八尺様 その壱
「八尺様?」
僕はその聞きなれない名前を繰返した。
「はい。ただ八尺様が来るとだけ、それ以外は何も言ってくれなくて。その八尺様ってのは何なのか知りませんけど、ここ最近ずっとおびえたように部屋に閉じこもっちゃってて」
教授部屋のソファに僕と先生に対面して座る彼女は、笹原美希。僕と同じK大学の学生だ。
何でも彼氏が何かに怯えていて、ずっとアパートの部屋に閉じこもって出てこないらしい。
「八尺様ね。なかなか興味深い名前が出てきたな」
さっきまで彼女の話を聞いているのか、いないのかわからない様な態度で、プカプカ煙草を吹かしていた先生が急に口を開いた。
「興味深いって、不謹慎ですよ、先生」
「先生は八尺様というのを知っているんですか?」
彼女は先生の発言を気に止める様子もなく言った。
「まあな。八尺様ってのは、某掲示板サイトのオカルト版に書き込まれた怪談話のようなものだ。その名のとおり背丈が八尺、約2メートル40センチ程もある、女だ」
「女?またデカイ女の人ですね」
僕は思わず口を挟む。
「ただ現段階では何も言えんね。まずは現状把握だ。おい、智」
「なんですか?」
「お前このあと講義はないだろう。今から美希くんの彼氏のところに言って来い」
「行ってこいって、先生は来ないんですか?」
「智。俺は無駄骨かもしれないことをやるのが嫌なんだ」
「いや、依頼者の前ではもうちょっと取り繕ってくださいよ」
とまあ、いつもの調子で僕は先生に良いように使われている。
助手のような立場だから、当然といえば当然かも知れないけど。
「ほら、分かったらさっさと行け」
「ああ、もう分かりましたから、押さないでください」
僕は先生に無理やり押し出され、言われるまま彼女と教授部屋を後にする。
この時は、あんな大事件になるなんて僕はまだ気づいていなかった。
僕と美希ちゃんはその彼氏のアパートに向かう。
アパート自体は大学からそんなに離れていなかった。
「それで、さっきは全然話し聞けなくてごめんね。彼氏さんが閉じこもって出てこないって言ってたけど、他には何かない?」
「そうね。健治が部屋に閉じこもるちょっと前に、健治の友達の亮くんが行方不明になったの」
「え?」
健治、というのが彼氏の名前らしい。
しかしまた、とんでもない事実が美希ちゃんの口から出てきたな。
「最初は旅行にでも行ってて、すぐ帰ってくると思っていたんだけど、他の友達もどこ行ったか知らなくて、もう一ヶ月にもなるわ」
「そうなんだ」
「それから、こんなことになる前日、健治が見たって言うの」
「見たって、何を?」
「背丈が建物の二階くらいもある、大きな女の人」
「それって!」
「うん。さっき四塔先生が言っていたのと同じ。その話を聞いてゾッとした」
「でも、たまたますごく背の高い女の人がいただけかもかも、いや背の高い男が女装してて、ヒールでも履いていたとかもあるし、そこまで怯えるかな?」
「私もそう言ったよ。でも彼があれは八尺様だって。健治は八尺様が何かって事、知ってるみたい」
「八尺様」
僕はただその言葉しか言えなかった。
そうこうしている内に、健治のアパートに着いた。
今では珍しいほどの古風なアパート。有体に言うとボロアパートだ。
「ここ?」
「うん。あそこの角部屋が健治の部屋」
僕は美希ちゃんの指差すほうをみる。ささくれた木製の外壁をなぞる様に見上げると、窓が見えた。だけど部屋の様子はまるでわからない。
なぜなら、窓は新聞紙で目張りされていたから。
僕らは剥き出しの鉄の階段をあがる。
カーン、カーンという音だけが静寂に響き渡る。
石造りの廊下を進む。
前を行く彼女が立ち止まる。
どうやらここが健治君の部屋らしい。
表札には、坂下と書いてあった。
美希ちゃんがインターホンを押す、しかし返事がない。
インターホンのなる音が外にいる僕にも聞こえたので、故障しているわけではない。
もう一度試してみても、結果は同じだった。
「健治ー。四塔先生のところの人が来てくれたよ。相談に乗ってくれるってー」
彼女の言葉にも反応はない。本当にいるのかと疑ってしまうほどの静けさだ。
試しにドアを開けようとしてみても、当然鍵がかかっている。
気づけば日も落ちかけている。
赤い。
照らすもの全てを赤く染める夕日は、魔を呼び込むという。
逢魔ヶ時。
僕にはただのボロアパートが、この世のものではないように思えてならなかった。




