明日の朝に会えたなら[中]
麻梨乃はベッドに横たわり携帯電話を耳元に置いていた。
部屋にはベートーヴェンのピアノソナタ14番を延々流している。
あの時の部屋に近付けようと部屋を暗くしたが上手くいかない。
白い布も蒼白い光もないのだから当然なのだが、この部屋はあの部屋のように広くない。
いや。
そういう問題ではない。
あの空間が孕む虚無感や哀愁がないのだ。
所詮、真似事。
起き上がって電気をつけて音楽を消した。
あれから3日。
携帯電話は鳴らないままだ。
半分泣きながらベッドに置いた携帯電話を睨む。
─来い、来い、来い!
携帯電話は全く反応しない。
─もう!
来ないと分かっているが、期待するのは自由だ。
こんなにも誰かを近くに感じていたいなんて思った事がなかったので自分でも驚いている。
そして、その事がとても苦しく切ないなんて、考えた事もなかった。
窓際に立つと蔦の家が聳えている。
明るい部屋に一瞬だけ人影が見えた。
今日も何処かで知らない誰かが涙を流し、笑い、愛し合う。
孤独を感じたり、安心したり、蔑んだり、羨んだり。
日常の不満を補うように、人は安らぎや温もりを求めるのだろうか。
─ん?
微かだがピアノの音色が聞こえてきた。
作者不詳、未完成のあの曲か?
これは、あの時間に戻りたいと思うあまりの幻聴だろうか。
それを証拠に少し曖昧な音色だった。
深夜零時。
再び電気を消した。
夜更かしをしてしまった。
明日はきっと授業中に眠たくなってしまうだろう。
今日も麻梨乃は携帯電話を枕元に置いて眠りについた。
そんな日が翌週まで続き、周りは次第に不安を感じ始めることになる。
美里と千佳が麻梨乃に話し掛けても上の空だし、目の下のクマも酷いのだ。
寝不足なのだろうか、授業中には寝ている事も多いし、堂堂と遅刻をする事もある。
声には覇気がなく、足取りも覚束ない。
休み時間は音楽プレイヤーでクラシックを聴いていたり、美術系の雑誌を見ている。
誰ともまともに話はしないが、こまめに携帯電話をチェックすることは欠かさない。
明らかに今までの麻梨乃の様子と違っている。
そんな日が続いたのだ。
昼休み、亮介たちはいつもの溜まり場である、体育館横の階段に座って話をしていた。
「なぁ、亮介。吉名さんとは話してるのか?」と健太。
「してるわけないじゃん」
麻梨乃の話をするのは1週間振りだ。
「美里が言ってたけど、最近の吉名さん様子が変だって。お前どんな別れ方したんだよ」
「どんなって──俺のせいなの?」
それはあまりにも酷い。
─いや、でも。俺のせいなのかもしれない。俺があまりにも頼りないから。
「俺達の目に映るのはいつもの吉名さんだけどさ、やっぱ友達から見ると違うんだろうな。お前もそう思ってるんじゃないの?」
「そんな事はない。いつもの麻梨乃だと思うけど」
「いいや。俺は分かるぜ」と琢磨。
「吉名さん、元気ないよ。それを証拠に、最近1人で居る事が多いとは思わないか?」
「そんなのいつもの事だよ。麻梨乃は1人が好きなんだ」
「その率が高いって言ってんだよ」
─分かってるよ。
そう、そんな事は気付いていた。
─当たり前じゃないか。
周りが心配するよりも先に異変には気付いていた。
─だけど、駄目なんだよ。
あれからまともに麻梨乃の事を見ていない。
見ていない、と言うより見ないようにしていた。
彼女の楽しそうな姿を見てしまえば、自分ではその笑顔を引き出す事ができなかった事に気付いてしまいそうだから。
自分がいなくても相手がやっていけると云う現実を見たくない。
─逃げるしかできない、弱い奴なんだよ、俺は。
そんな事情は知らず、麻梨乃は机に突っ伏していた。
薮神和彦からの連絡を待つだけで、こんなにも辛いとは考えてもみなかった。
精神的な衰弱は体力を奪い、それがまた心を弱らせている。
悪循環だった。
それほど、彼の事を考えてしまうのだ。
何をしているのだろう。
何を考えているのだろう。
自分の事を思い出してくれているだろうか。
会いたいと──思ってくれないのだろうか。
少し眠っていたようだった。
伏せていた身を起こして携帯電話の着信ランプが点滅している事に気が付く。
耳にはラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲』
携帯電話を取ろうとして動きが止まる。
あんなにも楽しみにしていたというのに、可笑しな話だ。
─なんか、怖い。
何が送られているのだろう。
どんな文面なのか。
良くない事が送られていたらどうしよう。
ラフマニノフが背中を押した。
優しいピアノの音色に動かされる。
─よし。大丈夫。
メールを開く。
やはり薮神和彦からだった。
『長い間連絡せずにごめんね。あの後、体調を崩してしまったんだ。食欲がなくて胸が痛んだのだけど、もう大丈夫』
すぐに返事をする。
『大丈夫?風邪?』
『分からない。熱は無かったのだけど。足立も「何でしょうね」と言って首を傾げていたよ。でも、あいつ少し笑っていたような気がするな。でも、もう回復したから』
『そう。本当によかった』
『薔薇。ありがとう。本当に嬉しかったよ。大切にする』
もう、我慢できなかった。
もう一度、薮神和彦に会いたい。
今伝えなければ。
『もう一度、和彦さんの音楽を聴かせてほしい』
好きなのだ。
きっと。
薮神和彦のことが好きなのだ。
会いたい。
あの声に包まれたい。
あの音楽に酔いしれたい。
『きみのためなら何度でも演奏するよ』
─きみのためなら。
その言葉が嬉しすぎて堪えきれず笑みが溢れた。
今週の土曜日、時間と待ち合わせ場所も以前と同じだ。
