明日の朝に会えたなら[上]
ひとりでいるのが孤独なのか
孤独でいたいからひとりなのか。
いずれも至極哀れなり。
欲を抱えて身が狂い、弱き者へと矛が向く。
盾無き者は泣き暮らし、孤独の淵から地獄を覗く。
光を求めるのなら、闇をみろ。
闇を恐れるのなら、闇を知れ。
それを知らぬは厚顔無恥。
地獄の業火により苦しみ悶える姿。
その目に焼き付けろ。
見ぬふりなどできやしない。
私は呪いだ。
目を塞いでも記憶に残る。
とり憑かれた者、哀れなり。
───────────
私たちは結婚する。
正しく言えば『結婚式を挙げる』だけど。
籍は数日前に入れてある。
だから言い直す。
私たちが結婚してから一週間が経った。
神前式が終わり、近くのホテルで披露宴。
今、まさにその直前。
白無垢から慌ただしくドレスに着替え扉の前に立った。
隣には夫である阿久津亮介が真剣かつ緊張した面持ちで立っている。
彼の横顔を見ている。
高校生の時から変わらない幼い子供のような顔。
息子が生まれたらとても似るのだろうなと思う。
麻梨乃の視線に気が付いた亮介はこちらを見た。
「綺麗だね」
そう言って頬を緩める。
「俺、今なにを思い出してたと思う?」
「さぁ。─出会った時の事?」
二人が出会ったのは高校の合格発表の日。
亮介の一目惚れだった。
あれから17年。
長く短い年月だ。
生意気な子供が大人へと成長するには十分な時が流れた。
「違う。それは役所に婚姻届を出しに行った時だ」
「あの時そんな事を考えてたの?」
「そう。あの時の麻梨乃は可愛かった。今の麻梨乃は綺麗で可愛い」
そして亮介は予想外の事を言った。
「薮神和彦の事だよ」
ドキッとした。
本当に。
あれ以来、彼の名前を聞くことはなかった。
ましてや、亮介の口から出てくるとは思ってもいなかった。
あの時の事は思い出す機会も少なくなって、今では何か切っ掛けがなければ意識の舞台にも上がらない。
でも──実は
「─それは」
「麻梨乃も考えてたんじゃない?」
─考えていた。
亮介からプロポーズを受けた時から。
実を言えば亮介のプロポーズは人生で二度目の出来事である。
一度目は亮介ではない。
彼だ。
─薮神和彦。
彼を思い出す時には優しく滑らかな声と蒼白い月明かり、そしてピアノの音色が胸を締め付けるようにして甦る。
顔や肌の感触は何故か思い出せない。
霞がかったように、そこだけ不明瞭。
触れたはずなのに。
彼は麻梨乃に「結婚しよう」と言った。
そして麻梨乃はそれを受けた。
「あの人は俺たちをみてどう思うだろう」
亮介は嬉しそうに、それでも少し哀しそうに視線を落とした。
優しいのだ、亮介は。
そしてそんな亮介を心から愛しいと思う。
麻梨乃は亮介のおでこに唇をそっとあてた。
薔薇が咲いたように紅い口紅が付いた。
「これからもよろしく」と言うと亮介は嬉しそうに笑った。
亮介のおでこの口紅を係りの女性が拭いてくれた。
そして、家族や友人が待つ会場の扉が開かれる。
眩しい照明に目を閉じてしまう。
時々思う。
─地上の光は眩しすぎる。
──────────
亮介の第一印象は最悪だった。
麻梨乃は中学生の時に京都から東京へと引っ越してきたのだが、その新しい環境に慣れる事が出来ずにいた。
もちろん友達なんか出来ない。
初めのうちは積極的に会話する事を心掛けていたのだが、周りの反応は薄かった。
今時転校生なんて珍しくないのだ。
相手の言葉が冷たい、街が煩い、人が怖い、空が小さい。
そう思ってからは吹っ切れたように独りでいることに居心地の良さを感じた。
それは高校生になっても続くのだろうと思っていたのだが、そこにひょっこりと現れたのが阿久津亮介だった。
彼と初めて言葉を交わしたのは入学式の帰り道。
人見知りで消極的な麻梨乃が誰とも話をしないのが当たり前かのように校門をくぐったその時、肩を軽く叩かれ振り向いた。
「吉名さん、だよね?吉名麻梨乃さん。二組の」
麻梨乃は小さく頷いた。
「あはは!よかった!追い付いた!俺、阿久津亮介。三組なんだ!よろしく!」
麻梨乃より少しだけ高い背。
健康的な肌の色。
頬を少しだけ桃色に染めた亮介は、笑顔を崩さなかった。
楽しそうに、嬉しそうに麻梨乃に笑いかけた。
しかし、麻梨乃は怪訝な表情で青年を見る。
「あ、怪しいと思ってる?そうだよね、いきなり話しかけてごめんね」と言いながらも微笑みを絶やさない。
「なんか用?早く帰りたいんやけど」
麻梨乃の言葉に驚いた反応を見せた亮介。
「関西弁だ!え、え!関西出身なの?」と嬉しそうに聞いてくる。
関東の言葉に慣れていないし、そのように話をしてみようと思った事もない。
話をするのは生まれも育ちも京都の両親とだけ。
そんな環境で方言が抜けるはずがない。
鬱陶しい。
煩い。
面倒くさい。
今時珍しくもない関西弁で騒ぎ立てる奴がいるのだ、と呆れた。
麻梨乃は冷めている。
「そう。そんなに吃驚することじゃないと思うけど」
「へぇ!どこ?もしかして──京都?」
「─そう、やけど。何で分かったん?」
亮介は得意気に口角を上げた表情は人懐っこい犬のようだ。
「イントネーションだよ。麻梨乃ちゃんの発音柔らかいんだ。大阪に親戚がいるんだけど全然違うから」
「──麻梨乃ちゃん?」
何なのだこの男は。
「あ、いや。ごめんごめん。馴れ馴れしかった?じゃあ、俺のこと亮介って呼んでよ」
「なにそれ。意味分からんし」と坂道を下る。
亮介は慌てて着いてくる。
「ねぇねぇ!部活入る?」
「入りません」
「何処に住んでるの?」
「教えません」
「駅まで行くの?」
「そうです」
「何処で降りるの?」
呆れて亮介を見る。
その人懐っこい犬のような笑顔でこちらを見ているのが可笑しくて思わず頬を緩めてしまったので直ぐに真顔に戻る。
「一緒に帰ろうよ」と亮介が言ったと同時に背後から声が聞こえてきた。
「おーい!亮介!先に帰るなんてひどいじゃないか!」
振り返ると二人の男子生徒が近付いて来るところだった。
「あいつら」と亮介は眉を寄せる。
「友達が呼んでるよ」
麻梨乃はそう言うと亮介を置いてさっさと歩いて行った。
背後から「いや、俺は麻梨乃ちゃんと──」と聞こえてきたが、聞こえないふりをした。
その日から麻梨乃の側には亮介がいた。
望んでいないのに休み時間に現れるし下校の時は必ず一緒だ。
独りが楽だと思っていたのだから初めのうちは迷惑だったのだが、途中から諦めた。
懲りずに麻梨乃の周りを離れない亮介に負けたのだ。
話をするのはもっぱら亮介だし、麻梨乃は聞くだけだ。
そのうち、自然と亮介の登場が当たり前のようになり、彼が現れるのを待っている自分がいることに気がついた時は少しどきどきした。
クラスメイト達は度々教室に現れる亮介を見て、二人は付き合っているのだと思っており、吉名麻梨乃は友達より男を作るのが優先なのだと陰口を言われていた。
付き合っていないし反論する気もないが、面倒くさいのでそのまま勘違いさせておくことにした。
何を言っても独りなのは変わらないのだし。
明日から夏休みというある日、下校しているといつものように亮介が駆け寄ってきた。
「おーい、おーい!麻梨乃!」と隣で止まる。
「もう、また先に帰って」と膨れっ面になる。
本当に子供のようだ。
素直に感情の表現ができる亮介が時おり羨ましくなる。
他の生徒達のように、人を疑ったり、陰口を叩いている所は見たことがない。
そんなに真っ直ぐな亮介と居れば、自分が曲がった性格を持っているような後ろめたい気持ちにもなる。
光が似合う亮介の隣に、陰を好む自分は似合わないように思えた。
「一緒に帰る約束なんてした覚えないし」
結局、少し間を置いて出た言葉はひねくれた物だった。
亮介は「だよね」と小さく笑う。
その表情に麻梨乃は何かを感じる。
ゆっくりとしたペースで歩く二人。
中学生の頃に野球部だった亮介の肌は夏の陽射しを直ぐに吸収するようで、まだ夏休み前だというのに良い具合に焼けている。
そんな彼はいつもなら何気ない事をぺらぺらと喋るのに今日は無口だ。
何かが変だと思った。
「暑いなぁ」と言ってみる。
すると亮介は「そうだね」としか言わない。
心ここに在らず。
やはり変だ。
いつも能天気で陽気な亮介にも悩み事があるのだと意外に思うが、それ以上は踏み込まない事にした。
駅が小さく見えてきた。
しかし、やはり、気になる。
「今日は無口やね」
「え?あ、そうかな。─そう、だね。うん。まぁ」
何だか気まずい。
肩まで伸びた黒い髪を耳にかける。
そこには赤い小さなピアスが輝いている。
引っ越してくる前の中学校で友達同士でふざけて空けたのだ。
お洒落でも反発したい訳でもない。
ただ毎日が楽しくてたまらなかった、その生活の一部だ。
今ではそんな事を感じられない。
いや、少しは感じられているのかもしれない。
少なくとも隣で歩く亮介の登場は麻梨乃に変化を与えてはいるだろう。
「なんか調子狂うわぁ」
「何かあったの?」と直ぐに反応する亮介。
「いつもよく喋るのに。今日は黙りやし」
「あ、俺のこと?」と照れたように笑う。
二人は同時に息を吐いた。
「夏休みだね」
「そう、やね」
何だろう。
「夏休みは家族で旅行したりするの?」
「京都のお祖父ちゃんの家に行くぐらいかなぁ」
何だろう、この空気は。
胃の中に冷水を流し込まれたような──胸がきゅっとする感じ。
「京都はいいよね」
わざわざそんな事を言いに来たのか?
違うだろう?
予感はしているのだ。
亮介の緊張が伝わってくる。
「な─夏休み。二人で─会えないかな?」
緊張感という物質があれば、麻梨乃はそれにとりかこまれて周りから見えなくなっているだろう。
焼けた肌からでも分かるくらいに頬を紅くした亮介は麻梨乃の目を見てそらさない。
「す、好き。麻梨乃が好き。─合格発表の時に一目惚れして、それからずっと、ずっと。これからもずっと好き。もっと一緒にいたいし、話がしたい。って言っても俺がずっと喋ってるけど──。麻梨乃の話も聞きたい。好きだから。一緒にいたい。付き合ってほしいと思ってる」
嗚呼、そう。
やっぱりね。
言うと思っていた。
そして、言われてはいけないと思っていた。
独りが良いのだ。
居心地が良いのだ。
そうでしょう?
