第三章 その一
第三章
官庁街から少し離れた、ブラウン基調の地味な配色のオフィスビル。三十階近いビルを見上げ、パンツスーツ姿のその女性は溜息をついた。青天の霹靂、突然の出向命令。しかも全く想定外の機関へ。出来れば、今すぐにでもここから立ち去りたい、が。段ボール箱を一つ積んだカートの取っ手を握り直し、前を向き直る。パンプスを履いた足が、再び前へと進み始めた。
エントランスを抜けエレベータホールへ。彼女の目的階は十五、十六の二階層だった。エントランスの案内板には、それらの階に企業名等のプレートは掲げられていなかった。出勤時間帯から少しずれているからだろう、エレベータホールは閑散としていた。階数ボタンを押し一、二分で、エレベータはやって来た。一人、乗り込む。スルリと動き出し、一分と掛からずスルリと止まる。エレベータを降りると、左右を見回した。通路を左へ少し行った所にドアを見つけた。カートを引きつつドアの前に立ち、ネームプレートも貼り付けられていないドアを数度、教えられたリズムでノックした。僅かな間があり、ドアは開いた。姿を現したのは、スーツ姿の男性だった。一見優しげなその双眸が、素早く女性と、その周辺を観察する。
「はい、ご用件は?」
会社名等を一切名乗らず、それだけ訊いてくる。それは予め知らされていた符牒だった。彼女も応じる。
「あのー、派遣の者なのですが」
微笑んでみせるが、ぎこちないのは自覚していた。男性は再び女性を一瞥し、ドアを大きく開けると傍らに退いた。
「失礼、します」
カートの取っ手を握り直し、入室する。その姿が室内に消えると、男性は再び周辺を手早く窺いドアを閉めた。
室内はごく普通のオフィスだった。三十インチクラスのモニタが目立つデスク数個で構成された島が並び、十人余りの男女がディスプレイに向かっている。外回りにでも出ているのか、半分以上のデスクが開いていた。ぼんやりと眺め回していると。
「こちらへ」
彼女の視界を遮る様に、右手を差し出してきた。
「あ、済みません…」
手が導くままに、女性は歩き出した。男性がドアを開くと、中は六畳程の部屋だった。壁際に二つ並べられたデスクの上に四つ並ぶモニタが目立つ。二台のタワー型パソコンに繋げられたそれらには、防犯カメラの映像が並んでいる。それらはビル内のもので、エレベータホールや部屋入口も映っている。男性は更に奥のドアをノックした。「どうぞ」
未だ若い男性の声が、奥から応じた。男性はドアを開け、入室した。
「失礼します。新入要員をお連れしました」
傍らへ退き、振り向くと女性へ入室するよう小首を傾げ促した。
「失礼、します」
恐る恐る、とばかりに前に進み出た。
「荷物は置いて」
小声で注意された。カートを引いたままだったのに気付き、慌てて戸口の脇に押し戻す。咳払いが聞えた気がして、あたふたと室内へ戻った。改めて室内を見回すと、隣室と同じ程の広さがあるが、奥にデスクが一つと、手前に応接セット、後は奥にキャビネットがあるきりで、酷くガランとした印象がある。そのデスクに着いていたのは、スーツ姿の三十代後半、眼鏡を掛けた少々神経質そうな男性だった。
「ご苦労、戻ってくれ」
「はっ」
静かな遣り取り。男性は一礼すると退室していった。ドアが閉まると、デスクに着いた男性は書類を取り上げた。
「洲堂 明理、二十八才、警視庁元赤塚署勤務の警察官、で間違いないかな?」
探るような視線が見上げてくる。洲堂と呼ばれた女性は、どうにもならない居心地の悪さを覚えた。
「はい、間違いありません」
警察官としての矜持を精一杯保ちつつ、返答した。男性は直ぐに視線を下げた。
「この機関の名称は、聞いているな?」
「対テロ特殊対策室、でしょうか?」
「その通り。私はここの室長をしている、三条 勝利だ。君の上司、という事になる」