楽しみでしかたがない。
どんな音楽を聴かせてもらえるのか、どんな言葉で癒してくれるのか。
何よりも薮神和彦と同じ空間に居られる。
嬉しすぎて飛び上がりたい。
いや、もう空を飛んでいるような気分だ。
笑みが溢れる。
1人でにやける。
それを、亮介が見ていた。
1人で嬉しそうに携帯電話に向かう麻梨乃。
友人たちの心配を他所に1人で楽しそうだ。
─なんだよ。何が元気がない、だよ。あんなに嬉しそうに笑ってるじゃないか。俺は見たくなかったのに。
わざと大きな音をたてているというのに、亮介が背後にいることも気が付かない。
亮介は自分の鞄を掴むと教室から出た。
何も見たくないし何も聞きたくないし何も知りたくない。
何もかもが嫌だ。
校門をくぐり抜け、午後の授業をサボった。
麻梨乃は周りが上手く見えなくなっていた。
見ようとすらしていないのに『見えなくなっていた』と云う表現は正しいか分からない。
とにかく、彼女の頭は薮神和彦の事で満たされていた。
会えない分、それだけ相手への想いは積もり、正常な判断を鈍らせる。
麻梨乃の場合、彼への憧れが心を輝かせ、その光の強さはその他を消し去る。
それは如実に表れていた。
あれから毎週土曜日の夜は薮神邸へ赴き、激しく甘美な調べに心酔している。
それは回を増す毎に地上から遠く高い場所に麻梨乃を連れ出してくれるし、現実に戻る度にその高低差に苦しめられる。
新たな音楽を聴かせてもらい、優雅なひと時を満喫する。
麻梨乃の一番大切な時間。
日の当たる中では味わえない細やかで濃密な関係。
闇の中での逢瀬。
麻梨乃の胸の高鳴りは薮神和彦だけのもの。
しかし、いつまでたっても薮神和彦との面会わせはできなかった。
なぜか『私と云う人物を知ろうとしてはいけない』と何度も言ってくるのだ。
その理由すら教えてはくれない。
初めのうちは深くは聞こうとはしなかった。
くだらない事を質問して関係を壊したくなかったのだ。
だが一度意地悪を言ってみた。
「あなたが姿を現してくれなければ、私はもう此処には来ないかもしれない」
彼は焦っていた。
彼が自分に恋心を抱いてくれていることは分かっていた。
だから、それはどう云う意味かと必死に問うてきた。
「もう─会ってはくれないのか?君は─君までも─そんな─」
震えるその声は落胆と絶望に満ちていた。
「だって、ずるいよ。和彦さんは私の姿を見てるのに」
「─ずるい。しかし前にも言ったように、第三者に変な疑いを─」
「分かった。分かったから」
「もう─来ないのか?来てくれないのか?」
薮神和彦の声は少し震えていたが麻梨乃は怒ったフリをして帰った。
すると、次に会った時に薮神和彦が白い布の隙間から何か見せてきた。
「私の─幼い頃の写真だ」
小学校の中学年くらいだろうか。
黒く短い髪に白い肌。
睨み付けるようにしているが、その目元はとても涼しげだ。
鼻筋も通っており、スマートな顎のライン。
子供にしては男前じゃないか。
今この布を外せばすぐそばに薮神和彦が立っている。
このシルエットから察するに、背は高いしスタイルも良いだろう。
女性にもてるはずだ。
薮神和彦の姿を確認したくてウズウズした。
だが、対面を頑なに断り、それでも仕方なくこのように過去の写真を見せてくれた彼をこれ以上困らせる訳にはいかなかった。
「変な事を言って困らせてごめんなさい」と謝った。
「いや。いいんだ。構わない。これからも、来てくれると約束してほしい。私を1人にさせないでくれ」
麻梨乃は薮神和彦の事が今までよりもっと愛しく感じた。
美里と千佳に話があるから放課後に教室で待っていてほしいと言われたので亮介は待っていた。
2人は麻梨乃が教室から出ていくのを見計らって亮介に近付く。
そこには健太もいた。
「話って何?」
各々は適当に座った。
「麻梨乃の事なんだけど」と言いにくそうにうつ向く美里。
ここ最近、誰とも麻梨乃の話はしていない。
周りも気を使っているのか、なるべく恋愛絡みの話はしてこない。
そうさせてしまっている状況が嫌だし申し訳ないと思う。
それほど亮介は立ち直れていないという事なのだろう。
「どうしたの?」とできるだけ明るく返事をする。
「おかしいと思わない?授業中に居眠りするし、遅刻だってするようになった。携帯電話ばっかり触って、そうじゃない時は美術雑誌を観てるし、クラシック音楽を聴いてるんだよ?今まで芸術には興味なかったのに」
「そんな感じなの?吉名さん」
「そうなの。今の麻梨乃を見たら健太もおかしいと思うはずだよ。単なる趣味じゃ片付けられないよ」
「どうなんだよ、亮介。気付いてるんだろ?」
「さぁね。分からないよ。俺、真後ろだから何してるかなんて知らない。背中しか見えないし」
それは付き合ってからもそうだったのだ。
麻梨乃の全てを見ていたと思っていたのに、実際は彼女の後ろ姿だけしか見れていなかった。
彼女の背中を追うことしかできなかったのだ。
手を引いて導く事ができていれば少しは違ったのだろうか。
「それでも、少しは分かるでしょ?」と美里が続ける。
「美術雑誌を観てるなんて、それは新しい趣味でしょ?」と亮介。
「そう─かな?」
「そうだよ。新しい彼氏の趣味でしょ。良いんじゃない?それに彼女が睡眠不足なのは見ていれば誰にでも分かるよ。でも、それは彼女がそうしたいからそうしているんだ。俺らには関係ない事さ」
「私たちが遊びに誘ってもずっと断ってるんだよ?」
「元々、人付き合いなんてしない性格じゃないか」
「でも、愛想がないんだよ。まったく。人が変わったみたいなんだから」
「最初から愛想なんて無かったじゃないか。彼女の愛想は俺が無理矢理に作り出したようなものだよ」