誰にも振り回されないし自由じゃないか。
でも、嬉しいと思った。
正直──どきどきした。
「ら、来週の土曜日。牛川の花火大会。俺の気持ちと同じなら一緒に行こう。夕方6時にU駅で待ってるから」
そう言って走り去る亮介。
止める隙間もない。
言わなければならない事がある。
すごく重要な事を。
─その日から京都に行くねんけどなぁ。
牛川の花火大会当日。
午後5時。
早すぎる到着だ。
U駅で麻梨乃の到着を待つ亮介。
家でじっとしていられなかった。
あの告白から麻梨乃にはあえて連絡をとらなかった。
向こうからも連絡はない。
麻梨乃からの連絡がないのはいつもの事だけれど。
─怖い。
来なければどうしよう、振られたと言うことならそれでいい。
とても悲しいけれど、恋愛感情は無理強いするものではない。
─振られたとしても、嫌な顔をせずこれからも話をしてくれるだろうか。
初めて麻梨乃に話し掛けた時を思いだして小さく笑った。
迷惑そうな表情や態度。
そりゃそうだ。
いきなり話しかけられて笑顔満面なんて嘘臭いし、正直な麻梨乃が好きだから。
いくら迷惑がられようと亮介は諦めず麻梨乃の周りを離れなかった。
それは好きだからと言う理由だけではない。
放っておいたら麻梨乃は孤独を選ぶ。
高校三年間独りで過ごすには寂しすぎる。
もっともっと楽しいことをしてほしいし、それを共に発見したい。
そう感じたのだ。
約束の30分前になる。
もう何組のカップルを見送ったか分からない。
来てほしい。
ただそれだけだった。
6時に近付くにつれて落ち着きが無くなってくるのが自分でも分かった。
真夏だというのに指先が冷たいし、電車が駅に入る度に身構える。
人混みの中に麻梨乃を見付けられなかったら時計を見て「まだ大丈夫」と自分を慰める。
そして、ついに6時になる。
電車が駅に入ったが、その人混みから麻梨乃は現れなかった。
まだ6時になったばかりだから、とその場を離れない。
しかし、10分、20分と時間が過ぎる。
その時点で諦めてはいたのだが、1時間の遅刻を待てなくてどうすると自分に言い聞かせ、それが無駄になったらどうしようなどとは考えないことにした。
ポケットに突っ込んでいた手を出すと綿ごみが出てきたので捨てた。
誰が見ている訳でもないが、何気なさを気取り携帯の着信を確認するが麻梨乃からの連絡はない。
駅で待ち合わせをする人影がどんどん減りはじめ、その場に居ることが辛くなる。
気を紛らせようと最近の流行りの歌を口ずさむが直ぐに分からなくなり諦めた。
そして着信を確認するがまだ連絡はない。
何度繰り返しても連絡がないことは分かっているが、何かしていないと落ち着かない。
喉を潤そうとしたが自動販売機にある冷たい物は全て売り切れだった。
遠くで救急車のサイレンが聞こえてきた。
もしかして事故に巻き込まれたのかと焦った。
しかし、携帯を見ても連絡がない。
足元の小石を爪先で蹴る。
─もう7時だよ、麻梨乃。
「振られた」と考えるのが嫌だった。
事実はそうなのだけれど、その言葉は使いたくない。
きっと、自分の今までの行動は麻梨乃を苦しめていたのだろうと思うようになった。
─本当に迷惑だったんだ。
その時、携帯に着信があった。
─麻梨乃だ。
急いで出る。
「もしもし!麻梨乃!」
緊張と焦りで携帯を落としそうになる。
『どうしたん、そんなに焦って』と向こう側からくすっと笑い声が聞こえてきた。
「あぁ、良かった。さっき救急車のサイレンが聞こえてきたから何かに巻き込まれたのかと思って心配して」
『そう、ありがとう。心配してくれて』
「あ、あのさ。今こうやって電話してるって事は─」
─駄目だったってことだよね。俺のことは何とも思っていないのか。
『そう、ウチ好きな人がいる』
はぁ。
力が抜ける。
眼球が熱くなる。
─泣くなよ、俺。
『その人と花火大会行こうと思ってる』
「じゃあ、電話なんてしてたら駄目じゃん!」
無理矢理笑顔を作るのはとても哀しいのだ。
しかし、笑うしかない時はある。
相手に見えなくても、笑わなきゃいけない。
ピエロだ。
ピエロになるのだ。
『そう、目の前に居てはるし直接話さなあかんね』
意味が分からないので頸を傾げる。
『話してよ。ウチの好きな人と。変わるしちょっと待ってな』
「え?ちょっと待って!どういう事だよ!」
─なんでそんな事!まるで本物の道化じゃないか!馬鹿にされるだけだ!
なぜ、そんな事をさせるのだ。
後で二人で俺の事を笑うのだろう。
俺はなんという意地の悪い女を好きになったのだ!
怒り心頭していると肩を叩かれた。
振り返ってハッとする。
「こういうこと」
そこに居たのは麻梨乃だった。
白と紺の浴衣に身を包んだ麻梨乃は照れたように唇を小さく噛んだ。
無造作に結い上げた髪がハラリと落ちる。
「遅れすぎてごめん」と頭を下げる。
辺りを見ても二人以外には誰もいない。
ということは。
「あの─俺──」
「びっくりした?ちょっと驚かせたくて」
クスクスと笑う麻梨乃。
嗚呼、すごく、可愛い。
抱き締めたくなる。
「本当は今日から京都に行く予定やってん」
「そ、そうなの!?」
「うん。でもあの時、亮介走って帰ったしそれ言えへんかった」と可笑しそうに笑う。
本当に好きだ。
先程の落胆の言葉は取り消す。
一時の怒りを後悔する。
今、亮介は世界で一番幸せな男だ。
「じゃあ、旅行は?」
「両親だけ行って、ウチはお留守番」
「え!ご、ごめん!行ってくれたらよかったのに。そうしたら友達とも会えたでしょ?」
「そんなん、約束破る事になるし。今年は牛川の花火大会行きたかったし」と頬を紅く染める。
「可愛い」と呟いてしまった。
「浴衣、お母さんに教えてもらって初めて一人で着てん。遅れたのは手間取ったから。ごめんね」
「そ、そんなの!もうね、可愛い麻梨乃見られてチャラだよ!もうね、その姿を見られるなら何時間でも待つね」
そう言うと麻梨乃はクスクスと笑った。
「じゃあ、行こうか」と言うと麻梨乃は小さく頷いた。
──────────
会場に入ると家族や親戚、友人たちが皆優しくこちらを見てくれていた。
正直、恥ずかしい。
式は挙げないつもりだったが、亮介が「挙げよう」と珍しく粘ったのだ。
準備は面倒臭かったがそれなりに楽しかったりもした。
あるテーブルの前を通る。
高校時代の同級生だ。
岡部美里、石原千佳、岡部健太、上松琢磨。
皆変わらない。
美里はリーダーのような存在で皆をまとめてくれた。
千佳と琢磨が付き合うきっかけを作り出したのは美里だし、麻梨乃と亮介が復縁する後押しをしたのも彼女だ。
何より、美里は麻梨乃と友達になってくれた。
千佳も健太も琢磨も。
本当に大好きだ。
あの頃の記憶。
美しく哀しい記憶が。
麻梨乃と亮介の脳裏に甦った。
──────────
高校2年。
美里と千佳、そして亮介と同じクラスになった。
美里とは1年から同じだったが、本格的に仲良くなったのはこの時期からだ。
初めはぎこちなかったが、友達付き合いの感覚を少しずつ取り戻す。
しかし、問題があった。
趣味が合わないのだ。
二人が可愛いと気に入った物は大概麻梨乃には理解できないし、その逆も多くあった。
彼女たちはキラキラと輝くものを携帯電話につけたり、筆箱もポーチも『可愛いく』飾り付けていた。
一方の麻梨乃は携帯電話には何もつけないし、筆箱もポーチもシックな色合いだ。
飾り付ける気はそもそもないし、二人に合わせるつもりもなかった。
休みは映画ばかり観ているし、聴いている音楽も全く違う。
そういう趣味は変えようと思っても無理だ。
それはお互いに言える事である。
「それでね、これ。可愛いから二人にも買ってきたの」と目の前に差し出された熊のストラップを見た。
もちろんリアルな物ではなく、キラキラひかり輝くビーズに纏われた可愛らしいテディベアのようなそれだ。
昨日、母親との買い物の最中に見つけたらしい。
「ありがとう!すっごく可愛い!」と千佳は嬉しそうに携帯電話につける。
自分もそうするべきか迷っている間に助け船のチャイムが鳴り、めでたく席に戻ることができた。
授業が始まって少し経つと携帯が震えた。
美里からのメールだった。
『携帯につけて三人でお揃いにしよう』とある。
教室の中後方に座る麻梨乃は三つ左前に座る美里を見た。
彼女は自分の携帯に付けたストラップを見せて微笑んだ。
─つけなマズイよなぁ。
と渋々携帯につけて不器用な笑顔を美里に向けると彼女はとても嬉しそうに前に向き直った。
「あ、それ」と後ろに座る亮介から話し掛けられる。
「どうしたの、それ。麻梨乃らしくないね」
「ん?うん。美里からのプレゼント。千佳と三人でお揃い」
「そうなんだ!」と嬉しそうな亮介。
麻梨乃が友達とお揃いの物を持っているという事が喜ばしいのだ。
本人は乗り気ではないようだが、それでもそれは大きな変化だと言える。
「いいじゃん、それ。すごくいい」
「うん。まぁ─」
「─ねぇ、今日一緒に帰ろうよ。久し振りに」
「え?─ごめん。無理。約束あって」
「─そう」とあからさまに落ち込む。
「ごめんな」
「約束なら仕方ないよ」
どんな約束かは知らないけど。と亮介は心で呟く。
交際してからもうすぐ一年。
最近一緒に帰ることが少なくなった、と亮介は落ち込んでいた。
友達と帰るからという理由なのだが、何故か少し不安な気持ちになる。
デートに誘っても断られる事も増えた。
それは単純に友達と遊ぶからという理由ではない。
最近の麻梨乃は出会った頃の様子に戻りつつある。
孤独に惹かれているような、周りとの関わりを避けるあの妙な感じ。
─何か、あるのだろうか。
外を見て物思いに耽るならまだいいのだが、階段を踏み外しそうになったり、まるで亮介のことが見えていないかのような視線でふらふらと歩いていたりする。
目の前にある黒く艶のある髪。
それを指に取る。
─誰か好きな人とか。
我に返る。
─何、馬鹿な事を考えているんだよ。
そう思って指先に力を入れてしまった。
髪を引っ張られた麻梨乃は後ろを向いた。
「なに?」
「ごめん、痛かったよね」
「大丈夫やけど、どうかした?」
─なんだ。いつもの優しい麻梨乃じゃないか。
「ねぇ、明日土曜日だけど何か用事とかある?」
「ないよ」と頸を横に振る麻梨乃。
「じゃあさ、久し振りに二人で遊ぼうよ」
もちろん「いいよ」と直ぐに返事が来ると思っていた。
しかし、少し間を置いたあと「あ─うん」としか言わなかった。
微妙な返事だったが先手を打って「じゃあ、昼の1時に迎えに行くよ」と言う。
「─わかった。うん」とだけ言って前に向き直る麻梨乃。
─何だよ。その間は。もっと楽しそうにしてくれよ。
悲しくてどうしようもなかったので机に突っ伏した。
このままずっしりと机に沈みこんでしまいたい。
─もう。俺たちどうなるんだよ。
前に向き直った麻梨乃は背後にいる亮介に聞かれないように小さく息を吐いた。
─何やろう。
何だか分からない。
今までは亮介と居ると楽しいと思えたし、交際しているという関係に何の疑問も持つことはなかった。
それなのに、最近は違う。
友達も恋人も自分にはいらないと思うようになった。
引っ越して来た頃の自分に戻りつつある、と自覚している。
皆が嫌いな訳じゃない。
だから、貰ったストラップも付ける。
誘われればショッピングもするし放課後にはカフェへ行く。
ただ、それを心から楽しいと思っていないのだ。
笑顔がひきつる。
取って付けたような言葉と見本のような笑顔。
『嘘だ。嘘にまみれてるのだよ』
そう。
『偽っているのだよ、きみは』
そう、言っていた。
あの人は『何も求めないのも欲だ』と言った。
あの人は何処で何をしているのだろう。
麻梨乃があの人の存在を知ったのは去年の秋ごろ。
亮介と付き合って3ヶ月ほど経った日の事だった。
─────
あの日の学校からの帰り道。
自宅の横を歩いている時だった。
赤い風船がゆらりゆらりと空から頼りない動きで落ちてきた。
目の前に落ちたそれは、それでも空へ吸い込まれるように、上へと行こうとしたが、紐やそれに括りつけられた物の重みによって地から離れられなかった。
