プロローグ
随分と間が空いてしまいましたが、新しいシリーズを開始します。
物語を構成するのに随分と手間取ってしまいました。
楽しみながら読んで頂ければ幸いです。
プロローグ
光が、狭い室内に差し込んできた。実際にはそれは唯の光ではなく、彼の視界内でのみ段ボール製の壁や天井、ブルーシートを透過して室内に差し込んで来たのだった。ビクリ、彼は震えた。その光の正体を熟知していたから。それは本来、この世界には存在しない筈のもの。それは、彼の人生を破壊したもの。彼が二十代半ばまで思い描いていた人生設計は、この光の中に呑まれ、霧散したのだった。出来れば二度と関わり合いになりたくない…暫しの逡巡の後、彼はドア代わりのブルーシートを、そろそろと捲った。ほの明るい闇の中に皺深い、髭もじゃのくたびれた顔が現れる。それは注意深く、それの差し込む方向を伺った。
既に日は暮れ、引きも切らず往来する自動車の騒音を降らせてくる橋を照らす街灯の、橋桁の下に差し込んでくる微かな光とは明らかに違うそれ。苦々しい記憶が、彼の脳裏にフラッシュバックした。彼は段ボールハウスを出ると、未だ消えぬそれに誘われる様に、土手の上を歩き出した。橋桁の向こう、彼の視界の大分を占めていたそれが、見る間に弱くなっていった。再び元の暗闇に戻った、と見るや。
「うわっ!」
突然、何かが落下し、河川敷のコンクリートの上で大きな音をたてたのだった。思わず裏返った声を上げてしまった彼は立ち止まったまま、暫く音のした辺りを観察していた。本来ならば、暗くてよく見えない筈だが、彼にはそれがはっきり見えていた。間もなく彼は、それが何かを理解した。
人間、だった。いや、ミイラの様に全体を白い布にくるまれた、人間の形をした何か、だった。頭部の傍らに立ち、布に手を触れる。そこは一部別のパーツになっており、首から上が姿を現した。黒髪を短く刈り込んだ、血の気を失った若い男性。大学生程だろう、どこにでも居そうな日本の若者に見えた。布の隙間からは、明るい色のスエットの襟口が覗いている。彼は、布を剥ぎ取り始めた。若者はラフな格好をしていた。コンビニにちょっとした買い物に出ていたかの様な。その中にあってただ一つ、異彩を放つものが。デニムのベルトに差された、一本の短剣。鞘には幾何学的な紋様が施されていた。それを、彼は覚えていた。
「何と、不運な…」
彼の胸中に、抑え難い憐憫の情が溢れ出す。この若者は生きて帰れなかったのか。『泣き面に蜂』という諺の具体例の一つに、この若者の境遇を列挙しても良いとさえ、彼には思えた。この見知らぬ若者に、胸中で悔やみの言葉を呟く。しかし、感傷に浸っていられる時間は余りなかった。この遺体をこのままにしておいて良いのか、という問題があった。このままここを引き払い、見て見ぬふりをすべきか、あるいは交番に届けるか?しかし、直ぐに次のねぐらを見つけるのは難しく、かといって警官に、自分の素性を語るのは憚られた。彼はもう数十年前、初めて失踪して以来、数年おきに幾度も失踪を繰り返していたのだった。その間に家族は崩壊し、定職にも就かず、住所不定となって今日に至る。彼には息子が一人あったが、妻と共に出て行き、今となっては行方を知る術もない。顔を思い出す事さえ難しかった。しかし、と、彼はある事を思い付いた。こうして自分の間近に現れたのも何かの縁、ほんの一時だけ、この若者を己が息子と思い込もうと。年齢的に優に十以上はずれているだろうが、その様な事は度外視して。傍らに跪き、優しく頭を撫でる。
「和樹、悪かった」
辛うじて覚えている一人息子の名を口にし、謝罪する。その結果を招いたのは自分の責任ではなかったが、父親の不在という状況は、さぞや息子に辛い思いをさせた事だろう、と。もちろんその行為に何ら意味など無かったが、彼は意味を求めていた訳ではなかった。ただ、そうしたかっただけなのだ。若者が何らの反応も示さなかった、否、示せなかった事も、どうでも良くなっていた。しかし、どうでも良くはない現実が、軽やかな足音と共に近付きつつあったのだった。
「和樹ぃ…」
若者の顔を覗き込んでいる彼に。
「おい、あんた!何やってるんだ!?」
現実の声が彼の意識を否応なしに引き戻す。ぼんやりと顔を上げれば、ジョギング姿の男性が立ち止まっていた。
「え?あ」
不覚にも、完全に不意を突かれ何も答えられずにいる彼へと、ジョギング姿の男性はつかつかと近付いてくる。
「あんた、ここのホームレスだろ!?この人は誰なんだ?あんた、この人に何したんだ!?」
「いや、私は何も。ここに、誰かが落として」
「死んでるのか!?大変だ!」
しゃがみ込み、若者の首に触れ騒ぎ出した男性を、彼は呆然と見詰めるばかりだった。その間にも、男性は携帯を取り出し掛け始めた。パトカーが駆け付けるまでに、三十分と掛からなかった。それまでの間、彼は男性に見張られながら橋脚の片隅で縮こまっていた。その気になれば、逃走は可能だったろう。しかし、それが間違った選択であろう事を、彼は熟知していた。
結果的に、彼は数日拘留された後釈放された。若者の死とは無関係な事が判明したからだった。件の若者が身分証の類を所持していなかった為、身元の確認には多少の時間を要した。若者には失踪届が提出されており、照合の結果判明したのだった。司法解剖により、若者は少し前に死亡していた事が判明したのだが、その結果は警察関係者を大いに困惑させたものだった。ちなみに、彼の釈放後間もなく、土手の段ボールハウスは跡形もなくなっていた。彼の消息も杳として知れない。
書類を繰り何事か確認していた中年の、白衣姿の男性が、神妙な表情で縦横に何列も並んだロッカーの、一つの取っ手に手を掛けた。全身に力を込め、ゆっくりと引いてゆく。それに合わせ、シーツを被せられた若者の横たわる姿が現れる。
「…本来なら、再会は葬儀場で、という事になるんですがね、三条さん」
一息つくと、自分が迷惑しているのだ、という心情を隠すことなく白衣姿の男性は、遺体の向こう側で顔に被せられた布を取り払おうとしていた、スーツ姿の男性に声を掛けた。若者より多少年上だろう。フレームのない眼鏡が鋭利な印象を与える。若者と目鼻立ちが似ている、兄弟か?、と、白衣姿の男性は思った。
男性は、こわごわ、という風に布を取り払い。
「…一利」
声が震えていた。人違いであって欲しい、というささやかな願望が、無惨にも粉砕された瞬間だった。
「管轄外とはいえ、貴方が刑事だから特別なんですから」
「判っています、すいません」
眼鏡を外し、ハンカチで目元を覆う。ほんの十秒余りそうしていたが、ハンカチを外し眼鏡を掛け直せば、再び鋭利さが戻っていた。
「ところで、解剖所見で不審な点など、何かありましたか?」
「不審な点?ええ、ありますよ。ありすぎな程にね」
「ありすぎる?」
その語調から、ただの事故や殺人でないだろう事が直感された。
「そうです…では、何からにしますか?」
白衣姿の男性は、憂鬱そうに話し始めた。