「笑わないんだよ」と困った表情の美里が続ける。
「─分からないよ」
それ以上に困っている亮介だが、それを覆い隠すように答える。
「おかしいんだって」
「分からない」
「顔色だって悪いし、目の下のクマも酷いのよ?」
「知らないよ、そんなの」
「足取りも頼りないし、目の焦点が──たまにどこ見てるのか分からないの。放心してるって感じで。ねぇ、阿久津くん。本当は」
「もう止めてくれよ。いいんだよ、彼女は。美術雑誌を観ようがクラシック音楽を聴こうが、それが新しい趣味なんだったらそれでいいじゃないか。どうせ新しい彼氏の趣味に合わせようと勉強しているんだろ?」
「もし─麻梨乃に新しい彼氏が居たとして─だよ。その彼氏のせいで麻梨乃の様子が変になっちゃってたらさ、それって問題だよね。今すぐどうにかしないと、手遅れになるかもしれないよ」
「あのさ─」
大きく息を吸い込む亮介。
「あのさ─それって俺には関係ないだろ!」
「え?」
「あいつが新しい男に惚れて、そいつの趣味を知ろうとしてるだけなんじゃないの?それは結構な事じゃないか!微笑ましいぜ?そのせいで寝不足になったり、人付き合いが悪くなっても俺に報告する事なんてないじゃないか!俺にどうしろってんだよ!」
亮介は強い口調でまくし立てると、美里を睨んだ。
「おい亮介!お前、俺の彼女になんて口きいてんだよ!」
美里は僅かに目に涙を溜めている。
「俺には─何もできないよ。彼女は幸せそうだ。そうだろ?」
そう言って亮介はその場を去るしかなかった。
背後で自分を呼んだ声が聞こえたが反応はしなかった。
─知ってたさ。
彼女の様子が変なのは誰よりも早く気が付いていた。
─当たり前だ。
でも、何もできない事も分かっていた。
彼女に好きな人がいることだって知っていた。
─どうしろってんだよ。
今の彼女に何を言っても無駄だろう。
何もできない。
─だってもう俺には関係ないじゃないか。
目の前に座る彼女の背中が痩せていってるのも知っている。
─でも、無関係だ。
目の下のクマも顔色が悪いのだって。
─寝不足になるまで何やってんだよ。
溜め息も多い。
─新しい彼氏は何してんだ。彼女の衰弱に気付いてないのか?
帰宅した亮介は自室に入り机に突っ伏した。
─何やってんだよ、俺は。
どのくらいそうしていただろうか。
扉の向こうから亮介を呼ぶ弟の声が聞こえてきたので顔を上げた。
どうやら来客らしいが誰かは分からなかった。
玄関を出るとそこには健太が仁王立ちになってこちらを睨んでいた。
「入るぞ」と亮介の返事も聞かずに上がり込むと部屋へ向かった。
「なに?」と亮介。
健太は仁王立ちになったままこちらをずっと睨んでいる。
「何だよ。はっきり言ってよ」それにも答えない。
「もう─」
溜め息混じりにそう言うと、飲み物を取りに行くため部屋を出た。
オレンジジュースしかなかったのでそれを持って自室に戻ると、健太はまだ先程の格好のまま立っていた。
「ずっとそうやってるつもりなの?」
「俺は怒ってるんだ」と健太。
「だろうね。よく伝わってくるよ」
亮介はちゃぶ台に飲み物を置くと椅子に腰を下ろした。
「何故怒っているのか分かるか?」
「俺が健太の大切な彼女に酷い口のきき方をしたからだろう?悪かったよ」
「愚か者め!」と健太が大声を出した。
「何だよ。いきなり大声を出さないでよ。びっくりするじゃないか」
「俺はお前のせいで美里に怒られたんだ!」
「な─なんで健太が?」
「友人の心情を分かってやれって怒られたんだ!お前が素直にならないから、なぜか俺が怒られたんだ!だから今、俺はすごく怒ってるんだ!」
健太はそう言ってオレンジジュースを飲み干した。
「俺はなんともないよ」
「それが駄目だって言ってんだよ」
健太が床に直接座る。
少し落ち着いたようだ。
「駄目ってどう駄目なの?」
「お前がまだ吉名さんの事が好きなのは分かってるんだよ」
「あぁ、そうだよ。俺はまだ麻梨乃が好きだ。別れた人を忘れられないような未練がましい男だよ」
「未練だろうが片想いだろうが、そんな事はどうでもいいじゃないか。好きな人の様子が変なんだ。心配じゃないとは言わせないぜ。俺だってお前の友人なんだ。お前の事くらい分かってる。亮介、お前は吉名さんを救い出したいはずだ」
「救い出すって─そんな大袈裟な。それに麻梨乃は今の状況で幸せなのかもしれないんだよ。そんな事したら逆に迷惑になるよ」
「お前、本当にそう思っているのか?───窶れた彼女を見て、あぁなんて幸せそうなんだ!なんて思えるのか?」
「幸せの形なんて人それぞれだよ。寝不足になるなんて。時間を忘れてしまうほどに夢中になれる事をやっているとしか考えられないよ。それを無理強いされてるとは思えない」
「本当にお前はお人好しだな!鈍感だし、目出度い奴だ!」
「散々だな。虚仮にするだけなら帰ってよ」
「正直になれよ。心配なんだろう?」
「───あぁ」
「これだけ周りも異変に気付いている。俺達も協力するから。なんとかしよう」
なんだか、泣きそうになった。
その晩、ベッドに横になった亮介は天井を見ながら健太の言った事を考えていた。
─なんとかしよう。でも、どうすればいい。
携帯電話で麻梨乃の連絡先を呼び出したまま彼女の名前を見ていると、そのうち画面が暗くなった。
今更連絡して何になる。
電話して世間話なんてできない。
なんとかって、何するんだよ。
亮介は携帯電話を投げてしまいたくなったがそれを堪えた。
物に当たるのはよくない。
憎むべきものは麻梨乃を愛しているであろう誰か。
そいつは麻梨乃の変化に気づいていないのか?
