宝貝と古代中国
実証って点に欠けるけど、柳田國男の海の道馬鹿に出来ないな。今縄文人と弥生人の割合をやっていた斉藤教授が考えてるものがなんとなく見えてきた。ちなみにこの教授山東省のコーカソイドについて植田教授と一緒にミスしたかもしれない人、ちょっとこの人癖がある。と言うか遺伝学者って皆そうじゃない?米の佐藤教授は米の専門家なのに歴史に興味津々で。
大体皆そう、斉藤教授のコーカソイドもそうなる。篠田、崎谷氏も似た感じ。この人は慎重だって人って表に出てこない。Y染色体の分析を全くしない篠田氏と逆にYばかりの崎谷氏が同じ結論。私は批判的。何故か?と言うと戦国時代に拘るからなんだ。何故か歴史と結びつけるのが大好き。
海の道について話すけど、殷の宝貝が沖縄産なんじゃないか?から始まる。これ別にインド東南アジアでも取れる。どこから持ってきたのか?この実証がされないとさすがに苦しい。もう沖縄に決まってるとして話が始まる。これについては多いに不満。こういう雑なのが多いから相手にされないんだと思う。
それでも可能性としては十分に面白い。先島諸島、南琉球と呼ばれる地域に宮古島がある。再調査を是非して欲しいのだが、過去の調査で、南と本島を分けて調査した事があって、どんな古い血統が出てくるか?と思ったら、なんとO1Bが大半を占めるというわけわからない結果になった。きっと誤差だろうと私は無視をした。
だが調べていくと、この宝貝の取れる場所が宮古島である事が分かった。多くの人はこれを縄文人が殷に運んだのだと勝手に作り上げる。だが、これ大陸人が運んだんじゃない?って素直に思えばハプロとの整合性が取れる。じゃ何故縄文人となったのか?と言うと、縄文時代に海路のネットワークの痕跡が見えるから。
ただこれ日本内と外海じゃ全く違う。日本は明らかに海外と物品の交流があったのは明らか。だが問題は、日本国内の活発な海路ネットワークとは比較にならないほど、豊富には海外との物品のやり取りは見つかってない。日本国内の物はあっちこっち移動してるのが良く分かる。これは逆に航海技術が大したことが無いのを示してると思われる。海外沿いに移動するのに陸路じゃなくて船を使うのはものすごく合理的で、これは過去だって同じ。根本的に外界への航行と海岸沿いとは全く意味が違う。
ここから飛躍が始まる。だが大陸の方が発達していて、そっちが来たのでは?と考えたほうがすっきりする。問題は中央の政権の問題。中国は伝統的に海と中央が縁遠い。ここで極端に海に関して南海岸側と文化的に差があるとすると見えてくる。南部中国は進んだ中国の技術を船に投資できる。ここなんだ。目的を持ってないからどれだけ優れてた技術が合ってもそれが船に反映されることは無い。
だが技術だけ共有してるが、目的意識をはっきり持った地域が別個の文化を築いていたら?多分そこだと見ている。
ここで夏王朝とりょうしょ文明の繋がりが出てくる。殷じゃなくて、夏が元々沖縄とのパイプを持ってるとしたら?夏は昨今りょうしょ文明との繋がりが言われていて、良くある恐竜は絶滅して無い鳥になったんだ理論と同じ。何故りょうしょ文明は消えたのか?で実際はすがたを変えてしまったと見れば納得できる。
夏は南方王朝だと仮定するといろいろと都合が良い。初期中国語の南方言語の発音との類似性。夏の末裔と言われる三星堆文化や越との関係。以前から書いてるけど、何故か四川雲南にはO1系のハプロが多い。古代夏の末裔が移住したとの伝説が残っている。匈奴になったとかあまりにバラバラでつかみどころが無い。
だがこれチベット南方混血民族だとしたら?遊牧=モンゴルって連想があるけど、実際は遊牧と言えばチベット族も含まれていた。だがチベットビルマ系はそういった話であまり出てこない。実際彼らを遊牧民と言うのは難しい。おそらくチベット系が中国に出てきょう族になり、そこから分派した民族は様々なタイプに別れたと見てる。
そういった事が夏=遊牧民説に繋がってると見ている。南方の民族は、O2=ミャオヤオ、チベット。D、O1A。これらが大体混ざってもう分けられない形になってる。夏がツングース、トルコ、モンゴル系の遊牧民なのは多分無い。チベットだと見れば筋が通るし、夏の後裔が様々な部族に変化するのも理解できる。
越の王の子孫はO1Aで越人はO1Aが主流となって構成されていると調査されている。ここから夏は南方系だと分かる。じゃ何故O1AじゃなくてO1B1なのか?ならそれは越人だからになる。あくまで夏の王族と偶然一致しただけで、夏人が越に向かったわけじゃない。元々住んでたからに過ぎない。