風船に括りつけられていたのはメッセージカードだった。
半分に折り畳まれたそれを拾って中を読む。
『このカードを拾って下さった方へ。私は事情があって家から外に出る事が叶いません。私と外を繋ぐ物はインターネットだけです。それだけで世の中を知る事ができるとは思えません。もし叶うのなら、あなたの見える世界を私に見せていただきたいのです。宜しくお願いします。最後まで読んで頂き有り難うございました』
最後にメールアドレスが書かれていた。
とても綺麗で柔らかい字体だった。
男なのか女なのか、同年代なのか老人なのかすらも分からない。
気味が悪いと思ったのだが、何故かそれを持ち帰った。
不思議と興味が湧いてきた。
この風船は何処かの誰かの思いを乗せて漂っていた。
麻梨乃の手に落ちてきたのは偶然である。
それに何か意味があるのだろうか。
いや、偶然に意味などない。
今までの麻梨乃ならカードを捨て、記憶からも無くしてしまうだろう出来事だ。
しかし、違った。
3日後、考えて抜いた結果、書かれていたアドレスへと携帯電話からメールを送ったのだ。
学校へ行って帰ってくる。
休みの日にはたまに亮介と会う。
そんな平坦な生活に、より一層の楽しみを見いだすには良い切っ掛けになるかもしれない。
他愛の無いことを見知らぬ誰かに話すことで、より楽しい記憶になると考えたのだ。
『メッセージカードを受け取りました。お役に立てるか分かりませんが、力になれるなら嬉しいです』
返事は直ぐに来た。
『返信有り難うございます。本当に嬉しいです。実は何度も挑戦していたのですが、全く反応がなくて、今回も返信がなければこれで止めようと思っていたのです。本当にありがとうございます。私は薮神和彦と申します。名前から察していただけるように男です』
丁寧な文章だ。
文面だけでは素性は知ることができない。
その緊張感に何だかどきどきした。
『私の名前は吉名麻梨乃です。帰宅途中に目の前に風船が落ちてきました。少し悩んだんですが、思いきって返信してみました』
『そうですか。タイミングと場所が良かったのですね。何よりも貴女に拾っていただいたのが一番の幸運だったわけです。本当に感謝しています。少し質問させていただいてもよろしいでしょうか?もし答えたくない物があれば答えて頂かなくても構いません。もちろん貴女から質問していただいても結構です』
『分かりました』
『私は現在33歳ですが、おいくつですか?』
『16歳です』
『あぁ、やはりお若いですね。文体で何となく予想はしていましたが、高校生でいらっしゃるのですね。これは随分とお若い方に救っていただきました』
『私じゃ力不足でしょうか?』
『いいえ。そんなことはありません。むしろ、貴女ほどの年齢の方に救っていただけて喜ばしいです。私には青春時代なんて御座いませんので』
救うだなんて大袈裟だと思ったが、薮神和彦にとっては麻梨乃の存在が外を覗くための唯一の光なのかもしれないのだ。
とはいえ自分には友達はいない。
居るのは恋人の亮介だけだ。
薮神和彦が望むような放課後にカフェでお喋りとか、休日にカラオケなどといった華々しいスクールライフは聞かせてやれない。
そう思うと申し訳なくなったが、期待させてしまっているので後には引けない。
うだうだと悩んだり意地を張っても仕方がないと現状を正直に話した。
すると意外な返事が来た。
『なんだ、そんなこと。気にしないでください。私は貴女が見て感じた世界を貴女の言葉で知りたいのです。それも一つの在り方ですから。皆が皆、幸せだなんて嘘です。偽りです。人には必ず不満があり、哀しみがあり、苦しみがあり、喜びがある。そうでしょう?だから、良いのです。貴女の感じた世界を教えていただければ私は満足です』
あぁ、なんだ。
それでいいのだ、と安堵した。
意地を張っても意味がない。
嘘をついているのと変わりがない。
真実は残酷で嘘や思い込みを最後まで信じていた方が幸せなことだってある。
それが判明する恐れがあるなら初めから嘘はつくべきではない。
麻梨乃は正直に話をして良かったと胸を撫で下ろした。
それからお互いの事を話し、同じ区内に住んでいる事が判明した。
仕事はデイトレーダーだと言っていた。
株の事らしいが詳しくは分からない。
一日で何百万円の儲けにもなる時もあるが、その倍の損だってあると言っていた。
これなら外出はしなくていいそうだ。
必要な物はインターネットで注文し、宅配便で届くようにしてある。
外出できない理由だが、彼は『出ようと思えば出来るのだけれどね』と濁すだけだったので深くは聞く事はしなかった。
もちろん外出したい。
だが体調と精神的なもののバランスが上手くとれないらしい。
それでも気が向いた時は、ごく僅な時間だけ近所を散歩する。
人が出歩くような時間ではなく、朝霞に紛れたり宵闇に身を隠すようにひっそりと歩くのだ。
例えすれ違っても誰も気が付かないらしいが。
友達はもちろん、顔見知りすらいないと言う。
そうやって生きてきたのだ。
気晴らしにピアノやバイオリンを弾いたり、絵を描く。
それが感情を表す場であり拠り所でもある。
─────
そんな薮神和彦の事を知るにつれて、麻梨乃の中にある彼の像は都合の良いように仕上がりつつあった。
あの時の事を思い出して頬が緩む。
─考えるのは自由やしね。
とにやつくのを優子に見られていたらしく下校時にからかわれた。
帰宅して直ぐに薮神和彦へとメールを送った。
『明日、亮介と遊ぶ事になった』
いつものように返信は直ぐに来た。
『あまり乗り気じゃないね』
敬語はもう使っていない。
その分、より薮神和彦の言葉が心に優しく柔らかく染み込み、彼の存在がすぐ傍に感じられる。
『うん。そう。前まではこんな気持ちじゃなかったのに』
面倒くさい、会いたくないと言った訳ではないが、それに似たような不思議な気持ちだ。
『でも、約束しているなら行かないとね』
携帯を握りしめてうぅっと枕に顔を埋める。
するとメッセージの受信音が鳴った。
薮神和彦からの連続したメールだ。
『彼の事、好きなの?』
そりゃもちろん。と言えない自分が居ることには前から気が付いていた。
『今は分からん』
─この答えは狡いよなぁ。
と思いつつ送信。
今度は少し経ってから返事が来た。
『なら一度無くせばいい。何がどういう気持ちで一緒にいるのか分からないのなら一度無くしてごらん。それが嫌だと思うなら、何故そう思うのか考えてごらん。彼と一緒に居て楽しいとか、嬉しいとか色々あるでしょう?それを無くす事が嫌なら、きみはまだ彼の事が好きなのだよ。彼との関係を無くしても良いと思いながら一緒にいるのは苦しい事だよ。きみにとっても、彼にとっても』
そうなのだろう。
分かってはいた。
亮介と居ると楽しい、笑う事だってよくある。
しかし、それが以前まで持っていた恋愛感情なのかどうかは考えないようにしてきた。
今、薮神和彦の言葉を聞いて、亮介に対する好きと云う感情はないように思えた。
無くしても構わない──そう思ってしまったのだ。
『明日までしっかり考える』と送ったが心はもう決まっていた。
麻梨乃の言葉を聞いて亮介はどうするだろうか。
別れたくないと言うだろう。
それとも、それを抑えて麻梨乃の言葉を受け入れるのだろうか。
─きっと別れたくないと言う。
翌日、自転車に跨がる亮介は、麻梨乃が家から出てくるのを待っていた。
あと2ヶ月で夏休みが始まる。
麻梨乃と交際して1年だ。
その時をどうやって迎えようか考えるのが最近の日課であった。
今も麻梨乃を待ちながらサプライズ方法を練っている。
それを考えていれば、不安など覚えなくていいからだ。
その時、項の辺りに妙な感覚があった。
触れてみても何もないので気のせいかと思ったが、なんだか気持ちが悪いので頚を回した。
その時「お待たせ」と麻梨乃が現れた。
「ねぇ、お昼まだだよね?」
「うん、まだ」
「じゃあ乗って」
麻梨乃が自転車の後ろに跨がる。
女の子らしく横座りをしたいらしいが、一度転げそうになったので、それ以来このように跨がるようにしているそうだ。
亮介にとっては麻梨乃が後ろに居てくれればどんな座り方でも構わない。
─麻梨乃さえ居てくれれば。
亮介はこの若さにして運命の人が麻梨乃であると確信していた。
彼女しかいない、と。
二人は大型のショッピングセンターへ行くとリーズナブルなイタリアンを昼食にし、お互いに似合いそうな服をウインドウショッピングした。
ケーキ屋で購入したスイーツをフードコートで食べる。
いつものコースで今日もデートをしたが、いつもは寄らない本屋へ行きたいと言ったので付いていった。
すると絵画やクラシック音楽などといった芸術雑誌を手に取ってはパラパラと捲っている。
「やっぱり難しそうやなぁ」と雑誌を棚に戻す。
「絵を描くの?それとも楽器始めようとか?」
「ううん。何となく。どんなんやろうって思って。芸術って難しいよなぁ。個人の感性が他人にどう受けられるかでその作品の価値が違ってくるし。認められようが認められまいが、それは自分にとっては芸術。そんな世界って凄いと思わへん?」
「うん、そうだね。俺には芸術の才能はないから、それを持っている人は尊敬するよ」
麻梨乃は「そうやなぁ」と言って微笑んだ。
もうすぐ5時になる。
二人は再び一台の自転車に乗ると、まだ明るい道を走った。
麻梨乃はドキドキしていた。
ついにこの時間だ。
─別れ話。できるかなぁ。
そんな事を考えていると、見覚えのある河川敷で自転車が止まった。
麻梨乃の家の近所だ。
「もうちょっとだけ一緒にいようよ」と亮介がすぐそばの階段に腰を下ろしたので麻梨乃もそれに倣う。
空気が違う。
二人は同時にそう思った。
亮介は麻梨乃に別れ話を切り出されるかもしれないと不安になる。
麻梨乃は亮介がどういう反応をするか考えると少しだけ悲しくなった。
最初に口を開いたのは亮介だった。
「今日も楽しかったなぁ。久しぶりのデート」
「うん。そうやね」
「─麻梨乃はさ、将来の事とか決めてるの?就きたい職業とかあるの?」
「管理栄養士に興味がある。ただ今は興味があるってだけの段階やけど。亮介は?」
「俺は学校の先生になりたい」
これは小学生の頃からの夢だ。
小学五年生の頃、担任だった先生がとても優しく接しやすい人だった。
その先生のお蔭で勉強も好きになったのだ。
「亮介なら良い先生になれるよ、きっと」と笑顔でそう言ってくれた。
「そう?」
「うん。うちが保証する。亮介なら良い先生になれる」
「ありがとう」
最愛の人からそう言われると、自信がつく。
そして、会話が途切れた。
今までなら亮介にとってこんな沈黙は何ともなかったが、今は不安に押し潰されそうだ。
何か言わないとすぐそこまで迫っている冷酷な終わりに肩を叩かれ「時間だぞ」と言われてしまいそうだ。
亮介は大きく息を吸った。
─頑張れ、俺!
「じつ、実はね、他にも夢があるんだ」
─あぁ!ここまで言ったならもう引けないぞ!
「先生の他に?」
「そう。それは将来の就きたい職業。─もう一つの夢はね、結婚だよ。俺、麻梨乃とけ、結婚する」
麻梨乃がこちらを見ているのが分かるが、そちらを向く事ができなかった。
突拍子もない事を言っているのは分かっているが止められなかった。
本心だし揺るがない。
─お願いだから、さっきのように、俺に自信をつけさせてくれ!
「亮介?」
「─ん?」
「─大丈夫?」
「お、俺なら平気。平気だし元気だし正気だよ。本気だし。大丈夫。いつも通り」
そんなわけない。
声だって震えてるし、鼓動が速い。
「そ、そう」
「俺、本当にそう思ってる。だからさ、麻梨乃!別れるなんて言わないでくれ!」
今度は麻梨乃の事をしっかりと見つめた。
驚いて何も言わずに亮介を見つめ返す麻梨乃。
その表情はすっと困ったように優しい微笑みに変わる。
「何を言い出すのかと思ったら」とくすりと笑う。
「え?」
「変なこと言って。─あ、もうこんな時間やね。家まで送ってくれる?今日さぁ、晩御飯作らなあかんねんなぁ」
「─あ、うん。も、もちろん」
自転車へと向かう麻梨乃の背中を見て肩すかしを食らった気分になった。
─俺の勘違いか?