気付いていて放っているのか。
美里と千佳の心配をよそに、麻梨乃は大丈夫と嘯いて飄々としている。
何をしても響かない。
ならば、水面下で動くしかない。
─それしかない。
携帯電話の画像の記録を閲覧していると、楽しげに笑う麻梨乃の姿ばかり目に止まる。
明らかに今とは違う笑顔に胸の奥が痛くなった。
やはり、とても心配だ。
すると再び画面が暗くなった。
まるで、これ以上は近付く事を許されないかのように、突然切り離されたようだ。
そんな事はさせないと再び操作をした。
画面が明るくなったので、次の画像を呼び出す。
─これは。
そこに写し出されたのは浴衣姿の麻梨乃だった。
去年、付き合い出した日。
お互い慣れていない関係に恥ずかしそうに笑う姿が思い出される。
とても可愛い。
─もうすぐ1年。
そこで亮介は上体を起こした。
「─そうだ。そうだよ!いいじゃないか!」
そう言うと、ベッドに座り直した。
─よし。それでいこう。
今までとは打って変わり、とても上機嫌になった亮介は、思い付いた考えを元に計画をたてた。
翌日、亮介は美里と千佳に頭を下げた。
「昨日はごめん。本当に─ごめん。考え直したんだ。いろいろと─」
「いいの。私たちは何ともないから。それより麻梨乃だよ」と美里が心配を露にした。
「私達、最近麻梨乃の後を追ってるの。放課後どこかに寄ってるんじゃないかなって思ったから。でもね、どこにも寄り道はしないんだよ。直帰。たまに本屋とかコンビニに寄ったりするけど、目的の物を手に入れたらすぐに店から出るの。一番不思議なのが、私達が追っている事に全然気が付かないところ。前に一度、停めてあった自転車を倒しちゃった事があるんだ。周りから凄い視線を浴びたのに、麻梨乃は振り向かないでスタスタ歩いて行っちゃったんだよ。ほんの数メートルしか離れてなくて、麻梨乃の周りの人たちもこっちを見てたのに。麻梨乃だけ全く気がついていなかったのよ」
美里は亮介の反応を見た。
その両隣には健太と琢磨が気難しい顔をしている。
「誰かと会ってるわけでもなさそうだな」と健太。
その言葉に美里が「休みの日は分からないけどね」と悲しそうに答えた。
「いつ頃から麻梨乃を追ってるの?」
「様子が変だと感じたのが1ヶ月程前だから─3週間くらいかな?」と千佳が答える。
「3週間─か」と亮介が何かを考えているような仕草をする。
「何かあるのか?」と健太。
「うん。実は─何か変な郵便がね。届いたんだ」
「変な郵便?亮介宛てに?」
「そう。俺に。しかも今朝届いたんだ」
「郵便は朝には届かんだろう?」と琢磨が健太に確認する。
「あまり聞かないな」
「そうなんだ。差出人が直接ポストに入れたのかもしれない」
「どんな内容なの?麻梨乃からなの?」
亮介は「いいや─」と言って首を振ると、ポケットから封筒を出した。
「これだよ。今らか読むね」
封筒から便箋を出し、パソコンによって作成された文章を声に出して読んだ。
「阿久津亮介くん。暑くなってきましたね。昼間の気温の上昇に夏の到来を感じざるを得ません。嘆こうが喜びに浮き足立とうが季節は廻ります。過ぎた季節は捕まえられません。それは思い出も同じです。美しい過去を取り戻そうなどとは考えてはいけない。全ては儚く移ろい行く運命。心の移り変わりもまた然り。それが自然の摂理なのです。君が何を考えているのかは私には分かります。友人を手先にして私の大切な存在を奪いに来たのでしょう。いけませんよ。そんな事をしても何にもならない。君にはもう用はないみたいですからね。麻梨乃は全く君の存在を気にはかけていません。残念ですね。とても悲しい。それに、彼女には向上する意志がある。それはあらゆる面で。しかし君の存在はその向上心を削いでしまいかねない。だから、あなたには潔く身を引いていただきたいとこの様な形でお願いをさせて頂いた次第でございます。ご理解いただけたかとは思いますが、万が一、君たちが私の願いを、いや私たちの願いを受け入れないのならば、何が起きても不思議ではないと云う事を覚悟しておくように。その事をしっかりと念頭に置いておくように。今度こそ男らしい引き際に期待しているよ」
「なんだよ。だらだらと変な事ばかり書いてんじゃねぇよ」と健太が亮介の手から手紙を奪った。
封筒には正確な住所が記載されてあり、丁寧に切手まで貼ってあるが、消印だけが押されていなかった。
「知り合いじゃないのか?─だって、お前ん家を知っていないとポストに入れられないしさ。こんな事するような奴に心当たりはないのか?」と健太が手紙を亮介に返した。
「ない。でも、名前とか住所なんて麻梨乃に聞けば何でも分かるよ」
「─男かな?」と千佳。
「文体からして男だろうね」と答えた琢磨は冷静に続ける。
「この手紙は、この男の一方的な言葉だから、吉名さんは本当に自分の意思でこいつの元にいるのかは分からない。無理強いされている可能性だってある。吉名さんの言葉が1つもないからね。この手紙に書かれている文章を丸々信じる事はできないよ」
「無理強いされていたら、麻梨乃はいったいどうなるの?まさか、変な事されていないよね─」と不安になる美里の肩を抱いた健太。
「皆にお願いがあるんだ」と亮介が言う。
「これには皆の協力が必要なんだ。友達の存在が─」
一同は揃って首を縦に振った。
「あと1週間で夏休みだ。その夏休みにある牛川の花火大会。それに麻梨乃を連れて皆で行こう」
「何で牛川の花火大会なんだ?」
「俺たちが付き合うきっかけになった花火大会なんだ。麻梨乃とよりを戻したいとは思ってないけど、あの時の写真を見て思ったんだよ。前の麻梨乃に戻るかもしれないって。あの笑顔が、自然と─出てくるはずだって」
亮介の話を聞いた一同は賛成した。
─麻梨乃。君はこんなに愛されているんだよ。
美里と千佳は教室へ戻ると早速麻梨乃の元へ行った。
「ねぇ麻梨乃!起きて!」
美里の呼び掛けにゆるゆると頭を上げる麻梨乃にぎょっとした。
疲れきった血色の悪い顔色が、目の下のクマを一段と濃く見せている。