O1Aは極端に海岸に偏っていて、それは古代から変わらない。ただ起源は長江上流の可能性がある。普通は長江上流に向かったと思うだろう。私は思わない。それはOの起源が重要に成る。Oは多分西方グループだと思う。東南アジアインドの境目でRやQ系が分化して西に向かう。NOとそこで別れたとすると、Oの起源地はそこになる。そこから広がったと見ている。
長江を川沿いに進んでそれ以上いけない場所まで進んだのがO1Aになる。そうなると台湾にO1Aが多いのも納得できる。この時早くから分化したO2系のラピタ人系も一緒にいったと見ている。MSと言う系統がK系系統では有る。FからJやI、HLなどインド欧州、中東系を置いて東にやってきた。そしてMSが南方海岸ルートを進み。他のKは東南アジアインドの間となる所で四方に分散したと見ている。私の予想では、南方ルートだが北方ルート的になったと見ている。
この中でアジア組でNだけがGM遺伝氏で南方系を持ってない。だからNは早く別れて中国内陸部に行ってしまったと見ている。O2がギリギリまで残って、東南アジアで南方のGM遺伝子を得たあと北上して主に内陸部西方に偏って存在して、多分この間にラピタ系と分岐して、O1Aについて下流域に向かったと見ている。
台湾平原でO2の西方ハプロは住んでないと思われる。これがラピタ系だけが独立した理由になる。次にO1B系が長江を下ったので長江全体に住む事になったと見ている。りょうしょ文明の国民ハプロはO1B系と出ている。王族と国民はおそらく違う。後舜の末裔はO1B系なので、そのあたり南方特に支配されていたような形じゃないと思う。
越人がO1Aで、越の王がO1Aなのは、たまたまか?または、土着のハプロに入れ替わったのかと。孔子もこれっぽいので入れ替わりはありうる。
民族の勘違いってのが良くないと私は思ってる。先史時代に交わった血統など誰にも分からない。おそらくO系はこうやってあらゆる民族のベースになってる。それは地域によるものが大きい。例えばチベット高原ならO2系よりD系が多くなる。だが中国に出てきたチベット民族はO2系の方が多くなる。元々D系とO2系の接点で発達した集団ならO2系が多いチベット民族は古くからいた可能性がある。
歴史時代に中国人と混血したのを否定できないが、チベット民族のO2系は西方系に偏ってる。元々民族として言語によってまとまった時にすでにO2系との混血が深くなっていたと私は予想してる。これは縄文系弥生系の発想を持つ日本人の悪い癖だと思う。それと言うのも全く違うのは、縄文弥生はすでに文化が出来上がってから融合したものなので違う民族の混血に見える。
だが中国は先史時代に違う集団が混血しまくっていて分かりにくい。これは縄文時代のC系、D系も同じ。弥生人だってそうだ。朝鮮南部系、騎馬民族系、南北中国人、などなどごちゃごちゃに来てるのにすべて弥生人としてしまっている。ハプロは逆に1ハプロ1民族の様な単純化してしまう誤解の元になるので問題がある部分だと思う。
夏はD系が居ないきょう族の末裔の可能性も十分にある。当時の状況から歴史時代にはすでにD系とO1系は混血している。そこには当然キョウ族のO2系も混在してて、じょふくは秦人じゃなくて、きょう族の西方中国人系も十分ある。だって斉の国の人なんだから当たり前なんだ。
夏が南方系であるという点で、O1Aの北上がハプロの分布となってる点。渤海に繋がる海岸沿いにO1Aは北上して広がっていて、満州まで突っ込んでいる。これは曹操の系統のO1B1系と全く同じ分布になってて、かつ朝鮮系のO1B2系の分布とも重なる。戦国末期に王朝の滅亡とともに民族の朝鮮への移動があったのは事実。
だが、それと安易に南方ハプロの北上を結びつけるのは間違っている。実際はこの夏王朝が良渚文化の後裔である可能性の方じゃないか?と見ている。宋の王朝を開いた趙という人物は北方の趙の生まれになる。でも何故か末裔がたった一人しか取ってないがO1A系になる。
一人のハプロなので入れ替わりかと馬鹿にしてた。これ馬鹿にならないかもしれない。O1Aの北上の先端は内蒙古あたりまで突っ込んでいる。曹操の系統もかなりの数遊牧民化している。O1Aはそこまで広がらなかったが、一部遊牧民化していても全く不思議じゃない。ある意味夏が匈奴になったというのは間違ってない。