別れ話なんて本当はするつもりなんかなかったのではないか。
─それなら良いんだけど。
「あのさ、麻梨乃」
「ん?」とこちらを見る。
「何か──いや。ううん。やっぱ何でもない」
「さっきから変やで」と笑う。
亮介に家まで届けてもらった麻梨乃は帰宅して直ぐソファに倒れこんだ。
「あぁ、もう」とクッションに顔を埋める。
『別れるなんて言わないでくれ』
─晩御飯作るなんて嘘やし。
『麻梨乃と結婚する』
そんなことを言われると。
言えないじゃないか。
─別れたいなんて、言えるわけないやん。
ソファに座り直し、ふざけた顔が刺繍してあるクッションを床へと投げつけると、それは一度だけ跳ねて間抜けな動きで落ちた。
その様が可笑しくて小さく笑いながらクッションを元の位地に戻す。
その時、玄関の扉が開いて母が入ってきた。
「あらら、帰ってたの」といつものように穏やかに笑う。
買い物に行っていたようで荷物を下ろすとフゥと息を吐いた。
「晩御飯いらんかと思ってた」
「いるよ。今日の晩御飯は何?作ろうか?」
「あら、どうしたん、珍しい」と目を丸くする母。
「まぁ、何となく」
亮介に言った事を少しでも本当に近付けたかった。
それは自分の気持ちを落ち着かせるためだけに言った事だと分かっている。
─姑息なやつ。
「じゃあ、手伝ってもらおっかなぁ」
「うん。着替えて手洗ってくる」
麻梨乃は自室で着替えてからリビングへ戻った。
じゃがいもの皮を向いていると母が何かを思い出したように「あ」と言った。
「どうしたん?買い忘れでもあった?」
「違う違う。ほら、蔦の家。今日も宅配便の人来てはったよ。やっぱり家の人は出て来やらへんかったけど」
「また宅配便の人に声かけたりしてへんよな?」
「してへん、してへん!でも気になるなぁ。どんな人が住んではるんやろうなぁ」
蔦の家とはT字路の角にある吉名家の反対側の角に建つ屋敷の事だ。
その屋敷はどの家よりも大きくて威圧的で不気味だ。
高い塀の内側に建つ、3階まである屋敷の外観が蔦で覆い尽くされているので、吉名家ではこれを『蔦の家』と呼んでいる。
亮介がその高い塀を登ろうとした事があるが、チャレンジ直後に諦めるのが常だった。
ちなみに近所の子供たちが『緑のお家』と言っているのを聞いたことがある。
この蔦は成長し過ぎて隣家にお邪魔したり、あらぬ方向へ伸びたりしていないので住人が居り、しっかりと管理がされているのだろう。
夜になれば窓から灯りが見えるので、誰か絶対に住んでいるのだ。
しかし、近所の住民は誰もその姿を見た事がない。
この家を購入する際に不動産屋から聞いた話によると、昔あの屋敷で火事が起こったらしい。
火元は家主の寝タバコ。
その火は火元である部屋の内装と外壁を少し焼いただけで、大きな被害は無かったようだが、それを覆い隠すように蔦がはっていったのだ。
その後、一家は海外へと移り住み、大きな屋敷だけ残された。
今あの家に住んでいるのは当時の執事で、家主の帰りを待っている。というのが父の推測なのだが、それを確認する術はない。
食事を終わらせると風呂に入り宿題をするため自室に戻った。
その瞬間、亮介との事を思い出す。
亮介の悲しそうな表情が浮かぶ。
あんな目で見つめられると言えない。
「もぅ」と机に突っ伏す。
言おうとしていなかったわけではない。
もう決心はついていた。
亮介は分かっていたのだ。
麻梨乃が何を言い出すのか。
それを言わせまいとあんな突拍子もない事を言ったのだ。
それほど、亮介は自分の事を想ってくれている。
「あぁ」と顔を上げる。
このままの関係を続けても壊れるのは時間の問題だろう。
─お互い苦しむだけ。
小さくため息を吐くと、背凭れを押し倒すように身体を反らせた。
窓の向こうに逆さまの蔦の家がある。
今日も3階に灯りがついている。
姿勢を戻して立ち上がると窓の前まで歩いた。
暗闇に紛れた蔦の家。
月の光りで妖しく輝いている。
皆はこの屋敷を気味が悪いと言って近付こうとしないが、麻梨乃はこの蔦の家が好きだ。
神秘的で蠱惑的。
誰にも媚びず、頼らずただそこに建っているだけ。
特に夜の蔦の家を眺める事は麻梨乃にとって寛ぎの時間となっている。
近付きたくても遠くでしか見ることのできない憧れの存在。
本当に美しい。
その時、その3階の窓に人影が見えた気がした。
─どんな人が住んではるんやろうなぁ。
とぼんやりと思っていると携帯電話がメールを受信した。
薮神和彦だ。
『今日のデート、どうだった?』
亮介に言われた事と別れを言えなかった事を伝える。
『そう。それは思いがけなかったね。きみは彼に愛されているんだね。素晴らしい事だ。それでもきみの心は彼との関係を無くす事に揺らぎはないのだね?少しでもそれを嫌だと思ったから戸惑って別れを切り出せなかったのではないのかな?』
『戸惑ってたのは事実やけど、それは亮介の言葉に驚いただけ』
『私に意見を言う権利など無いことは承知だけど、このままだと気まずい関係が続くだけだよ。それはもう終わったのと変わりがない』
そのメールを読むとベッドに倒れこんだ。
─もう、終わったも同然か。
何だかそんなに深く考える事でもないように思えてきた。
─もう終わってる。
諦めたように目を閉じるとそのまま眠ってしまった。
月曜日、教室に入ると美里と千佳が走り寄って来た。
「おはよー麻梨乃!ねぇねぇ、千佳がね、話したい事があるんだって」
麻梨乃は二人を見つめた。
─この二人とも関係を終わらせるとどうなるかな。
千佳が恥ずかしそうに俯きながら唇を噛むと「あのさ─私、好きな人がいるんだ」と小さな声で言った。
頷くだけで返事をしない麻梨乃に戸惑いながらそのまま話をする千佳。
「その、ね。隣のクラスの上松くんなんだ」
─上松、上松。聞いたことある。
思い出した麻梨乃が「─あ。上松琢磨?」と声を出すと美里が嬉しそうに顔を近づけた。
「そう!そうなのよ!上松くんって阿久津くんと健太と同じ中学で今でも仲が良いでしょ!」
上松琢磨と南田健太は中学の時、サッカー部に所属しており、南田健太と亮介は3年間同じクラスだった。
健太を介して3人は仲良くなり、常に一緒にいるようになった。
因みに南田健太と美里は付き合っている。
これで千佳と琢磨が付き合えば仲良し6人組だ。
なんだか笑えてくる。
「それでさ、トリプルデートを計画しようと思うの!」
「トリプル?」
「そう!私は健太でしょ、麻梨乃は阿久津くん。で、千佳は上松くん。3組でどこか行こうよ?千佳って内気だからこのままだと何にもせずに終わっちゃうよ」
当の本人は何も言わずに俯いたままだ。
「ん、まぁ。良い考えやと思うよ」
─少し面倒やなぁ。
「でしょ?今週の土曜日とかどう?私と千佳は大丈夫なんだけど」
「空いてる」
─少しじゃなくて、結構面倒。
「じゃあ女子の予定はオッケーね。あとは3人だわ」
─まぁ、乗り掛かった舟。力になれるなら良いか。
とその時、亮介が席に来た。
「おはよう」と3人に声をかける亮介。
それぞれ挨拶を返す。
一昨日の事は気にしていないようだ。
麻梨乃は何故か少しホッとした。
すると「おっはよー!」と元気な声が4人にかけられる。
南田健太の登場である。
「おはよー、健太。朝から本当に元気よね」と呆れ顔の美里。
「美里はいつも不機嫌な顔だぜ。なぁ亮介?」
ふられた亮介は困ったように笑う。
「阿久津くんを困らせないで。それより、2人とも良い所に来たわ。今週の土曜日って何か予定ある?」
「ある。亮介たちとボウリングに行くんだ」
「え、まじ?阿久津くんと他は誰?」と美里。
「琢磨だけど」
─わぁ、すごい。こんな偶然ってあるねんなぁ。
そのお誂え向けのイベントの登場で女子の表情の変化を見た2人は顔を見合わす。
「な、なんだよ」と健太。
「それ、私たち3人も連れていって!」と期待に目を輝かせる美里。
「何言ってんだよ」と笑いながら健太が言う。
「3人増えるだけでしょ?」
「だ、だからって」と今度は戸惑う。
「それとも私たちが行っちゃいけない、何か疚しい事でもあるの?」
「そ、そんな事あるわけないじゃん!」と大きな声を出したのは亮介だった。
「本当に俺たち3人だけだよ!疚しい事なんてないから!」
亮介が麻梨乃に対してあまりにも必死に訴えるので、何だか可笑しくなったので笑ってしまった。
「分かってるよ。そんなことは。南田くんは上松くんにも確認とらなあかんって事を言いたいんやろ?」
「そうだよ~。さっすが吉名さん!てか亮介焦りすぎだから」と皆で笑う。
困ったように笑っている亮介を、見て見ぬふりをしてしまった。
昼休み、3人でお弁当を食べていると亮介と健太が現れた。
「琢磨に確認したら良いって言ってたぜ」と言った後、悪戯に笑う。
「てかさ、石原さん。琢磨が好きなの?」
「ちょっと、あんた何バカな事言ってるのよ」と美里が千佳を庇うが彼女の赤面は隠す事ができない。
─バレバレやね。
と麻梨乃が苦笑いするのに対し亮介は「え!そうなの!」と驚いている。
「亮介。お前は本当に鈍感だな。石原さんの様子見りゃ分かるだろ?」
「え、石原さん、そうなの?」と亮介が聞くと千佳はこくりと頷いた。
健太は満足げに「やっぱりな」と言った。
「健太はデリカシーないよね。千佳が恥ずかしがってるじゃん。阿久津くんみたい鈍感な方が可愛らしいわ」
「おいおい。そんな事はないぜ?だって事情を知ってる人間がいれば協力しやすいじゃないか。因みに琢磨、彼女いないから安心して」
確かにそうだ。
健太が亮介のように鈍感だったら気の効いた行動がとれるかは疑問だ。
それに彼女がいないという事や、好みのタイプの情報も聞けた。
「だからさ、大船に乗ったつもりで!なぁ、亮介!」
「うん!協力するよ!」
と張り切る二人。
─まぁ、大船かどうかは分からんけどなぁ。
就寝前に薮神和彦へ今日の出来事をメールした。
すると『いいじゃないか。すごく楽しそうだね』と返事が来た。
画面上にある文字を見ているはずなのに、何だかすごく寂しそうな感じがした。
─あ、何か。悪い事言ったかも。
『和彦さんは仕事をしてない時は何して過ごしてるの?』
話をそらしてみる。
『ピアノやバイオリンかな。絵を描いたりもするけど。やっぱり音楽が好きだな』
『誰かに聞かせたりするの?』
─家族とか彼女に。
知り合いは居ないと言っていたが気になる。
家族は知り合いという分類になるのだろうか。
家族の事を知り合いだと言う人物に会ったことがないので、恐らく家族は家族という分類になるのだろう。
だから、知り合いが居なくても家族や友人、恋人がいてもおかしくはないのだ。
─彼女いてはるんかなぁ。もしかして結婚してはるんかな。
ただ、その様な人物がいれば麻梨乃はお役御免だ。
身近な人物がいるのに、わざわざ他人を使う必要はないのだから。
『しないよ。音楽も絵も自分の為にやっているからね。どうしようもなく悲しかったり嬉しかったりすると奏でたくなる。それらは私にとって凄く大切な物だ。自分の気持ちを落ち着かせる為にね』
『聴いてみたいなぁ』と送った後にそのメールの重大さに気が付いた。
生演奏となると直接会うことになる。
そんなことを考えずに送ってしまったのだ。
今さら取り消しなんてできない。
それに、外出できない薮神和彦の演奏を聴くとなれば、彼の家へお邪魔する事になるのだ。
─もう、アホやなぁ。
しかし、どのような返事が来るのかが楽しみだった。
『いいよ。是非とも麻梨乃ちゃんに聴いてもらいたい。きみのために演奏ができるなら喜んで』
─なんて言われたらどうしようか。
と妄想をしてみる。
『リクエストはあるかな?そうか、きみはあまり音楽に詳しくないのだね。そんなこと構わないよ、気にしないで』
心地よい笑い声が聞こえた気がする。
─なんてね。
いつも直ぐに返信がくるのに今回は少し長めに待たされている。
─嫌なんやろうか。
不安になってきた。
薮神和彦は人と会うのが苦手なのだ。
それなのに承諾するわけがないじゃないか。
─少しでも会えたら嬉しい。
その事を考えるだけでわくわくするし、心が跳ねる。
だから、このメールを─この気持ちを無視されたり拒否されると悲しい。
何気なく送ったメールなのに心に大きな影響がある。
─好きなんやろうか。
なかなか返信が来ない。
もう、待つのが嫌になったので、 こちらから『変な事を言ってごめんなさい』と送ろうと思ったその時、メールを受信した。
『きみに会えるのは嬉しいよ。うん、本当に素晴らしい提案だ』
それを読んだ時、麻梨乃の心臓は弾けるのではないかと思うほどに高鳴ったが、その鼓動は直ぐにおとなしくなった。
『だけどね、麻梨乃ちゃん。同時に良くない提案でもある。とても良くない。私は外出できないんだ。この意味分かるよね?いくらメールでやり取りをしているからと言っても面識はないんだ。そんな男と2人になれるかい?』
─あぁ、やっぱりそうか。
『私なら平気。でも、和彦さんが嫌なら諦めます。ごめんなさい』
『謝ってほしくないよ。本当は私もきみと会って話をしてみたいと思っている。きみさえ良ければ我が家に招待するよ、そう言いたかったのだけど。こちらこそ、ごめんね』
目の前に柔らかい光が輝き、心地よい風に身体が包み込まれ、フワリと浮かんでいるような気持ちになる。
久しぶりに感じる胸の高ぶりだった。
『しかし、一つ問題があるんだ。近々空いている日が今週の土曜日しかないのだよ。さすがに不味いよね?』
─ん?何が不味いんやろ。
と頭を捻った所で思い出した。
─トリプルデートかぁ。
面倒な事を引き受けてしまったと落ち込む。
『ボウリング、キャンセルしよっかな』
『それはダメだよ。約束したなら行かないと。気持ちは嬉しいけどね』
─そうやんなぁ。
『夕方には帰れると思う』と送る。
このチャンスを逃すわけにはいかないのだ。
メールとは違う着信音がしたのでディスプレイを見てみると亮介からの電話だった。
「もしもし」
『もしもし、起きてた?』
「うん。まだ、10時やし」
一気に現実に引き戻される。
『麻梨乃は寝るのが早いからね。でも10時は寝るには早いよね』
「もう少ししたら寝ようと思ってた。10時に寝れるなら寝てるよ」
『じゃあ、何か用事でもしてたんだ?』
「うん、まぁ。考え事してた」
『─考え事?─あ、でも麻梨乃は寝不足だと不機嫌だから、よく寝てもらわないとね』と笑う。
「睡眠は大切」
『そうだよね。あのさ、今日の事。石原さんの恋愛話に協力するってやつ。友達の恋愛相談にのるって聞いて、あの時すごく嬉しかったんだ』
「だって友達─やし」
そう。
友達なのだ。
大切にしなければいけない存在だ。
そう自分に言い聞かせる。
それから少しだけ話をして電話を切ると、薮神和彦からメールが来ていた。
『では、6時頃にしようか。O駅は分かるかな?その駅前にS公園があるんだけど』
隣の駅にある小さな公園だ。
外で待ち合わせなんかして大丈夫なのだろうか。
『分かる。土曜日、6時にS公園で』
『そう。迎いをやるよ』
─え?迎いをやる?
