呼ぶ世界に、初回呼ばれた”闘士”が教練場で最初に叩き込まれるスキルが、魔力の運用方法だった。それを体得した結果可能となる身体能力強化、暗視能力もその一環だったのだ。個人的な得手不得手はあろうと、『夜目が利く』のは、共通的な特徴であり必修科目といえた。
”闘士”が行使する魔術、そのエネルギー源ともいうべき魔力は、本来あらゆる生命活動を行なうものから放出されている。アニメ等で表現されてきた様なオーラの類がそれにあたる。それは通常ならば、体外に放出され自然界に拡散、霧消してしまう。だが、向こうの世界で数百年前、その存在に気付いた者達の中から、それを利用する方法を考えついた天才的な一派が出た。それを体内で循環、貯蔵し、特定の呪文、術式等を介し様々な形で物理現象の具現、干渉、歪曲等を行なう技術、それが魔術だった。時を経ると共に、それは広範な分野に亘り高度化していったが、それと共に彼らは自分達の弱点を認識せざるを得なくなっていった。それらを扱いうる、魔術の適合者が極端に少ない、という事実だった。彼らは、自らが直面していた窮状を打開しうる光明が翳りゆくのを、切実に感じていた。その窮状とは、その生活圏を巡る魔獣との、果てる事なき戦いだった。
この世界には、魔鉱石などと呼ばれる一種の宝石が存在した。化石であり、その元となった生命体の魔力が、肉体は化石化しようと偶然残留している物で、一ヶ所に群集し棲息する動物や、長命で巨大な動植物等の死骸が埋没した地層から多く産出されるがそれ以外にも、地震や洪水等により崩落した地層から自然に出土するなど、あちらこちらに無数に点在している。野生動物等がそれらに接触したり、体内に取り込むなどして魔力の影響を受け、突然変異を起こしたものを魔獣と呼んだ。魔鉱石の魔力が呼び水となり、魔力の循環システムを構築してしまったのが原因と考えられ、”闘士”の教練にも用いられる。ともかく、魔獣は多種多様であり、一般的に攻撃性が高いのだった。そんな存在を恐れ、住人達は接触する可能性の低い、狭隘な土地に閉じ籠もり生活してきたが、人口の増加や魔術の完成により未開の地を開拓し、少しずつその生活圏を広げていった。そうなれば当然、魔獣と遭遇する確率は高まり、その損害を被る開拓者達も増加してゆく。しかし魔術を行使しうる者の数には、かなり厳しい限界があった。生活圏は広げなければならないが、魔獣に対抗しうる手段には制約がある。その様なジレンマに懊悩する住人達の前に、我々ならばその解決、とまではゆかなくとも大部を解消しうる術を提供しうる、と主張する者達が現れた。彼らの言い分はこうだ。自分達の中に魔術の適合者が少ないのならば、いっそのこと外から連れてくれば良い。その適合者を異界に発見、連れ出す方法を、我々は既に掌握している、と。そして数百年前実際に、初となる”闘士”の召喚に成功した。その瞬間より、数多の”闘士”達の、苦難の歴史は始まったのだった。
暗闇のなか、山神は椅子に腰掛けぼんやりと天井を見上げていた。コンクリート打ちっ放しの天井にはパイプが何本か走り、蛍光灯が吊り下げられているのみ。彼の正面には、巨大なシャッターが降りている。本来車庫であるそこを、彼は作業場として使用していた。部屋ほぼ中央に据えられた作業台の上には、短剣や片手剣、投擲ナイフ等が何本も並んでいる。彼はそれら愛用の品々を、定期的にメンテナンスしていた。そしてもう一頭、彼の傍らで定期的な食事を与えられている銀狼の姿があった。左掌に付けた刀傷から流れ出す血を舐めるフェンリルの舌が、小さな水音を立てていた。そうしてかれこれ十分程が経った頃。
「もう、良かろう?」
右手でフェンリルの頭を撫でつつ左手を持ち上げる。少し名残惜しげにフェンリルは一歩、下がった。唾液で滑る左手の平を暫し見詰め、山神は右手を翳した。低く何事か唱えると、彼の視界の中で間もなく光を放ち始める右手。それが消え、右手を離せば傷口は見事に消えていた。残った血の跡が、僅かにその痕跡を留めるのみ。再び左手を差し出せば、フェンリルが綺麗に舐め取る。不意に立ち上がると、山神はフェンリルの前に屈み込んだ。
「良いか、一線を退いた身とはいえ、戦いを避けてばかりもおられん。必要とあらば、お前と再び疾風迅雷の如く戦場を駆けようぞ。着いて来てくれるか?」
フェンリルは、ただじっと山神を見詰めるばかりだった。山神はそっと、首を撫でた。
「端から”闘士”となる事を望む者なぞおらん。儂とて己が身に降りかかった理不尽を、どれ程呪った事か。しかし、こうしてお前と出会えた。この身とならねば無縁であったろう人々ともだ。そうでなければ、今の儂はおらん。だから、守らねばならん。事態の終着点は、儂にも見極められん。後嶋氏の動きにしても、思惑通りゆくのかは判らんし、『ウォッチドッグ』も今回は動かせん。”闘士”全体の災厄となる様なら、儂一人ででも事態の収拾を図る覚悟じゃ」
暫し、一人と一頭は見つめ合った。絆を結び、相棒となった魔獣との間には、一種の交感作用が働く。かなり自由な意思疎通や、場合によって五感の共有も可能となる。他にも、見えざる魔力のパイプラインとも呼ぶべき供給システムが形成されるなど、様々な特徴がある。しかし、相棒はあくまで己の意志に従い行動する自由を持つ。一緒に死んでくれ、と言っても、必ずしもそうしてくれるとは限らないのだった。もちろん魔獣に対しても、”闘士”に対してと同様、強制力を発揮する魔道具は存在するが。やがて仕方ない、とでも言いたげに、フェンリルは小さく首を振ると、頭を下げ角を山神の首元に突き付ける様にした。
「…判ってくれたか」
山神は、両手で角をそっと包んだ。フェンリルは他者に角を触られる事を拒むのが普通だった。低く唸り声をたてたのは、久々の戦いに血が滾ってきた為だったのだろう。
「そうかそうか…では、戻るがいい」
立ち上がると、山神は空間の裂け目を出現させた。フェンリルがその中に飛び込むのを確認すると閉じ、ラックへと歩み寄る。ステンレスのトレイを取り上げ、作業台へと戻った。手入れした武器をトレイに移すと、彼は暗闇に沈んだままの部屋を後にしたのだった。