夏の王族が匈奴指導者になったなら全くの間違い。明らかに中央アジアのウラル系の民族になる。それが違っていてもウイグル系の遊牧民になる。夏が南下ならありうるが、どっちにしてもちょっと考えにくい。本格的にコーカソイドが関わってくるのはおそらく金属精錬からだと見ている。
いつもコーカソイドの話をしてるのに?私は農耕初期にステップルートは多分無いと思ってる。遊牧民が生まれた時期と、中国の農耕が始まった時期は根本的にズレテル。それは中国の農耕が、豊かな温暖湿潤な中原の気候から始まってるから。寒冷化こそが遊牧民の誕生の時期でそれは時期が後の時代だと特定できる。内モンゴルにおいて、徐々に遊牧民化していく狩猟採取、農業民の時系列の変化が遺跡から研究されている。それはほぼ寒冷化の時期と重なっている。
それゆえに私はタクラマカン砂漠が今と違っていたのと、ヒマラヤルートに絞ったのが有る。1万から8000年付近カザフあたりで何がどうなっていたのか?は私はさっぱり分からない。アフガンでその付近の遺跡が見つかってるのは知ってるが、カザフだと分からない。
夏の王族が越の王族になって、夏民族が三星推文化を起こしたり、匈奴になったのならかなりありうる話だ。それらにO1AやO1B1が関わってるから。全くの偶然だと思うが、中国が騎馬民族化した原因は曹操にある。その曹操が騎馬民族化した南方ハプロってのは全くの偶然なのか?と考えてしまう。曹操の父親は養子になる。どこからこの父親を拾ってきたのか?となる。
おそらく宝貝の利用は殷からだと思う。殷は商と言われていて、殷は首都の名前になる。日本人を東京人と呼ぶようなものになる。商売の商。それゆえ金を取り扱った民族だと分かる。その根幹に宝貝と青銅器がある。どちらも貨幣と関係してる。貨幣と言う言葉にすでに貝が入っている点から分かると思う。
ただ夏王朝はややこしくて、一度クーデターで王の座を奪われている。この後復帰したとあるのだが、実際どうなったのか?が良く分からない。殷も部族連合的な王族で新羅の初期と良く似ている。実際は別民族の持ち回りの部分があったのじゃないか?と見てる。それと言うのも夏の前は世襲じゃなくて、神話では交代制だったから。
政治体制に連続性があったので、混同して混ぜてしまったんじゃないか?とは見てる。それゆえ、宝貝と殷の関係はもっと古くから夏にも食い込んでいたんじゃないか?と見てる。殷は基本的には夏王朝をモデルに作っている。これは周も良く似ていて、漢が秦に似てるのも似ている。殷=商売って結びつきやすいけど、そのモデルはすでに夏にあったと見ている。
宮古島を中心とした南琉球のO1Bはひょっとしたらデータのムラじゃなくて、夏殷時代のO1B系の活動の1つなのではないか?と見てる。何故沖縄じゃなくて、南琉球なのか?それを紐解くと日本に用事があったんじゃなくて、宮古島付近以外に価値が無かったじゃないか?と見てる。沖縄にO1Bが少ないのはこの理由じゃないか?と見てる。
この系統が日本だけで発達したO1B2-47zの系統じゃないか?と見てる。そしてこれが満州ルートを辿った朝鮮系のO1B2との分布の違いになってるのではないか?って点。日本に多いO1B2系は定義的には縄文人の可能性がある。これが初期の斉藤氏の話しと繋がる。稲作伝来のやや先に来ていた渡来系。
すべては再調査でO1Bが出ないって結果で変わってしまう。それでも初期に取られたデータは異常値なんだ。藤原家で水増しされてる本土のO1B2よりも多かったんだ。斉藤氏の話しは微妙にずれてるのは、実際はD系も多い。これは海岸沿いを移動する縄文系海人と渡来系海人が混血して、海と中央から外れた回りに残ったんじゃないか?と。所謂倭人の誕生になる。
実は斉藤氏これを分かってて濁してる。それはどうしても海岸沿いの偏った生活スタイルを持つ民族と言う面倒な話をし無いといけなくなるから。ちなみに東北にO1B2が多いのは多分奥州藤原家が原因で、多分これらの話しは勘違いの可能性が高い。藤原氏=O1B2は眉唾ものの部分があるからまともな学者は使わないので。
日本に多いO1B2は宝貝を独占的に古代王朝に持っていった民族の末裔なんじゃないか?と思ってる。私はそれD系だと思ってない。最近流行りの日本人ホルホルの一貫でなんでもかんでも縄文スゲーってのがネットで右翼を中心に展開されてるけど、これ中国人だと思うと簡単に解けない?って思う。わざわざ縄文人にするから話がややこしくなるんだ。