一人暮らしではなかったのだ。
誰かと一緒に住んでいる。
誰だろう。
それを知った今、約束を断るわけにはいかない。
誰だろう。
悶々とする。
女性だろうか。
嫉妬している自分がいた。
しかし『わかった』と送るしかなかった。
心の中では理解しようとしたが上手く出来なかった。
そして、何も聞くことができないまま土曜日となった。
美里たちはボウリングの事で頭が一杯だったが、麻梨乃一人だけ思考は違う方に向いていた。
1時にファミレスで待ち合わせて6人で昼食をとり、3時ごろにボウリング場へと移動する予定となっている。
少しでも千佳の緊張を解せたらと女子三人だけが少し早めに到着する。
今日に限って自転車がパンクしていたので麻梨乃は歩いて待ち合わせ場所へ向かった。
到着すると美里と千佳はすでに着席していた。
千佳を挟むようにして麻梨乃も座った。
千佳は俯いて緊張を露にしてスカートの裾を指先でもてあそんでいる。
今日の千佳のコーディネートは、昨日美里と三人で買いにいった。
出来るだけ琢磨の好みに寄せつつ、千佳の好みも入れる。
明日はデートなのだと店員に言うと、楽しそうにシュシュのおまけをつけてくれた。
それも千佳の髪を結わえている。
美里が緊張を解そうと頻りに話しかけるが、返事する声は消えてしまいそうだ。
可哀想なほど緊張している。
「千佳が一番落ち着くのってどんな瞬間?」と聞いてみた。
「ラテと寝てる時かな。ふわふわの毛並みを撫でてる時も」
ラテとは千佳の家で買われているカフェラテのような毛色をした猫だ。
千佳はラテの毛並みが大好きなのだ。
「じゃあさ、すっごく緊張して上手く喋れへんなぁって思ったらラテを思い出して」
麻梨乃がそう言った時、背後から陽気な声が聞こえてきた。
ついにやって来たのだ。
それぞれは挨拶をしながら席につく。
美里の前には健太、その隣に琢磨。
琢磨の隣、麻梨乃の前には亮介が座る。
この席順も前もって決めてある通りだ。
今日の計画は美里が総指揮をとっている。
亮介がこちらを見ている気配がしたのだが見ないようにした。
この後の事が後ろめたい。
見透かされそうで怖かった。
「腹が減ったぜ!」と健太。
各々注文をしてから自己紹介に移った。
ここは健太の出番だ。
「えっと─琢磨は女子3人と話した事ある?まぁいいや─俺の前にいるのは美里。あ、こいつは知ってるか。で、亮介の前にいるのが吉名さん。で、2人の間に座っているのが石原千佳さん。ちなみに、俺と琢磨以外同じクラスだ」
「皆知ってるよ。今日は宜しく」と小さく頭を下げる。
爽やかな人だと思った。
その後、他愛ない会話で盛り上がった。
最初は緊張していた千佳も、美里と健太の夫婦漫才のような会話で解されたようだ。
たどたどしくはあるが琢磨の目を見ながら話ができるようになった。
暖かい空気に包まれた4人。
麻梨乃と亮介はその空気に触れることができない。
お互いの事が気になって仕方がないのだ。
麻梨乃は亮介に覚られまいとぎこちなくなり、亮介は麻梨乃がよそよそしいと落ち込む。
2人を繋ぐのは冷たく尖った緊張だけだった。
結局まともに話をしないまま、ボウリング場へと向かう事になった。
駐輪場で美里に声をかける。
亮介に聞かれないように。
「お願いがあるねんけど、自転車の後ろ乗せてもらっていいかな?」
「あ、そっか。パンクしてたんだよね。いいけど、せっかく阿久津くんがいるんだし乗せてもらえば?」
それを避けたいから静かに頼んだのだが、それを聞いていた亮介が「そうだよ」と言った。
「乗りなよ。いつもそうしてるじゃん」と亮介が真剣な眼差しでこちらを見る。
勝手な希望であることは分かっているのだが、亮介に笑って欲しいと思った。
こんな亮介は嫌だ。
「あ、うん。じゃあそうする。ありがとう」
麻梨乃は亮介の後ろに乗った。
「自転車パンクしてるなら言ってくれればよかったのに。ここにはどうやって来たの?」
「電車と歩き。パンクには今朝気付いた」
昨晩、スーパーにマヨネーズを買いに行かされた時はどうもなかったのだが。
家を囲う塀がないので悪戯でもされたのだろう。
「そう。連絡くれれば迎えに行ったのに」と言う亮介の口調から元気がないのを感じとる。
楽しそうに先を走る4人に重苦しい空気の2人はついていく。
緊張、不安。
ボウリングでも美里が指揮をとる。
最初のゲームでは個人戦、2ゲーム目ではチーム戦をすることになった。
組は美里と健太、千佳と琢磨、麻梨乃と亮介。
もちろん美里の作戦通りだ。
しかし、個人戦で思いの外時間がかかってしまい、チーム戦を終えたのが5時30分だった。
─よし、間に合う。
しかし、そわそわする。
それを亮介が気付かない訳がない。
帰り支度をのろのろとする一行に苛立つ。
実際はいつもの通りなのだが、今日の麻梨乃の目にはわざとのように見えてくるからおかしい。
ここから最寄りの駅まで歩けば5分。
そこからO駅まで3分程でつく。
タイミング良く電車が来れば10分でS公園に到着。
余裕だ。
しかし、駐輪場で健太が思いがけない提案をした。
「よし!じゃあ、今から皆でカラオケに行こう!」
その呼び掛けに盛り上がるが、麻梨乃は一人取り残される。
「どうしたの、麻梨乃?」と亮介。
この誘いは確実に断らないといけない。
「あ、いや。止めとくわ」
その言葉に眉を潜める亮介。
「ちょっと、疲れたし。帰る」
「─そう。大丈夫?送って行くよ」
麻梨乃は瞬時に計算する。
もし、亮介に自転車で家まで送ってもらってからS公園に向かうとなると合計で30分はかかってしまうだろう。
それは避けたい。
避けたいが断り方に戸惑う。
逆にここからS公園まで自転車で直接向かうと約15分。
間に合うがそれは一番やりたくない。
時間が過ぎて行く。
「いや、大丈夫。電車で帰るよ。亮介は皆とカラオケに行って」
いつも温厚な亮介の表情が一瞬怒ったようになるのを見逃さなかった。
「皆」と亮介が呼び掛ける。
「俺たちは先に帰るよ」
もちろん4人から不満の声があがる。
「本当にごめん。でも、俺たち今から皆に言えないような事をするんだ」と妙な言い回しをすると、乱暴に麻梨乃の肩を抱き寄せた。
麻梨乃の肩を握る力強さに亮介が挫けまいと嘯いているのが感じ取れた。
まだ、キスすらしたことがないのだから。
すると4人は亮介と麻梨乃を冷やかしながら自転車に乗って消えていった。
それを見届けた亮介はそっと肩から手を放す。
「さぁ、乗って。送って行くよ」
亮介は自転車に跨がる。
「本当に大丈夫やし。一人で帰れるから」
「行きたい所があるんだろ?そこまで送らせてくれよ。俺、大丈夫だから。早くしないと、このままだと遅刻するんじゃないの?」
─え?
時計を見ればもう5時40分だった。
「頼むから乗ってくれよ」
彼の表情は見えない。
麻梨乃はそろりと亮介の後ろに乗った。
「何処まで行くの?」
「─O駅にある─S公園」
「何時に?」
「─6時」
亮介が小さく息を吐いた。
「ギリギリだね。飛ばすよ」
駐輪場から出た二人はS公園に着くまで話をしなかった。
ただ、麻梨乃の心は不安と息苦しさが複雑に絡み合っていた。
亮介は気が付いている。
体調なんて悪くない事も、この後亮介には言えない約束事がある事も。
これが別れなのだと思った。
苦しくて重くてやるせない。
辛く痛い気持ち。
その時、亮介も同じような事を思っていた。
麻梨乃が別れを切り出してきたら受け入れようと決めていた。
しかし、それは本心ではない。
受け入れたくないに決まっている。
─でも、それじゃ駄目なんだ。
今、麻梨乃は何を考えているのかと思うと亮介は泣きそうになったがグッと堪えた。
その悲しい想いを和らげようと速度を上げるが、生温く気持ちの悪い風が頬を撫でるだけで、不快になっただけだった。
─去り際は格好良く、紳士的に。
S公園に到着した。
誰もいない。
元々ブランコと鉄棒しかない小さな寂れた公園だ。
待ち合わせをするなら反対側にあるロータリーにある広場を使う場合がほとんどだ。
こちらの公園は駅前だというのに誰も見向きはしない。
今の亮介のように、孤独で寂しい思いをしているのだ。
感情を持たない公園が羨ましくなる。
「間に合ったね」
─誰と待ち合わせしてるのか見てやろうと思っていたのだけど。
「うん。わざわざ有り難う」
気のきいた奴ならここで去っていくのだろうが、足が動かなかった。
このまま留まれば別れ話をされるのは分かっている。
傷付いて、落ち込むのは目に見えている。
しかし、
─逃げるな俺。向き合うんだ。
「なぁ」と麻梨乃が声をかけてきた。
返事をせずに麻梨乃を見る。
「何で─家に帰らへんって思ったん?─約束があるって知ってた?」
不安そうに潤む瞳。
「約束があるのは知らなかったよ」
「じゃあ何で?」
「カラオケに行くってなっただろ?その時、麻梨乃は体調が悪いから帰るって言った。その時はそれを信じたよ。でもね、俺が送るよって言った時の麻梨乃の表情と態度。いつもの麻梨乃なら2組のカップルに挟まれて取り残される俺を気遣ってくれると思ったんだ。本当に体調が悪いなら俺の言葉は断らない。そうでしょ?待ち合わせをしてるかどうかは確信はなかったよ。鎌を掛けたんだ。ごめんね」
麻梨乃は納得したように何度か小さく頷くと俯いた。
何もない公園。
じわりじわりと迫る現実。
虚しくて、寂しい憎らしい時間。
「あのさ、もうさ、分かってるよ俺。だって俺、麻梨乃の事が好きだから。ま、麻梨乃が─どう思ってるとか、どうしたい─とかさ。でも、俺からは言わない。言わないから」
お互いは自分の影から目をそらさない。
あんなにも彼女の姿を見つめていたいと思っていたのに、今はそれができない。
「─もう、悪足掻きはしないよ。この間みたいに麻梨乃を困らせるようなことはしない。だから、言って」
電車がホームに入ってきたが、こちら側に降りる人は居なかった。
腹の底は冷たく痛い。
指先に感覚がない。
それなのに目頭は熱いし息苦しい。
情けない。
「亮介」
きっと、こうやって呼び掛けてくれるのは最後だろう。
2人の関係が終わってもこうやって話し掛けてくれるのだろうか。
「─少し距離を置こう」
─狡いよ、麻梨乃。その言葉は駄目だ。
覚悟はできているはずだった。
「別れよう」と言われれば素直に従うつもりだった。
なのに距離を置こうだなんて。
覚悟はできているはずだったのに。
「嫌だ」
「え?」
「距離を置けばどんどん離れていくだけじゃないか!焦らしながら離れていくなんて!それなら─そ、それならはっきりと言ってくれた方が楽になったのに」
今までも辛かったのに。
この気持ちを──分かってくれないのか?
