レンズの向こう側
何だか寒い。それが、全てのはじまりになる一言だった。
首筋に風があたりひやりと背を震わせ、前野遥は玄関脇の鏡をちらりと見つめる。
肩より少し長く伸びた髪を後ろでまとめたその姿は良くも悪くもOLらしい。一気に解いた髪を手ぐしで整えると、彼女は何も言わずに短い廊下から部屋へと進む。デート前ならばともかく、疲れ切って帰宅した瞬間の自分の顔などまじまじと観察するつもりは無いのだろう。
「んんっ……疲れてるのかな……」
六月も残すところ数日、夏と言えるこの頃になると職場も電車もクーラーを強くかけている。元々冷気に弱い遥は疲れが溜まるとそれに負けるため、社会人になってからはむしろ毎年必ず夏風邪を引いていた。だからこそ『コレ』もそんな予兆だと思ったのだ。
「なんか、気分悪い。早く寝ようか」
独り暮らしを始めてから増えた独り言を零すとパタパタと忙しなく歩き回り、その一時間後には既に夢の中である。
街も草木も眠る午前二時。その時、それは起こった。
——きぃ……
部屋ごとに門を持つ特殊なマンションで、門が小さく軋む。直後に一、二度の微かな足音。
——かさかさ、がさり
明らかに自然由来ではない音が小さく響いている。しかし遥は気づかない。
その寝顔は安らかなものであった。
「もう、やだ」
「早く引っ越せ……って言いたいけど、確かに今は難しいよね」
妙に冷えた印象の夜から半月後、遥は憔悴した面持ちで友人に会っていた。今年で二十七になる女がコーヒーショップのテーブルに突っ伏している姿はあまり行儀の良いものではないが、同席している友人が苦言を口に上らせることはない。
何しろ遥は傍から見ても明らかに疲れ切っていた。誰も知らないうちに始まりとなったあの夜から、ほぼ毎日と言えるほど何者かによる嫌がらせが続いているのだ。
ある日は差出人不明の手紙がドアの隙間から無理やりねじ込まれていた。
——お世辞にも綺麗とは言い難い字で、コピー用紙の両面にびっしりと文字が書かれていた。
ある日は何者かにじっと後をつけられた。
——慌てて飛び込んだ交番の警官も何者かが走り去る足音を聞いており、親切な彼がその後できる限り巡回してくれるようになったのは救いだろうか。
極めつけは前日の朝のこと。玄関から出れば一面に何とも言えない色に濁った液体がぶちまけられ——しかもご丁寧に玄関扉まで飛び散っていた——、その上ドアノブには中身を考えたくもない白い液体の入ったボトルと共に、メッセージカードを入れたビニール袋。
——『最近疲れているようだ』『ドリンクを入れておくから飲んでほしい』『愛している』『ずっと一緒だ』といった、わけの分からない内容だった。
遥には今のところ彼氏の心当たりなどない。もしも彼氏がいたとしてもこの仕打ちは許容範囲外であるが。
片付けながら連日の事態に情けなさがこみ上げてきた遥は、少しだけ泣いた。
「いや、引越しはするよ。ただその日程がね」
「上司には?」
「とっくに相談済み。やっぱりすぐに引っ越せって言われてるんだけど、急ぎで行けるのはオートロックが無い物件か、あとは一階だから」
「今よりセキュリティレベルが落ちるのね」
遥としてもこのままでは取り返しのつかないことになると理解している。嫌がらせが始まって二、三日目には既に会社へ連絡し、交番へ連絡し、少しでも相手の情報を得ようと努力していた。
オートロック付きの物件であることから犯人は同じ建物内の誰かだということまでは分かったのだが、それ以降の尻尾がなかなか掴めていない。
所詮一般市民でしかない遥が四六時中警備をしてもらえるはずもなく、それを逆手に取った犯人は上手く監視の目をすり抜けていた。
「そう。一番良い条件の部屋が月末から入れるから契約したけど、どっちにしても今すぐってわけにはいかないかな」
今のマンションから逃げられたところで、引越し先でセキュリティの甘さから再び同じような目に遭っては元も子もない。かと言ってただの会社員である遥がそう何度も引越しできる資金を持っている筈もまたない。
大体、このようなトラブルが発生しないようにオートロックかつ四階以上という条件で現在の部屋を探したのだ。その苦労を知る学生時代からの友人・智香の眉間にも深いシワが刻まれていた。