都合よく異常値ぐらい南琉球で中国の南方起源のハプロが出ている。例えば、O1B2は東南アジアにも進出してるが、それが稲ではなくて、宝貝のネットワークだったなら?実は南アジアにもO1B1が稲作民として行ってるのだが、これすべてそうか?と言うと、一部は宝貝探索のO1B2とO1B1に別れたグループの可能性も考えられると思ってる。
宝貝の研究がされていて、当時の産地は台湾と南中国。おおらくベトナムあたりまで突っ込むならO1B系の活動を見て良いとおもう。ただし、台湾も重要な産地らしい。琉球の研究はされて無いが、台湾は原住民に限って、O1Aが多いがO1Bも居る。O2もいるのだがサブグループを明らかにしてもらえるとありがたい。
ただ台湾に移住した漢民族はそもそもラピタ人の元になった福建省あたりの人が多い。蒋介石も南方の中国人。これはそもそも原住民の前に清の台湾征服があるので、その前から中国人は普通に暮らしてて、その割合として対岸の人が多いのは当たり前かと思う。
要するに早くから大陸人のように振舞った人たちが居ても当然だという点。古くから居る漢民族も居て当然だと思う。そもそもO1A、O1Bの移動は、先史時代に始まっていて、国家の滅亡で逃げたってシナリオにすべて押し込めるのは無理がある。O1B1やO1Aの広がりの中に含まれたO1B2がたまたま元の所で残らなかっただけじゃないか?と見てる。根本的にはO1B1の拡散の一部に過ぎない気もしてる。特にそこで琉球と言うと特別性があるなら、台湾ベトナムへの拡散交易と意味が全く違う。
だから特殊な集団に限られたのじゃないか?と見ている。殷に宝貝を持ち込んでいたメンバーはO1系だろう。その特殊グループがO1B2の琉球担当になったのではないか?と予想している。ただし台湾中国南部だけから取っていた可能性を否定できない。これは先島諸島のハプロがO1Bが高く出るのを根拠にした推測レベルでしかない。
ただし研究者はこの周辺を海域としていて、そこに延長的に先島諸島を含めたか?は古代のO1Bの集団の活動範囲次第になる。可能性として十分にありうる。これが沖縄本島が無視されてる理由だと見ている。逆に言えば、沖縄のO1B2が低いのは先島諸島が高い何故?を説明する理由になってると見てる。
追記:読んでくれた人には実に申し訳ない。先島諸島の住民は沖縄本島からの移住者にルーツがあるとの事らしい。そして沖縄本島は本土に起源があるらしい…。仮にこのルートを使って人の移動が合っても、一端九州にまでいかないと今の日本人全体とは何のつながりもない。これらはハプロではなく現代の核DNAを使った調査なのでより正確。
先島諸島の高いO1Bの値は島ゆえの創始者効果である可能性が高い。八重山諸島では確かに低いが、宮古島ではD系が高く出るらしい。
宝貝を取りに先島諸島に来た可能性はかなり高いが、それがO1B系の流入と関係あったか?なら無い。仮に何か関係してるとすれば、縄文人との南西諸島や九州での交流ぐらいかと思う。
ここからは根拠のない妄想じみたものになるけど、今回先島諸島のハプロは何の意味もない事は分かったけど、南中国台湾沖縄、これらの海域全体に住む黄色宝貝の収集があったのは事実となる。問題は、おそらく沖縄にも来ていただろう中国人は、何故消えてしまったのか?
この点について、青銅器による貨幣の鋳造に取って代わる点になる。元々銅と交換する面が強くて兌換紙幣的な扱いになっていたとされてて、そこから銅自体がそのままお金になってしまったという流れかと思う。実は宝貝この後も使われる。ただし、価値が暴落しただろうと予想される。貨幣としての交換剤といての価値が高かったから、今のドルが石油の取引で使われるのと似てる。そういった独占的通貨に銅貨が割り込んできたらどうなるか?分かると思う。
その時期が大体春秋時代になる。弥生時代が始まろうとしてる縄文後期の時期になる。職にあぶれた人たちが本土に目を向けたという事は無いだろうか?なんて妄想をしてみる。おそらく本土へのルートはそろそろ開拓していた時期だと思うから。
そもそも一時中継地点にしか過ぎないので、中国に帰ってしまったと思うが、その後どうなったのか?は分からない。こういう人って残らないのは分かる。台湾にも倭寇が暮らしたらしいし、日本人も住んでいた。なのに特にD系が出てないし。僅かに含まれるのは多分チベット系。しかもものすごく低い。