「そう─やんな。変な言い方してごめん」
─謝らないでくれよ。なんだよ。なんなんだよ!
「じゃあ、はっきり言う。別れてほしい」
今度ははっきりとそう言ってきた。
淀みやブレがない芯のある声色だった。
亮介は麻梨乃から顔を背けると自転車に跨がった。
「その願い受け入れるよ」
そう言ってペダルを踏み込んだ。
最後まで彼女の事は見なかった。
─終わった。
麻梨乃は力なくブランコに腰掛けた。
足元の砂を蹴る。
蹴る。
蹴る。
苦しかった。
自分の言葉なのにそれはどこかで違う人物が口にしたように思えるほど浮いて聞こえてきた。
─狡いやつ。卑怯で弱虫。最低なやつ。
麻梨乃は自分を罵った。
亮介の言葉は最もだ。
距離を置こうだなんて。
─狡いやつ。
傷付けたくないなんて思っていても、結局は自分を悪者にしたくないから回りくどい言い方を選ぶのだ。
結果は変わらない。
「卑怯なやつ」
今度ははっきりと自分に言った。
「狡くて卑怯な最低なやつ」
どのくらいそうしていたのだろうか。
先程の衝撃が思いの外大きく、声をかけられるまでこの後に待ち構えている事を忘れていた。
「吉名麻梨乃さんでいらっしゃいますか?」としっとりとした声が聞こえてきた。
革靴を履いている。
その足先からゆっくりと視線を上げて人物を確認した。
朗らかに微笑むスーツ姿の男性。
真っ白の髪のわりには年は若そうだ。
両親の少し年上くらいだろうか。
「は、はい。そうです」と立ち上がる。
─これが、薮神和彦?
麻梨乃の不審な表情を見た男性は優しく微笑んだ。
「いえいえ、違います。私は使いの者で足立と申します。薮神和彦は只今仕事から手を離せないので私が参りました」
何十も年が放れているのに丁寧な物腰に恐縮してしまう。
「お、お忙しいのに私なんかお邪魔しても大丈夫ですか?」
「ご心配はいりません。薮神は今日を楽しみにしております。えぇ、本当に。普段は無口な方ですが、私には分かりますよ」と微笑む。
「─そう、ですか。よかった」
「お取り込み中に声をかけてしまうのも良くないので、少し待たせて頂きました」
時計を見れば6時半になっていた。
「あ、私。きっと一人でぼうっとしていて─」
「えぇ、そうですね。放心状態と言うのでしょうか、そのような状態でしたので少しだけ待たせて頂きました。──それでは、参りましょうか。あちらに車が用意して御座います」
足立が身体を避けると、黒く光る車が一台停まっていた。
車の事など全く知らない麻梨乃でも聞いたことのある有名な外国製の車種だった。
後部座席は窓硝子にフィルムが貼られているようで中がよく見えなかった。
そのドアを開けてくれた足立に頭を下げ車内に入る。
─何、これ。
運転席と後部座席の間には仕切りがされており、前の様子を見ることができなかった。
そして窓硝子に貼られているフィルムのせいで、中からも外の様子が見れないようにされていた。
突然不安になった。
─ど、どうしよう。
変な人だったらどうしよう。
変な所に連れて行かれたらどうしよう。
恐ろしい。
自分の無用心を反省してももう遅い。
いつでも母親に連絡をできるように携帯を握り締める。
すると前方の仕切りにあった小窓が開き、穏やかな足立の目が覗いた。
「このような内装で驚かれたでしょう。薮神和彦は外界を疎ましく思う時がありましてね。─もし具合が悪くなりましたらいつでも仰ってください。この小窓の右横に赤いスイッチがあるでしょう?それを押しながら話して頂ければ、こちらに声が届きますので」
「はい。─分かりました」と返事をすると、小窓が閉まって車が発進した。
外の様子が分からないので何処を曲がったのか、何処を通り過ぎたのかが全く分からなかった。
携帯を握り締める。
足立の物腰からは怪しげなものは感じなかったが、人は見掛けによらないのだ。
用心して損はない。
しかし、暫くするとなんだか落ち着いた。
煩わしく五月蝿い外の世界に触れることのない時間。
とても不思議で心地よい空間だった。
20分程して車が完全に停まった。
すぐに後部座席のドアが開き足立が現れる。
「お疲れ様で御座いました。気分はいかがでしょうか?」
「大丈夫です。何ともありません」
降り立ったそこは、一面冷たいコンクリートの壁だった。
広い空間に音が反響している。
地下だろうか、窓がないので白い明かりで照らされている。
ガレージ兼物置のようで車がもう2台あり、他にも脚立や何かよく分からないモーターのような物も几帳面に置かれている。
「こちらです」と足立が5段ほどの階段を上ってその先の木製の扉を開けた。
靴を脱いで用意してあったスリッパに履き替える。
ドアを抜けたそこは、先程のガレージとは違い、暖かく安心感のある木造だった。
むき出しの板は一枚一枚が独特の色合いを持ち、温もりがある。
入って来た扉から左右と正面に廊下があり、右側はキッチンで正面は玄関とリビングに続くのだと教えてくれた。
「こちらの左手の廊下を進んでいただくと階段があります。その階段を3階まで上り詰めますと、正面に廊下があります。そこを進んでいただきますと、左右に扉が見えます。その右側です。間違えないでくださいね」
「3階。廊下の右側。ですね?」
「えぇ、そうです。その通りです。私がご案内させていただくべきなのですが、先日足を痛めてしまいまして」と足立が優しく微笑んだ。
「分かりました」
「一つ必ず守って頂きたい事があります」と急に厳しい声色になり、表情も険しくなる。
「必ず扉をノックしてください。返事がなくても勝手に開けてはいけません。返事があるまでノックをしてください。いいですね?」
「─はい」と言う麻梨乃の返事に安心して足立は微笑んだ。
「では、ごゆっくり」
そう言うと足立は頭を下げてキッチンの方へと歩いて行った。
階段の下まで行って見上げる。
そこから先は橙色の仄かな灯りが点々とあるだけで不気味だった。
いよいよだ。
吸い込まれるように1段ずつ上る。
壁には絵が飾られてあった。
見たことのある有名な画家が描いた物から、一体何を描いているのか分からないような物まで様々なサイズの絵がある。
2階に到着した。
そこにもまだ絵が飾られており、ちょっとした美術館のようだ。
2階の廊下を覗いてみたが、灯りが一つもなかったので、恐ろしくなり階段をかけ上がった。
─3階。
ついに来た。
今、この世界で薮神和彦と一番近い距離にいるのは自分だけだ。
そう思うと嬉しくなる。
階段の心許ない灯り同様の暗さの廊下を歩く。
─正面の廊下を進んで。
足音がしないようにそろりと歩く。
この壁の向こうに薮神和彦がいるのだと思うとどきどきした。
─右の扉。
その前に立つ。
─いよいよ。
緊張する。
千佳の気持ちが今なら理解できる。
ノックする音よりも自分の心音の方が先に聞かれてしまいそうだ。
─よし!
と気合いを入れて3度扉をノックした。
返事はない。
もう一度ノックする。
すると今度は直ぐに返事があった。
「はい」
薮神和彦だろうか。
「吉名です。吉名麻梨乃です」
自分の声が震えているのが分かった。
「あぁ、よく来てくれたね」
優しく穏やかな声色。
「それじゃあ、麻梨乃ちゃん。今からその場で10数えて。早すぎる10は駄目だよ。数え終わったらこの扉を開けて入って来て。いいね?」
「分かった」
「よし、良い子だね。じゃあ、数えて」
1から数えた。
何の遊びだろうか。
それとも麻梨乃の緊張を解そうとしてくれているのだろうか。
「10になったので入ります」と一応声をかける。
そろりと扉を開ける。
息を飲んだ。
そこは電灯などは点いていないので暗かった。
しかし廊下より明るかった。
何故なら月の明かりが部屋に射し込んでいるからだ。
その月の明かりを受けるのは薄く滑らかな白い布だった。
天井から垂れる布たちは開け放たれた窓から自由に出入りする悪戯な風によって緩かに靡いている。
暗いはずの部屋が怪しげな白い空気に満たされている。
月の世界に迷いこんだみたいに、足元からふわりと浮かび上がりそうだ。
幻想的でとても綺麗だと思った。
「ようこそ、吉名麻梨乃さん」
その声で我に返って後ろ手に扉を閉めた。
「奇妙な迎車に驚かれたでしょう?」
「少しだけ」
そこで気が付く。
声の主がいない。
どこから声がするのか分からない。
「ここからはきみの事がよく見えるけどね。きみは私を探し出そうとしてはいけない」
愚問だろうから何故かとは聞かなかった。
今はこの空間を全身で感じていたい。
「きみの右手側に椅子を用意してある。それに座るといいよ」
促されて見ると、壁の中央に木製の椅子がちょこんと置かれていた。
そこまでゆっくりと進む。
その間、お互い何も話をしない。
ただ、白く透き通った布が優雅にたゆたうだけだ。
清い空間だ、と思った。
椅子に座る。
その時、気が付いた。
この白い光は月ではない。
白いライトだった。
真っ白の蛍光灯のようなものが部屋の床と壁の隙間に埋め込まれていた。
それが白い布に反射して幻想的な空間になっていたのだ。
「秋になるとこの部屋はこの電灯がなくても月の明かりが届いて綺麗に輝くよ。夜空に吸い込まれてしまっても構わないと思うほどに美しく」
白い布の向こうで麻梨乃の考えを読んだのだろうか。
「改めて挨拶をするよ。私の名前は薮神和彦。よく来てくれたね。本当にありがとう」
「こちらこそ、和彦さん忙しいのに時間作ってもらって、ありがとうございます」
「私が忙しいと、足立がそう言ったのかい?」
「手が離せないから私が迎えに来ましたって」
「そう。足立は大袈裟に物事をとらえる節があるのだよ。だから心配しないで」と微かに笑う声が聞こえてきた。
よく見れば白い布に人影がみえる。
すらりと背の高い細身の影。
麻梨乃の中にある薮神和彦の像が少しだけ真実に近付いた。
「以前、迎いをやるって言ったでしょ?その人物が足立だよ」
その人影はピクリとも動かない。
白い布が揺らめくので少しの動きでは分からないのかもしれないが、釘で足を床に打ち付けられた人形のようにその場から離れない。
「足立さんの他にも誰か住んでるの?」
遠回しに結婚しているのかと聞いてみる。
気が付くだろうか。
「いいや。足立と私、二人だけだよ」とだけ返事がくる。
ホッと胸を撫で下ろす自分がいた。
─どきどきする。
この屋敷に2人だけ。
薮神和彦の家系は資産家なのだろうか、とこの部屋の空気に似合わないような下世話な事を思ってしまった。
「あいつは私の世話をしてくれるんだよ。食事や買い物とかね。近所付き合いなんかも任せているよ。私には難しい事をしてくれて、本当に世話になってる。足立がいないと今の私はいない」
「凄く大切な人」
「そうだね。私が幼い頃からずっと面倒を見てくれているから」
「あの階段の絵は和彦さんが?」
「そう。すべて自分で描いた物だよ。本で見た絵を模写したり、空想の物を描いたり様々なんだ」
「見たことのある絵が何枚かあった。あれは、確か─誰やったかな?キリストを真ん中にしてご飯食べてるやつ」