「ねぇ麻梨乃!夏休みに牛川の花火大会に行こうよ」
「牛川─花火大会?」
消えそうな声だ。
「そう!私たち3人で!ね?」
「3人で?」
「そう!久しぶりに麻梨乃と千佳と私3人でさ!」
「─うぅ」
紅く腫れた目が泳いでいる。
「それともその日、約束あるの?」
「─ない」
「じゃあ決まりだね!絶対だよ」
「絶対─」
「そう。約束だから。ね?」
「うぅ─」
「それに、この約束は誰にも言わないでね。私たち3人の秘密だから!絶対だよ!」
「─絶対に秘密」
一瞬、目の下のクマが濃くなったように思えた。
「そう。これも約束。守ってね」
「─約束。─分かった」
「詳しい事はまた連絡するから。予定はいれないでね」
半ば強制的ではあったが麻梨乃に「牛川の花火大会に三人で行く」とはっきりと言わせた。
その事を亮介に報告すると安心していた。
男3人も一緒だと言わなかったのは、そう言ってしまうと必ず断られると思ったからだ。
そして明日から夏休みだという日、美里と千佳は麻梨乃に最終の確認をした。
「牛川の花火大会。忘れてないよね?」
麻梨乃は大きく頷いて「覚えてる」と言った後「じゃあね」とさっさと帰ってしまった。
2人は本当に麻梨乃が来るのかとても心配だったが、彼女を信用すると誓った。
そして、当日になる。
5時にU駅前に集合する事になっている。
誰よりも先に亮介が到着し、5時10分前に美里と千佳、その少し後に健太が来た。
美里と千佳は浴衣姿だ。
聞いたところによると、3人で浴衣を着ようと約束をしたみたいだ。
5時を3分程過ぎてから琢磨が到着した。
「吉名さんは?トイレ?」と琢磨が聞いてきた。
「いや。麻梨乃はまだ来てない」と亮介が答えると、琢磨は女子2人を見て首を傾げた。
「あれ?2人は吉名さんと一緒に来たんじゃないの?」
「べつべつだよ」と答える千佳。
「じゃあ─ん?」
「なに?どうかしたの?」
「─俺、見たよ。吉名さんを。O駅のS公園で。浴衣を着てたから、ここに向かう途中だと思って─2人と待ち合わせでもしてるのかなって思って声はかけなかったんだけど─」
「S公園って、麻梨乃の家からだとこことは逆方向だよね」と美里が不安そうに言う。
─S公園。
亮介は考えた。
どこかで、麻梨乃が言っていた。
自分は酷く傷付いた。
麻梨乃が言っていた。
─S公園。俺達が別れた公園。
─誰かと待ち合わせをしていた。
─言いにくそうにしていた。
─それが、この男?
「悪い!俺、麻梨乃を探してくる!皆は先に行ってて!」
「待ってたら来るかもしれないぜ?」と健太が言ったが、誰もそれに同意する者はいなかった。
亮介は都合よく到着した電車に飛び乗ってO駅へと急いだ。
駅から公園はすぐだ。
亮介は走った。
こんなに走ったのはいつ振りだろうか?
中学生の部活練習以来かもしれない。
S公園に到着する。
静かだった。
先程まで乗られていたであろうブランコが小さく揺れているだけであとは静止画のようだ。
─誰も、いない。遅かったか。
と、その時だった。
反対側の出入り口に見覚えのある浴衣が車に乗り込んだのを目撃した。
「麻梨乃?」
間違いない。
一瞬だけであったが、あれは彼女だ。
見間違えるはずがない。
麻梨乃は高そうな黒い車に乗り込んだ。
「麻梨乃!」
今度は大声で叫んだ。
その声に反応したのは老人だった。
彼女を乗せた後部座席の扉を閉めると、急いで前方の扉を開けて乗り込み、そのまま車を発進させた。
それはほんの数秒の出来事であった。
亮介は諦めなかった。
急いで駆け出して車を追った。
この周辺は琢磨の家が近くにあり地理を把握しているので、車が向かうであろう筋も予想がついている。
抜け道も頭に入っている。
車が出てきそうな川沿いの道へ走ると案の定先程の車が見えた。
─よし!
そう意気込んだ瞬間───
曲がり角から飛び出してきた三輪車に乗った子供に気が付き、それを避けるとそのままガードレールを高跳びのように飛び越えて川縁を転げ落ちた。
そこで亮介は意識を失った。
「いなく─なりました」
と足立の声が聞こえてきた。
「見てない?」と隣の座席に座っている薮神和彦が聞いてきた。
真っ暗なので表情が確認できないため、声で機嫌を判断するしかない。
きっと今は呆れている。
「見てない」と麻梨乃が答えると「そう」と言った。
どうやら亮介らしき人物がしばらく車を追っていたようだ。
薮神和彦と足立正司がなぜ亮介の姿を知っているのかは疑問に思ったが、薮神和彦は何でも知っていると思い出す。
今日は美里と千佳と3人で花火大会に出掛ける予定だったのに、なぜ亮介が自分を追ってきたのだろうか。
この予定は話していない。
秘密だと約束をしたから。
必ず行くと約束をしていたのに、薮神和彦と居る理由。
それは、彼が花火大会の開催を知っており、それに麻梨乃と行きたいと言ったためだ。
それを断ることもできたのだがそうはしなかった。
いや、できなかった。
薮神和彦の頼みは麻梨乃の心を大きく揺るがした。
哀れみに溢れた眼差しで頼み込んできた彼の姿を見れば誰でもそうするはずだ。
まるで酷い呪いを分け与えられ、それから逃れられなくなってしまったように苦しかった。
そう─その少し前から薮神和彦は己の姿を麻梨乃に晒している。
彼は麻梨乃の目を直接みて甘美な調べを奏で優しく問いかけるのであった。
苦しみと哀しみと憎しみを知り、美しさと喜びと愛を知る。
面会わせの切っ掛けを作ったのは麻梨乃だった。
それも、自分の愚かな好奇心によって彼の過去を同時に知ることとなったのだ。
「何を思っている?」
隣に座る薮神和彦が聞いてきた。
麻梨乃が何も答えないでいると薮神和彦は独りで話しだした。
「花火とは─テレビで見る限りの情報しか持ち合わせていないのだがね、とても綺麗なんだろうね、麻梨乃。すごく楽しみだよ。生まれて初めてこの目─この─目で─見るのだから。とてもわくわくしている。きみはどうだ?楽しみだろう?──足立がね、いい場所を知っているようだ。穴場らしい。2人だけで楽しもう」
声が途切れた少し後に物悲しい溜め息が聞こえた。