うっすらと茶色に染めた智香の長い髪は、勤めていた時のように気合いを入れて巻いてはおらず無造作にまとめられている。嫌味のない範囲のブランドで揃えていた服も今はノー・ブランド。それでもなお遥は、独身らしく綺麗目にまとめた自分よりも智香の方が目立つことに疑問は無い。遥が友人を素直にそう思えるほど、容姿だけでなく姿勢の良い女性であった。
結婚して所帯染みたとはいえ、妊娠して少しふっくらしたとはいえ、涼しげに整った容貌の智香が不機嫌な表情を浮かべた姿は妙に迫力がある。眠気や疲労から薄ぼんやりとした思考で、そのようなどうでも良いことを遥は考えた。
褒め言葉とも悪口とも取れる遥の内心に気づかず、不機嫌顔の智香が口を開く。表情の反面の柔らかい声で、心底自分を心配しているのだと遥は実感した。
「うち、来る? 旦那も一応、遥の現状を知ってるけど」
「ありがたいけど、さすがに妊婦さんをこんな危ない状況に巻き込むのは気が引けるから。一応引越しまでの半月弱は同僚が送り迎えしてくれることになったし」
「そう……それなら今までよりは安心、かな?」
「だと良いねぇ」
顔を見合わせて深いため息を落とす。日常的に聞くようになった『ストーカー』という言葉だが、まさか自分や自分の友人が被害に遭うなどとは思ってもいなかった。
「ねぇ、遥」
「何?」
不安で夜はあまり寝られず、半月ほどで見る見るうちに青白くなった顔。それをふらりと上げて遥は智香を見る。反比例するように色を濃くする目の下の皮膚に一瞬だけ眉をきつく顰めて、智香は殊更ゆっくりと考えを音にした。
「明日とは言わないから、明後日あたりから遠くに行ってこない? 出来るだけこっそりと」
「こっそり?」
「そう、こっそり」
このような非常事態に言われる内容ではないが、このような非常事態に空気を読まない友人で無いことは遥もよく知っている。
突拍子もないことを言い出した智香に小首を傾げた彼女は、居住まいを正して真剣な顔になる。
「何で?」
「その間にこれもこっそり、カメラ付けとくの。上手く釣れれば何にも知らない犯人がいつも通りに釣れるはずでしょ。もちろん玄関前だけだし、家の中が映らないようにする。もし遥の都合がつけて休みが取れたとしたら、その前の日にでも旦那と一緒に行って設置するけど……どう?」
少なからず生活を侵食する事へ申し訳なさそうな表情の友人にむけ、しばらく考え込んでから遥は小さく頭を下げる。
「ごめん、智香にも旦那さんにも迷惑かけるけど、そうしてくれるとすごく心強い」
「そう」
意見を受け入れられたことでホッと息を吐いた智香は、ようやく小さな笑みを浮かべた。
「気にしないで。私も昔、旦那に助けてもらったから」
良くも悪くも一般的な人生を歩んできた遥とは違い、今や専業主婦で落ち着いている智香の学生時代は非常に派手なものだった。メディアに出るほどの美人ではない。しかしその分手の届く範囲の美人であり人当たりも悪くない彼女は、度々のように男に付き纏われていたのだ。
ある時実力行使に出た犯人と智香の間に割って入った者が今の夫である。周囲をうろついていた男たちはさぞ悔しかったことだろう、と、遥は彼女に言ったこともある。
そして智香の存在があったからこそ自分までストーキングされることはないと思っていたのだ。そうそう珍しくもない犯罪ではあるが、それでも一般市民の数にならせば遭遇確率は高いほうではない。近い二人が揃って被害者になるなど、実際に被害にあっていた智香ですら予想もしていなかった。
「ま、何しろ上司に話をしてからだなぁ」
「上手く連休を取れるように祈っておくわ」
現状を知っている上司や同僚たちに話したところ同情と心配から快く休暇申請を受け入れられ、遥は一週間ほどヨーロッパに行っていた。ようやく帰ってきた自宅のリビングに立ち、ふるりと背を震わせる。
そうしてちらりと部屋を見回すと、小さく呟きを落とした。
「この部屋、こんなに暗かったっけ……」
奇しくもそれは、彼女の意識から失せた『はじまりの言葉』に近いものであった。
旅行中も智香とはメールのやり取りをしていたため現状把握はできている。残念なことに相手は夜中の誰も通りかからない時間帯に、しかも上下どちらから来たのか分からないように階段を使っていた。