うふふと上品な笑い声がした。
風が囁く時はきっとこんな感じで柔らかく心地よい声なのだろう。
「それはレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた『最後の晩餐』だよ。イエスが処刑される前夜に12使徒と共にとった夕食の絵だ。この夕食の場でイエスは使徒の1人が自分を裏切ると預言したんだ。その場面だよ」
「裏切る?」
「そう。─ユダという人物が裏切るんだ。金貨30枚でイエスを売ったんだよ」
「お金がほしいから?それだけの理由で?」
─そんなの、酷すぎる。
「いいや、それには様々な説があってね、一概には言えないけど、ユダの中に悪魔が入ったと言うのが有名かな。イエスはそれを見越して、それも神の導きならと思ったんだよ」
「じゃあ、イエスはユダを許したってこと?」
「どうだろうね。そうかもしれないし、初めからそうなると分かっていたなら、特別に思う事もなかったんじゃないかな」
「その後、ユダは?」
「自らの罪を悔いて首を吊って自殺をした」
「自殺って──宗教のことはよく分からへんけど、自殺って罪になるんじゃないの?」
「そうだね。殺人は大罪だよ。自殺だって殺人。自分を殺すわけだけだからね。─なんだか変な話になっちゃったね」と笑う薮神和彦。
「あ、他にも見たことあるやつあったよ。ゴッホの『ひまわり』あれは凄く有名。あと、鉛筆かな?それだけで描かれた階段の絵。階段が永遠に続いてる、なんか不思議な絵やった。あれ教科書に乗ってた」
「それはエッシャーの『上昇と下降』だよ。階段を上り詰めたと思ったら、他の階段が横に伸びている。その階段を上ってもまた同じ。それを繰り返しているんだね。それは、同じ所をぐるぐる回っているだけなんだ。絵を見ている者は知っている。しかし、描かれている者たちは、何も知らない。と、言うよりも顔の─部品がないからね。表情が読み取れない。建物に入り込める出入口があるのに見向きもしないんだよ。その絵にはその階段を上り下りしている者を見つめたり、背中を向ける者もいるんだ」
「背中を向ける人物。私のことかな」
「じゃあ、私はそれを見つめる人物だね」
「やっぱ芸術は難しい」
「そんなことはないよ。自分が良いと思った物がいいんだ。他人の評価はどうでもいい。簡単な事だよ。授業でも、自分が良いと思った物を描けばいい。それが芸術だよ。現代に残る物を描いた人達は評価を多く受けただけ。それだけだよ」
「なんか安心した」
「絵だけじゃないよ。音楽だってそうだ。誰にも見向きもされない音楽がたった1人の心を動かせば、それは間違いなく価値ある音楽だよ。この世には価値の無いものはない。───今夜は月が綺麗に出ている。こんな曲はいかがかな?」
薮神和彦のシルエットは漸く動いた。
椅子に腰掛け、グランドピアノに向かい合ったようだ。
その直後、ピアノの音色が耳に届いた。
その曲は静かに始まった。
暗く悲しい音たちは清らかな蒼白い部屋で生まれて、物憂げな蒼白い部屋へと染み込んでいく。
腹の底から哀しみがわいてくる。
しかし、不快ではない。
むしろ、心地良い。
聞き覚えのある音楽。
しかし、一変して激しい曲調に変わった。
激しいけれど乱れてはいない。
心地よい音の荒波は心を奪う。
暗く寂しい連符は麻梨乃の身体を包み込んだ。
これは人間の奏でている音なのだろうか。
こんなにも美しい音楽が作れるのだろうか。
この闇に魅了された。
美しい光に引き込まれた。
この世界を手離したくない。
静かに始まった曲は興奮気味に終わってしまった。
「─月光?」
「そうだよ。よく知っているね。ベートーヴェンのピアノソナタ14番。この曲はベートーヴェンが30歳の時にかいた作品なんだよ。当時14歳年下の伯爵令嬢と恋に落ちたんだ。しかし、彼女は違う人物と結婚してしまう。彼女の父がベートーヴェンとの結婚を許さなかったんだよ。ベートーヴェンを最も苦しめたのは歳の差より、身分の差だったんだ。そして、追い討ちをかけるように耳が聞こえなくなってきたのだよ」
物悲しい音が麻梨乃の中に甦る。
「苦しみ悲しんだベートーヴェンだけど、こんな曲をかいたんだ。彼は強いよね。出だしを聞けばすぐに分かるよ」
ピアノの音が大きく鳴り響いた。
苦悩や怒り、戸惑い悲しみ。
─『運命』
先程の話を聞いて様々な思いがわいてきた。
ベートーヴェンは自分の運命に戸惑い悲しんだが、それを受け入れようとこの曲をかいたのだろうか、と思った。
それならば、なんと強い人なのだろう。
逃げずに受け入れ、素直に感情を表現する。
「私はね、ベートーヴェンが自分の運命を受け入れようとこの曲をかいたのだろうと思うんだ。本当に彼は強い人だよ」
麻梨乃は薮神和彦と同じ様な事を考えていた事が嬉しかった。
少しだけでも近付けたような感じがしてドキドキする。
すると、今度は軽く光るような音が聞こえてきた。
壮大な草原を思い出すような解放感。
そこに吹き抜ける風が髪を優しく撫でる。
裸足で駆ける。
風を捕まえようと両手を広げるが、逆に優しく柔らかく包み込まれる。
青空が優しく光った。
雲がふわりとそこにある。
このままずっとこうしていたい。
煩わしい事全てに背を向けて。
この世界で二人だけで。
その幸せが此処にあるような気がした。
「この曲は、ラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲第18変奏』だよ。ラフマニノフは知っているかい?」
「いいえ」
「ロシアの作曲家だよ。彼はいつも不機嫌で愛想がないと言われていたみたいだね。『パガニーニ』というのはバイオリン奏者でね、作曲家でもあったんだ。彼─パガニーニのバイオリンの腕は鬼才で『悪魔に魂を売った』とまで言わしめたほどずば抜けていたんだよ。『パガニーニの主題による狂詩曲』には、ラプソディーというだけあって、その彼が作った曲が引用されているんだ。その中にある『24の奇想曲』の第24番はラフマニノフ以外の音楽家に大きな影響を与えたのだよ」
何だか呪文を唱えているようだ。
そう言うと薮神和彦はふふふと笑った。
「では、そのパガニーニの24の奇想曲を─」
彼のシルエットが立ち上がり、バイオリンを弾く構えになった次の瞬間、凄まじい速さの音色が部屋中を駆け巡った。
目が回るように音符が激しく軽快に走り回り、その全ては心を虜にさせるような、魅惑的なものだった。
しかし、正直言って音楽はあまり入ってこなかった。
麻梨乃は薮神和彦のシルエットに見惚れてしまっていた。
背は高く、少し細めの体躯。
音と共にしなやかに動く身体は綺麗だ。
惚れ惚れする。
「彼の曲は音楽大学などの入試で課題曲になることも少なくないらしいよ。本当に素晴らしい人物なんだ」
薮神和彦はそう言ってバイオリンを床に置いたケースへ戻すと椅子に座った。
パガニーニという名前を初めて耳にした自分が言うのも何だが─
「上手い。すごく、良い」
薮神和彦はこちらをしばらく見つめた─ように思えた。
まるで影絵である。
それも、素晴らしく美しい。
「ところで─今さらだけど、ボウリングはどうだった?お友達の恋路は如何に」
「凄く良い感じやと思う」
麻梨乃はファミレスの話からボウリングの話まで薮神和彦に聞かせた。
彼は「そう」とか「へぇ」とか「それは良いね」と細かく相槌を打って静かに話を聞いてくれた。
「とても良い感じやと思う」と締め括る。
「そう。では、君たち4人は恋のキューピッドってわけだね」
「そんな良いもんじゃないよ」と苦笑いで返す。
「今頃皆はカラオケに行ってるよ」
「そうなの?きみは行かなくて良かったのかい?」と心配そうな声。
「うん。和彦さんとの約束の方が優先。何よりも楽しみにしてたから」
「──そう。それは、すごく嬉しいよ」
少し沈黙があったが、気まずい思いはしない。
2人の間の蒼白い光が夜風に踊らされる。
ピアノの音色が耳に届いてきた。
決して明るいとはいえない曲だ。
激しさもないし、暗くもない。
哀愁というのだろうか。
この部屋は拭いきれない哀しみがあるように思える。
この音たちはやはり物悲しい蒼白い部屋に調和している。
それが心地良い。
「この曲。今までで一番好きかも」と言うと薮神和彦のシルエットは驚いたようにこちらを見た。
「この─曲が?」
「そう。─変、かな?」
「─変ではないよ。人の好みは様々だからね。残念だけど、この曲について私が知っていることはないんだ。──これはね、作者不明なんだよ。恐らく無名の作曲家だろう。しかも、これは未完成。でもね。私も好きだよ。この曲」
再び静まる。
この時間だけでも十分だ。
なにも言葉は交わさなくてもいい、穏やかな時間。
哀愁が染み付いた部屋で、ただ空気を味わう孤独な時間。
とても贅沢だ。
「随分と遅くなってしまったようだね。─もう8時になっちゃうけど夕食はどうする?私は一緒に食べられないけど、足立が作る料理は旨いよ。と言っても私は彼の料理しか口にしたことがないけど」
─和彦さんが居ないなら意味がない。
「和彦さんが居ないならいらない」
大胆な事を言った自分に驚いたが、直ぐに言葉を付け加える。
「いや。お腹─空いてへんし。大丈夫」
実際そうだった。
気持ちが一杯で食欲がなかった。
「そう。では、いつか一緒に足立が作ってくれた料理を食べよう」
どきどき、した。
次があるのだ。
「はい」
「今、足立に知らせたから下に行けば車が用意されているはずだよ。申し訳ないが、私はここで見送らせてもらうよ」
シルエットが立ち上がったので、麻梨乃も立ち上がる。
「今度はいつ会える?」と思いきって聞いてみた。
「そうだね、週末なら空いている。─いや、空けるよ。きみのために」
自分のために──。
「──さっき亮介と別れた」
「─そう。大丈夫かい?──悲しい?後悔してる?」
「─後悔はしてないけど、少し気が重たい」
「そう」
「これからは、なるようになるかな、と思う」
「うん。そうだね」
「では、今日はありがとうございました。楽しかった」
頭を下げる。
「こちらこそ、来てくれてありがとう」
麻梨乃はゆっくりと扉まで歩くと、最後にもう一度部屋を振り返りお礼を言ってから廊下へ出た。
それから先の事は思い出せない。
何を考えて階段を下りたのか、足立とどのような話をしたのか。
何時頃帰宅したのかすら覚えていないそのことに、翌日になって笑いが込み上げてきた。
一方、麻梨乃を見送った薮神和彦も同じ様な状態だった。
彼女の居なくなってしまった部屋。
先程まで麻梨乃が座っていた椅子が白い布越しに見えた。
今は誰も居ない。
─元に戻った。
この部屋に誰かがいただなんて。
先程までの出来事が嘘のように思えてくる。
麻梨乃が座っていた椅子まで、足音も衣擦れの音もさせずに歩く。
意図せずにそうしてしまう。
逆に誰かの足音には機敏に反応してしまう。
麻梨乃の足音もそうだった。
消していたつもりだろうが、薮神和彦にとっては無意味だったのだ。
─何だ?