どうにも耐え難い苦しみの溜め息。
地獄からの隙間風。
「きみは今、何を思っている?」
その言葉に麻梨乃は涙を堪えた。
それは──
それは、薮神和彦の幼い頃の写真を見せてもらったあの日だった。
彼と別れて部屋を出ると向かい側の部屋の扉が開いていたのだ。
好奇心が背中を押し、気が付いた時にはもう部屋に入ってしまっていた。
駄目だと思う反面その部屋に強く惹かれていく。
何かに優しく手を引かれているようだった。
部屋の壁は一面書籍で埋め尽くされており、凄まじい迫力だった。
その中には読めない外国語の本や和綴じの物もたくさん見える。
角に置かれている机に目が止まる。
何台ものパソコンや何かの機器が置かれている。
恐らくここでデイトレードというものをしているのだろう。
その机には麻梨乃が贈った薔薇があった。
箱に掛けていたリボンを茎に結び大切に一輪挿しに飾ってある。
すごく、嬉しかった。
その机の周辺には書類などが几帳面に分類されている棚があり、その端に深紅の装丁の本を5冊見付けた。
特に目立った場所にあるわけでもないのにその本に強く惹かれ、その中の1冊を手にとりぱらぱらと捲った。
それは日記だった。
どうやら最近の物ではないようだ。
最新の日付で一昨年となっている。
麻梨乃は罪悪感に駆られながらも、思いきってその日記を5冊とも鞄に押し込み持ち帰る事にした。
ずっしりと重い。
薮神和彦にばれてしまうかもしれないとは思わなかった。
一昨年の日記の続きを今さら書くとは思えなかったし、こんなに本が沢山あるのだ、5冊なくなったところで分かりはしないだろう、次に来る時までには全て読んで元あった場所に戻せばいい。
そう思ったのだ。
しかし甘かった。
自分の考えは危険で愚かなものだった。
その時の薮神和彦の態度は思い出すだけで身の毛が弥立つ。
どうやら彼は一昨年までの日記を読み返そうとしたのではないようだった。
ただ単に在る物が無いと気が付いただけ。
彼はとても冷静だった。
静かにそれでも威圧的。
それがとても恐ろしかった。
「ねぇ、きみ─」
その時、麻梨乃は全ての日記を読んでいた。
そして、それを後悔していた。
「きみは─」
自分を恥じた。
だからその日、どんな顔で薮神和彦に会えば良いか分からなかった。
「私に黙って─」
白い布は取り除かれていた。
邪魔する物は何もなかった。
「私の過去を─」
薮神和彦の後ろ姿。
「覗いたね?」
振り返った薮神和彦は──
「返してくれるかな?知りたがり屋の哀れなお嬢さん」
優しく険しい声でそう言った。
麻梨乃は恐る恐る日記を薮神和彦に返した。
謝罪の言葉が出てこない。
薮神和彦の冷静な態度がとても恐ろしかった。
「好奇心は慎重に使うべきだよ。あれだけ言ったのにねぇ。私の事を知ろうとしてはいけないと─。後悔しているようだね。待っていればいずれは知れたのにねぇ。こんな形で知るなんて、きみには同情するよ。心の準備とやらができていなかっただろうに。まったく、愚かで下らない好奇心だ。私は悲しいよ。すごく悲しい。きみが私を知ろうとする事は覚悟していたよ。でもそれは最初の間だけだ。時が経つにつれ、その覚悟は無くなっていったよ。いつまでたってもきみは私の過去を探ろうとはしなかった。質問はしてくるが、それ以上は足を踏み入れなかった。私は常識を弁えているきみを信頼した。だが、やはりきみは─私を─裏切った。きみはもう─引き返せない」
薮神和彦は日記を静かに床へ置いた。
「どうだった?私の過去は。─感想を聞かせて頂こう」
薮神和彦が麻梨乃を覗き込む。
麻梨乃はつい顔を反らせてしまった。
薮神和彦の冷静さに冷酷なものを感じたからか、それとも───
「怖がらせているのは分かっている」
そう言って薮神和彦は麻梨乃から少し離れた。
「だがね、麻梨乃。きみが悪いのだ。私は言ったよね。絶対に私のことを知ろうとしてはいけない、と。─なぜ、守ってくれなかった。私はきみに写真を見せた。それだけでは満足できなかったのか?─私はきみに嘘などひとつもついていない!あの写真は私だ!そうだろ?今その目で見ただろう!私の写真は偽りか?」
麻梨乃はあの写真を思い出し、先程初めて見た薮神和彦の横顔を合わせてみる。
そして首を横に振った。
それは薮神和彦そのものだったのだ。
「それなのに──何故きみはこの家に戻って来てくれたんだ。いっそ逃げ出してくれれば良かったのに。私の気持ちなど知らぬふりをしてくれれば良かったのに」
それは噛み殺すような声だった。
車の激しい揺れで現実に意識が戻ってきた。
横には何を考えているのか分からない薮神和彦がいる。
あんなにも自分の心を揺るがし、魅惑へと取り込んだ存在が今では恐怖そのものでしかない。
彼の怒り、苦しみ、愛、優しさ。
その全てが。
「空気の振動が伝えるのは音だけではない。人の気も伝わる。──きみは今、恐れているね。─この、私を。私がきみに恐れに値するような何かをしたわけではないのにねぇ」
薮神和彦は再び「恐れているね」と呟いた。
すると「到着しました」と足立正司の声が聞こえてきた。
薮神和彦が自ら扉を開け、暗闇から暗闇へと身を乗り出した。
薮神和彦の浴衣を着た姿は闇よりも一層暗かった。
彼は、振り返った──
麻梨乃は自然と顔を反らす。
悲しげな溜め息が聞こえる。
その溜め息を聞くたび、麻梨乃は胸を締め付けられたかのように苦しく辛い気持ちになる。
確かに、恐怖心はある。
離れたいし、逃げ出したい。
だが、何故かそれが出来ない。
自分は彼の唯一の光であり望みなのだ。
守ってやらなければいけない。
彼は麻梨乃が車から降りるのを確認すると背を向けた。
どうやら畦道のようだ。
他にも花火見物らしい人たちがちらほら見えるが、皆こちらに背を向けているので、その方向から花火が上がるのだろう。
麻梨乃は薮神和彦の左後ろについた。
黒い浴衣に黒い帯。
闇よりもさらに黒い。
彼を見上げて驚いた。
妖弧のお面を付けていたのだ。
今日初めて彼の顔を見たので、いつからそのお面を付けていたのかは分からない。