添付の動画を見たところで目深にフードを被っている。ただでさえ同じフロアの住人しか知らない遥には、顔も声も隠されてしまえば最早誰だか分からない。
旅行初日の深夜に訪れた時点で『それ』は早くも遥がいないことに気がついたのだろう。今までの嫌がらせをせず素直に帰って行ったものの、そこからは毎晩欠かさず訪れた。
そのこまめさ、そして別角度からですら顔が分からないように隠している念の入れ様が、遥かに対する執着を示すようでもある。それが余計に恐ろしく、彼女は怯えた視線で時折部屋を見回していた。
「今日も、来るのかな……」
旅行から帰ってきた翌日ということで寝坊できる様、明日まで休暇を取っている。とはいえこの状態では、いくら疲れていると言ってもゆっくりと寝られるとは思えなかった。
「智香、は……あっ」
帰宅の連絡をしようと確認したスマートフォンは電池残量十パーセント、もうすぐ電池が切れてしまいそうだ。旅行先で荷物の手違いからケーブルを失くしてしまったため、この残り少ない電池だけが外とつながる糸とも言える。
「まだ行ける、かな?」
時刻は夜の九時。一人歩きに不安は覚えるものの完全に人通りが途絶えはしない、コンビニに行くにはギリギリの時間だった。
外に出る時間を無駄にしたあげく携帯の電源が切れてしまえば、もしも身の危険が迫った時の対処に困るだろう。
「よし」
玄関と手の中の携帯を順番に睨みつけて迷いは一瞬。慣れた手つきで番号を呼び出し、遥は智香に電話をかけた。
『もしもし?』
「あ、私。帰ってきたよ」
『お疲れ様。どうしたの? 何かあった?』
「ううん、何っていうわけじゃないんだけど……携帯のケーブルが荷物ごと地球のどこかに飛ばされちゃってね。今からコンビニに行こうと思ってるんだけど」
『海外じゃ仕方ないか。で、カメラ? ちょっと待って』
ほとんどただの気のせいとは理解していたが、無いはずの視線を感じたのか遥の顔色は悪い。
微かな引っ掛かりを気のせいと流せる時期はとうに過ぎていた。せっかく玄関前にカメラを設定しているのだから、自宅を出る前に念のため確認してもらおうと思ったのだ。電話口からは智香の夫の声もする。どうやら部屋を移動しているらしい。
何も言わずとも察してくれる友人に対して申し訳のない気分になりながら、自分でも確認するために遥は玄関ドアの前に立った。やはり微かに悪寒がはしる。心臓の鼓動がうるさいほどの緊張感で覗き込んだ魚眼レンズには、しかし何も映らなかった。
ホラー映画等でこのような場面があれば、必ずと言っていいほどに『向こう側から覗かれている』という状況にあるだろう。門やマンションの廊下が見えることに安心した遥は大きく息を吐き出す。安心していいのやら期待外れと言うべきやらで、浮かぶ表情は微妙な薄笑いであった。
「まぁ、そう映画みたいなことが起こるわけないよねぇ」
その時。幾分軽くなった足取りで財布を取りにリビングまで戻った遥の耳に、デジタルノイズの向こうから鋭く息を吸い込む音が聞こえた。
『ダメ』
「え、なに?」
『ダメ、はるか……絶対ダメ!!』
「と、とも」
『絶対外に出ないでっ!!』
「は?」
ついで、金切り声に近い命令の言葉。長い付き合いになるが、遥は智香の大声など聞いたことなどない。大声どころか半狂乱とも言える友人の様子に彼女はかける言葉を失っていた。
『遥ちゃん。電話を切って、Skypeに繋いでもらえるかな?』
「あ、え、はい……」
ひどく興奮している智香を遮り、低く落ち着いた声で指示が出される。穏やかで優しい声音を持つ智香の夫とは幾度も話をしたことがあるが、どこか張り詰めた硬い声は初めて聞いたものだった。
「あー、ジャックが削れてるー。なんか緩い気もするし、そろそろ買い換えようかなぁ」
遥がパソコンから声のやりとりをする場合は、今だにUSB接続ではないヘッドセットを使用している。特に何百回と抜き差しした緑の端子は僅かに削れたのか接続が緩く、少し力を入れたら抜けてしまうだろう。話す体勢や不意の動きに気を使う必要がありそうだ。
そんなことを考えながら準備したヘッドセットを耳にかけ、遥は通信が繋がった友に訝しげな声を投げた。
「それで、どうしたの急に?」
『ごめん遥……落ち着いて、絶対に叫ばない様に気をつけて。準備できたら画面共有するから』