何とも体温の感じられない、淡々とした挨拶。もはや彼女に視線を向ける事もない。
「あの、質問を、宜しいでしょうか?」
出向を申し渡されて以来、抱え続けてきた疑問を解消するチャンスが到来したと、洲堂は判断した。
「何だね?」
視線を上げる事もなく訊ねてくる。どうにもやりにくい。
「あの…どうして、私がここに?私は、生活安全課の一婦警なんですけれど」
名称からして公安絡みと思われる組織に、自分がなぜ来る事になったのか、全く理由が判らなかった。と、すっ、と、三条は立ち上がった。つかつかと洲堂へ近付いてくる。
「ここへ来た者には、まず最初に覚えて貰うべき事がある。判るかね?」
「業務の内容、ですか?」
目と鼻の先に立たれ見下ろされ、洲堂は少々どぎまぎした。冷ややかな視線で見下ろされているというのに。
「ここに来るには必然の理由があり、それ以前の経歴は全く気にしなくて良い、という事だ」
「必然、ですか?それはどの様な」
その問いに答えるつもりは毛頭ないらしく、三条は言葉を被せてきた。
「君は、この組織の主務を理解しているかな?」
「…いえ、こちらで説明を受ける様に、と」
「そうか。ここでは、特定の条件に合致する人物をピックアップし、その収集した情報、監視報告書等を然るべき法執行機関に提供する事を主務としている。我々が相手にするのは、一筋縄ではゆかない者達ばかりだ」
ならばいっそう、自分などは役に立たないだろうに、と思うが、口にした所で一顧だにされないだろう事をこの短時間で彼女は理解した。
「他に質問は?」
「いえ、ありません」
「結構」
三条はデスクへと戻っていった。電話機を操作し、内線に掛ける。
『はい、何でしょうか?』
スピーカーに低く、ざらついた男性の声。
「下山君。新人が到着したので宜しく頼む」
『了解しました』
数分後、下山が室長室に姿を現すまでに、三条はきちんと着席し、変わらぬ冷ややかさで迎えた。
「洲堂君だ。君の班で指導してくれ」
「はっ」
下山が傍らの洲堂へ向き直る。
「お世話になります。洲堂です」
引き締まった表情の、少々近寄りがたい雰囲気の班長に、おずおず挨拶すると。
「ははは、そう固くならないで。こちらこそ宜しく!」
一瞬で破顔し、親しげに話し掛けてくる。
「はぁ」
それまでのイメージとのギャップに、困惑し視線が泳いだ。
「じゃ、付いてきて。デスクに案内するから」
洲堂の様子には無頓着に、下山は先導して退室してゆく。彼女は後に続くよりなかった。部屋を出、カートの取っ手を右手で握り、ふと防犯カメラのモニタへ視線を向けた。その前に、最初に案内してくれた男性が座っていた。彼は、彼女がビル内に入ってからドアをノックする所まで、全て見ていたのだろう。
「はは、これでも我々は調査機関なんでね」
洲堂の視線に気付き、下山がさりげなく補足する。はぁ、と洲堂は生返事した。
「ところで、その荷物は何?」
「これですか?引き上げてきた私物ですけれど?」
カートを振り返り答えると。
「ここには何も置けないぞ。必要な物は全て支給されるから」
「そうですか…」
持ち帰る事になるのかと、少々憂鬱になった。下山がドアを開くと、洲堂は先に部屋を出た。下山がドアを閉めるまで立ち止まり、改めて室内を見回す。居合わせた者達は、一様に彼女には無関心そうに、自分達の仕事に従事している。と、視界に下山がアップで入ってきた。
「それじゃ、班員に紹介するから。と、その前に」
不意に、両手を広げてみせる。
「不思議の国へようこそ!」
「はい?」
おどけたその仕草に少々引きながら、洲堂はぼんやりと下山を見やった。すべったのを自覚し、少々ばつが悪そうに下山が居住まいを正す。
「まぁ、いずれ判るさ。我々と共に行動していれば」
思わせぶりな笑顔を作る。果たして、彼女達が追う人物達はその住人の様だった。