「これさえ付けていれば、誰にも見られない。お祭りだからね、不思議に思う者もいない。─だが、私はこうして隠れなければいけない」
夜空に焼き付く色鮮やかな花火が、楽しむ者、悲しむ者、迷える者、不安がる者─それぞれを平等に照らした。
「とても美しいね。こんなにも美しいとは知らなかった。私は人生を損しているね」と小さく笑う。
麻梨乃の頬を泪が伝った。
亮介は目を覚ました。
電灯が痛いくらいに眩しい。
それよりも身体中が痛い。
─そうだ。川縁を転げ落ちたのか。
痛みで「うぅ」と声をもらすと、知った顔がいくつか覗いた。
「亮介?」
母親だ。
弟もいる。
「ここは、病院?」
「そう。そうよ。あなたね、子供にぶつかるのを避けて川縁を転げ落ちたのよ」
─そうだった。
「全身打撲だって。骨は折れてないみたいだし、脳にも異常はないみたいよ。でも一週間入院だって。お父さんはね、あと少しで来るから。あのね、お友達が来てくれてるのよ」
その言葉に友人たちが頷く。
「じゃお母さんと秀行は待合室でお父さんを待ってるから」
そう言って、母親と弟はカーテンから出て行った。
健太や琢磨たちが亮介の名を口にする。
「やぁ、皆。ごめんね」と苦笑い。
「やぁ、じゃねぇよ。この馬鹿。心配させんなよ」と健太。
「ごめん。情けないよね」
「まぁ、一週間の入院で済んで良かったよ」
皆が心配そうに俯く。
「─わざわざ来てくれてありがとう。心配かけてごめんね」
「お前に何度電話しても出ないし、探し回ってたら、お前のお母さんから連絡が来たんだ」
「─そう。あのね─」
亮介は皆が気になっているであろう麻梨乃の事を話した。
「S公園──」と琢磨。
「何かあるの?」と美里が聞く。
「うぅん。俺の家、あそこの近所だから、S公園で吉名さんをよく見かけてるんだよ。決まって土曜の夕方に。いつも誰かを待ってる感じ。今日もそうだったのかな」
「それはきっと、新しい彼氏だよ。迎えに高級外車をやって、自分ではなく執事を迎えにやる。これで美術の雑誌を見てる事にも納得いくじゃないか。アートっていかにも金持ちの趣味って感じだし」と亮介はふて腐れた。
「芸術が金持ちだけの趣味だなんて間違いだよ」と琢磨が笑いながら宥める。
「でも、これで皆も分かっただろう?麻梨乃は新しい彼氏に心底惚れているんだよ。今日の約束だって──平気で破った。君たち2人も裏切られたんだよ」
「そう─かな?」と美里が悲しそうに呟いた。
「そうだよ。もう、止めよう。麻梨乃の事はもう考えないようにしないと。─わざわざ来てくれて嬉しいよ。嬉しいけど、今日はもう疲れちゃった。申し訳ないけど─1人になりたいんだ。と言っても大部屋には1人になれる空間はないけど」
亮介の頼みに一同は渋々部屋を後にした。
遠くで花火が弾ける音がひっきりなしに聞こえてきて嫌な気持ちになった。
その音は両耳を抑えても侵入してくる。
目を閉じれば脳裏にイヤらしい顔つきの、いかにも金持ち風の男が麻梨乃の肩に手を添えている。
麻梨乃は困ったようにこちらを振り返りながら、その男と歩いて行く。
入院から3日経つが痛みはまだ残っている。
幸い全身打撲以外に酷い怪我はなく、擦り傷と切り傷が目立つだけだ。
見舞いに来てくれる健太と琢磨に付き添ってもらい、屋上や公園を散歩したりするのが楽しかった。
あの祭りの日の事を気にしなくていい。
それでもやはり、亮介の頭を麻梨乃の浴衣姿がちらつく。
伏せた顔にどことなく不安がる様子に違和感を覚えるようになった。
好きな人と会うと云うのに、すっきりしない様子にみえた。
苦しいのに─それでも会う理由は?
それは、もしかしたら自分にとって都合の良い考え方なのかもしれない。
「おい、聞いてるのかよ」と健太。
「いや。ごめん」
「まったく。──5組の津田茜。お前のお見舞いに来たいってよ」
「そんなこと言われたって誰だか分からないよ」
「彼女、お前が吉名さんと別れたって聞いて、俄然張り切ってるらしいぞ」
「俺は─興味ないよ」
「まだ、吉名さんの事を気にしているのか?」と琢磨。
琢磨は答えようとしない亮介の前に立つ。
「お前にはこれ以上吉名さんの話をしないつもりにしていた。花火大会の時にお前はすっかり諦めたと俺はそう思った。だが、やはり無理なようだから言うぜ。これを聞いて行動するかしないかはお前次第だ。しかし、行動するなら俺たちに必ず報告をする事。それができないなら話しはしない。どうだ?」
亮介は迷った。
これがラストチャンスのように思えた。
自分に嘘なんてつけない。
「分かった。聞かせて」
琢磨は頷いた。
「夏休み前から吉名さんをS公園で見かけていた。決まって土曜の夕方に。それはこの前言ったよな?俺は夏休み中にどうなるのかが気になって、その時間が空いている日はS公園で待ち伏せした。すると、夕方6時には彼女は公園に現れ、お前の言っていたような黒い高級外車に乗ってどこかへ行く。恐らく夏休み中は毎日そうしている」
琢磨の話を聞いた健太は怪訝な顔をした。
「その車が何処から来て何処へ行くのかは分からない。ナンバーも控えてはいないが、お前が何か行動するなら俺はその車を調べる。俺たちはお前の力になる。自覚がないかもしれないけど、お前、吉名さんに負けず劣らず酷い面だぜ。これ以上見てられねえよ」
亮介は自分の頬を撫でた。
「どうするんだ?」と健太。
「少し、考えるよ。冷静に─なる」
「冷静にって、そんな今更─」と言う健太の肩を琢磨が抑える。
「俺たち今日は帰るよ。明日また来るから。必ず。だからそれまでに答えを出しておいて。これだけは守ってくれ。1人では何もするな。絶対だぞ」
「─絶対?」
「そうだ。絶対。守れるよな?」
亮介は「ああ」と頷いた。
2人が帰った後も、寝る前も考えた。
その答えは間違ってはいない。
自分は麻梨乃が大好きだ。
その麻梨乃に悪い影がまとわりついている。
車に乗り込むときの麻梨乃は決して楽しそうではなかったと言い切れる。
もし、そうでないとしても良い。
悪足掻き?