妙な指示に首を傾げた遥は、それでも畳んで厚みを持たせたバスタオルを膝の上に用意した。再びパソコンの前に陣取ると準備完了と伝える。
『じゃ、いくよ。ホントにホントだからね!』
「——っ!?」
大きく鋭く息を吸い、そのまま声に変換する寸前で、膝の上のバスタオルへ顔を押し付けた。
智香とは状況が違う。確かに遥は何が何でも悲鳴を上げるわけにはいかなかった。何しろ。
「なんで、なんで……こんな」
『携帯の電池は!?』
「電池、五パー」
悲鳴を押さえ込んだ引き換えか、ガタガタと大きく震えながら遥は囁く。その視線の先にはスマートフォンがあるが、たとえ電源が充分あったところで彼女がどうにかすることは無理だと思えた。
玄関ドアの向こう側。
魚眼レンズの死角になるほど低い位置で。
パーカーのフードを目深に被った男が、
ドアにピタリと耳をつけて内側を窺っていたのだ。
「っは……? なに、これ」
『ちょ、まっ、』
『それ』は、カメラの位置さえ把握しているようで。
カメラのこちら側、遥と智香に向けて、気持ちの悪い笑みを浮かべた。
まるで『最初からカメラの存在を知っていた』とでも言うかのように、パーカーとマスクを外した若い男が、
しっかりと二人を『見』ていた。
そうして視線が交錯することごく僅か、画面が大きく揺れて、その後は暗闇だけを映し出している。
『い、いつから、気がついて……』
「目、が……」
おそらく壊されてしまったのだろうカメラの映像、それを呆然と見ていた智香が震える声で呟いた。この一週間の証拠にもなりきらない映像は、智香が撮っていたのではなく相手がわざわざ見逃していたのだと強制的に理解させられる。
遥はブルブルと震える手でバスタオルを縋るようにきつく握りしめ、少しでも玄関から遠ざかろうとしていた。その動きでパソコンから緑の端子が外れ、智香の声がスピーカーから聞こえてくる。邪魔なヘッドセットを頭からむしり取ると彼女は唇をマイクへ寄せた。
いる。まだそこに、あいつがいる。
「見られてる……あいつが、ドアの向こうからこっちを見てる……智香、智香助けて……気持ち悪い、怖い、もうやだ……なんで私がこんな目にあうのっ!?」
『おち、落ち着いて……警察っ、警察を……っ!』
掠れてほとんど隙間風のような遥の声に被せて、智香の叫びが聞こえる。薄いドア一枚を挟んだ相手に聞こえないようにという気遣いなど、二人の中にはかけらも残っていなかった。
デジタルの向こう側、智香とそのパートナーが治安維持の専門家へ助けを求めるよりも先に。耳を遮るものが無くなった遥に遠くからけたたましいサイレンが届く。
「ぁ」
『え』
「け、けーさつ、うちの、前に……止まった、みたい」
過呼吸気味の遥が言うとおり。もうすぐ人が寝静まろういう時間にもかかわらず高らかと鳴らしたサイレンそのままに、警察機構の車がマンションのすぐ前で止まったようだ。どこか遠くの部屋で、バタバタと玄関を開ける音がする。しかし助けを呼びに行きたくとも、今も外に『アレ』がいるのかと思えば遥の震えは止まらない。
——誰か。
——早く
——たすけて。
自分でも気づかないうちに言葉は唇から零れ落ち、その響いた音に怯えが増幅されていく。何分、何十分、何時間。どれほど時間が経ったのかも分からなくなった遥の部屋にインターホンの音が響いた。
「っ!?」
『はるか』
「うん……うん。インターホン、出てみる」
『気をつけて』
念のためSkypeはそのままに、遥はそろりとインターホンに近づいた。
「……はい」
『あ、ご在宅でしたか。南交番の小川です』
恐る恐る表示した映像に映るのは顔見知り——いつぞや助けてくれた、交番勤務の警官である。ドアロックを外さずにドアを開ければインターホン画像で見たとおり、焦ったような困ったような何とも複雑な顔の警察官がそこに立っていた。
「こんばんは。遅くにすみません。あの、少しお尋ねしたいことがありまして」
「なん、でしょう。……あ、ドア」
「そのままで結構ですよ」
いつもと違う遥の様子に気づいたのか、無理に開けさせないまま小川が話を始める。
「気分を害されたら申し訳ないのですが、先週の……そうですね。火曜日から木曜日。どちらにいらっしゃいましたか?」