椅子の上に何かあった。
黒く長細い小さな箱に赤いリボンが十字にかけてある。
手にとってそれを開けた薮神和彦は息を飲んだ。
視界は潤み、鼻先がつんとする。
手は震え、胸が締め付けられたようだった。
─あぁ。なんと言うことだ。
涙が静かに頬を伝う。
箱の中に眠る1本の真紅の薔薇を手にとった。
プリザーブドフラワーなので水分がなくても形は綺麗なままだった。
─なんと言うことだ。
香りはしない。
この花は死んでしまっている。
だが、そこには心があった。
思いがあった。
この花は死んでいるが、薮神和彦の前にある時だけは生きていた。
生きて、生を分けてくれる。
─私は生きているのか。
薮神和彦は自分の頬に伝う涙を指先で拭った。
涙なんて流した記憶がなかった。
─生かされているのか。
椅子に力なく座り込むと、壁に頭を預けて目を閉じた。
薔薇は生を分けてくれた。
─私に良心があるのなら。
薔薇は死んでいるが生き生きしていた。
─苦しむべきは。
週が開ける。
月曜日。
遅刻した。
いつも通りに目覚めたのだが、着替えたり食事をのろのろとしたりしていると、時間が経っていた。
急いでいるつもりでも、時計の針はせかせかと進んで麻梨乃を置いていく。
急ぐ気もなかったので、学校に着いた時は2時間目を終えていた。
校舎に入ろうとした時に声を掛けられた。
健太だ。
次は体育なのだろう。
体操着を着ている。
「おはよー吉名さん!遅刻?」
見れば分かるだろうに。
「そう」
「あ、そうだ!朝、駅前で亮介が吉名さんを待ってたよ。もう会った?」
「いや、会ってない」
「何か空元気って言うのかな。少し元気なかったから慰めてやってよ。じゃあ俺、行くわ!」と健太は元気に駆け出して行った。
話があったのだろうか。
今さら別れたくないと言い出すのだろうか、と色々な事を考えながら教室に入った。
美里と千佳が寄ってくる。
「おはよう、麻梨乃。寝坊?」と美里。
「おはよう。寝坊した」
「あのさ─」と千佳が口を開いた所でチャイムが鳴ったので、二人は「また後でね」と言って席に戻って行った。
いつも通りのいつもの顔ぶれ。
「おはよう。ま、りの」と背後から聞こえてきた。
振り返るとぎこちなく微笑む亮介がいた。
「おはよう。さっき南田くんに会ってんけど、駅で待っててくれたって?」
「そう。そうなんだ。話がしたくて」と目を伏せる。
教師が入ってきた。
「何?」
「俺たちのこと、まだ誰にも言ってないんだ。このまま─黙っててもいいかな?」
「絶対報告する必要はないけど、言った方が楽じゃない?面倒くさいことになる前に。私は2人に言うよ」
「やっぱり、そうだよね。─分かった。俺も言う」
前に向き直った麻梨乃の頭の中は、そんな事よりも大切な事で一杯だった。
授業にも集中できない。
教師の声が五月蝿い。
紙を捲る音もノートにペンを走らせる音も。
全てが耳障りだ。
あの心地よいピアノの音色の余韻から抜け出せない。
あの空気から離れたくなかった。
色気が漂う薮神和彦のシルエット。
甘美な声。
崇高な音楽。
神秘を孕んだ蒼白い部屋。
思い出すだけで胸が高鳴る。
しかし。
一つ心配事があった。
昨日、お礼のメールを送ったのだが返事がないのだ。
いつもなら直ぐに反応があるのに。
もう来てほしくないのだろうか。
何か気に入らない事でもしてしまったのだろうか。
─薔薇が、嫌い?
麻梨乃は部屋を出るとき黙って花を置いて帰った。
薔薇に気が付いていないのだろうか。
こちらからその話を持ち出すのは何だか嫌だった。
気が付いたのなら何か反応がほしい。
気に入ったのか、そうでないのか。
返信がないという事が答えなのだろうか。
そんな方法は薮神和彦らしくない。
彼ならはっきりと言葉で反応してくれるはずだ。
成人男性への贈り物は難しい。
父親ならネクタイやハンカチなど思い付くのだが。
芸術を愛しているなら花にしようと言う、とても単純な考えでそうしたのだ。
だが、気に入らなかったのか。
静かに煩悶する。
いつの間にか授業が終わり、休みに入ったので直ぐに教室から出た。
静かな場所を求めたがそんなものは何処にも見当たらない。
イヤホンを耳に指し音楽プレイヤーを再生させると少しだけ落ち着いた。
昨日、クラシック音楽をレンタルしてプレイヤーに取り込んでいたのだが、思いの外時間がかかった。
そのせいで遅刻したのかもしれないなと小さく笑う。
その日の昼休み、いつものように3人でお弁当を食べていた。
「あのさ、この間の土曜日、ありがとう」と千佳。
「私、何もしてない」
「私ね、あの後、上松くんと連絡先の交換したよ」
「すごい!」と反応してみる。
上手くできてるか少し心配だ。
「本当に2人のおかげだよ。ありがとう。これからどうなるか分からないけど、頑張るから!」
美里は楽しそうにどのような内容のやり取りをしているか聞いていた。
それを聞いているふりをしていたら、いつの間にか話の矛先がこちらに向いていた。
「で、どうなの麻梨乃?」
「へ?どう、って?」
「嫌だなぁ、惚けて!あれじゃない。あの時、私たち4人とは別で阿久津くんと帰ったじゃない!」と千佳と2人でニヤニヤ笑う。
「あ、あぁ。なるほど。あの事ね」
ついに2人に報せる時がきた。
「でさ、あの後、阿久津くんとしたの?」と美里。
2人は目を輝かせて返事を待った。
「うん。したよ」
「きゃー!どうしよう!」と騒ぐ。
─どうしようって。別れたの私やけど。
「で、で!どうだった?」と千佳。
「どう、って。うーん。まぁあっさりと」
「あっさりと?何かさ、ほら。緊張とかしなかった?」と今度は美里。
「緊張?うーん。したかな。2人とも何となく予感はあったし覚悟出来てたけど、やっぱ緊張はしたな」
「どこでしたの?」
次は千佳が聞いてくる。
交互に質問攻めだ。
うんざりする。
「公園」
「公園!!」と2人が大声を出したので吃驚する。
「な、なに。そんなに大声出して」
「だって、いきなり公園って!大胆じゃない?」と千佳に同意を求める美里。
「そんなの、何処でやっても一緒やん。他にどこですんの?」
「そりゃ、どちらかの家とか、ホテルとかでしょ」
それに頷く千佳。
「家とか、ホテルって─」と言った所で別れ際の亮介の言葉を思い出す。
─皆に言えないようなこと、か。
「なるほどね」と笑う。
話が噛み合わないわけだ。
「2人とも勘違いしてる。だから話が食い違うんやね。2人が考えてる様な事はしてへんよ。あの後公園で別れ話した。私たち別れたから」
突然の報告に驚いて声を出せないようだった。
「じゃあ」と言って席を立つ。
「ちょ、ちょっと待って麻梨乃!阿久津くん。阿久津くんは?納得してるの?」と美里。
「2人で話をしたから。分かってくれてる。意外とあっさりと話ができた」
「あっさり?阿久津くんが受け入れたの?」
あっさりとは言えないが、彼なりのあっさりとした引き際だったと思う。
「うん。私の一方的な話やのに納得してくれたよ」
「─そんな」と悲しそうな美里。
別れたのは麻梨乃と亮介なのにとても悲しそうだ。
何故そんなにも親身になってくれるのだろう。
「ねぇ、麻梨乃?何か悩みでもあるの?」と美里が心配そうに聞いてくる。
「大丈夫。悩みはないよ。2人はこうならんときや」
そう言い残して麻梨乃は教室を出た。
「えぇぇ!」
昼休み、食堂へ向かうまでの道。
体育館横の階段で大声が響く。
それに気が付いた数人が何事かと振り返ったが、亮介は可哀想なほどに落ち込んでいる。
「な、なんで!お前たちが別れるなんて。嫌だって言わなかったのか?」と健太が俯く亮介の顔を覗きこむ。
「それはもう、前に1度言ったんだ。だけど、無理だった」
糸は限界だった。
何本もの細い糸が束になっただけの頼りないものだった。
それが、じわりじわりと1本ずつ切れていたのだ。
それに気が付かず過ごしていた。
そして、限界が来たのだ。
「今朝、吉名さんを見掛けた時はいつも通りだったんだけどなぁ。理由は?」
「分からない。だけど、なんとなく、わかる」
─きっと。いや、あの様子は絶対にそうだ。
「好きな人がいるんだよ」
自分達はもうとっくに切れていたのだ。
それを亮介が1人で頼まれてもいないのに修復してきた。
麻梨乃はそれを黙って見ていたのだ。
可哀想に、意味ないのに、健気だな。なんて思われていたのだろうか。
「吉名さんがそう言ったのか?」と健太。
「いいや。でも、分かる。うん。分かるんだよ。あの様子はそうだよ。隠そうとしてくれただけでも有難いのかもしれないなぁ」
「でも、バレてちゃ意味ない」と琢磨。
「そう言う事だから」と顔を上げた時、イヤホンを装着した麻梨乃が目の前を通り過ぎ、食堂の前にある自動販売機で紙パックの珈琲牛乳を購入してそのまま校舎へ戻っていった。
こちらには気付いていない様子だ。
「あの珈琲牛乳旨いよなぁ」と健太が呟く。
美里と千佳がやってきたが2人とすれ違う時も麻梨乃は何も反応しなかった。
その様子に美里と千佳は心配そうに麻梨乃を振り返る。
「阿久津くん!」と2人がかけよって来る。
それと同時に頭を下げて謝った。
「ごめんなさい!本当に、ごめんなさい!」
「どうしたの、急に」と健太が3人を見る。
「薔薇。─あの薔薇。私たち阿久津くんに渡ると思ってたの。本当にごめんなさい」
「あぁ、そんな事」
薔薇。
麻梨乃が薔薇を購入した話だけは聞いていたが、その花は亮介の元にはない。
美里と千佳が羨ましそうに話をしてくれた薔薇の花は今どこにあるのだろうか。
麻梨乃が買っていた薔薇が、亮介の手に渡ると思ってその話をしてくれた2人にひきつった笑みを向ける。
「いいんだよ、そんなの」
逆に今まで忘れていたのだ。
思い出してしまった。
健太がどういう事だ?と首を傾げたので亮介の了解を得て2人に話をした。
「そりゃ駄目だよ」と話を聞いた健太が言う。
「その薔薇が亮介の手に渡ろうが渡るまいが、その話はこいつにするべきじゃなかったな」
「本当にごめんなさい」と何度も謝ってくれるのだが、それが妙に悲しくなる。
「別れちゃうなんて─」と涙声の美里。
「俺はいいんだよ。2人は悪くない」
「吉名さんは理由とか言ってた?」
「言ってない。悩みごとでもあるのかって聞いてみても、そんな感じじゃなかったし。でも、いつもと違う感じ。さっきもすれ違ったのに、心ここに在らずって感じで」
「ごめんね、皆。俺、今はこんなんだけど、大丈夫になるから」と立ち上がるのを心配そうに見つめる4人。
「前に進まないと、麻梨乃に悪いし」
その晩、亮介はベッドに腰を下ろし、放心していた。
土曜日の晩からそうしている。
何かやる事があればそれを考えずに過ごす事ができるのだが、夜の暗さと手持ちぶさたは厄介だ。
勉強なんてする気にはなれない。
繋がりとは何だろうと考える。
麻梨乃との交際も1つの繋がりであるし、健太や琢磨は勿論、美里と千佳とだって友情で繋がっている。
その繋がりは年を重ねれば深まるし、反対に消えることさえある。
目に見えないそれはどこにあるのだろう。
どのように確認すればいい?
あの後麻梨乃とは一言も交わしていない。
視線すら合わせなかった。
『別れたい』と云うその一言で、全ての繋がりが絶たれてしまったというのだろうか?
男女間の交際。
それ以外で自分たちは繋がっていなかったのか。
そんな希薄な繋がりだったのなら、無かったも同然ではないか。
無いものを有ったと錯覚し、その世界で暢気に暮らしていたのだ。
周りから見ればとんだ道化であろう。
麻梨乃はそんな道化をどう見ていたのだろうか。
笑っていたのか。
平然としていたのか。
それとも─哀れんでいたのか。
同情心を持って自分と接していたのか─
それならば別れて良かった。
いくらお人好しの自分でも哀れみや同情で一緒に居てほしいとは思わない。
それなのに、別れたくないと幼児の如く駄々をこねるのは分離している。
益々自分が厭になる。
同情で一緒に居られたら虚しい。
そんなものは求めてはいない。
しかし、それすら無くなった今は──
──今は。
様々な出来事は、厭になるほどに美しく自分を取り囲み、それらは鮮明で残酷だ。
──嗚呼、駄目だ。
この状況は良くない。
非常に良くない。
自らの周りを闇が大口を開けて待ち受けている。
─嗤っている。
いっそのことその中に溶け込んでしまおうか。
くよくよするな。それが己のモットーだが最近それが崩れてきている。
闇に飲まれそうになったらそんな陳腐なモットーなど飾りにもならない。
そんな時、誰が自分を救い出してくれるのかというと、それは麻梨乃であった。
彼女がいるからそれを掲げる事もできた。
しかし、今は居ない。
彼女が居なくなった今の自分は空っぽだ。
なんの役にも立たない。
空っぽだから何でも入る。
染まる色さえ決まればそれ一色になれるんだ。
闇に染まろうか、はたまた、青空に染まろうか─森の奥深い──。
いや、染まるならば明るいものでなければ。
亮介は勢いをつけて立ち上がると大きく伸びをした。
─挫けるものか。
落ち込むのは簡単だ。
それを取り込むんだ。
そうすれば、自分は胸を張れる。
強くなれる。
空っぽだった自分の中へ凄まじい勢いで何かが注がれていく気がした。
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