上等じゃないか。
何もしないよりは良い。
往生際が悪くて何がいけない。
それほど、彼女を愛しているのだ。
─それが俺なんだ。
翌日の夕方5時半、亮介は電車に乗ってO駅のS公園へ向かった。
行ってどうしよう、何をしようだなんて考えていない。
麻梨乃が幸せならそのまま引き下がる。
もし、そうでないなら奪い返す。
麻梨乃に手を差し伸べるつもりだ。
その手を取るか取らないか。
健太と琢磨には申し訳ないが、何も行動しないと嘘をついた。
2人に迷惑をかけるわけにはいかない。
あんな手紙を書くような人物だ。
何か危険な事に捲き込まれる可能性だって否定はできない。
だから、2人に嘘をついた。
これは精一杯の意地でもある。
亮介は痛む身体を引き摺るようにして懸命に公園へと向かった。
予想外に時間がかかってしまい、到着した時はすでに6時をまわっていた。
悔しくて、情けない。
大切な時になぜ上手くやれないのだろうと悲観していると、ある事を思い付いた。
─麻梨乃の家に行ってみよう。
彼女は毎日恋人の家に行っているなら、毎日帰宅しているはずだ。
彼女の家で待っていれば必ず会える。
相手の男には会えないかもしれないが、話だけでもできる。
この憎たらしい公園で待つよりも良い。
身体が痛むので奮発してタクシーを使った。
吉名家の前に到着すると夕食の薫りが漂ってきた。
彼女は連夜何を食べているのだろうか。
彼女の家族は娘の異変に気が付いているのだろうか?
麻梨乃の事だから心配をかけないように上手く誤魔化しているのだろう。
亮介は電柱に凭れながら空を見た。
6時30分だ。
夏の空は明るいが今日は曇っているので薄暗い。
誰かとすれ違っても近くまで来ないと顔が確認できないほどだ。
目の前には何度も侵入しようと奮闘し、その度に失敗した蔦の家が堂々と構えている。
今はどの部屋にも明かりはついていない。
─懐かしいな。
1ヶ月ほど前に訪れた場所なのに何だか1年以上来ていないかのように感じられた。
長く辛い1ヶ月だった。
その時、亮介の耳に僅かな金属音が聞こえてきた。
それは、よく耳をすませて集中していないとすぐに聞こえなくなってしまいそうなほどの微かな音だった。
薄暗い中で何かが動いていた。
階段を上る麻梨乃の足取りは重たかった。
あんなに自分の心を潤していた美術品も今では目も行かない。
結局、美術のことなどひとつも理解できていない。
これらを見た胸の高鳴りは別の何かとの同調によって起きたのだ。
今歩いている廊下を何度引き返そうと思っただろう。
だけど、引き返したことはない。
彼に会わなければいけない。
彼を安心させてやらなければならないのだ。
哀しみに飲まれる彼の背中を優しく撫でてやらなければ。
こうして扉を叩こうとするのを何度躊躇っただろう。
しかし、躊躇うだけで現実はいつものように扉を叩く。
あの清らかな空間へ憧れているから。
こうしてノブを回そうとしている時、何度後悔しただろう。
後悔?
後悔などしていない。
清浄な部屋に入れるのだから。
部屋に一歩入って相手の声を聞くと愛していた人の事を何度思い出しただろう。
─亮介を傷付けてしまった。私は優しくなんてない。
「いらっしゃい」
薮神和彦の声は楽しそうだった。
もうこの人の涙は見たくない。
「今日は良い報せがあるんだよ」
薮神和彦は麻梨乃の背中を柔いものを扱うようにして押すと椅子に座らせた。
「あの曲─きみが気に入ったと言っていた曲を覚えているかい?」
作者不明、未完成の哀愁に満ちたメロディーが麻梨乃の脳裏をするすると過る。
「あの曲、実は─私が作ったのだよ。あの時は舞い上がってしまってね、未完成のまま聞かせてしまったのだけど、昨晩ようやく満足のいく形になった」
薮神和彦の曲─
あれは、この人自身の曲だったのだ。
そのメロディーが実際に流れてきた。
薮神和彦があの細くしなやかな指で鍵盤を叩いている。
麻梨乃は胸を押さえた。
薮神和彦の日記───
それは、残酷で苦痛を伴うような内容だった。
回避できない果てのない暗闇の恐怖。
そこへ置き去りにされるようなはっきりとした不安、そして絶望。
感じるのは己の体温だけ。
幼いころから受け続けた家族からの過酷な虐待は、彼を世界から突き放した。
温もりを与えるべき者は拒絶し、与えられるべき者は差別された。
彼は幼いながらに早くも絶望を感じ、孤独を選んだ。
生きるという過酷さを味わい無力を嘆き恐怖を軽蔑した。
どれだけ叫ぼうとも聞き入れてはくれなかった。
そんな世界で孤独に生きてきた。
─────
[下]へ
─────