「先週、ですか? ヨーロッパに、旅行へ行っていました。最近特に身の危険を感じていましたので、友人のすすすめでここから離れようと思いまして……」
「そのことなのですが」
そこで一度言葉を切り、さらに言い辛そうな様子で小川は遥の顔を見つめた。
「あの、証明できるものを見せていただけませんか? パスポートとか」
「えっと、はい。ちょっと、待ってください」
部屋の中から戻ってきた遥から差し出されたパスポート。ドアの隙間から受け取ったそれを確認し、小川はホッとしたように微かな笑みを浮かべて遥へ返した。
「よかった。一応の確認が取れたので。もうひとつ質問ですが、同じマンションの雑賀さんはご存知ですか? 前野さんと同じくらいの歳の男性で、一階に住んでいる」
「ちょっと分らないのですが……もしかすると、朝出る時に挨拶くらいはした、かもしれませんけど……。あの、それが何か?」
先ほどから問われている事柄や顔見知りの小川が訪ねてきたことから、ストーカーが『サイガ』という名前であること、そしてその『サイガ』に何事かがあったことが分かる。不安な表情の遥へ小川は努めて冷静に声をかけた。
「雑賀さんですが、亡くなりました。いいえ、正確には亡くなっていました。死体の状況から見て先週の火曜日から木曜日付近だそうです」
「え」
「変死、というわけではないのですが、急に亡くなったことと、部屋の壁一面にあなたの写真が貼り付けられていたことから、少しだけ事情を伺う必要がありまして。この方なのですが」
見せられた写真に目を見開く。
「写真は全てマンションの出入りで、雑賀さんの部屋から見える角度でしかありませんでした。気休め程度ではありますが……部屋に入られたことはないと思います」
小川の声が遠い。止まっていた震えが蘇り。
「そ、んな……」
「どうしましたか?」
「嘘、そんな、だって」
明らかに普通ではない様子を不審に思った小川が声を掛けるより早く、もどかしい手つきでロックを解除したドアを遥は勢い良く開け放った。
ぶつかりそうになり慌てる警官を気にも留めず、彼女は急いて仕方ない言葉を叩きつける。
「そんなはず、ありません! だってついさっきまでここに!」
「落ち着いてください、雑賀さんは先週にはもう」
「だって映像に残ってるもの! 智香!!」
『お巡りさん!』
スピーカーから聞こえた智香の声に呼ばれ、小川が恐縮しつつ上がり込む。パソコンの前に座らされると前置きも何もなく映像が送られてきた。自分もまた怯えと心配で冷静ではなかった智香だが、しっかりと録画だけはしていたらしい。
「これ、は……!」
『これが、昨日の動画です。ここからがさっきの』
小川は息を飲む。何しろ映り込む様々な背景やサイレンのせいで『あり得ない』はずの動画が創作ではないことが証明されている。
雑賀は先週死んでいたはずだ。しかし今日、しかも小川がこの部屋を訪れるほんの二、三分前まで、この場所に雑賀らしき人物が存在していた。最後に顔を晒して不気味に笑った男は、確かに小川が手にした写真の男の顔であった。
最後までモニターには映さず録画も確認していなかった動画ファイルに、それは映っていた。
最後の最後の手段として遥にも智香にすらも伝えないまま、智香の夫が念のためもう一つ仕掛けたカメラ。小川の登場まで同じ映像しか映っていないため途中で停止された動画ファイルに、それは映っていた。
まっすぐにカメラを見つめ、わざわざ露出させた口元をニヤリと笑みの形に歪めた男の姿を。
するすると近づいてきたかと思うと覗き込んだレンズに向けてニタリと笑い、まるで空気に溶けるかのように消え失せた男の姿を。
——だれも知らないはずのその映像について、なぜ『私』が説明の言葉を持っているのだろうか。
雑賀という男は基本的には遥の部屋の前に『愛情表現』という名目の嫌がらせをする度胸しか持っていなかった。それにもかかわらず遥が室内で視線を感じた、その理由は——
『犯人』が死亡していたと知って薄気味悪そうに、しかしここから出てしまえばもう被害にあうことは無いと安心したように微笑む遥は、鏡の中で不気味にわだかまる『影』に気づくことはなかった。
これは『人間』という存在による、怖い怖いひと夏のお話。
そして、『あらすじ』へと続く————